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金室城(久米郡美咲町行信)正保書上五十四城の一で、「古城之覚」は英田郡行延村の「金ふろ」として、城主を浦上左馬助行信、別に「金室」として城主不詳とする。元禄二年(1689)の書上(『美作古城史』所収)に、城主は浦上左馬丞、本丸(長さ十間、横十五間)、外に一間半の土塁あり、二丸(長さ十四間、横十一間)、三丸には「弓とり場屋敷」(長さ十間、横八間)が、山の西に堀切(幅三間、深さ一間半)、山内に井戸(約一間四方、深さ不詳)とある。「美作鬢鏡」は「金室城」として城主不詳、別に「金風呂城」として城主を浦
今回の但馬遠征の一番の目的。出石城の背後にある有子山城(ありこやまじょう)攻め入ります。有子山城は豊岡市出石町にある出石城の裏山(南側)にある比高310mほどの山城です。出石の町から見た有子山。頂上に僅かながら石垣と休憩所が見える。下は出石城の西隅櫓。有子山城は永禄12年(1569)但馬山名氏の山名祐豊がそれまで居城であった此隅山城が織田軍の但馬侵攻で羽柴秀吉の攻撃により落城し、天正2年(1574)新たに有子山城を築城した。落城した此隅山が「子盗み」を連想させること
連休初日、朝起きると雨が上がっていたので、近場だからこそ行けてなかった津久井城に向かう。橋本駅からバスに乗り、ダム湖である津久井湖のほとりにある観光センター前で降りる。センターで津久井城のパンフをもらって、いざ出陣。遊歩道がきちんと整備されていて、山城を攻めている感じが全然しないと思った矢先、とばぼりという名の巨大な竪堀がいきなり現れる。しばらく整備された道を進み、パークセンターに到着。ジオラマなどの城関連の展示があるが、どちらかというと公園の動植物の展示がメイン。麓から詰城エリアまで一
↑ヤマップデータ↓岐阜県CS立体図に加筆にて黄色丸よりスタート↓赤丸そのまま竪堀になって落ちてます赤丸の堀切➡土塁➡堀切の防御は「おー」と叫んでしまいました
高田城(赤穂郡上郡町奥)別名:抜石山城・西条山城・西城山城・新寺山城城主は一般に高田兵庫介で、元弘三年(1333)赤松円心によって攻撃され落城した、と云われている。『赤松新古籏下集士録』によると「高田兵庫介宇野範重三台目爲助嫡。有縁北條、故元弘之時出陣遅刻、円心大憤。後聞与於北條疎之」とある。すなわち高田兵庫介は赤松の一族であるとともに北条氏とも縁故関係があり、主家円心の北条氏討伐の旗上に際しその参加を躊躇したことがわかる。『赤松氏の史料と研究』には範重(『赤松新古籏下集士録』)と頼重(『
葛下城(苫田郡鏡野町山城・中谷)正保書上五十四城の一で、「古城之覚」は苫西郡山城村の「葛下之城」として、城主を「中村大炊助槍沢頼宗」、頼宗の家臣桜井越中の末流が山城村へ今にあるとする。「作陽誌」は、山へは五町半、城主は初め大河原大膳太夫、のち中村大炊介頼宗、事跡不詳で、落城の日、頼宗に仕える浅山図書は城を焼き死んだ、城の西南、東には桜井越中・加藤豊後・木村菅兵衛・浅山図書・一柳平次・茅山将監・田中八右衛門・大蔵如真らの屋敷跡があると記す。「美作鬢鏡」「美作鏡」は城主を「中村大炊助頼宗」とする。
埼玉県皆野町にある山城、龍ケ谷城(りゅうがいじょう)。この界隈に、龍ヶ谷城と呼ばれる城が二つあるが、今回訪れたのは皆野町三沢にある龍ヶ谷城。皆野・長瀞ICに近い場所にある別名、千馬山城と呼ばれる城。登り口は、民家の脇。この小さな案内板がなければ、不法侵入では?と躊躇するような脇道から登っていく。民家の脇を抜けると、すぐに山道。この位の緩い坂でも疲労困憊に。前日、秩父は40℃近くまで気温が上がりこの日もかなりの猛暑日でした。しかも城に向かってはいますが、FTR
4/17(月)に、我が家から手頃な場所である「北摂」(大阪府の北の方)の4つの「山城」巡りをマイカーで行きました。2城目の「丸山城(地黄古城)」から「清普寺」「地黄陣屋」を経て、「栗栖」のファミマに着いたのが13時過ぎでしたので、菓子パンを買って車内で昼食にしました。隣接した「コメリ」の広い駐車場に車を置かしていただき、3城目の「吉村城」(大阪府豊能郡能勢町)を目指しました。スマホのナビを頼りに「吉村城」がある山まで辿り着きました。「吉村城」がある山城主は、「吉村盛