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パパは不倫相手へのプレゼントや私への偽りの結婚指輪など、都合の悪い物は実家へ送っていた。自分の実家の住所と自分の旧姓を使って。一度だけ家に財布が届いた事がある。パパは会社の私が知っている人に買ってと頼まれたと言っていた。それも不倫相手へのプレゼントだった。「今日〇〇にあげるサイフ家に届いちゃってさ」「でもバレてないから大丈夫」LINEで不倫相手にそう言っていた。不倫相手とのお揃いのものやプレゼントなどもパパの実家にある。自分の私物もいつも実家に置いたまま。私の家から1
午前中からぐんぐん気温が上昇していく初夏のようなさいたま市内。2024年4月13日(土曜日)、公共施設の集会室で対面の集いを開催しました。母子像『ずーっとね。02』/Y様作背景桜写真/ミナ様参加者は28名様。うち初参加者は3名様。はじめに全員の自己紹介、近況・現在の心境等のトークに、じっくり一時間あまりをかけて一巡。日本人にとって「春」という季節は特別なのですね。纏わる思い出に目を潤ませながら話し出す方々が多いように思いました。一巡後、受付で配られ
パパは4月の後半から自分から不倫に手を出した。私の予想では、パパがその人を誘ったのは体目当て。その人が会社の人と不倫してたから。昔パパからその女の人が会社の人と関係を持ってると聞いた事があったから。自分とも遊んでくれると思った。本当にパパは最初は遊びだったから。でもその女の人は旦那と上手くいかず別居中だった。だから不倫相手は必要以上にパパを求めていた。パパには都合が良かったと思う。最初はパパはそれなりに距離を保って遊んでいたようだ。その女の人は私のInstag
ちょうど結婚3周年記念日。パパからきた最後の記念日LINE。–5年と6ヶ月です。結婚して、3年目。去年はあなたを1番傷つけてしまって…嫌な半年を送らせました。消えることはない傷をつけてしまったらこと、本当にごめんなさい。今年はというか、これからの人生、あなたを、苦しめることは絶対にないと保証します。昨日は、結婚を知らない友達に、馴れ初めやら、どんなふうに付き合って、とか結婚してからのこと、いっぱい聞かれて、勝手に自分も振り返られた日でした。いっぱい振り返ることがあって、、と
夫婦の溝が10月頃からようやく戻って来たと思う。パパは自分がした何度もの嘘を反省して誠意を見せてくれていた。パパの嘘のあまりの多さと大きさに私は数ヶ月ずっとパパに突っかかった。その嘘を何回もほじくり返して喧嘩したり無視をした事もある。「パパも辛かっただろうと思う」それはパパが死ぬまで思っていたこと。パパは嘘つきだから。11月に子供を両親に預けてパパと2人で2泊3日の旅行に行った。イルミネーションを見たり久々に夫婦の時間を満喫できた。そこで夫婦の溝が完全に埋まった。
夜中に何度も目覚める度に隣で眠っているパパの顔を触って何回もパパの名前を呼んだ。何度起きても夢じゃなくて。それでも何が起きたか分からなくて。涙しか出てこない。ドライアイスで完全に冷たくなったパパの体を触る度に認めたくなくても死んだっていう事実が襲ってくる。パパを一人で逝かせたくない。そういう気持ちにしかなれない。パパの棺に入れる物を取りに両親に連れられて実家に帰った。今までパパに渡した手紙を探した。死ぬ9日前にパパに書いた手紙。去年パパに書いた手紙。部屋の中や車の
いつのまにか4月も中旬になりました。新しい環境に変わることは、負担は当然のごとく大きいのでまずは自分が慣れることに力を費やしています。昨日、妻が愛用していた原付を手放しました。この原付に乗って、妻は最後の場所まで行きました。その後は私が大切に乗って来ましたが、購入して10年以上が経っていると思います(結婚する前から妻が活用していたモノなので正確な期間が分かりません)当時、古い原付とこの原付と2台所有しており、妻はいつも「1号」「2号」と呼んでいました。(1号は実家に置いてき
パパが棺に入る時が近付いた。パパが部屋の端から部屋の中央に移動させられた。親戚がパパの周りを囲んで座り葬祭会館の人がゆっくり説明をする。ドライアイスと布団が取られてパパの体が全て見えるようになった。「おくりびと」見たことはないけれどそういう映画もあったなと思う。きっと映画を見ても実際自分がその立場にならなければ何も分からないんだと今では思う。映画は客観的に見れるから感動する。実際は感動なんてしない。死者の旅路の準備とは言ってもそんな事なんてしなくてもいい。天国な
パパの不倫相手とは四十九日まで連絡を取っていた。先に手を出したのはパパだから最初は不倫相手を責めなかった。だから慰謝料も請求しなかった。パパの事を共有できる人が欲しい。そんな思いで連絡を取っていた。今思えば知らない方が幸せだったんじゃないかと思う。だけどパパの不倫が発覚しなかったら私は間違いなく今生きていないと思う。罪悪感とパパへの愛情が大きすぎて間違いなく後を追って死んでいた。だから不倫相手に感謝する部分がある。不倫相手には2回会った。パパの不倫が発覚した日と相
その日は3連休2日目の日曜日。家族全員で昼食を食べに出かけた。私とパパと息子は後ろの席に座った。パパが出掛ける前に息子と散歩して息子の可愛い写真を撮ってくれてた。その写真を送ってもらったりした。パパがラインのホーム画像を息子に変えようとしてLINEを開いた。開いた瞬間にトーク画面の一番上に女の人の名前が表示されたのを見た。私が聞いた事のある名前。パパと同じ会社の人。以前パパからその人が会社の人と不倫してると聞いた事があった。数年前その人からLINEが来てた。パパに結
立てなくなってからは病院では車椅子で移動していた。義理の両親と共に車に乗って葬祭会館へ向かった。パパが昔着ていたコートを義母が私に着せてくれた。落ち着いてくるとようやく涙が出た。覚えてないけど義理の両親とはパパが死んでから何か話しただろうか。ただ現実が受け入れられず何もかも受け入れる事も出来ない。葬祭会館に到着し、案内された部屋にパパが寝ていた。顔にかけられた白い布を取る。目の前にいるのはパパなんだと分かっていても信じたくない。現実が受け入れられない。まだ体が温
1年前、妻が亡くなった頃、誰とも会いたくない日々だった。ただ、とめどなく流れる涙と自責の思いにうまく身体も心も動かなかった。友人達は、弔問に来てくれた。ありがたかった。だけど、誰にも会いたくなかった。会うことがしんどかった。妻の死を受け止めることが出来なくてそんな時に妻の話が出来る友人が来ることはありがたかった。だけど、涙は出なかった。一人になったら泣いていた。求めている物とは違っていたんだろう。真の意味で気持ちを共感出来る相手を求めていた。経験した者で
思い立ったが吉日。4月はじめ、平日狙いで『北欧の神秘』というノルウェー・スウェーデン・フィンランドの絵画展を観に行きました。ケータイ画面越しに流れてきた広告の『北』というワードに惹かれたのか、広告に使われた『女神に蚤取りしてもらうトール(北欧神話に出てくる妖精?)』にときめいたのか。悲しい事が起きてからは、ある種の直感を『自身を導くもの』として生きてきたようにも思います。以前もブログで書いたとおり、お絵描き好きの有ちゃんをこころに伴って一緒にエンジョイできる神聖なスポ
息子の中学時代のお友達が「K(息子)のお陰で大学院を無事卒業することができました」と私に連絡をくれました。彼の夢に息子が2回も出て来てくれたと私の夢には全然出て来てくれないのにぃーー。卒論が終わらず苦しんでいた時に、息子が夢に出て来て「こうしたらどうかなぁ」と一緒に考えてくれたんだそうです。それも正月初夢で後日また夢に出て来て、励ましてくれたのだと。大学のゼミの先生から、卒論の提出を拒まれて精神的に追い詰められてしまった息子。きっと、同じように卒論に苦しむお友達のこ
棺の上には私が家から持ってきたアディダスのパーカー、スヌーピーのトレーナー、私がパパに結婚記念日に書いた手紙同じく昨年に書いた手紙プレゼントしたばかりのサングラス今まで一緒に撮った写真がキレイに並べられていた。その日も病院に連れて行かれた。点滴をしながら死ぬほど叫んだ死ぬほど泣いて謝った。病院から帰ってくると葬祭会館の入り口にパパの名前。パパの葬式会場というパネル。違う。パパは死んでない。現実を突きつけられてもやっぱり信じられなくて狂ったように泣き続けた。パパ
パパの葬儀が終わり家に帰ってきてからはずっと何も出来ずに座って過ごした。家事もしない。ご飯も食べない。抜け殻になったり。泣いたり。息子の面倒すら見れない。きっと両親が居なかったら育児放棄。周りには息子の為に頑張ろう。周りからはそんな言葉を掛けられる。でも実際は息子を見ても自分の糧にはならなかった。パパがいないのに息子なんて育てられない。この子は私が居なくても祖父母がいる。なついてる。だから私が居なくても大丈夫。でも私はパパがいなきゃ生きていけない。生きる意味がな
パパが死んでから3回くらい本気で死のうと行動を起こした事がある。その3回は全て違う理由で自分の心が変化した時。パパが死んだ瞬間から私は死ぬ事しか考えていなかった。パパを殺したのは私だ。パパがいない人生なんて生きている意味がない。ずっとずっとそう考えていた。パパの不倫が発覚する前まではパパの後を追って死ぬ事が自分の最高の人生だと思っていた。今の気持ちのまま死ねたら幸せだ。パパも私が逝くのを待っている。待っててね、一人にしないから。勝手にそんな事を考えていた。火葬の
自死遺族の私が、感じてること、思うことなど書いています。夫が他界したのは11年前。今までに感じてきたこと、今になって思うこと、時系列は乱雑になると思いますが、なるべく等身大で表現しようと思っています。自死遺族について書き始めたブログはこちら夫は友人が少ない(と本人が言っていた)年賀状のやり取りもそれほどなく葬儀は火葬のみでほぼ親族亡くなった知らせは喪中はがきその知らせで連絡を下さる方もいらっしゃった名前だけは知ってるけどお話したことがない方もお電話い
妻を自死で失って1年。あんなに愛しあっていたのになぜ私を一人置いてきぼりにしてしまったの?立ち直ることは出来ません。立ち直る必要はございません。いつかあなたに【よく頑張ったね🤗】と言ってもらえるように。今日も私は生きています。にほんブログ村
私と旦那は中学の同級生でした。昔は全く話した事もなく、お互いの存在を意識した事もない。成人式が終わってから数ヶ月後、偶然に出会い、共通の友達と遊び、自然に普通の恋愛をしてきました。家も近く、職場も近い、友達もお互いが顔見知りばかり。共通の友達に囲まれ、支えられ、そんな中で望んで子供が出来て、交際から2年半の記念日に入籍。自分にとっては大恋愛でした。旦那は長男、私は一人っ子。それでも旦那は婿に来る事を選んだ。泣きながら「俺は婿に行く」と最後まで自分の家族を説得して我
妻が亡くなって1年。この1年間は様々なスピリチュアル関係の本などを読み漁って来ました。救いが欲しくて、救いを求めて。自死した人の魂はどうなるのだろう?自死した人は成仏できないの?自死した人はずっと苦しんでいるの?こういった疑問に対する【答え】が欲しかったのだと思います。みんな、私と同じことを考えた事があるのではないでしょうか?こうして、私が自分のことを少しづつ吐き出せるようになったのも、様々な本を読んだおかげだと思っています。妻の一周忌が終わったことも関係して
パパが死んだ。立つ事すら出来ない。何も考える事すら出来ない。これは絶対に夢だから大丈夫。ありえない。絶対嘘だ。現実を受け入れられない気持ちだけ。そんな状態でも警察からの事情聴取。夫婦喧嘩をした。身に覚えがあるのは本当にそれだけ。本当にそれだけ。薬も飲まされていない圧迫箇所に不自然さもない他殺の可能性もない自殺で間違いないと思います。そう伝えると警察は居なくなった。ああ、そうか。私がパパを殺したんだ。私は人殺しなんだ。ずっと、ずっと、そう思っていた。
妻が亡くなってすぐに眠れなくなった。夜の静寂に一人で耐える事が辛かった。ほとんど変化しない体重がすぐに-5kgになった。髪に白髪が大量に出てびっくりするくらいやつれた、らしい。布団に入ると、何度も何度も、妻が亡くなった時の行動を頭の中で繰り返した。想像するしかないが、何度も何度も頭の中で想像繰り返していた。涙が止まらなかった。それは今も変わらない。どうやって生きて行けばいいのか真剣にわからなかった。すがるように、線香を点けていた。1本燃え尽きる
前回はコッソリと参加させて頂いたのですが、https://ameblo.jp/ikairuka/entry-12832952764.html『私は自死遺族』昨日は名古屋の自死遺族の天使ママお茶会に、参加者として、申し込み参加して来ました。待ち合わせの場所で立っていると、私のことを知っている天使ママたちが見て、えー…ameblo.jp今回はリブログさせてもらい、行くことを宣言しようかと。。。もちろん、イチ参加者としてです。だから私が前に出ることはありません。(^◇^;)皆さまと同じ
私とパパは周りに比べたらすごく仲の良い夫婦だと思う。周りにも伝えていたようにパパは本当に優しくて良い人だった。付き合っている時からパパが死ぬ時までずっとずっと、パパと出会えて良かったと思っていた。パパと結婚出来て、パパの子供が産めて、本当に自分は幸せだと思ってた。生まれ変わってもこの人と一緒になりたいと思ってた。言えていなかった事がある。本当は去年からパパの事で色んな事が起こっていたこと。たしかにパパが不倫している事は本当にパパが死ぬまで分からなかった。パパは不
妻が亡くなって1年。この1年間は、毎週かかさず必ず週に1回はお墓参りに行っておりました。長時間滞在するわけではありませんが、常に綺麗なお花を活けていたかったのです。自分で勝手に決めたルールなのかも知れません。何かにすがりたい気持ちが、そうさせるのだと思います。幸いなことに、お墓が家から近いからということもあります。自責の念のやり場をお墓参りすることで、少しでも散らしたいと思っていたのかも知れません。妻の供養を願いつつ、私自身の為でもあったのだと思います。
こんにちわ~今日は朝からいきなり雨で、気圧が胸に重い~と思っていたらいきなりうちの地震予知機が何年振りかで鳴りました慌てて三男が達をまとめて抱っこして守ったら下のがまだ歯磨きガムが少し口の中に残っていて上のに取られると思ったのか、耳に噛み付いてしまい慌てて引き離して私が叱り・・・とドタバタしていたのでこちらは震度3か4ぐらいでしたが、私は揺れすら感じませんでした。(三男は感じていたのに・・・。)皆さんは大丈夫でしたか因みに関西に居る次男はいつもはあの時間は授業がなくて
妻が亡くなって1年。正確にはもうすぐ1年2ヶ月になります。とてつもなく長いようであっという間に過ぎてしまった気もします。この時間の中、妻の笑顔を思い浮かべなかった日はありません。遺影の中で、最高の笑顔を見せてくれています。私は...心から楽しいと思えることが無くなりました。何をしても、最後には悲しい気持ちになってしまいます。どんなに笑顔を作っても、どんなに楽しく騒いでも、お酒の席で和気あいあいとしゃっべていても、それは現在の本当の私ではありません。同じ
のんびり過ごしております。体調も回復しました。各種手続きも順調に進んでおります。進まないのは壊れた妻の原付の廃棄の手続きです。やっぱり手放したくない思いが強いです。10年ものになるので、限界なのは間違いないです。修理に出せば、あと1年は乗れるとは思いますが…。もうここらで…。複雑な思いがあります。-------------------------------------------------------------------------------------ランクヘッ
昨日は名古屋の自死遺族の天使ママお茶会に、参加者として、申し込み参加して来ました。待ち合わせの場所で立っていると、私のことを知っている天使ママたちが見て、えーーー((((;゚Д゚)))))))!!り、り、り、りりさんっ⁈((((;゚Д゚)))))))って驚かせてしまったけれど(^◇^;)そうなんです。私も自死遺族なんですよね。名古屋のお茶会は、本当に温かくて何度も参加しているママたちは、新しいママを優しく迎え入れてくれたり、一緒に泣いてくれたり…ときには大笑いしていたり…