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全譯『大方廣佛華嚴經』巻上(江部鴨村訳,昭和9年)序11〜15頁華厳経の原理とは言え、この仏陀なり大覚なりは何を究極の原理とするのだろうか。華厳は哲学でなくて宗教である。それ故に原理を顕示しないで暗示する。言いかえれば、原理を概念的抽象的に論説する代りに具体的芸術的に表現する。そのために人は或いは豪宕雄渾な表現の当相に眼を奪われて、表現が示唆するところの、内に含むところの根本原理を見逃さないとも限らない。かくて華厳の趣旨いかん、一経貫通の原理いかんが、昔から華厳研究家の重大課題と
全譯『大方廣佛華嚴經』巻上(江部鴨村訳,昭和9年)序6〜9頁大(おおい)に華厳経と涅槃経とを対照して見るに、華厳経の説法は菩提樹下から出発し、涅槃経は娑羅樹のもとの説法である。菩提樹は大覚をあらわし、娑羅樹は入滅をしめす。すなはち前者は『生』の象徴であり、後者は『死』の表象である。それゆえに華厳経と涅槃経との対照は生と死との対照でなければならない。だが、菩薩樹下の生とは何んであろうか。娑羅樹下の死とは何んであろうか。菩提樹下の生が単なる肉体の生でないことは言うまでもない。それは小
全譯『大方広佛華嚴經』巻下(江部鴨村訳,昭和10年)709〜710頁また一万の魔が虚空のうちに現われて、種々の摩尼宝華を婆羅門に散じ、善財に告げるよう『善男子よ、この婆羅門は苦行のちからの故に大光明を放ち、自分等の宮殿、及びもろもろの荘厳をさながら墨のかたまりのようにしたもうた。自分等は楽(たのし)みをうしない、眷属の無量の諸天並びに天女に囲繞(いにょう)せられてこの婆羅門のみもとに来詣した。時にこの婆羅門は自分等のために法を説いて、自分等をしてことごとく阿耨多羅三藐三菩提において不退転
全譯『大方廣佛華嚴經』巻上(江部鴨村訳,昭和9年)281〜282頁賢首菩薩品(二)菩薩はまた衆生を安隠にするすぐれた三昧を具し、あらゆる衆生を済度せんがために思議しがたい大光明をはなち、その光明をもって群生を救済する。あるいは善現と名づくる光明をはなつ。もし衆生あってこの光に遇えば、果報をうること限りなく、これによって無上の道に徹底する。菩薩はもろもろの如来をあらわし、また一切の法と僧道とをあらわし、また最もすぐれた仏塔と仏像とをあらわした功徳によって、善現と名づくるこの光明を獲たの
全譯『大方広佛華嚴經』巻下(江部鴨村訳,昭和10年)710〜712頁また一万の他化自在天が虚空のうちに現われ、天の妓楽をもって恭敬し供養して言うよう『善男子よ、この婆羅門が五熱にその身を焼かれた時、大光明を放って自分等の宮殿、及びもろもろの荘厳を照したまい、自分等をして五欲を楽(たのし)まず、欲楽を求めぬようにし、且(か)つ自分等の身心を柔軟にしたもうたので、自分等は眷属とともにこの婆羅門のみもとに詣でたところ、この婆羅門は自分等のために法を説いて、自分等をして心を浄くし、心を明かにし、
全譯『大方広佛華嚴經』巻下(江部鴨村訳,昭和10年)712〜713頁また一万の大龍王――伊那槃那難陀(いなばんななんだ)・抜難陀(ばつなんだ)等が黒旃檀香の雲をおこし、もろもろの龍王は妙なる楽音をかなで、天華の雲・天香水の雲を雨ふらし、恭敬し供養して申すよう『善男子よ、この婆羅門が五熱にその身を焼かれた時、大光明を放ってあまねく一切の龍王の宮殿を照し、自分等もろもろの龍王をして熱沙の苦と、金翅鳥(こんじちょう)の怖れとを離れしめ、瞋恚(しんい)の熱を滅して身体清涼となり、歓喜の心をおこさ
全訳「譯大方廣佛華嚴經』巻上(江部鴨村訳,昭和9年)序1〜3頁解題華厳経の主題一部六十巻(或いは八十巻)の尨然(ぼうぜん)たる華厳経はいかなる主題のもとに何(ど)ういうことを説き現わした経典であろうか。この課題にたいして古今の華厳経研究者はそれぞれの立場からさまざまの見解を述べている。が、要するに華経経は菩提樹下の仏陀の正覚を主題とし、その正覚内容の光景を如実に表現したものに外ならぬと云うことに帰結する。この帰結には十分の妥当性がある。今後いかなる研究者が現われても、
全譯『大方広佛華嚴經』巻下(江部鴨村訳,昭和10年)708〜709頁『善男子よ、御身がもし今、この刀山にのぼって身を猛火のうちに投ずるならば、あらゆる菩薩の行は皆ことごとく清浄となるだろう。』そのとき善財が心のうちに念(おも)うよう『人身を得ることは難く、諸難を離るることは難く、無難を得ることは難く、浄法を得ることは難く、仏世に値うことは難く、諸根を具することは難く、仏法を聞くことは難く、善知識に遇うことは難く、善知識と同止することは難く、正教を聞くことは難く、正
全譯『大方廣佛華嚴經』巻上(江部鴨村著,昭和9年)序9〜11頁華厳経の内容華厳経が仏陀の大覚を主題とする以上、その教説の内容が仏陀の大覚及び大覚内容の宣表以外に出でないことは言うまでもないことである。しからば華厳経はそれを何(ど)んな風に宣表しているかというに、何よりも大覚の具現者たる仏陀という具体的の人格を中心として、これを果位と因位との二面から仔細に観察し推求し玩味し、而してその観察し推求し玩味したところを概念的論理的に説明することの代りに、象徴的芸術的に表現しているのである
全訳大方広仏華厳経巻上目次緒言····························································一凡例····························································一解題華厳経の主題·············································一華厳経の内容·······································
華厳経(GaṇḍavyūhaSūtra)はインドでいくつかの時代を経て作られた複数の仏教経典がまとまって一つの経典になったものである。2〜3世紀頃に成立したという。法華経や涅槃経と並んで、大乗仏典を代表する経典である。華厳経の内容は仏陀の悟り(大覚)の境地を表現したものであるとされ、仏教学者の鈴木大拙は「大乗思想の最高頂に達したもの」と評している。また、その表現の絢爛さ、壮大さから文学的にも高く評価されており、川端康成が「世界最高の文学」と述べているほどである。日本に仏教が伝わった奈良時代
全譯『大方廣佛華嚴經』巻上(江部鴨村訳,昭和9年)167〜168頁四諦品そのとき文殊師利(もんじゅしり)菩薩が、もろもろの菩薩がたに告げらるるよう、『菩薩がたよ、謂うところの苦諦(くたい)をば、この娑婆世界において、あるいは害といい、あるいは逼迫(ひっぱく)といい、あるいは変異といい、あるいは境界といい、あるいは聚(じゅ)といい、あるいは刺(し)といい、あるいは依根(えこん)といい、あるいは不実といい、あるいは癰(ゆ)といい、あるいは童蒙(どうもう)の行という。謂うところの苦集諦(くし
全譯『大方廣佛華嚴經』巻上(江部鴨村訳,昭和9年)183〜184頁如来光明覚品そのとき、仏は両足の足裏の輪紋(りんもん)から光明をお放ちになって、あまねく三千大千世界の百億の閻浮提(えんぶだい)・百億の弗婆提(ぶつばだい)・百億の拘伽尼(こうかに)・百億の鬱単越(うつたんおつ)・百億の大海・百億の金剛囲山(こんごういせん)・百億の菩薩の出生・百億の菩薩の出家・百億のほとけの開悟・百億の如来の説法・百億の如来の入寂・百億の須彌山王(しゅみせんおう)・百億の四天王天・百億の三十三天・百億の時