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惣谷山城(備前市吉永町高田)城主について『備陽国誌』などは伊勢新九郎(北条早雲)とするものもあるが、『備前記』・『東作誌』などのように、明石宗運にあてるものが多い。また、『東備郡村誌』のように、高取備前とするものもある。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第1冊備前編より)北西堀切北西堀切からの西竪堀北西堀切からの北東竪堀西二郭(曲輪Ⅱ)西二郭の南石積西二郭の北西石積主郭北帯曲輪西下段主郭北帯曲輪東上段主郭主郭の東土塁堀底のような地形の東二郭上がって東三郭(曲輪Ⅲ)土
片岡城(岡山市南区片岡)『岡山県通史上編』によると城主は「三村弥太郎行清(孫太郎)或作三村源兵衛行清」、『灘崎町史』では城主を「三村弥太郎行清、或いは串田鼻高城主沖佐衛門尉兼忠」とする。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第1冊備前編より)北東七郭北帯曲輪北東竪堀北竪堀北東七郭北東六郭北東六郭の南西土塁北東五郭東四郭東四郭北帯曲輪東三郭東二郭主郭主郭の西土塁北二郭主郭北西帯曲輪主郭南腰曲輪図に無い南二郭図に無い南三郭南三郭の西土塁片岡城遠望軌跡ログ岡
石原城(岡山市北区御津紙工)故事来歴は不明である。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第1冊備前編より)南東竪堀のような山道?西堀切西堀切からの北竪堀西堀切からの南竪堀北西五郭西下段北西五郭東上段北西堀切北西堀切からの北西竪堀北西堀切からの北東竪堀北西五郭南東腰曲輪自然地形の北西四郭帯曲輪状の西三郭帯曲輪状の西二郭主郭北東堀切自然地形の北東二郭北東堀切からの東竪堀南二郭南三郭南四郭南五郭南六郭南七郭南七郭南西帯曲輪南東八郭南東堀切南東堀切か
野山城(加賀郡吉備中央町北)別名:古和田城『古戦場備中府志』によると、永禄11(1568)年の宇喜多との合戦には、野山宮内少輔圧勝が三百騎を従えて守ったとされる。野山氏は奥州藤原の血を引く伊達弾正正朝が弘安年間に野山に移ってから地名をもとにそれを名乗ったという。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第2冊備中編より)第三郭(曲輪Ⅲ)東部第三郭(曲輪Ⅲ)北部第三郭(曲輪Ⅲ)西部第三郭(曲輪Ⅲ)南部第三郭南東腰曲輪東竪堀北東竪堀第二郭(曲輪Ⅱ)東部第二郭(曲輪Ⅱ)西部第二郭の西
黒山城(倉敷市福田町浦田)これだけの優れた縄張りを持つ城ながら、一次文献には一切記述がみられない。一方、岡山大学付属図書館所蔵池田家文庫にある『内田玄綾先祖書』には天正2~3(1574~1575)年に勃発した備中兵乱に際し、三村方として戦った国侍、内田牛介が本城に居住し、毛利方の攻勢により戦死したとされる。以後、毛利方の在番として塩津三河守が入城し、内田九郎兵衛が相番を務めたとする。しかし、『新修倉敷市史2』ではこの城の技巧的縄張りから、その築城は天正7(1579)年に勃発した宇喜多氏・毛利氏
辛川城(岡山市北区辛川市場・西辛川)別名:西辛川城『御津郡史』によると、辛川城の城主は虫明市内とされ、浦上氏・宇喜多氏に追随し、一宮周辺を拠点とした国人層の居城と伝えられる。また、天正8(1580)年に、宇喜多軍と毛利軍が争った辛川合戦に関わる史料がある。さらに、畑和良は、羽柴秀吉書状より、天正10(1582)年の備中戦役の際、備前・備中国境の監視や警戒のために、羽柴秀吉直臣の高田秀政が入城ていたことを説いた。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第1冊備前編より)桃太郎の水道タンク北東堀
香登城(備前市西香登・香登本)和気郡西香登村に所在する城館として、『備前記』・『備陽記』・『撮要録』では浦上左衛門が居城した「古城山」または「古城跡」、『吉備温故秘録』では、浦上右衛門、高取左衛門進宗政が居城した「古城」などの記載が認められる。一方、和気郡香登村では、浦上宗久、高取左衛門が居城した城館として『和気絹』は「香々登城」、『備陽国誌』は「古城」、『東備郡村誌』は「古城墟」と記され、『吉備前鑑』は高取左衛門宗政が居城した「古城跡」などの記載が認められる。なお、『宇喜多能家寿像賛』によれ
忍山城(岡山市北区上高田)別名:信夫山城『備前軍記』によれば、忍山城には宇喜多直家の領下にあった宇喜多信濃守・岡剛介が在城していたと伝え、天正6(1578)年もしくは同7(1579)年に毛利勢による攻城を受ける。その攻城においては内通者もしくは吉川経言傘下の下清左衛門により火が放たれ、この混乱に乗じた毛利方の攻撃により落城したとされる。落城後には毛利方より桂左衛門大夫、岡宗左衛門が置かれることになる。なお忍山城跡の山裾には「平城」「土井」などの地名が残る。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書