ブログ記事332件
鬼山城(新見市唐松字位田)『備中府志』には当城の開基として伊達一族の杉右衛門尉重國及びその弟の重春の両名を挙げている。重國は尼子方の武将として、重春は備中兵乱に際して毛利方として戦い、それぞれ軍功を成したとする。しかしながら本城の縄張りは戦国時代でも最末期の様相を見せるものである。天正11(1583)年当時、本城の所在する唐松は、安国寺恵瓊発給文書により毛利氏と宇喜多氏の間でその帰属が定まっていなかったことが知られる。本城の築城背景として、そうした軍事的緊張を想定さることもできよう。(※岡山
平原城(松江市八雲町平原)別名:金尾城当城の城史は確かな史料からは確認できない。ただ、大内義隆による富田城攻めを記した二宮俊実覚書(吉川家文書)によると、天文十一年(1542)十一月初め、義隆が寒気が激しいために高津馬場(高津場番城)から馬潟の正久寺に陣替えしたおり、吉川興経は平原に着陣して越年したとある。史料性はさらに劣るが忌部総社神宮寺元録(忌部神社文書)によると、吉川興経は玉造から新宮湯峠を越え忌部黒目山(久多美山とも)麓を経て平原に陣を取ったと記している。恐らくその後吉川勢は意宇川河
本太城(倉敷市児島塩生)本太城は永禄年中(1558~1570)には毛利氏の支配下となった。永禄11(1568)年には讃岐国の国人で阿波三好氏の配下であった、香西氏と毛利氏の合戦がこの城を舞台として勃発している。この際9月29日付で小早川隆景から、本太城の在番であった村上武良あてに、香西一族を討ち取ったことに対する感状案が残る。ただ、この時、武良自身は本太城に籠っていたわけではないようで、武良配下の島(嶋)吉利が在番を務めたという。しかし、武良は元亀2(1571)年までには毛利氏と手を切り、浦上
福崎町上瀬加地区にある中世山城の瀬加山城に行きました。標高200mの山の上に室町時代の嘉吉年間(1441〜1444)に赤松氏の一族太田道祖・源太夫によって築城されたとの事。案内板に従って民家の間を入ってゆくと、左手に登る急な坂道がありここが登城口柵を開けて山道を登る。だいたい20分くらいすると竪堀が見えてくる。この上が二ノ曲輪跡。さらに山道を少し登ると小さな削平地があり三の曲輪跡かなぁ…小さいからよくわからないけど二ノ曲輪の切岸…なかなか高くて立派だなぁ標識に従い回り込むとV字型の