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殿谷城(岡山市北区御津伊田)『備陽国誌』によると、難波将監経高より代々居城し、難波八郎左衛門尉経定の時に宇喜多直家によって落城したと伝えられる。また、主郭の曲輪中央には「難波十郎兵衛行豊之墓」と刻まれた石碑がある。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第1冊備前編より)帯曲輪状の北東五郭北四郭北四郭からの北三郭東帯曲輪北三郭帯曲輪状の北西四郭北西五郭北二郭主郭北帯曲輪主郭南堀切南堀切からの西竪堀南堀切からの東竪堀殿谷城遠望軌跡ログ旧御津郡御津町の城
土居山城(井原市美星町鳥頭・中)城主や築城時期などは不明である。『美星町史通説編』には、古老の話として、この城の周辺に堀状のものが残っていたと記す。なお、城の近辺には、応永24年(1417)や同29年(1422)の銘を含む大小10基の宝篋印塔が所在すると伝わる。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第2冊備中編より)帯曲輪状の北西二郭主郭北西腰曲輪主郭帯曲輪状の西二郭南三郭南西竪堀南東四郭南東五郭土居山城遠望軌跡ログ実地踏査を基に作成した概略図旧小田郡美星町の城
新山城(加賀郡吉備中央町尾原・粟井谷)『備陽国誌』・『吉備温故秘録』によると、松田氏の靡下、新山民部あるいは兵庫を城主とし、宇喜多氏により破城したと伝える。また、天正7年極月25日付の吉川元春書状によると、毛利軍が備中の四畝城に加え、新山城を落城したとある。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第1冊備前編より)南西端の南竪堀西曲輪群南西六郭西曲輪群南西五郭西曲輪群南西四郭西曲輪群南西三郭西曲輪群主郭南帯曲輪下段西曲輪群主郭南帯曲輪中段西曲輪群南西二郭南西二郭からの主郭南帯曲輪
野山城(加賀郡吉備中央町北)別名:古和田城『古戦場備中府志』によると、永禄11(1568)年の宇喜多との合戦には、野山宮内少輔圧勝が三百騎を従えて守ったとされる。野山氏は奥州藤原の血を引く伊達弾正正朝が弘安年間に野山に移ってから地名をもとにそれを名乗ったという。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第2冊備中編より)第三郭(曲輪Ⅲ)東部第三郭(曲輪Ⅲ)北部第三郭(曲輪Ⅲ)西部第三郭(曲輪Ⅲ)南部第三郭南東腰曲輪東竪堀北東竪堀第二郭(曲輪Ⅱ)東部第二郭(曲輪Ⅱ)西部第二郭の西
平原城(松江市八雲町平原)別名:金尾城当城の城史は確かな史料からは確認できない。ただ、大内義隆による富田城攻めを記した二宮俊実覚書(吉川家文書)によると、天文十一年(1542)十一月初め、義隆が寒気が激しいために高津馬場(高津場番城)から馬潟の正久寺に陣替えしたおり、吉川興経は平原に着陣して越年したとある。史料性はさらに劣るが忌部総社神宮寺元録(忌部神社文書)によると、吉川興経は玉造から新宮湯峠を越え忌部黒目山(久多美山とも)麓を経て平原に陣を取ったと記している。恐らくその後吉川勢は意宇川河
小見山城(井原市高屋町寺中)別名:小宮山城『古戦場備中府志』は、高屋村「小見山城」、当城開基を小見山二朗行忠とし、天正年中(1573~1592)、毛利方の領主三原豊後守広吉が在城、その後、鳥越佐兵衛・猪木惣蔵が城代となったとする。『井原市史』は、現在も芳井町三原に字名・家系伝承を伝える家々があるとする。『太平記』は小見山二朗元忠は陶山氏らと後醍醐天皇の籠る笠置山の城を夜討ちしたとする。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第2冊備中編より)北出郭北西帯曲輪下段北出郭北西帯曲輪中段北出郭北