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今日はねあの時代の「世相」っていうのを振り返ってみようと思います東京・武蔵村山市大南住宅街の一角に、この碑があります「東航正門跡」碑80年前、この場所はこんな風景でした写真:少飛15期・高橋良雄さんの東航卒業アルバムから東京陸軍少年飛行兵学校前身が所沢にあった東京陸軍航空学校であったことから「東航」と呼ばれていました彼が晴れてこの門をくぐったのは昭和17年10月1日。前年行われた受験の競争率は30倍とも50倍とも言われています写真:陸軍少年飛行兵
80年前の今日昭和20年2月10日彼は満州の首都・新京にいました(新京=現在の中国吉林省・長春市)「関東軍編成の特攻隊第一号」である誠第32飛行隊(武尅隊)の一員に選抜された彼は隊長以下総勢15名でここ新京に集結この日、朝から隊員全員ひとりずつ「声の遺書」の録音に臨みます録音作業を行った「関東軍報道班」報道班員の回顧手記が残っていました凍結した録音版がカッティング不能となる全員が肌に当て体温で温めながらかろうじて収録すると、今度はエンジンオイルの凍
久しぶりに彼の部隊、誠第32飛行隊・武剋隊の話に戻ります武剋隊が松本・浅間温泉に到着したのは昭和20年2月20日隊員15名は三軒の旅館に分かれて滞在しました【目之湯】廣森隊長と整備班長の伊東少尉、そして清宗、林、小林、結城(金)の各小隊長【千代の湯】時枝、今野、大平、島田、出戸、今西【梅乃湯】古屋、佐藤(正)、伊福、そして彼(赤字は先発隊3/27出撃青字は後続隊4/3出撃)当時目之湯には駒繋国民学校(現・世田谷区立駒繋小学校)千代の湯には代沢国
新京(10)特攻四隊編成発表後の訓示このあと、遺言の録音が行われたと思われる遺された声〜番組冒頭の「勇」の一言で、それが誰であるのか僕にはわかった。小林勇少尉(特攻戦死後二階級特進で大尉。以下「大尉」)。彼の部隊の第四編隊長だ。特攻隊の一編成は通常15人。3機で一小編隊を組み、五つの小編隊で行動する。あの橋本さんに聞いた話では、3機✕五編隊で飛ぶ隊形が一番美しいのだそうだ。彼の武尅隊もまた同様。また改めて説明するけれど、武尅隊は昭和20年3月27日