ブログ記事332件
坊主山城(和気郡和気町津瀬)坊主山城跡は新発見の城郭である。近世地誌類には記載がなく、昭和時代の『日本城郭全集15』が初出であり、萩原口に所在するとされる。地籍図調査の結果、萩原口の地名は津瀬集落北西の山裾部を示すことが判明し、その地点に近接することから、この城跡が該当する可能性が高い。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第1冊備前編より)自然地形の南四郭下段自然地形の南四郭上段南二郭南腰曲輪下段南二郭南腰曲輪中段南二郭南腰曲輪上段谷間の南西三郭南二郭東竪堀主郭北東帯曲輪上
野山城(加賀郡吉備中央町北)別名:古和田城『古戦場備中府志』によると、永禄11(1568)年の宇喜多との合戦には、野山宮内少輔圧勝が三百騎を従えて守ったとされる。野山氏は奥州藤原の血を引く伊達弾正正朝が弘安年間に野山に移ってから地名をもとにそれを名乗ったという。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第2冊備中編より)第三郭(曲輪Ⅲ)東部第三郭(曲輪Ⅲ)北部第三郭(曲輪Ⅲ)西部第三郭(曲輪Ⅲ)南部第三郭南東腰曲輪東竪堀北東竪堀第二郭(曲輪Ⅱ)東部第二郭(曲輪Ⅱ)西部第二郭の西
常山城(高梁市有漢町有漢字土居)鎌倉時代初頭に地頭職を努めた秋庭三郎重信により築城されたと伝える。これだけの規模の城ながら一次資料にはその名は見えず、地誌である『備中集成誌』にも城主として肥田五兵衛尉の名を挙げるのみである。ほかにも『備中府志』には城主として新山玄蕃亮家健の名が挙げられている。家健は天正2~3(1574~7575)年に勃発した備中兵乱時に松山城に籠城したという。なお、常山城修築の契機は不明ながら、北4kmに位置する天正7(1579)年に毛利・宇喜多氏間で勃発した四ツ畝城を巡る争