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く、新しく登城するたびに、登城先を加筆していますので、そのたびに更新しています。2013年から頻繁に訪れるようになりました。再訪したい所は太字にしてあります。滋賀県賤ケ岳砦、小谷城、山本山城、佐和山城、彦根城、山崎山城、安土城、観音寺城、八幡山城、水口岡山城、音羽城、長浜城、肥田城、目加田城、水口城、膳所城、坂本城、大溝城、百済寺城、日野城磯野山城(登城路入口まで。竹や木々など繁茂していて登れる状態ではなかった。)京極氏館、上平寺城(登城路入口の神社まで。)、佐
有子山藤堂高虎築城か?有子山主郭・本丸跡秀長さんと天正8年(1580)、祐豊の子の氏政が城主の時、羽柴長秀(後の秀長)の但馬侵入によって城主の氏政は因幡国に出奔した三等三角点321mこんな堅牢な城で戦いを避け因幡へ逃げたのですか威容を誇る有子山城跡の石垣ですが、山名氏時代には石垣は存在しませんでした。では、いったい誰の手によるものなのでしょうか?一説には、有子山城の石垣は、築城の名手・藤堂高虎の手によるものだと言われています高虎の一代記である「高山公実録」には「28歳の時
水別れ公園から出撃し、いそ部神社で戦勝祈願し、人工滝のとこで秋を感じ、登山道を進撃すると2度も道を間違えた挙句ヘビに通せんぼされ、沢沿いを歩いてたらコケてレンズフードが割れてしもて意気消沈。激斜面を登って士気も撃沈しかけたところ竪堀に遭遇して精気回復。竪堀を横断するとようやく城域に突入した様子で士気アゲアゲとなってきたところです。石生西河原城後半戦と題しながらの本戦編参ります。ド派手な竪堀を横断すると間もなく尾根に辿り着いたかな。上に見えてるのが尾根の西先端部で、そこから清水山とか
岐阜県・可児市3連休、晴天が続くとの事でドライブがてら行きました♪寝不足で歩いたので、かんり疲れた圭那です。と言うことで・・・今回の目的は・・・ご先祖様の銅像を見に行こう♪です(笑)※但し、確定する資料等は全く無いのである意味勝手な思い込みだけですので、軽く流してください(笑)東海環状線・可児御嶽IC下車10分くらいの場所です。※自動車利用が便利な場所ですね。まず、明智城は・・・明智光秀公の誕生地の候補の1つです。また、落城した明智城か
二股台陣城(鳥取市馬場町・栗谷町・上町)鳥取城包囲陣城の一つ。各陣城の境界が不明なので、仙石秀久陣城、堀尾吉晴陣城、羽柴藤五郎陣城、二股台陣城、二股台東陣城、二股台奥陣城、舞上陣城と七つ連なった概略図主郭のL字型土塁主郭の北土塁主郭南二郭南二郭の東虎口東横堀外から見た東虎口北二郭東二郭東二郭の北土塁東二郭の南土塁東二郭の東横堀横堀からの竪堀群外側に土塁のある北横堀軌跡ログ鳥取市の城
まず最初に、大阪阪神タイガースセリーグ連覇!!!球団初2連覇おめでとうございます2年連続のビールかけ楽しませていただきました兵庫県丹波市氷上町石生丹波・石生西河原城(いそにしかわらじょう)この前哨戦は城域へ辿り着くまでの行程編としてお送りします。当城は「水分れ公園」の奥に位置する標高312m(比高159m)の山上尾根に位置している連格式山城である。城主は芦田直家とされるが詳細は不明。その芦田氏とは丹波国氷上郡蘆田村に起源を持つと考えられる。「赤井氏
猪倉城(GoogleMapだと井内城)京都府亀山市にあります。丹波遠征2日目に攻城しました✋駐車場はないので、お城から少し離れた道路脇の空いたスペースに駐車しました🚗ここから歩いて行くのですが、お城の周りを防獣柵が囲んでいて、入れる場所を見つけるのが難しいですね💦この日も地元のフォロワーさんと一緒だったので、助かりましたが、ソロなら無理だったかも…って思いました😅ではさっそくスタートします▶️車はちょっと離れたこの辺りに停めました。(但し自己責任でお願いします🙏)フォロワ
中村城(鳥取市内海中)標高50m・比高30m内海中の東の山上に中村城跡がある。『因伯古城跡図志』に「中村古城跡山高二十二間、麓より山上え上り四十間、大林にて当時道無し」と記している。また山上の城の大手は「戌亥(西北)」で、山上には「六間(約10.9m四方)」の平地が2ヶ所書かれている。地積図でも「城ノ谷」「城ノ谷奥」「城ノ谷口」の小字が検出されるが、居館位置を推定できるものは見られず、伝承も残らない。また古城跡と中村氏の関係も不明である。(※鳥取市史より)因幡守護の山名氏の家臣、中村氏の
防己尾城(鳥取市金沢)標高39m・比高34m別名:吉岡城・亀山の城(ちなみに防己尾は「ツヅラオ」と読む)防己尾は長柄川流域の小河谷平野と湖山池が接する所で、古代から中世の山陰道と湖山池の水運の接点付近の要地に位置する。吉岡氏は『太平記』にもその名がみえ、「吉岡ノ領主」(因幡誌)として知られている。戦国時代の天文頃、「草刈覚書」の中に「吉岡城主吉岡将監・防己尾城主妹尾右京進」とみえ、この頃の吉岡氏は智頭郡一帯に勢力を持っていた草刈氏と結んで、布施天神山城の因幡山名氏に対立する勢力と
鞆の浦から次なる目的地へ進軍するために鉄馬車に乗り込む。そこは地獄の灼熱車内であったあぁ座席から涼しい風が出るええ鉄馬車が羨ましい・・・汗でへばり付いたシャツのまま(パンツも)鉄馬車を駆っていると「道の駅」の表示が現れ、ちょうど昼時やったので今回の備後攻略大作戦の本番に備え腹ごしらえができるとボケ~と鉄馬車を走らせてたら、いつまでたっても「道の駅」が出てきない。どうやらナビの指示通りに進んでたら、「道の駅」手前の信号を右折して目的地方面へ向かっていたので「道の駅」は遥か後方にどんどん遠ざか
丸山城(鳥取市六反田)標高44m・比高40m吉岡氏の先祖は村上天皇と云われ、姓を赤松(または赤松の被官)として、古くからこの地の国侍として定着し、地名を取って吉岡と姓を名乗ったものと云われる。「太平記」正平九年(1354)の摂津国神南合戦の因幡勢にみられる吉岡安芸守とは、吉岡の祖と考えられるもので、年代的に丸山城を築いた将監こと春斉はその嫡子かも知れない。将監は、湖山池の入江の一角に位置する六反田部落の孤山・丸山城に居城を構えた。大手を北西とした平山城で、小規模ながら鳥取と米子を結ぶ幹道
大石城(松江市八雲町大石)この大石城は出雲臣家の一族が守備した城とも伝えていますが、室山が古代から信仰のある山であったので神魂神社または熊野大社に関係したものだったでのしょうか?この大石を称した者に牛尾氏の一族がいます。大東三笠城を本拠とした牛尾氏はこの地まで所領を拡大させています。(※大石城(源行近)より)踏査し帰宅後に上記ブログの縄張図に気がついたが、南西側中腹?南西麓?辺りにも遺構が存在してきたようだが、見逃した…(※源行近の作の縄張図)登って最初に到達した東帯曲輪北東堀切北
筑前花尾城レポ第5弾です。その4のレポはこちら。『23.03.04花尾城[豪快な登り石塁がある城]その4』筑前花尾城レポ第4弾です。その3のレポはこちら。『23.03.04花尾城[豪快な登り石塁がある城]その3』筑前花尾城レポ第3弾です。その2のレポ…ameblo.jp---------------------------------------見所となる遺構(土塁や虎口など)はブルー名前がある場所(本丸や内堀など)はパープル現存建築物
筑前花尾城レポ第3弾です。その2のレポはこちら。『23.03.04花尾城[豪快な登り石塁がある城]その2』筑前花尾城レポ第2弾です。その1のレポはこちら。『23.03.04花尾城[豪快な登り石塁がある城]その1』許斐山城から降りると、その日の探訪は終了。黒…ameblo.jp---------------------------------------見所となる遺構(土塁や虎口など)はブルー名前がある場所(本丸や内堀など)はパープル現存建築物
右近城(八頭郡智頭町毛谷)標高360m・比高144m右近城は智頭町毛谷集落の坂清水にあったが、備前国の住人小宮山備前入道宗珠が、文明(1469〜1489)の頃、この地に築城し右近城と称したと云われる。別名を篠坂城というが、それは二の丸以下は旧毛谷村にあり、本丸は旧篠坂村にあったので、その名がある。小宮山氏は、天文十三年(1544)、尼子氏が山中鹿之助を将として大軍をもって攻め寄せてきた時にはその軍門に服し、のち天正年間(1573〜1592)の羽柴秀吉中国攻略の時にも再びその軍門に降ったのち
筑前花尾城レポ第2弾です。その1のレポはこちら。『23.03.04花尾城[豪快な登り石塁がある城]その1』許斐山城から降りると、その日の探訪は終了。黒崎に宿を取っていたので、そちらに向かいます。宿の近くをうろうろしていると、有名パン屋の『しろや』さんがあったのでそ…ameblo.jp---------------------------------------見所となる遺構(土塁や虎口など)はブルー名前がある場所(本丸や内堀など)はパープル現存建築物
許斐山城から降りると、その日の探訪は終了。黒崎に宿を取っていたので、そちらに向かいます。宿の近くをうろうろしていると、有名パン屋の『しろや』さんがあったのでそこでサニーパンを購入しました。以前より値上がりしていましたが、コスパは最高です。翌日は北九州市内の城へ。この道であってんのか、と思いながら運転する場面もありましたが何とか、この日の最初の目的地である筑前花尾城の入り口に到着しました。チラ見レポ『疲労困憊になるほど、過酷な山道は身に堪えました。』ここ数日、
筑前許斐山城レポ第2弾です。その1のレポはこちら。『23.03.03許斐山城[宗像大宮司宗像氏の城]その1』立花山城を降りてから、この日予定していた、もう1つの城に向かいます。憧れ(ではないが)国道の一桁の道、国道3号線を東に進みます。これまた憧れ(ではない)IKE…ameblo.jp---------------------------------------見所となる遺構(土塁や虎口など)はブルー名前がある場所(本丸や内堀など)はパープル現存建築
畝状竪堀天国の篠脇城。後半戦も畝状竪堀天国をお楽しみました。大手門通を進撃し、畝状竪堀群を撃破しつつ東から腰郭へ侵入。現在は腰郭北端から北西部の二の丸への虎口っぽくない虎口跡と思われるとこから二の丸へ突入したとこです。これより二の丸の攻略、そして本丸へと乱入します。二の丸の西端。正面が本丸。左手の壇上も二の丸である。この場からなだらかな斜面で本丸と繋がってるんですが、虎口跡のような感じもしない。本丸へはまだ乱入しなくてこちらは広々とした二の丸の北部。二の丸の北か
下石見所在城(日野郡日南町下石見)標高440m・比高40m各資料には、その名は記載されておらず、詳細不明。すぐ北には下石見砦が所在している事から、名島氏の出城などだったのではないかと推測される。西堀切西堀切の土塁西四郭西四郭の南西櫓台南西五郭南西六郭南東五郭西三郭主郭を囲む第二郭主郭第二郭から東へ下りて東三郭南竪堀北竪堀下石見所在城遠望軌跡ログ日野郡日南町の城
立花山城を降りてから、この日予定していた、もう1つの城に向かいます。憧れ(ではないが)国道の一桁の道、国道3号線を東に進みます。これまた憧れ(ではない)IKEAの近くを通ったり、多くの郊外店が立ち並ぶ国道3号線。やはり四国との違いをまざまざと見せつけられていましたが、途中で南に右折。しばらくすると「このみ公園」があり、そこに車を停めます。ここから、筑前許斐山城へと登ります。チラ見レポ『疲労困憊になるほど、過酷な山道は身に堪えました。』ここ数日、一気に気温が上昇。春めい
この日、ろくもん摂津守は播磨国攻略に向かい三城(いつも体力持たずに二城になるが)を攻略すべくナビをセットし居城から高速のインターに向かって鉄馬車を駆っていた。すると突然、どこからともなく天の声?いや、信長さまの声が脳天に響きわたった!「播磨は捨て置け。美濃を優先しろ!」南斗!播磨行くつもりでゆっくり目に出陣したのに、今から美濃国て、距離は倍以上やし、燃料も倍やし、高速代も倍以上やし、時間もどんだけ~駄菓子!信長さまの命に背けば地獄の厳罰が下るに違いない!そういうことでイ
この丸山城は豊能郡能勢町ですが、先日豊能町で熊目撃情報があった。豊能町て能勢町よりまだ南に位置し、大阪寄りで北摂地域なんよね。やな感じここんとこあの天橋立でも立て続けて熊出没しとるし、まだ記憶に新しい五箇城や八幡山城も紙一重でヤバかったなこないだなんか歌劇団もビックリの宝塚にも出よったし、サービスエリアも危機一髪の西宮名塩近くの高速道路脇に仁王立ちしとるとニュースでしとったしわしはいったい何処を攻めたらええんじゃ~🤣丸山城後半戦行っときますわっ!見張櫓の西にある犬
大平山城(倉吉市上福田)標高190m・比高140mのこの城は、下福田城の南西、高城城の北東の丘陵上に存在し、高城城の縄張図の中に入っているが、高城城との距離、立地を見るに、高城城の出丸もしくは独立した出城として機能していた城と思われる。北尾根曲輪群東十七郭北尾根曲輪群東十六郭北尾根曲輪群東十五郭北尾根曲輪群東十四郭北尾根曲輪群東十三郭北尾根曲輪群東十二郭北尾根曲輪群東十一郭北尾根曲輪群東十郭北尾根曲輪群東九郭北尾根曲輪群東八郭東八郭北帯曲輪北尾根曲輪群東七郭東七郭北帯
半分城(出雲市上塩冶町)中世の山城跡で上塩冶に所在する大廻城や大井谷城より複雑な加工が見られる。今より700年前、出雲国守護塩冶氏がじょであったと思われる。後には後塩冶氏が更に整備したと考えられる。(※現地説明看板より)案内図現地説明看板西堀切西三郭西三郭の南西竪堀西三郭の北西竪堀西三郭の西竪堀鉄塔の建つ西二郭主郭主郭の半分城碑主郭の土塁南二郭東二郭北二郭北堀切北三郭北四郭北五郭半分城遠望出雲市の城
毎年高齢ちがった毎年恒例の地黄陣屋での「石垣と桜の鑑賞会」(4月に済)まだ時間と余力と士気が残っていたのでどこかへ寄って行こうかと思案したが、ほかに行くとこ思いつかんかったので、以前に一度攻めたことある、すぐ近くの丸山城を再攻城することに。大阪府豊能郡能勢町地黄摂津・丸山城(まるやまじょう)別名地黄古城、天王丸、城山城、能勢城丸山城は摂津源氏の源頼国が、長元年間(1028〜1037)、この地に入部して能勢氏を称し、丸山城を築いたと云われている。その後、中世を通じて能
石仏山城(八頭郡八頭町上津黒)標高519m・比高450m旧郡家町内では最も比高の高い城で、私都城(市場城)とは尾根続きの南の山中に存在する。歴史的背景不明で、城郭大系及び郡家町誌にもその名は記されていない。しかし私都城(市場城)を背後から見下ろす位置からして、何らかの関連があると思われる。尾根筋に無数に並ぶ削平地を突き進み、西曲輪群第一郭西曲輪群北西二郭西曲輪群北西三郭西曲輪群北西四郭西曲輪群五郭西曲輪群北西六郭西曲輪群北西七郭西曲輪群北西八郭南曲輪群北十郭南曲輪群北九郭
田内城(倉吉市厳城)標高58m・比高45m田内城は伯耆守護に任ぜられた山名時氏が、その治所として仏石山に築城した。仏石山は急峻な岩山で、東の山裾には国府・小鴨の両川が流れて自然の堀となり、また水運にも利用されて城下町が発達し「見日千軒」と言われる程に繁栄した。時氏の嫡子師義は打吹城を築いて、ここに治所を移したので、田内城は廃城となった。南三郭南二郭模擬櫓の建つ主郭模擬櫓の田内城由来北二郭の虎口北二郭北三郭北三郭の西土塁北三郭の東土塁北四郭北五郭北六郭北六郭の西土塁
打下城あと少しです。北主郭の北東部にある虎口。虎口右側面に虎口を形成していたと思しき石が見えます。ここを出て左斜面(北主郭北斜面)に畝掘があるらしいので、最後に攻略しておきます。その前に虎口を出て見返す。片方だけにかなりデカい積み石が残ってます。隅石かな。隅石でしょう。その隅石らしきからの左(北主郭東面)にも石がありました。自然石かとも思ったが、見た感じ崩落から残った石たちではないかな。虎口を出て北東方面へ下ってく尾根があります。石が散在してるのは石垣の
宇杉越城(飯石郡飯南町八神)詳細不明。南帯曲輪西下段南帯曲輪東最下段南帯曲輪中段南東二重竪堀(東)南東二重竪堀(西)南帯曲輪上段南帯曲輪上段は山道となっている?北二郭北帯曲輪北二郭西二郭主郭主郭から北二郭への東登り土塁西三郭西四郭宇杉越城遠望軌跡ログ飯石郡飯南町の城