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これまで「一条家」と「二条家」を紹介してきた当ブログ。ならば次は「三条家」ではなかろうか…?となってきたので、せっかくなのでやってみようと思いますw三条家は、藤原氏閑院流の嫡流にあたる家です。閑院流とは、藤原兼家(道長の父)にとってずっとずっと下の弟・公季(きみすえ)から始まる一族。公季は道長にとって、たった10歳だけ年上の叔父さんです。紫式部大河にも出る…はず。閑院流の紹介は、普通にやると今日どころか明後日まで終わってしまうので(笑)、ざっくりやると『平清盛』にも登場し
まだ大河ドラマ『平清盛』がリアル放送されていた2012年。「平安時代はドラマの題材に向いてないのでは」と語ったことがありました。ややこし過ぎる時代(関連)https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-11250851859.html平安時代は、まだ「名字」がない時代。似たような名前がいっぱい出てきます。テレビという音声が重要なメディアで、音声では聞き分けがややこしい名前ばっかり出て来たら、混乱しちゃいますよね…というようなニュアンスでした。
大河ドラマ『光る君へ』第8話「招かれざる者」では、盗賊団がお勤めに入った「東三条第」で逮捕されてしまいました。散楽一座の一員で、盗賊団の一味でもあり、まひろパートと道長パートの間を行ったり来たりしながらストーリーをグリグリ動かしていた直秀が、絶体絶命のピンチ。直秀@毎熊克哉さん大河ドラマ『光る君へ』より⇒★「現行犯逮捕」なので、助かる見込みはかなりキビシイ。SNSでも「直秀は来週で出番終了かな…」なんて見方もチラホラ。歴史上の人物ではなくドラマのオリジナルキャラクターで
武田信玄で有名な山梨県の甲斐源氏(かいげんじ)武田一門。各テレビ局でも何度もドラマ化され、書籍の数も多いですね。ただ、初代の武田氏については、殆ど取り上げられません。ということで、武田氏のルーツを紐解いてみました。1.なぜ武田?武田という苗字の由来は、茨城県にありました。詳細はこちら→甲斐源氏(Wikipedia)にて解説されています。場所はここ!→茨城県ひたちなか市武田(googleマップ)地図中の{武田氏館}のあたり。※この{武田氏
このブログ、関連として今までに何度か紹介しているけれど、本題に触れていない系図ってのがいくつかありまして…。一応、「ブログで触れようと思っている人は黄色」、「キーパーソンはオレンジ」というように、名前の札を色分けしたりしているんですが、肝腎の本題に触れてないから「何でこの人をこの色にしてるの?」ってなっているのが多数あったりします(^^;ほかにも、ちょっと触れるだけのつもりだから略系図の簡易版で、みたいにやっておいて、そのまま…というのも結構あり。ブログ開設から10年経ってこの
うちのブログは、アクセスの7割ちょっとが「検索」でいらっしゃる方々でして。ありがとうございます。日本古代史ばっかりやっている所ですが、たまに中世や近代や海外もやってます。ゆっくりして行ってってくださいましね☆で、アクセス解析を見てみると、多い日で「検索」の8割ほどは「系図」なのですが、ここ数ヶ月は『光る君へ』関連で来る「藤原氏」のほかに、「徳川家」でいらっしゃる方が多いのです。去年は大河ドラマが『どうする家康』だったので、その余波かな…と思いかけたのですが、検索ワードでは「徳川
歴史系図トリビアこれは楽しい!おもしろい!そう感じるような歴史上の人物の系図を紹介していきますみなさんこんばんは(´Д`)。本日は歴史好きなぶたさんの大好物!楽しい歴史系図でございます(´Д`)!ぶたさんは歴史上の人物の系図がとにかく好きなんです。はい(´Д`)。本日は承平天慶の乱の藤原純友はどんな家系の出身だったのかについて見ていきます。藤原純友は藤原北家長良流の出身です。藤原不比等の四人の息子、武智麻呂・房前・宇合・麻呂の家系がそれぞれ南家・北家・式家・京家となり
平安時代を漁ろうとする時の最大の悩み。それは「藤原氏」なのではなかろうか。来年の大河ドラマ『光る君へ』の主役・紫式部は、父が藤原為時であることからも分かるように、藤原氏の出自(勧修寺流)夫となった藤原宣孝も、藤原氏(勧修寺流)。紫式部が仕える彰子と父の道長も藤原氏。「四納言」と呼ばれる道長の腹心四天王のうち3人は藤原氏。(藤原公任・藤原斉信・源俊賢・藤原行成)どこからどこまでも藤原氏(^^;2012年大河ドラマ『平清盛』が「平氏と源氏と藤原氏ばっかりで
本日も、前々回からの続き。藤原氏魚名流を取りあげて行こうと思います。魚名が見た夢(再掲)https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12728328493.html前回は、「武士系藤原氏の代表格」とも言える「藤原氏秀郷流」をご紹介しました。系図で見てみよう(藤原氏秀郷流)https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12730979360.html今回は、秀郷流の祖となった藤成の兄・鷲取の末裔をご紹介します。
出てきた言葉を全て理解したわけではないものの、なかなか面白く読めました!図説イギリスの歴史(ふくろうの本)Amazon(アマゾン)990〜6,833円巻末に英王室の系図がありました。こうやって見るとチャールズ国王もヘンリー王子もウィンザー朝の由緒正しい人物なのに、その割には、扱いが雑で馬鹿にされすぎな気がしました。
「平安時代好き」で「系図好き」な人にとって有名な人物に「代明親王(よしあきら)」がおります。60代・醍醐天皇の第三皇子で、朱雀天皇(61代・923年生まれ)、村上天皇(62代・926年生まれ)の異母兄。延喜4年(904年)生まれ。母は藤原連永の娘・鮮子で、魚名流の一派である末茂流の女性でした。身分は更衣(下級の妃)。ちなみに、朱雀帝の諱は「寛明(ゆたあきら)」で村上帝の諱は「成明(なりあきら)」。醍醐天皇の皇子たちは「*明」という名前になっています(「安和の変」で失脚した「高明」は醍
「平安(院政期)~鎌倉時代に現れるいくつかの一条家を整理して紹介しよう!」という、どこに需要があるんだか分からない(笑)今企画。前回の続きとして、今日は一条家(中御門流)を取りあげます。「中御門流(なかみかどりゅう)」とは、道長の子・頼宗(よりむね)の系譜の呼称。「御堂関白」と呼ばれ権勢を誇った藤原道長は、たくさんの子宝に恵まれましたが、正室の子と側室の子とを明確に区別して遇していました。天皇に嫁がせた娘は全て正室から生まれた子ですし、摂関家の地位も正室の子・頼通に継
先の記事で、敦実親王のことを「ワタクシ、ちょこっとしか知らない人」と紹介しました。蝉丸のにおい(再掲)https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12733609648.htmlちょこっと知っているというのは系図上のことでして。というのも、敦実親王は宇多源氏の代表的な祖にあたる人なのです。「源氏」というと、鎌倉幕府を開いた源頼朝の家系「河内源氏」や、酒呑童子退治で知られる源頼光や鵺退治知られる源三位頼政の家系「摂津源氏」が有名で、他は何だかぼんや
風が冷たいけど吹かなかったら暖かい気温って、「暖かい」なのでしょうか?それとも「涼しい」なのでしょうか?うーん・・・・どっちでもいいか(ぇ今日は、清和源氏の系図を取り上げます。例によって、系図の中身について適当に語ってみますw■源氏略系図(清和源氏)■清和源氏は、第56代・清和天皇の孫・経基王(つねもとおう)が源姓を賜って臣籍降下したのが始まり。経基王は、武蔵國(現・埼玉県)に赴任するのですが、お土産と接待ほしさに国内を巡ろうとして、管理している豪族と
「鎌倉時代前後に登場する3つの一条家を解説しよう」というシリーズも今回で終わり。最終日は、藤原氏の中でも名門中の名門・摂関家から輩出された「一条家(五摂家)」を紹介して、自己満足感満載で進んできた今企画を締めようと思います。「五摂家って何?」というのは、以前にも触れていますが、軽く解説すると「摂政・関白になれる5つの家」のこと。その5つの家と言うのは、「近衛家」「鷹司家」「一条家」「二条家」「九条家」のことで、ぜんぶ藤原氏。これらは全て大河ドラマ『平清盛』にも登場した
『藤原北家の本流は長男でないことが多かった』企画も3回目。前回の内麻呂の息子にあたる、藤原鎌足から数えて6代目・藤原冬嗣から、いつものようにまったりやってみますw冬嗣は、内麻呂の次男。同母兄の真夏を越えて本流となっていく流れは、前回紹介しました。平城上皇の側近だった兄・真夏と、嵯峨天皇の腹心だった弟・冬嗣は、「薬子の変」で大きく運命を分かちます。この政争劇の時、嵯峨天皇はある秘策を練って、冬嗣に任せていました。それは「蔵人頭(くろうどのとう)」という役職の創立。
平安時代初期の流れを、藤原氏を中心にシリーズ化して見てきました。藤原氏は、天皇家の側近・腹心・外戚になることで権力を獲得してきた一族なので、天皇家のことも同時進行で紹介してきました。ただ、藤原氏がメインテーマだったので、天皇家についてはバラけちゃってる感がありそう。そこで、これまでの天皇家の歴史をまとめて系図付きで語ってみたいと思います。総集編の番外編…というような意味合いになりますかね(どういう)ただ、普通に紹介するだけというのも芸がないので、「天皇になれなかった皇子
牛島当家に伝わる「家紋」玄関に飾ってあります実物の家紋写真は後日アップ致します。今川家紋と同じなのですが、天皇からうけたまわった家紋だそうです。引用文献:家紋の由来家紋の由来_引両紋■家紋、家系、系図、神社、紋どころ、戦国時代、姓氏、名字、苗字、戦国大名、戦国武将www.harimaya.com
『光る君へ』第7話「おかしきことこそ」の劇中で、「陣の定」を開催しているシーンがありました。で、SNS情報によると、字幕をオンにしていると、台詞があった公卿たち全員に役名が付いていたそうです。えっ…と驚きなんですけれども…。オープニングクレジットには名前なかったのに…。お願いだから名前載せてよNHKさん。せっかくなので備忘記録のために、そのシーンを書き起こして、さらに人物名を追記すると、こんなかんじ。序列1位・源雅信(正二位・左大臣)「帝が亡き忯子さまに皇后の称
『藤原北家の本流は長男でないことが多かった』の深掘り企画。今回は藤原北家の祖・房前から数えて6代目(来孫)にあたる基経(もとつね)について、やっていきます。日本史上初の皇族以外での摂政となり、人臣のトップリーダーとなった平安時代前期の巨人・藤原良房。最強最大にも見える彼の最大の弱点は「跡を継ぐ子に恵まれなかった」こと。そこで、兄・長良の息子を養子に迎え入れて嫡男としました。その養子に迎え入れられたのが、今回の主役…のはずの、藤原基経。基経は長良の三男で、承和3
本日も『藤原氏の本流は長男ではないことが多かった』企画をやります。今回で第4弾。藤原北家の祖・房前から数えて5代目(玄孫)にあたる良房(よしふさ)を取りあげます。良房は冬嗣の次男として生まれました。長兄は、長良(ながら)。802年生まれなので、良房(804年生まれ)とは2歳差。どちらも、母は藤原美津子(藤原南家・真作の娘)なので、同母兄弟にあたります。前回は脱線してしまいましたが、今回こそ、良房が兄を差し置いて藤原氏本流になっていったのは何故なのか…について、迫って
前回からの続き。「『藤原北家の本流は長男でないことが多かった』のやや深掘り」をやります。今回は藤原鎌足から数えて5代目にあたる藤原内麻呂から。前回も述べた通り、内麻呂は父・真楯の三男にあたります。母は阿倍帯麻呂の娘。帯麻呂は遣唐使として渡り、客死した阿倍仲麻呂の弟です。内麻呂は阿倍仲麻呂の姪の子だったんですねー(ちなみに、阿倍氏の系図はこちらをドウゾ→★)この血統の良さからか、異母兄2人が庶流となり、内麻呂が嫡子として藤原北家の本流になっていきます。藤原内
『藤原氏の本流は長男ではないことが多かった』シリーズ。此度も、冬嗣から数えて6代目にあたる藤原基経について語っていきます。ただ…今回が…ですね…。タイトル「藤原の兄弟たち」なのに、藤原氏の兄弟が出てこない…ナンテコッタ。どうしょうかなーと思ったのですが…まぁそういう回があってもいいかなって(いいのか?)そういうわけで、今回は基経の単独譚になってしまいます。ただ、「応天門の変」から一歩も進まなかった前回(苦笑)と違って平安藤原氏のお話はグンと進みますので、そこはご安心を
「3つある一条家をそれぞれ解説しよう!」という、連続3回やらかした前企画。「一条家(五摂家)」は、なんだか二条家の解説っぽくなってしまったのですが(もちろん理由があってですよ…無駄に語ったからじゃない!と思う)これに便乗して、二条家の曖昧回避もやってしまおうかな…などと思い立ってしまった…というわけで、今日はそんなお話になります。相変わらず、どこに需要があるんだか分かりませんが(笑)、まぁ自己満足もまた、立派なストレス解消なのでねー。さっそく、wikipediaで「二
本日も『藤原氏の本流は長男ではないことが多かった』企画。第5弾。前回(と前々回の半分)は良房だったので、今回は次の代の…と、行きたい所ではあるんですが。もう1つ、避けて通っちゃうのはなぁ…っていう大事なことがあるので、それについて語ってみます。さすがは日本史上の巨人、藤原良房。三部作になってしまったわ。その避けては通れないこととは?については、タイトルバレしてますね(笑)サブタイトルつけるのヘタで…まぁ分かりづらいよりはいいかな。「応天門の変」は、貞観8年(8
大河ドラマ『光る君へ』は今週の放送で、皇太子妃(居貞親王=のちの三条天皇の妃)が登場しました。藤原娍子@朝倉あきサン2024年大河ドラマ『光る君へ』より劇中では「御息所(みやすどころ)さま」と呼ばれておりましたが、お名前は藤原娍子(すけこ)。「また藤原氏…」と思われた方も、多いのではなかろうか(^^;どの藤原氏なんだ…というと、「小一条流藤原氏」の御方になります。小一条流!!出た!!やっと出た!!全く出てこないから心配していたんだよー(涙)(『光る
歴史系図トリビアこれは楽しい!おもしろい!そう感じるような歴史上の人物の系図を紹介していきますみなさんこんばんは(´Д`)。本日は歴史好きなぶたさんの大好物!楽しい歴史系図でございます(´Д`)!ぶたさんは歴史上の人物の系図がとにかく好きなんです。本日は平安時代(´Д`)!ぶたさんが特に好きな時代のお話です。では行ってみましょう。はい(´Д`)。本日取り上げるのは藤原道綱母。蜻蛉日記の作者です。本人の名前が分からないので、息子の名前を取って藤原道綱の母と呼ばれ
みなさんこんばんは(´Д`)。歴史大好きなぶたさん、ぶーです(´Д`)。本日は日本史の系図からトリビア的なことをお伝えしていこうかと思います。なにしろぶー、歴史上の人物の系図が大好きでして(´Д`)。系図から色々わかってくることもあるんですよね(´Д`)。楽しいですよ(´Д`)。ではでは、本日はかの有名な飛鳥時代の皇族であり政治家でもある聖徳太子(厩戸皇子)の両親の話をしていきます。なお、厩戸皇子よりも聖徳太子の方が知名度が良さそうなので、以下は聖徳太子に統一させてもらい
来年の大河『光る君へ』。放送までいよいよ半月…というところまで来ました。今回は『光る君へ』の主人公・紫式部の先祖と子孫について触れた系図をご紹介してみようかなーと、そういうブログになります。例によって『百人一首』のお話も絡めて行きますので、宜しくですです☆先に言っておきますが、今回も系図に長々とした解説をつけてあります。解説…ということは、見方によっては「来年大河のネタバレを盛大にやっている」とも言えます。「それはちょっと…」と思われる方は、ご注意くださいね!
画質が…………。二代目、小野小町の兄、弟が改善され、お通さんが追加され、横山党を具体的にしています。最終形はA0用紙横(今はA1縦)に分かった範疇の系図を組み込んで完成でしょうか!?