ブログ記事153件
先週末、沖縄・糸満市役所のご担当からメールをいただきました2月に沖縄南部を訪れた際、道に迷って目指した戦跡に辿り着けなかったので、その行き方を問い合わせたんですね。メールにはルートを書き入れた地図が添付されていて、丁寧な説明が加えられていました特攻に関わってきた私にとってその終焉の地である沖縄は特別な場所でもありますメールの文面からはあの戦争の歴史を風化させまい、あの歴史を知ってもらいたい、そんな気持ちが伝わってくるんですよね何年前だったかな、初めて読谷村を訪
思えば戦国時代しかり、また明治維新から80年前の終戦まで日本はずっと「戦の世」であったから今に比べれば、「死」というものが、いわば「近いところ」にあったんだろうと思うんですね12、3年前だったかな「特攻」に向き合い始めて、特攻に関する本や資料を手当たり次第読みあさっていた頃、この本に出会いました「妻と飛んだ特攻兵」8月19日午後戦闘を継続するソ連戦車群に一撃を加えるためすでに日本軍としての組織的戦闘は全て終わっているにも関わらず、出撃して行った10人の特攻兵が
この十数年間、特攻というものに向き合い、武剋隊の足跡、そしてその一員として沖縄の海に散った彼の痕跡を追い続けてきました。さまざまな軍資料を探し出し、多くの著作や記事に出会ってきましたが、史実関係について言えば、その多くはかつての「軍指導部」による記述です。このブログでもたびたび触れてきたことではあるんですが特に「特攻の戦果」という点ではかなり誇張していたと疑わざるを得ませんし、そしてまたそれを認めた記述も実際に目にしました。それはあの戦争を賛美するとか、「英霊」と称して美化
80年前の今日、昭和20年4月3日彼は沖縄・比謝川河口附近の海に消えました短かった人生、あと1週間で19歳の誕生日でした。攻撃目標は「米軍上陸点附近」ちょうどこのあたりです沖縄・読谷村米軍上陸の地碑彼の最期の時がどんなだったか知りたくて「出撃日・4月3日のその場所」を訪れました出撃場所の新田原飛行場現在の航空自衛隊新田原基地の滑走路を斜めに横切る旧滑走路跡が見えます出撃日、この地方の最高気温は26℃を超える暑い日でした彼が最後の夜を過ごした
沖縄米軍上陸点附近ノ敵戦艦ヲ必沈攻撃スベシ80年前の今日、昭和20年4月2日彼の部隊ー武剋隊後続隊6名に出撃命令が下りました出撃は翌3日15:30すでに4月1日、福澤大佐の指揮のもと誠第39飛行隊6名がここ新田原から薄暮攻撃を行い戦果を上げたことから福澤大佐は武尅隊後続隊も同様薄暮、敵の警戒の隙を突く作戦を選択しました福澤大佐は出撃前夜の様子をこう記述しています(「陸軍航空の鎮魂」航空碑奉賛会1978年272-273頁)特攻隊員の出撃
私がいつも財布の中に入れているこの切符(入場券)JR日田彦山線香春駅彼が旧制・田川中学校(現・福岡県立田川高校)に通っていたとき、毎日乗り降りした駅です13年前彼の痕跡を追って、故郷・田川を巡りました。生まれは世田谷・三軒茶屋。母親の実家が東條英機の妻・カツと同郷だったこともあり幼い頃から三軒茶屋にほど近い用賀の東條邸に出入りしていたようです。その後福岡・田川郡川崎町へ小学校は川崎小学校(現・川崎町立川崎小学校)卒業後、旧制・田川中学校に進みます
作家のきむらけんさんと知り合ったのは12年前世田谷で開催された「戦争体験を語る会」でのことでした。きむらけんさんが浅間温泉の疎開児童と特攻隊を題材にした三部作その三冊目の著作「忘れられた特攻隊」この中に私のこと、そして私が提供した彼の写真や遺書が掲載されているんですけれども、実は執筆の段階できむらけんさんから「ご遺族に写真と遺書の掲載許可をとってもらえないか」と連絡があったんですねご遺族に手紙を書き趣旨を説明したところほどなく速達で返信が届きました
臺飛作命甲第二百二〇號第八飛行師團命令三月二十七日一三〇〇臺北一、福澤大佐ハ九州ニ至リ西参謀ノ任務ヲ継承スル外左記人員(部隊)ヲ指揮シ九州方面ヨリ台湾ニ向フ誠飛行隊ノ推進及南西諸島ニ對スル誠飛行ノ展開ヲ促進スルト共ニ適時南九州方面ヨリ敵艦船ニ對スル攻撃ヲ誘導スヘシ左記1...2...3九州ニ進出スル誠飛行隊第八飛行師團長山本健兒廣森隊長以下、武剋隊先発隊9名が突入を果たしてから6時間後第八飛行師団長・山本中佐の発したこ
昭和20年3月27日誠第32飛行隊・武剋隊先発隊9名が敵艦に突入それを率いた廣森達郎隊長の命日にあたり、昨日、墓参、そしてご遺族のもとにお伺いしました久しぶりに墓前にいつ訪れても綺麗な生花が供えられています墓参のあと、ご遺族宅にお邪魔しました「あとになってそんな立派なお役目果たしたって知ったんですよここの村では、話題にもなっとらんかったですから」特攻隊の隊長であったことや廣森隊長の活躍は後から知ったそうですお会いしたご遺族
80年前の今日昭和20年3月27日陸軍沖縄中飛行場(現・米軍嘉手納基地)武剋隊出撃のため前日から徹夜の機体整備作業が行われていました複座機銃と無線の取り外し前縁燃料補充、500キロ爆弾の取り付けとエンジン試運転整備が完了したのは午前4時中飛行場に構える独立飛行第46中隊の協力を得て整備兵たちが出発点に各機を並べ終わります特攻機を察知した敵艦からの砲弾が飛び交う中午前5時過ぎ整備の佐藤曹長が隊長らを迎えに駆け始めると向こうから日の丸鉢巻を締めた9人の姿
沖縄・米軍嘉手納基地ここはかつて陸軍沖縄中飛行場一番手前付近が当時の滑走路の場所でしたその北側を流れる比謝川そしてこの比謝川をまたぐ久得橋80年前の今日昭和20年3月26日の夜この久得橋近くの兵舎で廣森隊長率いる武剋隊先発隊9名は人生最後の夜を過ごしました誠第三十二第三十六乃至第三十八及第四十第四十一飛行隊沖縄(中又ハ北)又ハ徳之島飛行場ニ前進シテ神参謀ノ指揮下ニ入ラシム神参謀ハ前項第二號部隊ヲ指揮シ好機ヲ捕捉シテ敵戦艦ヲ攻撃セシムヘ
結城尚弼本名:金尚弼彼の部隊誠第32飛行隊・武剋隊の第5編隊長でありおそらく彼の長機だったのではと思います。昭和20年2月11日満州・新京で行われた武剋隊編成式中列真ん中が廣森隊長後列左から二番めが彼そして中列右から二番めに写るのが結城大尉です昨日、久しぶりにこの本を読み返しました。結城大尉のご遺族である兄・金尚烈氏が来日した際、さまざまな証言に出会いながら日本軍の兵士として特攻に散った弟への思い金氏自身が異国の地で葛藤する姿が描かれていますあ
久しぶりに彼の部隊、誠第32飛行隊・武剋隊の話に戻ります武剋隊が松本・浅間温泉に到着したのは昭和20年2月20日隊員15名は三軒の旅館に分かれて滞在しました【目之湯】廣森隊長と整備班長の伊東少尉、そして清宗、林、小林、結城(金)の各小隊長【千代の湯】時枝、今野、大平、島田、出戸、今西【梅乃湯】古屋、佐藤(正)、伊福、そして彼(赤字は先発隊3/27出撃青字は後続隊4/3出撃)当時目之湯には駒繋国民学校(現・世田谷区立駒繋小学校)千代の湯には代沢国
この辺の人間じゃあない誰かはわからんよそのナンバーの赤い車で来とるらしい熱心に達郎の墓に手を合わせとる、ってこの辺じゃちょっとした噂になっとるもしかして、あんたか?廣森隊長のご実家を訪ねた際ご遺族との話は、この会話から始まりました。以前、廣森隊長のご実家住所を調べて、行っては見たものの....同じ住所に何軒ものお宅が...それも全て「廣森」姓結局特定できずなんとかお墓だけは見つけたので、その後、出張の行き帰りに立ち寄っては「赤福」
80年前の昨日昭和20年2月20日満州から各務原を経て松本に到着した武尅隊15名は浅間温泉にある三軒の旅館に分宿しましたその一つで、現在も営業を続けておられるのが「目之湯旅館」浅間温泉目之湯旅館/信州松本の宿目の湯松本市浅間温泉にある、昔ながらの旅館、目之湯旅館です。www.menoyu.jpここに滞在したのは廣森隊長のほか各編隊長である林、清宗、小林、結城(金)、整備班長・伊東、計6名の将校ご主人のお話では、館内は「ほぼ当時のまま」部屋の前に掲げられ
彼のアルバムの表紙裏丁寧に貼られた一枚の紙後ろに一枚の写真が...外泊證明書官氏名陸軍兵長理由墓参行先東京都世田谷区玉川用賀町東條英機方右ノ者自二十年二月二十一日十二時0分至二十年二月二十五日十八時0分ノ間外泊ヲ許可シタル事ヲ証明ス昭和二十年二月二十一日と号第三十二飛行隊長陸軍中尉廣森達郎武剋隊隊員15名が整備班に遅れて各務原から松本にやってきたのは昭和20
13年前、作家のきむらけんさんから一枚の写真が送られてきました裏に「昭和二十年二月十八日武國特攻隊記念」と書かれたこの写真に写るのは彼の部隊、誠第32飛行隊・武剋隊の各隊員機付の整備兵14名(整備班長の伊東少尉は別行動)きむらけんさんからのメールには「松本でこの写真が見つかった。写真の持ち主は、佐藤喜代人さんにこの写真を送りたいと話しているが連絡先がわからない手がかりはないか?」そうメッセージが添えられていました。前列真ん中に写る武剋隊整備班・機関係
今日はねあの時代の「世相」っていうのを振り返ってみようと思います東京・武蔵村山市大南住宅街の一角に、この碑があります「東航正門跡」碑80年前、この場所はこんな風景でした写真:少飛15期・高橋良雄さんの東航卒業アルバムから東京陸軍少年飛行兵学校前身が所沢にあった東京陸軍航空学校であったことから「東航」と呼ばれていました彼が晴れてこの門をくぐったのは昭和17年10月1日。前年行われた受験の競争率は30倍とも50倍とも言われています写真:陸軍少年飛行兵
「土曜日の仕事、半ドンで終わるだろ?そのあとから車で出かけるんだよ何キロ走ったかなあ...北海道まで走ったからね...」板津さんは戦後名古屋市の職員となり、区役所に勤務しておられました。最初は、仲間のご遺族を探し出して、当時の状況や特攻出撃の様子を説明してまわっていましたが名簿を手に入れてからは全国を訪ね歩き、遺書や遺影、遺品を集めたんですねこれがもとになって昭和50年に「知覧特攻遺品館」ができます。現在の知覧特攻平和会館の前身で、現在の会館の位置より手前の場所
80年前の今日昭和20年2月11日紀元の佳節前日「声の遺書」の収録を終えた武尅隊15名は陸軍新京飛行場で部隊編成式に臨みました式典が行われた飛行場格納庫掲げられた横断幕には【陸軍特別攻撃隊合同告別式】この式典は彼の部隊、誠第32飛行隊(武尅隊)そして兄弟隊として編成された誠第31飛行隊(武揚隊)誠第39飛行隊(蒼龍隊)誠第41飛行隊(扶揺隊)計四隊総勢60名の合同結成式でした「告別式」というのは葬儀で故人を送る儀式ではなく「送別の式」「離任
80年前の今日昭和20年2月10日彼は満州の首都・新京にいました(新京=現在の中国吉林省・長春市)「関東軍編成の特攻隊第一号」である誠第32飛行隊(武尅隊)の一員に選抜された彼は隊長以下総勢15名でここ新京に集結この日、朝から隊員全員ひとりずつ「声の遺書」の録音に臨みます録音作業を行った「関東軍報道班」報道班員の回顧手記が残っていました凍結した録音版がカッティング不能となる全員が肌に当て体温で温めながらかろうじて収録すると、今度はエンジンオイルの凍
昨日…武尅隊、そして彼の痕跡を追ってこの場所を訪れましたPhoto:Googlemap岐阜県・航空自衛隊各務原基地その東端、誰も通ることのない道の途中にこのトンネルがあります。この場所はかつての陸軍各務原飛行場。主滑走路と東エリアを結ぶ誘導路でした。天井このブログにアップされている物語「快翔萬里〜空の果て遥か」で全てを記しましたが、私はかつて、18歳という若さで戦死したある特攻隊員の一生を辿って、彼が「いた場所」を訪ね歩きました。
出雲大社にてこのあとがきは昨年(2023年)6月、ベラルーシの首都・ミンスクのアパートで書き上げたものです***************************************あとがき前作を書き上げてから3年、この間世界ではコロナ騒動をはじめとしてさまざまな出来事が起こりました。その後二作目を書き始めようと決めたあと、ウクライナでの紛争が始まり、そして今僕は日本やアメリカの敵対国であるベラルーシにいてこの二作目書いている。単なる偶然ではないと思います。
この旧ソ連アパートで...いつも拙ブログにお越しいただきありがとうございます。さて、年初から連載してきました「次世代への伝言」は今朝の投稿で本文部分を全て終え、残すは次回投稿、最終の「あとがき」を残すのみとなりました。これまで本ブログを続けてこれましたこと、ひとえにみなさまのおかげ、みなさまの支えあってのことと心から感謝しております。本当にありがとうございます。アメブロのアカウントを作成して初めて投稿したのが昨年の5月末。日本の「敵対国」であり、にっくきロシアの同盟国
終章次世代への伝言(4)【靖国神社】③2024年8月15日超党派議員による靖国参拝SOURCE:NHKWebサイト閣僚3人が靖国神社に参拝岸田首相は私費で玉串料納める|NHK【NHK】「終戦の日」の15日、閣僚らが東京九段の靖国神社に参拝しました。www3.nhk.or.jpいまではあまり聞かれなくなりましたが、かつては8月15日に参拝に訪れた閣僚や国会議員に対して「公人として参拝に来られたのですか?私人として参拝に来られたのですか?」という質問
とある論文の公募があったのでちょっと書いて応募しました私も盆を挟んで終戦の日や靖国にまつわるトピックを書きましたがこれまでの私の考えをまとめてみたんですけれどもいったい中国や韓国がいう「歴史認識問題」っていうのはなにを指して「気に入らん」と言っているのかそれをちょっと考えてみたんですよ結論的には終戦の日に書いたこの記事の通りなんですよね『終戦の日(1)』今日はこれまで靖国で幾度となく手を合わせてきた者としてちょっと呟いてみます(長いけど)今日8月15日
終章次世代への伝言(4)【靖国神社】②形態はさまざまなれど、戦争で命を落とした方々を讃え、その名を残す施設はどの国にでも存在します。ただ日本の場合は靖国神社という宗教法人であるがゆえに、宗教上の信念や先の戦争に対する考え方から、合祀を拒まれるご遺族がいらっしゃることも事実ですが、「国家のために尊い命を捧げられた人々の御霊を慰め、その事績を永く後世に伝える」ための場所として存在することそのものは否定すべきものでも、非難されるべきものでもありません。A級戦犯が合祀
終章次世代への伝言(3)【菊川】④長崎・浦上天主堂10年くらい前だったかな中央がキリスト「防守セサル都市、村落、住宅又ハ建物ハ如何ナル手段ニ依ルモ之ヲ攻撃又ハ砲撃スルコトヲ得ス」戦争ともなれば攻撃目標は軍事施設に限るわけです。原爆は言うに及ばず、アメリカが行った東京はじめ全国の主要都市への無差別爆撃は明らかに国際法違反であり、東京裁判でいうBC級の犯罪に該当するんですが...別の側面もあります。日本軍は1937年8月「渡洋爆撃」と称して重慶や南京を無差別爆
終章次世代への伝言(1)【千駄ヶ谷】③「戦争を知らない人が勇ましいことを言うのだ」何度も繰り返しますが、一つのものごとに対する捉え方というのは人それぞれであっていいと思います。それぞれの生い立ち、それぞれの立場によって人間の考え方は変わります。ただし「知らない」ということは何においてもいちばん誤解を招きます。人と人との関係においてもそうですね。初対面であっても、人伝に「あの人は素晴らしい人だ」と聞かされていれば、そのように感じます。逆に悪い評判を聞かされ
終章次世代への伝言(1)【千駄ヶ谷】①三田キャンパス内還らざる学友の碑戦没者名簿が収められている僕がこの碑の存在を知ったのは、社会人大学院生として三田のキャンパスに通っていた時のことでした。昼休みにふと図書館の脇に行ってみると、そこに「還らざる学友の碑」があったんですね。学徒出陣という言葉は知っていましたが、それを身近なものとして感じたのはこの時が初めてでした。学徒出陣に限ったことではありませんが、画像や音源のデジタル化によってさまざまなサ