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新しく登城するたびに、登城先を加筆していますので、そのたびに更新しています。2013年から頻繁に訪れるようになりました。再訪したい所は太字にしてあります。滋賀県賤ケ岳砦、小谷城、山本山城、佐和山城、彦根城、山崎山城、安土城、観音寺城、八幡山城、水口岡山城、音羽城、長浜城、肥田城、目加田城、水口城、膳所城、坂本城、大溝城、百済寺城、日野城磯野山城(登城路入口まで。竹や木々など繁茂していて登れる状態ではなかった。)京極氏館、上平寺城(登城路入口の神社まで。)、佐久良
船山城(岡山市北区原)別名:須々木城『備前記』にみえる「船山古城山」に比定され、須々木豊前が居城したと伝える。また、『日本城郭大系13』によると、築城時期は不明であるが、戦国期に須々木氏が居館を構え、永正・大永年間(1504~1528)には存在していたと推定されている。須々木豊前は三村氏に従っていたが、永禄10(1567)年の明禅寺合戦によって宇喜多氏が完勝すると、須々木氏の城と領地を没収させたとある。『備前国御野郡原村舟山城図』に表現された縄張りは、頂部に曲輪と土塁、南西側に帯曲輪、北側に
辛川城(岡山市北区辛川市場・西辛川)別名:西辛川城『御津郡史』によると、辛川城の城主は虫明市内とされ、浦上氏・宇喜多氏に追随し、一宮周辺を拠点とした国人層の居城と伝えられる。また、天正8(1580)年に、宇喜多軍と毛利軍が争った辛川合戦に関わる史料がある。さらに、畑和良は、羽柴秀吉書状より、天正10(1582)年の備中戦役の際、備前・備中国境の監視や警戒のために、羽柴秀吉直臣の高田秀政が入城ていたことを説いた。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第1冊備前編より)桃太郎の水道タンク北東堀
高尾城(岡山市東区瀬戸町肩脊)『備之前州磐梨郡中津川願興寺記』は大永年間(1521~1528)に周藤飛騨守、『備陽記』は佐藤将監が在城したと伝える。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第1冊備前編より)雨垂布勢神社主郭北西二郭図に無い北東竪堀主郭東帯曲輪南二郭中津川願興寺説明看板城壁のような寺の外壁中津川願興寺高尾城遠望軌跡ログ旧赤磐郡瀬戸町の城
岡山市東区187名称未定(岡山市東区吉井)別名:岡山市1922城館跡を示す近世地誌類はみられないが、位置的からみると『改修赤磐郡誌』に記す吉井水門の上に所在する「城山」に該当する可能性がある。この山塊には吉井城跡や城ヶ辻城跡が存在することから、こうした城館跡と連動して防衛機能を果たしたと思われ、福岡合戦との関連も推察される。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第1冊備前編より)二の水門と高瀬廻し一の水門水門説明看板南二郭主郭西竪堀群が三条東にも竪堀群が三条岡山市東区187名称
2026年1月30日今回は神奈川県横浜市鶴見区の寺尾城に初訪城。寺尾城を今回選んだ理由は、1年前の2025年1月に小机城と茅ヶ崎城を攻略した際に、御城印を購入する為に横浜歴史博物館に行きました。小机城と茅ヶ崎城の御城印と寺尾城の御城印も売っており、購入していたのでこの機に攻城を決行。菊名駅と鶴見駅の中間くらいに位置しているので、路線バスに乗ることをお勧めします。ワタクシは菊名駅から「殿山」で下車して歩いて向かいました。城郭がある寺尾周辺は元々が山だったのか、坂道が非常に多いエリア。現在
先週のブログ、パッとしませんでしたが、今回も同じ日に書いているので…それと言い訳ですが、先週のブログ、動画が…竜宮城からお迎えに来る船の動画が無くなっていました…ちょっとショック先週からの続きになりますが、翌日になりました。私は明日の9時から仕事ですので今日でお別れです。最終日、友達と合流した翌日ですが、ちょっと曇りがちですが雨は降りそうにありません。ということでお城へGO❗️このお城は名前だけは知っていて、とても気にはなっていました。京(みやこ❗️)城ですよ。何か素晴らし
吉井城(岡山市東区吉井)近世地誌類には記載が認められないが、文明15(1483)年の福岡合戦の松田元成の本陣跡とされ、「城ヶ辻城」などとともに重要な役割を担ったと思われる。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第1冊備前編より)南東二重堀切(南)南東二重堀切(北)長大で東側が土塁状の南東二郭南東二郭西帯曲輪南西三郭南西四郭南西五郭南西三郭南部の井戸南西六郭南西六郭の西土塁南西七郭主郭主郭北東帯曲輪緩傾斜の北西二郭主郭西帯曲輪北部の土塁北西三郭北東畝状竪堀が三条
宮原所在城(鳥取市用瀬町宮原)本城は、最近新たに発見された城跡である。道の駅清流茶屋かわはら主催のイベント「山城攻めトレッキング其の五」にて田尻大膳の居城だったとされる荒山城だとして登った山が、地元の歴史を調べている人のみ知る城跡だったという事だったようだ。対象の山は因幡社駅の背後にあり、かつては如来さんが祭られ、地元の人に「ノレーサン」と呼ばれ信仰の対象となっていたらしい。赤色立体図で確認すると、明瞭な堀切が複数存在するのが分かる東麓の石仏東十三郭東十二郭東十一郭東十郭帯曲輪状
福崎町上瀬加地区にある中世山城の瀬加山城に行きました。標高200mの山の上に室町時代の嘉吉年間(1441〜1444)に赤松氏の一族太田道祖・源太夫によって築城されたとの事。案内板に従って民家の間を入ってゆくと、左手に登る急な坂道がありここが登城口柵を開けて山道を登る。だいたい20分くらいすると竪堀が見えてくる。この上が二ノ曲輪跡。さらに山道を少し登ると小さな削平地があり三の曲輪跡かなぁ…小さいからよくわからないけど二ノ曲輪の切岸…なかなか高くて立派だなぁ標識に従い回り込むとV字型の
上山田城(瀬戸内市邑久町上山田)近世地誌類で上山田村に所在する古城山とのみ記載されている城で、城主名も伝わっていない。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第1冊備前編より)北西五郭北西四郭北西三郭北二郭北東腰曲輪図に無い北西三重竪堀(北)北西三重竪堀(中)北西三重竪堀(南)北二郭主郭南堀切自然地形の南二郭上山田城遠望軌跡ログ瀬戸内市の城
今更ですが(笑)今年も間違いなく、例年通りの超スローペースになるかと思いますが、お城巡りは続けていこうと思います。しかし、山城は引退しようかと思います。今回は私にそう思わせたお城です。去年の諏訪原城跡のイベントの前に予定では2つ行くつもりだったのに、お昼ご飯もしっかり食べれる予定だったのに、このお城のせい(?)ですべておしゃかとなりましたwww横地城跡国指定史跡なので、簡単に行けるのかと思って、またよそ様のサイトによると「きれいに整備」されているとのことだったのです
青山城(和気郡和気町日笠上・木倉)別名:日笠青山城『備前記』・『備陽記』などの近世地誌類では、城主を浦上宗景の家臣日笠次郎兵衛頼房とする。畑和良によれば、このことは、浦上宗景書状や日笠頼房書状などの同時代資料からも裏付けられるとする。2010年、当教育委員会により発掘調査実施。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第1冊備前編より)北東に竪堀群が五条北堀切西に竪堀が十五条!西竪堀群の上の西帯曲輪さらに続く西竪堀群主郭南西腰曲輪下段主郭南西腰曲輪上段主郭西腰曲輪上段主郭西腰曲輪
羽衣石城(東伯郡湯梨浜町羽衣石)羽衣石城の創建は、南条貞宗が羽衣石に築城したのは貞治(1366)と云われる。築城の経緯について『伯耆民談記』は次のように述べている。充満寺にヒイゴ池と云うあり。大さ十歩余り、其水清くして、九夏の天にも乾く事なし。始め南条此充満寺に城をきづかんと、普請に取掛かりした、此の池に一つの燕落ちて死す。南条凶事におもひ、此所を除き、今の城山に城を築きなりといへり。大きなる石壁又後に幽谷の如くなるから堀今に残りて見ゆ。其後寺地となりて、堂塔高閣ありしが、当城滅亡しける時、
番城(東伯郡湯梨浜町羽衣石)標高413m・比高162m。番(物見)をする砦であろう。標高400mで本城(羽衣石城)より高い。『伯耆民談記』などの記述には出ないが、字「番城」の地名が残っている。本城(羽衣石城)の北北東500m(直線距離)にある。一帯に帯曲輪の跡が認められる。(※東郷町誌より)空堀状の北東帯曲輪(下)北竪堀空堀状の北東帯曲輪東下段空堀状の北東帯曲輪中央上段北東帯曲輪西下段土塁囲みの東二郭東二郭の東土塁東二郭の北土塁主郭東腰曲輪主郭東上段主郭の東土塁主郭の
田内城(倉吉市厳城)標高58m・比高45m田内城は伯耆守護に任ぜられた山名時氏が、その治所として仏石山に築城した。仏石山は急峻な岩山で、東の山裾には国府・小鴨の両川が流れて自然の堀となり、また水運にも利用されて城下町が発達し「見日千軒」と言われる程に繁栄した。時氏の嫡子師義は打吹城を築いて、ここに治所を移したので、田内城は廃城となった。南三郭南二郭模擬櫓の建つ主郭模擬櫓の田内城由来北二郭の虎口北二郭北三郭北三郭の西土塁北三郭の東土塁北四郭北五郭北六郭北六郭の西土塁
宮内城(赤磐市仁堀西)近世地誌類では、城主を羽床大和守貞久とし、尼子氏の家臣であると記載する。しかし畑和良は、この羽床氏について、当初から尼子氏の家臣ではなく、大永年間(1521~1528)頃には浦上兼泰のもとで赤坂郡山手村の代官を務めており、浦上氏靡下の国衆であったと推測している。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第1冊備前編より)曲輪群Ⅱ主郭曲輪群Ⅱ南三郭曲輪群Ⅱ南三郭南東腰曲輪曲輪群Ⅱ南三郭東帯曲輪曲輪群Ⅱ南二郭西上段曲輪群Ⅱ南二郭の南虎口曲輪群Ⅱ南二郭東下段主郭南帯曲
北浦山城(和気郡和気町日笠上)和気郡日笠上村に所在する城館として、『備前記』は日笠甚右衛門居城の「古城山」、『備陽記』は日笠甚右エ門居城の「帰当田古城山城跡」、『備陽国誌』は日笠甚左衛門居城の「帰当羅山城」、『吉備温故秘録』は日笠甚右(左)衛門居城の「帰当田城」、『撮要録』は日笠甚右エ門居城の「帰当田山城」、『東備郡村誌』は日笠甚右衛門居城の「帰当羅山壘址」などと記されている。一方、『岡山県通史上編』には和気郡日笠村日笠上に所在する日笠甚左衛門居城の「北浦山城」・「帰当羅山城」の記載がみられる
龍徳山城(和気郡和気町岩戸・益原)『備陽記』には「龍徳古城」の存在が記されるが、詳細は不明である。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第1冊備前編より)図に無い南西二郭主郭東堀切東堀切からの北竪堀東堀切からの南竪堀自然地形の東二郭上がって東三郭北東四郭東三郭北東帯曲輪東三郭北帯曲輪自然地形の北東五郭緩傾斜の東四郭龍徳山城遠望軌跡ログ和気郡佐伯町・和気郡和気町の城
観音山城(和気郡和気町矢田)『備陽記』で村艮の「観音古城山」と記載された城に比定される。『吉備温故秘録』では、浦上宗景の家臣糠田与次右衛門の居城と記す。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第1冊備前編より)主郭帯曲輪状の西二郭西三郭北西四郭北東帯曲輪北西帯曲輪上段北西帯曲輪中段北西帯曲輪下段北西堀切北西堀切からの北竪堀北西五郭北西五郭の北下の北六郭北西五郭の西下で北六郭より高い北西六郭図に無い北帯曲輪曲輪があったような地形の北西尾根先端観音山城遠望軌跡ログ和
坊主山城(和気郡和気町津瀬)坊主山城跡は新発見の城郭である。近世地誌類には記載がなく、昭和時代の『日本城郭全集15』が初出であり、萩原口に所在するとされる。地籍図調査の結果、萩原口の地名は津瀬集落北西の山裾部を示すことが判明し、その地点に近接することから、この城跡が該当する可能性が高い。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第1冊備前編より)自然地形の南四郭下段自然地形の南四郭上段南二郭南腰曲輪下段南二郭南腰曲輪中段南二郭南腰曲輪上段谷間の南西三郭南二郭東竪堀主郭北東帯曲輪上
小坂城(和気郡和気町小坂)『日本城郭全集10』では、小坂与八郎則高を城主と記す。本地点は畑和良の情報提供により確認した。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第1冊備前編より)東三郭東二郭主郭の東の最高所主郭はそのまま西へ下っていく主郭の南掘削地…帯曲輪か?北二重堀切(南)北二郭北三郭北二重堀切(北)自然地形の北四郭主郭南西腰曲輪南竪堀主郭南腰曲輪小坂城遠望軌跡ログ和気郡佐伯町・和気郡和気町の城
石見銀山遺跡とその文化的景観16世紀(戦国時代)に築かれた、標高153mの岩山を利用した山城跡で、石見銀山を守る北の守りとして機能していました。山頂部には、防御の一単位を示す平坦地(曲輪)や、それを守る空堀、土塁、竪堀などの跡が良好な状態で残っています。これらは当時の山城の構造を今に伝えています。山頂からは、ふもとの仁万平野や日本海、そして大江高山などの山々を360度見渡すことができます。城の手前は奇岩がそびえる絶壁になっており、自然の地形を活かした堅固な城であったことがわかります。
田尻城(和気郡和気町田賀)近世地誌類に記載は認められないが、『改修赤磐郡誌』には「赤磐郡佐伯上村田賀坂本」に田尻城として、「沖合、田尻川と王子川の合流する北岸に、土畔4基がある。」との記載がある。また、『日本城郭全集10』では、標高140mの小高山上に最上段を中心にして3段に区切られた城地が認められるとある。これらの記述と本城跡の特徴が完全に一致しいるとはいえないため、判然としない点がある。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第1冊備前編より)主郭主郭の中土塁?土壇?主郭の北土塁北堀切
土師方城(岡山市北区土師方)『吉備温故秘録』は城主を山口与一兵衛と伝えるほか、『建部町誌(通史編)』などは康正元(1455)年に山名氏により落城したと記す。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第1冊備前編より)神社跡の西四郭図に無い西堀切北西二重竪堀(西)北西二重竪堀(東)南西二重竪堀(西)南西二重竪堀(東)西三郭西二郭(曲輪Ⅱ)西二郭からの北帯曲輪主郭西腰曲輪主郭帯曲輪状の南二郭(曲輪Ⅳ)南竪堀群が五条東二郭(曲輪Ⅲ)南東畝状竪堀群が七条東堀切北東竪堀群が四
桐原城長野県松本市にあります。信州松本遠征の2日目に最初に攻城しました😊始めは山家城に行こうと思ったけど、昨日会った城マニアの方に教えていただいた武居城も行きたいし…今日は帰る日だし…と色々悩みました😩で、結局ここ桐原城にきました🙌山家城は今度、機会作ってまた行きます✋ちょっと🐻も気になるし💦まずはこの登城口に車停めます🚗防獣柵を開けて右へ➡️ここ間違えやすい(最初来た時まっすぐ行ってしまった💦)登城道から見える大竪堀👌実に壮観尾根まで来ました✋ここから登ります二重堀切の案内板
埴原城長野県松本市にあります。12月の初旬に遠征しました。当初の目的は、松本周辺の紅葉🍁の映える山城の写真を撮りたかった…なのですが、行ってみるともう紅葉🍁終わっていましたね😢(時期については、インスタのフォロワーさんに聞いて決めたのですが仕方ないです💦こればっかりは)めっちゃ残念ですが、いまさら帰る訳にも行かず…そのまま遠征は継続して攻城しました👌さて、ここは言わずと知れた小笠原氏系の名城です😊まず麓の蓮華寺に停めさせていただきました🙇♂️さて出発!と思ったら、近くを歩いていた
北山方城(和気郡和気町北山方)城主や築城時期などの伝承はない。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第1冊備前編より)北東四郭北東四郭の北東土塁南東五郭南腰曲輪上段南腰曲輪下段南東帯曲輪土塁のある北東三郭北東二郭素戔嗚神社山門素戔嗚神社の鎮座する主郭主郭北帯曲輪西二郭西二郭西帯曲輪南西帯曲輪上段南西竪堀南西帯曲輪下段西堀切西三郭西三郭の東土塁西四郭北西帯曲輪上段北西帯曲輪中段北西帯曲輪下段北山方城遠望軌跡ログ和気郡佐伯町・和気郡和気町の城
神西城(出雲市東神西町)別名:高倉城・竹生城・龍王山竹生城承久の乱(1221)の後に神西(園山)新荘に地頭として入部した古荘氏は、室町時代の初期には在地名を名乗って神西氏と称するようになる。その後、尼子氏が出雲国内を統一すると、神西氏もまたこれを通じて尼子氏の配下に組み込まれる。雲芸攻防戦が始まり、毛利氏が出雲へ侵攻してくると、永禄八年(1565)には神西元通は毛利元就へと降るが、尼子家再興戦(1569~1571)が開始されると、神西元通は尼子勝久・山中鹿介に最後まで従い、播磨国の上月城で切
浄土寺山城(出雲市下古志町地蔵堂)出雲市古志町に所在する浄土寺城は妙蓮寺の裏にあります。古志氏が当地に築城した最初の城とされます。妙蓮寺古墳が有名で案内板も設置されていますが、浄土寺山城については説明はありません。(※源行近のブログより)浄土寺山城碑妙蓮寺沿革久遠山妙蓮寺へ妙蓮寺稲荷社の建つ南西曲輪南西堀切(切通)西竪堀南西二郭主郭北東二郭北東三郭東帯曲輪下段東帯曲輪上段今だ水を湛える井戸曲輪南東二郭南東三郭北西二郭北西三郭西帯曲輪浄土寺山城遠望軌跡