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葛下城(苫田郡鏡野町山城・中谷)正保書上五十四城の一で、「古城之覚」は苫西郡山城村の「葛下之城」として、城主を「中村大炊助槍沢頼宗」、頼宗の家臣桜井越中の末流が山城村へ今にあるとする。「作陽誌」は、山へは五町半、城主は初め大河原大膳太夫、のち中村大炊介頼宗、事跡不詳で、落城の日、頼宗に仕える浅山図書は城を焼き死んだ、城の西南、東には桜井越中・加藤豊後・木村菅兵衛・浅山図書・一柳平次・茅山将監・田中八右衛門・大蔵如真らの屋敷跡があると記す。「美作鬢鏡」「美作鏡」は城主を「中村大炊助頼宗」とする。
連休初日、朝起きると雨が上がっていたので、近場だからこそ行けてなかった津久井城に向かう。橋本駅からバスに乗り、ダム湖である津久井湖のほとりにある観光センター前で降りる。センターで津久井城のパンフをもらって、いざ出陣。遊歩道がきちんと整備されていて、山城を攻めている感じが全然しないと思った矢先、とばぼりという名の巨大な竪堀がいきなり現れる。しばらく整備された道を進み、パークセンターに到着。ジオラマなどの城関連の展示があるが、どちらかというと公園の動植物の展示がメイン。麓から詰城エリアまで一
城峪城(苫田郡鏡野町久田下原)「作陽誌」は下原城の南二町余りに古城あり、城主不詳と記す。(※美作国の山城より)主郭と西二郭の北横堀西二郭主郭東二重堀切(西)東二重堀切(東)緩傾斜の東二郭東三郭東二重堀切からの北竪堀北帯曲輪北帯曲輪からの北竪堀北西竪堀帯曲輪状の南二郭帯曲輪状の南三郭南二重堀切(北)南二重堀切(南)帯曲輪状の南四郭上がって南東五郭上がって南東六郭上がって南東七郭上がって南東八郭帯曲輪状の南東九郭東堀切南東十郭南東十郭の北竪堀城峪
「小谷城」(滋賀県長浜市小谷郡)の(中編)をお届けします。「本丸(鐘丸)」から「六坊」に辿り着いた所で、天気が時雨れだしてきたので、「大嶽城」へ行かずに「清水谷」コースで下山しようと判断しました。前編https://ameblo.jp/highhillhide/entry-12577308984.html中編https://ameblo.jp/highhillhide/entry-12577440171.html「小谷城跡案内図」を見て、下りの坂道で楽だろうと思っていたのですが
今回の但馬遠征の一番の目的。出石城の背後にある有子山城(ありこやまじょう)攻め入ります。有子山城は豊岡市出石町にある出石城の裏山(南側)にある比高310mほどの山城です。出石の町から見た有子山。頂上に僅かながら石垣と休憩所が見える。下は出石城の西隅櫓。有子山城は永禄12年(1569)但馬山名氏の山名祐豊がそれまで居城であった此隅山城が織田軍の但馬侵攻で羽柴秀吉の攻撃により落城し、天正2年(1574)新たに有子山城を築城した。落城した此隅山が「子盗み」を連想させること
4/17(月)に、我が家から手頃な場所である「北摂」(大阪府の北の方)の4つの「山城」巡りをマイカーで行きました。2城目の「丸山城(地黄古城)」から「清普寺」「地黄陣屋」を経て、「栗栖」のファミマに着いたのが13時過ぎでしたので、菓子パンを買って車内で昼食にしました。隣接した「コメリ」の広い駐車場に車を置かしていただき、3城目の「吉村城」(大阪府豊能郡能勢町)を目指しました。スマホのナビを頼りに「吉村城」がある山まで辿り着きました。「吉村城」がある山城主は、「吉村盛
埼玉県皆野町にある山城、龍ケ谷城(りゅうがいじょう)。この界隈に、龍ヶ谷城と呼ばれる城が二つあるが、今回訪れたのは皆野町三沢にある龍ヶ谷城。皆野・長瀞ICに近い場所にある別名、千馬山城と呼ばれる城。登り口は、民家の脇。この小さな案内板がなければ、不法侵入では?と躊躇するような脇道から登っていく。民家の脇を抜けると、すぐに山道。この位の緩い坂でも疲労困憊に。前日、秩父は40℃近くまで気温が上がりこの日もかなりの猛暑日でした。しかも城に向かってはいますが、FTR