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飛鳥時代を代表する三体の半跏思惟像奈良斑鳩中宮寺卍の本尊『如意輪観世音菩薩①』と京都太秦広隆寺卍の本尊『弥勒菩薩半跏思惟像(宝冠弥勒)②』、さらに同じく広隆寺の国宝『弥勒菩薩半跏思惟像(宝髻弥勒、通称泣き弥勒)③』過去に其々1回ずつお目にかかっているけれど、「この三体の仏さま、一度じっくり見比べてみたいものだなあ」とずっと思っていました。苦節十数年、その機会がやってきたんです(^^)まず、中宮寺卍を訪ねた日⬇︎如意輪観音菩薩さまにお会いしました(画像は中宮寺HPからお借りしました)東
湯次神社:岡山県瀬戸内市長船町磯上3277この神社の背後の山腹に「りゅうごん様」という龍穴があって、日本三大龍穴の一つとされている。あとの二つは奈良の室生にある吉祥龍穴、京都の貴船神社奥宮の本殿下である。かねてから関心を寄せていたのだが、昨年秋の旅でやっと訪れる機会を得た。当社の西南部には五世紀から六世紀に造られた比較的規模の大きな前方後円墳が数基あり、弥生時代後期から古墳時代に懸けて地方豪族が群雄割拠していたことがわかる。本稿の前編では龍穴と磐座のこと、後編では当初の目的にはなかった、素晴ら
『渡来人』第9回<飛鳥時代の渡来人>飛鳥時代は、蘇我氏が飛鳥の地で政治を主導的におこなった時期がその始めとみとめられるので、7世紀初頭がその始まりと考えられます。646年に実効性は疑われているが薄葬令が出され、このころから大型の前方後円墳がつくられなくなった。707年に文武天皇が火葬され、この八角墳を最後に古墳がつくられなくなる。また、飛鳥時代の成立区分が明確ではなく、ここでは蘇我政権が確立された7世紀初頭とします。すなわち、古墳時代は3世紀中頃~7世紀中頃で、飛鳥時代は7世紀初
伏見の山々に息づく龍雷神・龍頭太伊勢の野に宿る農耕神の光。それぞれの土地が育んだ霊性は渡来系豪族・秦氏の手で国家信仰へと塗り替えられました。伏見稲荷と伊勢神宮——二つの聖地が辿った再編の構図には日本の歴史の深層を揺るがす霊的パターンがあります。🦊伏見稲荷大社の秦氏と荷田氏伏見稲荷大社は秦氏(秦伊侶具など)が創建に関与したとされ『山城国風土記』逸文や社伝にその痕跡があります。秦氏は渡来系で農耕や商業を司る稲荷神(宇迦之御魂神)を創作し711年(和銅4年)に社
おはようございます。今日は朝から大雨です☔️今日は一ヶ月ぶりに大学に進学した長男と合流して、みんなでのんびりと旅館でくつろいでいます。長男、とても楽しそうでホッとしました✨泊まっていた旅館から長男がタイミーの誘いを受けて、働き始めるかもです🤣さて、実は我が家は賀茂氏にとても縁が深いのです。わたしは加茂川の近くで生まれ、旦那は旧賀茂郡生まれ、長男は賀茂の地で現在住んでおり、娘も旧賀茂郡で生まれています😅そんな賀茂氏には京都と奈良の二つの源流があり、神さまも分かれているようなので
太秦(うずまさ)、京都の西のほうの郊外にある地名ですね。帰化人の「秦(ハタ)」氏の本拠地なので「太秦」(太は、本拠地の意味)と書きます。これを「ウズマサ」と読みます。大和をヤマト、飛鳥をアスカと読むように、この時代の地名の読み方は「当て字、当て読み」が多いです。太をウズとは読まないし、秦をマサとは読みません。聖徳太子の後援者として知られる「秦(ハタ)氏」は、秦の始皇帝の子孫を自称する帰化人の氏族であり、さなざまな最新技術をひっさげて、この国に渡ってきた人々です。何故、秦と書いてハタと読むの
本殿の後ろ戸から進んで階段をあがりますと、左側にコンパクトなお社が並んでいます。向かって左側から長者社・荷田社・五社相殿・両宮社がお祀りされています。これらも重要文化財に指定されています。長者社には秦氏がお祀りされています。秦氏は、古代日本に渡来した有力な氏族です。彼らは主に現在の京都盆地周辺に居住し、優れた土木技術や養蚕、機織りなどの技術を日本にもたらし、日本の文化や経済の発展に大きく貢献しました。秦氏には、中国から渡来したという説や、朝鮮半島を経由して日本に渡来したという説など、
綺原神社(綺原座健伊那太比賣神社)(かんばらじんじゃ)(かにはらにますたけいなだひめじんじゃ)山城国相楽郡京都府木津川市山城町大字綺田小字山際(神宮寺である蟹満寺Pに停めても大丈夫かと思われます)■延喜式神名帳綺原坐健伊那太比賣神社の比定社■旧社格村社■祭神健伊那太比賣命「木津川」支流の「天神川」南岸、堤下の山城町「綺田(かばた)」に鎮座する社。鎮座地名は「和名抄」に見える「相楽郡(さかなかのこほり)蟹幡郷(かむはたごう)」。◎創建由緒、年代ともに不詳。社頭案内板に掲
おはようございます昨日は自宅でテレビの工事があったので、蘭子は早々に家を出て、京都の嵐山をぶらぶらしておりましたこの地は、平安京の痕跡を探すことができる、京都最古の神社があるのです。「賀茂の厳神、松尾の猛霊」として都の守り神となった松尾(まつのお)大社ですね⛩️ここは5世紀に朝鮮半島の新羅からやってきた秦氏が創建した神社で、この秦氏こそが秦の始皇帝の子孫だと名乗っている一族であります。秦氏といえば、お稲荷さんや聖徳太子信仰が有名ですよね※古代の都にようこそ❗️この日本の基礎づく
この記事は、「みんかぶ」にて2014/09/12に書いたものです。*伏見稲荷大社は、秦氏が711年に創建したとされているが、稲荷山の中腹には、それよりも古来よりあったと推測される岩倉があったりする。元々あった参拝施設を秦氏が手を入れて、今現在につながっているのだろう。ただし、秦氏の手の入れ方は尋常ではなかったようだ。現在の古代史研究家たちにより解明されてきたのだが、そこにはさまざまな暗号が秘められていたようだ。★「ムー10月号」820円(税込
一つ前の記事で三柱鳥居の話が出たので、もう少し書いてみようかと思います。あくまでも私の解釈となります。「三柱鳥居」と検索するとたくさんの記事がヒットします。三柱鳥居の意味は「三位一体」「宇宙の神を表したもの」といった大仰な印象の記事が多くヒットします…はじめて三柱鳥居を見たのは5年ほど前に木嶋坐天照御魂神社を訪れた時のことです。この頃はまだ感じとる力がさほど強くなかったとは思いますが、三柱鳥居を見た時にあまり気持ちの良い感じがしませんでした。そ
松尾大社にお参りしました久しぶりだなこの山門神仏習合の名残かな咲き残ってる山吹がありましたこんなに暑いのにけなげです風鈴がたくさん、の手水舎写真で見えるかな本殿大山咋と市杵島姫を祀ります造酒の神なのは秦氏の縁だろか提灯もお酒に関わる会社のものばかり祝詞を上げたら本殿からにこにこしながらニ柱か出てきてくださってたそうです(私には見えないけど)でもほんとにそうだったのかも弓矢を射てどこに当たるかで占う樽占いやってみたけど3本は的の右端にあたり真ん中にはあたり
『渡来人』第7回<古墳時代の渡来人>年代的には3世紀の前半に前方後円墳がつくられ始め、3世紀中頃に箸墓古墳がつくられる。大体、このころを古墳時代の始めとしている。646年に実効性は疑われているが薄葬令が出され、このころから大型の前方後円墳がつくられなくなり、707年に文武天皇が火葬され、この八角墳を最後に古墳がつくられなくなる。次の飛鳥時代は、蘇我氏が飛鳥の地で政治を主導的におこなった時期がその始めとみられるので、7世紀は中頃まで古墳時代と飛鳥時代が重複します。すなわち
前回の記事で「契約の箱アーク」の秘密に迫った。今回は、さらに掘り下げて「消された王家」を特集します。私が焦点を当てるヒミコを語るには、まずこの方の真相を知る必要があります。天照大神天照大神は日本の最高神。天皇家の皇祖神だ。⬆️どうやら最新の情報によると異論ありのようだ。前回も触れたが古代日本人は、神の血統(古代ユダヤ人+先住民縄文人)の混血だ。神の地イスラエルを追われた古代ユダヤ人は、同じ神の血統がいる日本へ、縄文時代に渡来している。