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中村城(高梁市成羽町布寄小字長地前)『備中巡禮畧記』には「布寄村中村城」は、武内宿稱三代が在城したとある。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第2冊備中編より)南東三郭南東三郭からの南竪堀南東堀切帯曲輪状の南二郭東上段南二郭西下段帯曲輪状の南西三郭帯曲輪状の南西四郭帯曲輪状の南西五郭主郭南東帯曲輪中央が盛上った主郭北東帯曲輪上段北東帯曲輪下段中村城遠望軌跡ログ旧川上郡成羽町の城
船山城(岡山市北区原)別名:須々木城『備前記』にみえる「船山古城山」に比定され、須々木豊前が居城したと伝える。また、『日本城郭大系13』によると、築城時期は不明であるが、戦国期に須々木氏が居館を構え、永正・大永年間(1504~1528)には存在していたと推定されている。須々木豊前は三村氏に従っていたが、永禄10(1567)年の明禅寺合戦によって宇喜多氏が完勝すると、須々木氏の城と領地を没収させたとある。『備前国御野郡原村舟山城図』に表現された縄張りは、頂部に曲輪と土塁、南西側に帯曲輪、北側に
宮内城(赤磐市仁堀西)近世地誌類では、城主を羽床大和守貞久とし、尼子氏の家臣であると記載する。しかし畑和良は、この羽床氏について、当初から尼子氏の家臣ではなく、大永年間(1521~1528)頃には浦上兼泰のもとで赤坂郡山手村の代官を務めており、浦上氏靡下の国衆であったと推測している。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第1冊備前編より)曲輪群Ⅱ主郭曲輪群Ⅱ南三郭曲輪群Ⅱ南三郭南東腰曲輪曲輪群Ⅱ南三郭東帯曲輪曲輪群Ⅱ南二郭西上段曲輪群Ⅱ南二郭の南虎口曲輪群Ⅱ南二郭東下段主郭南帯曲
鼻高山城(倉敷市串田)『備陽国誌』には、元亀3(1572)年に毛利氏が築き、城主は上野源次郎兼次で、後に沖左衛門兼忠になったとする。『萩藩閥閲録』には、元亀2(1571)年に毛利氏は、浦上・三好連合軍との戦いの際に庄元資らを当城に派遣し守りを固めたと書かれる。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第1冊備前編より)南西堀切南二郭南二郭東腰曲輪南三郭埋められた南西竪堀主郭帯曲輪状の北東二郭帯曲輪状の北東三郭鼻高山城遠望軌跡ログ倉敷市の城
朝倉城(新見市上市字横見)『新見市史』によると、天正2~3(1574~1575)年の備中兵乱時に三村元範の配下で元新見国経の被官、冨谷大炊助が居城していた。冨谷大炊助は『古戦場備中府志』などでも城主として記載がある。三村元範は永禄13(1570)年に楪城に入城していることから、その頃からの在城であろうか。『備中兵乱記』では冨谷大炊助は毛利方に寝返り、楪城の大手門を開いて毛利方を招き入れたと記されている。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第2冊備中編より)南東六郭の東竪堀南東六郭南五郭南