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連休初日、朝起きると雨が上がっていたので、近場だからこそ行けてなかった津久井城に向かう。橋本駅からバスに乗り、ダム湖である津久井湖のほとりにある観光センター前で降りる。センターで津久井城のパンフをもらって、いざ出陣。遊歩道がきちんと整備されていて、山城を攻めている感じが全然しないと思った矢先、とばぼりという名の巨大な竪堀がいきなり現れる。しばらく整備された道を進み、パークセンターに到着。ジオラマなどの城関連の展示があるが、どちらかというと公園の動植物の展示がメイン。麓から詰城エリアまで一
新しく登城するたびに、登城先を加筆していますので、そのたびに更新しています。悪しからず。2013年から頻繁に訪れるようになりました。再訪したい所は太字にしてあります。滋賀県賤ケ岳砦、小谷城、山本山城、佐和山城、彦根城、山崎山城、安土城、観音寺城、八幡山城、水口岡山城、音羽城、長浜城、肥田城、目加田城、水口城、膳所城、坂本城、大溝城、百済寺城、日野城磯野山城(登城路入口まで。竹や木々など繁茂していて登れる状態ではなかった。)京極氏館、上平寺城(登城路入口の神社まで。
大聖寺山城(赤穂郡上郡町船坂字西芳醇寺/八保甲)別名:安室城この城の築城者並びにその後の城主については、史料によって異なっている。最も古いとするものは『赤松家播備作城記』で、それによると「赤松出羽守満貞初築之居城也。応永年中、采地者赤穂十二箇所、備前和気郡也」とある。満貞は『赤松系図』には「満則」とあるが、法名が両者同一の「椿齢」であるところから、この両者は同一人物と思われる。それによると「越前守大蔵少輔赤松次郎出羽守。赤穂郡安室庄大聖寺城并備前三石城主也。采地赤穂郡十二ヶ所、備前和気郡也
別所城(赤穂郡上郡町別所原)『赤穂郡誌』によると「別所三郎之に城を構え赤松則村と交戦す」とある。「別所系図」によると、別所家は別所太郎敦光を祖としており、敦光は円心と兄弟とされているが、これは誤りで、敦光は頼光ー範光ー敦光と続く系譜と、茂則ー円光ー敦光とあって、敦光は則村の弟円光の子ということになっている。『赤松氏の史料と研究』ニの中の別所譜には円光のところに敦光ともいうと付記してあって、それが正しければ敦光は円心と兄弟ということになる。この別所譜で注意すべきことは大聖寺山城主であった義長が書
【問題】山城において、斜面に竪堀が連続して配置されたものを次のうち何というか?【選択肢】滑面竪堀群畝状竪堀群海鼠竪堀群数珠竪堀群【正解】畝状竪堀群【解説】日本の山城では、斜面に竪堀が連続して掘られた「畝状(うねじょう)竪堀群」の遺構が数多く見つかっている。「畝状阻塞(そさい)」などとも呼ばれる。
柏原城(赤穂郡上郡町段町)ここに城があって白旗城の戦いに援軍を出したとの伝承があるのみで築城年代、城主は不明である。(※兵庫県中世城館・荘園遺跡より)自然地形の南三郭南竪堀北竪堀東ニ郭東ニ郭北帯曲輪東ニ郭南腰曲輪主郭主郭の東土塁西ニ郭離れた西三郭西四郭北西竪堀削平の甘い南西腰曲輪起伏した南西ニ郭南西ニ郭からの東帯曲輪柏原城遠望軌跡ログ赤穂郡上郡町の城
高田城(赤穂郡上郡町奥)別名:抜石山城・西条山城・西城山城・新寺山城城主は一般に高田兵庫介で、元弘三年(1333)赤松円心によって攻撃され落城した、と云われている。『赤松新古籏下集士録』によると「高田兵庫介宇野範重三台目爲助嫡。有縁北條、故元弘之時出陣遅刻、円心大憤。後聞与於北條疎之」とある。すなわち高田兵庫介は赤松の一族であるとともに北条氏とも縁故関係があり、主家円心の北条氏討伐の旗上に際しその参加を躊躇したことがわかる。『赤松氏の史料と研究』には範重(『赤松新古籏下集士録』)と頼重(『
明智荘現在、明智という地名はないがかつては現在の可児市北東部から御嵩町西部にかけて「明智荘」という荘園が存在していた。明智光秀は土岐氏流明智氏の出身だとされているが、その名字の由来となった地が明智荘であると考えられる。【美濃国諸旧記】では、明智荘は明智氏代々の所領であったとしている。ただし、現在、瀬田地区の狭い地域に寺院が集中していることや、字名に「東屋敷」「西屋敷」「大屋敷」などの名が残ることから、有力な武士層の存在をうかがわせるという説もある。ここに来るまで、明智は訪問済みだと思
先日3/6~8間の2泊3日、「春のお城めぐり」ツアー(長野、山梨)をしてきましたが投稿の間が少し開いてしまいましたので再開します。2日目の3/7、「岩殿城」から下山しJR「大月駅」からは「青春18きっぷ」を使用して、10時7分発の普通電車で「甲府駅」に向かい、「甲府駅」には10時55分に着きました。「甲府駅」近くの「タイムズカーシェア」の駐車場で車を借りて、まずは「要害山城」へ向けて走りました。途中「躑躅ケ崎館」の横を通り抜けて、更に北方向の山並みに走らせました。ナビ設定で「要害山(
<速報>二泊三日(3/6~8)の「春のお城めぐり」ツアー最終日です。行き先は、長野県、山梨県の2県、昨日は山梨県大月市の「岩殿城」を皮切りに甲府市の「要害山城」「躑躅ケ崎館」、韮崎市の「新府城」と、「武田氏」関連のお城を巡り、昨晩「松本」入りを果たして夜はライトアップされた「松本城」を極寒の中で鑑賞してきました。ライトアップされた天守群ライトアップされた天守群本日は、早朝からタイムズカーシェアの車で、「林城」へ向かいました。「林城」は、「林大城」と「林小城」の二つありますが、両方を登
所在地〒428-0414静岡県榛原郡川根本町東藤川特徴駿河の南朝方として今川氏と戦った土岐氏が、本城(徳山城)の北に築いた支城。緩斜面にかなり大きな竪堀や空堀が延々と続くが、主郭周辺の地形は曖昧。感想堀は確かに人工的な地形だが、守るべき郭は平坦ではなく、縄張りも判然としない。
鴇ヶ堂城(赤穂市有年横尾)別名:小鷹山城この城には太田弾正が居住していたと云わている。太田氏は赤松の出で、赤松則景がまたの名を太田入道従五位播磨守を名乗って太田家を創設した事に始まる。しかし、鴇ヶ堂城の事は赤松資料には現れてこない。『赤穂郡誌』によると「牟礼鴇ヶ堂城小田(太田)弾正居住す。老年に至って城を子息治内に譲り、我身は七、八町東の小幡に屋敷を構えて隠居す。今の牟礼の畑と云所に其跡あり。其の頃矢野小河、一説に大鷹と云、此地に赤松氏秀光の三男小河丹後守秀春居住し治内と善からず。丹後龍野刑
下土井城(相生市若狭野町下土井)別名:岡城・大田林山城・下土居城『岡城記』によると、文永四年(1267)蒙古軍の来襲に際し、初めて豊前守に任ぜられて九州へ下り、彼の地で戦功があり、凱旋後矢野荘を賜り、大田林山に城を築いて居城としたとある。岡豊前守の後裔で、城跡の近くの八洞に住む岡家には次の下文が保管されている。播磨国赤穂郡矢野庄二万八千九百八十五貫余右、令采地、全可為地頭職者也、文永四年十月八日在判岡豊前守殿以来、初代光国、二代光信、三代光明、四代光清、五代光重、六
2024年初攻め。関ケ原方面へ出陣しました。岐阜県関ケ原町玉美濃・玉城(たまじょう)玉城の詳細は不明ですが、南北朝時代に佐竹常陸介義春がこの地に砦を築いたことにはじまると伝えられています。北国街道と中山道を見渡せる要衝にあり、戦国時代には近江と美濃の国境を監視し、防御するための城として竹中氏が使用したと考えられます。また最近は「関ヶ原の戦い」の際に西軍が毛利輝元あるいは豊臣秀頼を迎え入れるために築いた、もしくは改修したという説がありますが、はたして如何に「エコミュージアム
昨日2/19(月)は『天恩日』と『一粒万倍日』が重なる吉日だったそうで~母の誕生日前夜祭🎂からの出勤は🗻🗼🚃…2/19(月)身延線西富士宮7:06発→竪堀(7:24)にて、車内トラブルにて緊急停車しました🚃⚠️🆘西富士宮駅から乗車した30代位の男性は、発車後すぐ車内で奇声発し、その後は大きな声で台詞?歌を歌いながら2号車と3号車行ったり来たり、跳びはねたりと車内で暴れて?ケガ?鼻血?車内血痕だらけ~私の斜め目の前は特にヒドイ😱💦“危ないな~ヤバい車両に乗っちゃった🆘車掌さんとかいないのか
2/10(土)に、城友と一緒に湖西(琵琶湖西側)の山城巡りへ出かけ、1城目は「大津京駅」が最寄りの「宇佐山城」、2城目は最寄り駅「新旭駅」から「清水山城」に登城しました。一昨日のブログでは「清水山城」と共に国指定史跡に指定されている「清水山城館」跡をお届けしましたが、本日のブログでは「城館」跡から山を少し上った「清水山城」(滋賀県高島市)をお届けします。「清水山城」の歴史と城主については、1235年に「佐々木高信」が田中郷の地頭となり、その一族である「越中氏」「能登氏」「朽木氏」「永
Tetsu龍でございます。徐々にではありますが、山城巡り再開しております。嬉しいのは、兎に角近いこと。片道30分圏内にいくらでもある。さて、前回レポの春日山城いくらリハビリとはいえ、片道15分は手応えがなさ過ぎたので、もう一山回りました。市川町の瀬加山城。公民館の駐車場に停めると、目の前が登城口。獣除けのフェンスを開けて入ります。来る途中で、地元のお姉さま方に公民館の場所を聞いたのですが結構登り急だと……。でも、ここも片道15分だぁ。三の丸に到達。そ
②柿本城址(本丸~三ノ丸)徘徊編標高191mの子路山(シロヤマ)山頂付近にある城跡。井伊谷三人衆の一人鈴木重時の居城跡です。仏坂の戦いでは、第一の戦場となり井伊領を守るために重時の子、重好が奮戦しました。(奥三河観光ナビより)柿本城址縄張り徘徊図(現地案内板より)山頂付近に一段高い本丸の曲輪が見えて来ました。下側には、戦国時代にはこの様に張り巡らされていたであろう防御柵が設置されていた。右手の出丸へ攻め上ります。(^_-)一段高い本丸
大河ドラマ「どうする家康」の総集編ということで「”家康”のでき事と所縁ある”お城”を振り返ろう」シリーズを只今進行中。途中約1ケ月の中断があり2024年に突入していますが、引続き最後まで完結したいと思いますので、「家康ファン」「どうする家康ファン」「戦国時代ファン」の方は暫くお付き合いください。<「家康」等の出来事>昨日も、以下の出来事を記載しましたがもう一度復習しておきます。「小牧・長久手の戦い」で「織田信雄」が「秀吉」と和睦に応じてしまったことで、梯子を外された「家康」は、一旦
先に断っておきます。今から紹介する城は、完全踏破できていません。そんな城を紹介するのはどうかと思うかもしれませんが、途中までは順調…ではなかったのですが、ある程度まで行けたので紹介させて下さい。まぁ、この城も再訪なので、以前紹介した記事も載っけておきます。という事で、朝倉城でヘロヘロになった体に鞭を打って(打ってない)辿り着いたのが、吉良城です。前回のレポ『13.03.09吉良城【土佐七雄吉良家の居城】その2』吉良城レポ第2弾です。その1はからリンクしています。※
1/14(日)の城友との播磨・西播磨山城巡り、2城目は「香山(こうのやま)城」(兵庫県たつの市新宮町)へ向かいました。「楯岩」から車で約30分で、途中からは先日「山崎陣屋」「篠ノ丸城」へ向かった道を走りました。「香山」へ入ると山並みに二つの三角おにぎり形の山が間をあけて並んでいるのが見えてすぐにそこが目指すべく「香山城」だと分かりました。手前の三角おにぎり形の山が「南郭」と「北郭」↓ふたつの三角おにぎり型の山の間には「大歳神社」が建っていてそこの駐車場に、「香山城」の歴史と城主
京城(みやこのじょう)という名前の由来であるが、平安時代の後期から上皇や法皇が102回も熊野三山を訪れているそうである。この地は速玉大社から近く、かつては熊野川から相野谷川へ船を使った交通が盛んであったために、高貴な身分の方々がこの地に滞在したからその名が付いたのではいかと。またはこの地は穀倉地帯であったため、京にあるような雅な建物が建てられていたのではないかというどこぞの歴史に詳しい先生の説。あともう一つ、この土地の人が京にあこがれて勝手に名付けたという、わしの説。ほな紀伊・京城
1/6(土)に「青春18きっぷ」5回目を使って白浜方面へ「お城巡り」に出かけ、1城目は「紀伊田辺駅」で乗継時間待ちで途中下車して向かった「紀伊田辺城」でした。「紀伊田辺駅」から「串本行」に乗車して「白浜駅」を通り越して「紀伊日置(ひき)駅」で下車しました。勿論無人駅で、駅舎はありますが誰もいない駅です。ここから「日置川」沿いに歩き、川を渡る橋から左手を見るとこれから登る「八幡山」が見えてきます。後ろの連山に比べるとそんな高さは無いようです。JR「紀伊日置駅」↓「安宅八幡山城」
朝倉城レポ第9弾です。その8のレポ『21.12.30朝倉城[四国最大級の中世城郭]その8』朝倉城レポ第8弾です。その7のレポ『21.12.30朝倉城[四国最大級の中世城郭]その7』朝倉城レポ第7弾です。その6のレポ『21.12.30…ameblo.jp---------------------------------------見所となる遺構(土塁など)はブルー、名前のある場所(本丸など)はパープル現存建築物(移築建築物含む)はピンク、
〈速報〉本日(1/6)は、5回目の「青春18きっぷ」を使って白浜方面へ「お城巡り」に出かけました。5回目のスタンプを押した「青春18きっぷ」↓朝5時半、真っ暗闇の中、家を出て6時24分に大阪駅から環状線に乗車、天王寺、日根野、和歌山、御坊、紀伊田辺で乗り換え、紀伊田辺では乗換え待ち時間50分を使い、「田辺城」(和歌山県田辺市)の「水門」を見学する為に往復40分歩きましたので汗タップリかきました。「田辺城水門」↓その後、紀伊田辺駅から紀伊日置駅まで乗車して、いよいよ目的
朝倉城レポ第7弾です。その6のレポ『21.12.30朝倉城[四国最大級の中世城郭]その6』朝倉城レポ第6弾です。その5のレポ『21.12.30朝倉城[四国最大級の中世城郭]その5』朝倉城レポ第5弾です。その4のレポ『21.12.30…ameblo.jp---------------------------------------見所となる遺構(土塁など)はブルー、名前のある場所(本丸など)はパープル現存建築物(移築建築物含む)はピンク、
速報でお届けしましたが、12/23(土)に、浜松から遠征してきた「城友」とJR「相生駅」で合流して、「西播磨のお城巡り」をしました。「西播磨山城マップ」に「下土井城」を追加した↓城友「浜松駅」から「相生駅」まで新幹線で移動し、私は「青春18きっぷ」を使用して大阪駅から「相生駅」まで在来線の新快速で向かいました。「相生駅」でレンタカーを借りて10時前に出発、事前に登城したいお城を擦り合わせしていましたので迷うことなくスタートできました。1城目は「連郭式縄張」の北端と南端に岩
柏原城(たつの市新宮町奥小屋字護り尾/宍粟市山崎町金谷)別名:水谷城『播磨鑑』によると「城主は早瀬帯刀正義、「同構居」柏原三郎頼宗」とあるが、築城年代は明らかでない。天正八年(1580)落城とある。(※兵庫県中世城館・荘園遺跡より)北東腰曲輪下段北東腰曲輪上段北東堀切北帯曲輪上段北東部東二郭東帯曲輪北帯曲輪上段北帯曲輪中段北帯曲輪下段東二郭東二郭南西腰曲輪東二郭南帯曲輪東二郭南横堀主郭南横堀主郭と東二郭の間の堀切主郭北横堀主郭東腰曲輪主郭主郭北腰曲輪主
所在地〒390-0222長野県松本市入山辺特徴深志(松本)城を本城とした小笠原氏が、東方に築いた支城群の一つ。西と南に登城口がある。南から登ったが、途中から道は不明瞭になる。堀切や竪堀、多くの
寒い寒い寒い。一晩明けたら一気に冷え込んだ。近畿地方では特に冷え込む豊岡市の城跡です。但馬・宵田城の続きです。本丸にあった縄張図。右が北になります。現在は本丸から見て北にある曲輪(明記してないので北曲輪と称す)を占拠中。その曲輪の西方向に開いた虎口、おそらく搦手虎口かと思いますが、そこから再出陣します。その後に本丸へ乱入する段取りでよろしいかと。曲輪内から見た虎口虎口内部。右に折れて、左に折れて城外への食違い虎口であるカッケー!左に折れて出る部分。虎口