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結城尚弼本名:金尚弼彼の部隊誠第32飛行隊・武剋隊の第5編隊長でありおそらく彼の長機だったのではと思います。昭和20年2月11日満州・新京で行われた武剋隊編成式中列真ん中が廣森隊長後列左から二番めが彼そして中列右から二番めに写るのが結城大尉です昨日、久しぶりにこの本を読み返しました。結城大尉のご遺族である兄・金尚烈氏が来日した際、さまざまな証言に出会いながら日本軍の兵士として特攻に散った弟への思い金氏自身が異国の地で葛藤する姿が描かれていますあ
「土曜日の仕事、半ドンで終わるだろ?そのあとから車で出かけるんだよ何キロ走ったかなあ...北海道まで走ったからね...」板津さんは戦後名古屋市の職員となり、区役所に勤務しておられました。最初は、仲間のご遺族を探し出して、当時の状況や特攻出撃の様子を説明してまわっていましたが名簿を手に入れてからは全国を訪ね歩き、遺書や遺影、遺品を集めたんですねこれがもとになって昭和50年に「知覧特攻遺品館」ができます。現在の知覧特攻平和会館の前身で、現在の会館の位置より手前の場所
80年前の今日昭和20年2月10日彼は満州の首都・新京にいました(新京=現在の中国吉林省・長春市)「関東軍編成の特攻隊第一号」である誠第32飛行隊(武尅隊)の一員に選抜された彼は隊長以下総勢15名でここ新京に集結この日、朝から隊員全員ひとりずつ「声の遺書」の録音に臨みます録音作業を行った「関東軍報道班」報道班員の回顧手記が残っていました凍結した録音版がカッティング不能となる全員が肌に当て体温で温めながらかろうじて収録すると、今度はエンジンオイルの凍
思えば戦国時代しかり、また明治維新から80年前の終戦まで日本はずっと「戦の世」であったから今に比べれば、「死」というものが、いわば「近いところ」にあったんだろうと思うんですね12、3年前だったかな「特攻」に向き合い始めて、特攻に関する本や資料を手当たり次第読みあさっていた頃、この本に出会いました「妻と飛んだ特攻兵」8月19日午後戦闘を継続するソ連戦車群に一撃を加えるためすでに日本軍としての組織的戦闘は全て終わっているにも関わらず、出撃して行った10人の特攻兵が