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井川晴深(いがわはるみ)です。6月1日(土)はブランチ仙台にて開催の癒しのイベントに出展します。占い、ハンドメイド小物、ボディケア、スイーツ、クリスタルボウルの音浴など様々なブースがそろいます。日頃の疲れを癒しませんか?【BlissfulTime〜癒しのひととき〜】2024年6月1日(土)10:00〜16:00会場ブランチ仙台ウエスト丘の商店(イベントスペース)仙台市泉区長命ヶ丘2-21-1
こんにちは、高尾ママです。5人家族の暮らしやお金を整える日常を更新しています。「姿勢を整える」を意識している今日この頃です。禅の教えの書籍を読むとスーっと心が軽くなるような内容が多いのですがその中でも姿勢を整えると呼吸が整う呼吸が整うと次第に心が整う。まずは背筋をしっかり伸ばしてゆっくり呼吸をしよう。という内容を慌ただしい毎日を繰り返していたらなんだかバタバタしてスマホやPCでの連絡業務に追われて疲れやコリが溜まり背中が丸くなり呼吸が浅くなりなんだかし
おはようございます☀️フラットかこです😊本日もご覧くださりありがとうございます🙇♀️5/19〜5/23までの開運メッセージです💓こちらをご覧くださっている方は♡ピン!と来られたメッセージをお受け取りいただき✨今必要な言葉として、少しでもより良い潜在意識の書き換えにお役立ていただけましたら幸いです🥰✨🌸✨🌸✨禅の考え方はとてもシンプルです!今ここに意識を向けるだけ✨ネガティブな感情や思い込みもこの一瞬一瞬意図して自分でうまく客観視する事で脳内の混乱に
「不思善不思悪」(ふしぜんふしあく)〜善も悪も思わず〜「不思善不思悪」でワンポイントコーチング「不思善不思悪」(ふしぜんふしあく)現代社会では、ストレスや悩みが日常の一部となっています。そんな中、禅の教えが心の平穏を取り戻す手助けとなるかもしれません。「不思善不思悪」(ふしぜんふしあく)という禅語をご存知でしょうか?これは、道元禅師が教えた言葉で、「善も悪も思わず」という意味を持ちます。今回は、この禅語の意味と、その実践方法について解説します。
ご訪問ありがとうございます。澤野手相庵です最近読んだ本でとても感銘をうけた文章があったのでシェアします。“お釈迦様は「自分自身の死を利用しなさい」と示されました。自分の死をきっかけとして、人生においての「気づきの機会」にしなさいというのです”また大切な人の死に接した際、辛いですが、こうも仰います。“悪い縁をよい縁に、亡くなった人から教えてもらったこと、学んだこと、かけてもらった言葉一つひとつを心に宿し、それそ人生の中で有意義な縁に変えていかなくてはならない”端折っていますが、こん
広辞苑より茶の湯客を招いて抹茶を点て、会席の饗応などをすること。茶会。茶の会。また、その作法。茶道茶の湯によって精神を修養し、交際礼法を極める道。(抜粋)ネットより抹茶を点てて、お茶を飲むという行為は両者に共通しますが、茶道はお茶を点てることを通して自身の精神を修養するということに一番の主眼が置かれている一方で、茶の湯にはもっと気軽にお茶を楽しむこととお客さんをもてなすことに主眼が置かれています。お茶を楽しみたい時は茶の湯、お茶を学んだり精神を磨いたりしたい時は茶道と考えています
主人の取引先の方がいらっしゃいました支店長さんは珍しく女性の方で帰り際、私に物が全然無くてスッキリしていてびっくりです!と言われてなんかくすぐったいような気分になりました他の取引先の方の時は主人1人でお見送りする事が多いのですがお引越しされたばかりですか⁈と良く聞かれるらしい🤣むふふふ、、、知らない方に言われるとあちこちのお宅にお邪魔されてる営業マンの評価はそうなんだなぁ〜と思うあ、でも私はミニマリストでは有りませんスッキリ生活が好きなだけ〜もう子供もいないからね😊ねん
臥月眠雲(つきにふしてくもにねむる)自然が豊かなこと、友の存在を忘れていませんか。心から楽しむ時間を作って。(出典:「ふっと癒される禅のことば(大本山建長寺教学部長永井宗直氏著西東社)」)月に臥して、雲に眠る。野宿同然に月に照らされて臥して、夜霧(雲)に包まれて眠る。中身が失われ外形だけが残る現代社会に生きる私たちにとって、羨ましい境涯に思えます。すべての時間を忘れ、何事もなくあるがままにその日を過ごせる毎日は、現代人の理想かもしれません。(出典:
滅却心頭火自涼(しんとうめっきゃくすればひおのずからすずし)心を無にすれば災暑も気にならない(出典:「くじけない心をつくる禅の言葉」(田中次郎氏著・日本文芸社))「心安らかに坐禅をするのに、必ずしも深山幽谷といったような環境や条件は必要ではない。心を無にすれば、火もおのずから涼しく感じられるものだ」この言葉は、甲斐(山梨県)の恵林寺(えりんじ)が織田信長軍によって攻撃され、住職の快川紹喜(かいせんしょうき)が百余名の寺僧たちと山門の楼上に追われて火を放たれたときに唱えた