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飛鳥時代を代表する三体の半跏思惟像奈良斑鳩中宮寺卍の本尊『如意輪観世音菩薩①』と京都太秦広隆寺卍の本尊『弥勒菩薩半跏思惟像(宝冠弥勒)②』、さらに同じく広隆寺の国宝『弥勒菩薩半跏思惟像(宝髻弥勒、通称泣き弥勒)③』過去に其々1回ずつお目にかかっているけれど、「この三体の仏さま、一度じっくり見比べてみたいものだなあ」とずっと思っていました。苦節十数年、その機会がやってきたんです(^^)まず、中宮寺卍を訪ねた日⬇︎如意輪観音菩薩さまにお会いしました(画像は中宮寺HPからお借りしました)東
本ブログは出雲族と伊豆半島・諸島の関係性を私的に探ったものになります。これから投稿する出雲族と伊豆地域に関するレポートは、私の在住する静岡県南伊豆町の住民の方々が集う、とある遺跡研究会で近頃より地元に伝わる事代主の伝承や出雲と伊豆との関わり等を議題として取り上げているとのことだったので、つい先日提供させて頂いたものです。簡単な作りのレポートになりますが、南伊豆町のみではなく伊豆半島・諸島が対象となっておりますので本ブログの方に投稿しました。南伊豆町に残る伝説や賀茂郡という「賀茂」
湯次神社:岡山県瀬戸内市長船町磯上3277この神社の背後の山腹に「りゅうごん様」という龍穴があって、日本三大龍穴の一つとされている。あとの二つは奈良の室生にある吉祥龍穴、京都の貴船神社奥宮の本殿下である。かねてから関心を寄せていたのだが、昨年秋の旅でやっと訪れる機会を得た。当社の西南部には五世紀から六世紀に造られた比較的規模の大きな前方後円墳が数基あり、弥生時代後期から古墳時代に懸けて地方豪族が群雄割拠していたことがわかる。本稿の前編では龍穴と磐座のこと、後編では当初の目的にはなかった、素晴ら
おはようございます。今日は朝から大雨です☔️今日は一ヶ月ぶりに大学に進学した長男と合流して、みんなでのんびりと旅館でくつろいでいます。長男、とても楽しそうでホッとしました✨泊まっていた旅館から長男がタイミーの誘いを受けて、働き始めるかもです🤣さて、実は我が家は賀茂氏にとても縁が深いのです。わたしは加茂川の近くで生まれ、旦那は旧賀茂郡生まれ、長男は賀茂の地で現在住んでおり、娘も旧賀茂郡で生まれています😅そんな賀茂氏には京都と奈良の二つの源流があり、神さまも分かれているようなので
こんばんは!@Ricoです。いろんな波が起こっている‼️けど、踏ん張りましょう^^過ぎ去ったことに、今という貴重な瞬間を浪費するのはやめること。てなワケで、京都巡礼シリーズ✨の続き。松尾大社さん松尾大社①水と山の信仰深い「四神の地」と秦氏松尾大社①水と山の信仰深い「四神の地」と秦氏|Ricoこんばんは!@Ricoです。最近の記事ばかりで、遠征した京都巡礼の記事がまったく書けていない。。。💧ということで、2025年1月の京都巡礼ねえさんぼ👣※参拝場所の概略は以下を参照くだ
昨土曜日、宇治市民大学の情報をいただき、宇治学習センターへ出掛けて参りました。テーマは京都の歴史に大きな足跡を残した秦氏です。私は京都検定合格後、秦氏に大きな興味を持ち、1年半大阪のAセンターの秦氏の講座に月2回出掛けておりました。以前にもお話ししましたが、京都検定1級試験の第1問目の回答が「秦河勝」であったことがとてもラッキーでした。受験時、90余小論文の作成練習をしただけ、殆んど勉強はしておりませんでしたので、初回合格は無理かなと思っていたのです。が、1問目に続いて2問目は
『渡来人』第9回<飛鳥時代の渡来人>飛鳥時代は、蘇我氏が飛鳥の地で政治を主導的におこなった時期がその始めとみとめられるので、7世紀初頭がその始まりと考えられます。646年に実効性は疑われているが薄葬令が出され、このころから大型の前方後円墳がつくられなくなった。707年に文武天皇が火葬され、この八角墳を最後に古墳がつくられなくなる。また、飛鳥時代の成立区分が明確ではなく、ここでは蘇我政権が確立された7世紀初頭とします。すなわち、古墳時代は3世紀中頃~7世紀中頃で、飛鳥時代は7世紀初
『渡来人』第10回(最終回)<奈良時代の渡来人>平安時代以降も絶えず少数の来住者があったが,日本史上で渡来人といえば,主として奈良時代ころまでの人々を指すのが普通である。奈良時代は、8世紀、平城京遷都の710年から平安京遷都の794年の85年間である。また、「日本」という呼称は内外とも7世紀末頃から使われ始めたようだ。●百済・高句麗の亡命者と奈良時代の渡来人2024年4月、理化学研究所の共同研究グループが、3000人余りの現代人の遺伝情報を分析した結果を発表した