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無門関の禅問答に見る|自らの痛みを通して開かれる悟りの道「一指頭」の公案は、禅の世界でもとりわけ衝撃的なエピソードのひとつです。倶脈和尚のたった一本の指に、仏法の真意が込められていました。しかし、弟子はそれをただ真似たにすぎず、本質には触れていませんでした。模倣から自らの体験へ、そして悟りへの飛躍。この公案が語るのは、禅がいかに「頭で理解すること」ではなく「身体で会得すること」を重んじるかという教えです。私は公式ラインにて、僧侶として人生相談を「無料」で行なっております。これまで、多くの方々
こんにちは。年末師走もあと半分くらいあと2週間もすると2026年新年を迎える時期となりました。今回は『損得を超えた小さな習慣で運が貯金される徳積みの仕組み』(枡野俊明著)運が貯金される徳積みの仕組みAmazon(アマゾン)3,980円を紹介します。この本は禅の教えを背景に「小さな善行を積み重ねることで人生に良い運が蓄積される」という考え方を解説した本です。損得勘定を超えた日々の習慣が、心の安らぎや人からの応援につながる仕組み
心配事の9割は起こらない―――減らす、手放す、忘れる「禅の教え」三笠書房電子書籍Amazon(アマゾン)今日は、曹洞宗徳雄山建功寺の住職で、庭園デザイナーとしても活躍されている枡野俊明さんの本を紹介したいと思います。禅の教えを説きながら、余計な悩みを抱えないよう、他人の価値観に振り回されないよう生きていく為の考え方が沢山紹介された本で、私のようなひねくれ者には「ちょっと説教臭い」って。素直に受け取れない教えも中にはあるのですが…それでも、今日はその中の教えの1つを強く実感する出来
🌿【豊かさの再定義】日本のミニマリズムが世界を魅了する「3つの精神的ルーツ」「ミニマリズム(最小主義)」という言葉が世界的なトレンドになって久しいですが、そのブームの火付け役の一つとして、日本のライフスタイルや哲学が注目されています。海外メディアでは、日本の**「断捨離」や「片付け術」はもちろん、「侘び寂び」や「禅」**といった伝統的な美意識が、現代のミニマリズムの根源にあると論じられています。私たちは今、物だけでなく、情報や選択肢にも溢れ、かえってストレスを感じやすい時代を生きています。
日々に寄り添う禅の教え【睡眠導入用解説】【禅の歴史】禅の言葉と思考法/曹洞宗/臨済宗「禅の歴史」を朗読や学習向けに、要点を絞って簡潔にまとめました。禅の歴史:ダイジェスト1.起源:インドから中国へ(6世紀)禅の源流は、インドの菩提達磨(ボーディダルマ)にあります。彼は520年頃に中国へ渡り、「不立文字(ふりゅうもんじ)」「教外別伝(きょうげべつでん)」、つまり文字や理論ではなく、座禅の実践によって直接悟りに至る教えを伝えました。2.中国での発展と黄金時代(7世紀〜9世紀)第六
鈴木俊隆(ShunryuSuzuki)の著書『禅マインドビギナーズ・マインド』(ZenMind,Beginner'sMind)は、禅の教えを分かりやすく紹介した名著で、スティーブ・ジョブズをはじめ多くの人々に影響を与えました。この本では、禅の基本的な考え方や実践方法について述べられていますが、特に「初心の心」を持ち続けることの重要性を強調しています。主な内容初心の心(ビギナーズ・マインド):本書の中心的なテーマは「初心の心」を持つことの大切さです。初心者の心とは、何事にも偏見
シリーズ先生からの金言集啐啄同時剣道での師と弟子との関係を表す言葉で禅の教えでもあります剣禅一如といわれる剣道は禅の教えも取り入れています啐啄同時とは(そつたくどうじ)啐は雛が卵の内側から殻を破ろうする音啄は親が雛の内側からの音聞いて外から殻を叩く音子供が殻を破ろうとするときに同時に少し助けてあげるそのような教え方が弟子を教えるのに一番良いと云われます寒竹会長から子供たち本人が何を求めているか?何をまなびたいと思っているか
揺れる心に気づく禅の教え|「幡が動く」のか「心が動く」のかを見つめる心が落ち着かないとき、私たちは外の世界に原因を探してしまいます。しかし、禅の教えでは「心こそが動くのだ」と説かれます。外の変化はきっかけにすぎず、本当に揺れているのは自分の内側。今回は、禅僧たちの逸話をもとに、心の動きに気づき、そこに安らぎを見出すヒントをお伝えします。私は公式ラインにて、僧侶として人生相談を「無料」で行なっております。これまで、多くの方々のお悩みを承ってきました。なぜ無料なのかを含め、自己紹介とご相談の流れ
今日も無事に終わりましたギックリ腰から2週間になります1日2名様から3名様が限界ですキャンセルを余儀なくされたお客様には大変申し訳ございませんお待たせしてます今しばらく、お待ち下さいほんとに申し訳ありません。【任運自在】なんうんじざいどうしょうもないことは流れに身をまかせてみる最善を尽くし生きていればきっと良い方向へ運んでくれる心や体も伸びやかに自由に生きると、言う禅の教えだそうです変えられない運命のようなことがあるなら、あらがわずに身をゆだねるいたって凡人
生きているとしんどい事、腹が立った事、なぜか気に入らない事ってありますよね。今まで、言われる側として傷ついた話をしましたが、私も勿論、被害者側だけだった訳ではありません。直接、傷つく事を言うというより、ストレス発散に仲のいい人に話すなどでしたが。しかし、不思議な変化として、最近の私は前向きになっていますが、昔は人を羨ましく思ううらめしやみたいなお化けな感情に支配されていた事もありました。まるで、何かが取り憑いていたかのようにそんな時はそのマイナスな感情に支配されて、夜も眠れない、外
直心是道場(じきしんこれどうじょう)直心是道場とは、「まっすぐで飾らない心こそが、修行の場所である」という意味である。禅では、特別な道場に身を置かなくても、日々の暮らしそのものが修行になると説いてきた。なぜなら、心を整える場は外側にあるのではなく、自分の内側にこそあるからである。直心とは、余計な見栄や虚勢をはらず、ありのままの心で向き合う姿勢を指す。だれしも、他人にどう見られるかが気になり、本音を隠したり、無理に強がったりしてしまう。しかし、そうした心の歪みが積
こんにちはコトノリョウジンです。今日もこのブログに来ていただき、ありがとうございます。あなたとのご縁に感謝します。「時間がない」は、心が作る錯覚忙殺される日々の中で、「時間がない」という焦燥感に苦しんでいませんか?でも、ちょっと待ってください。その感覚は、本当に物理的な時間の不足なのでしょうか?仏教では、「一瞬」の中に「永遠」が存在するという独特な時間感覚があります。不安やあせりを感じる時、あなたの
【仏教豆知識】難解で有名な『正法眼蔵』、どこの宗派の書物?みなさん、こんにちは!😊歴史やお寺巡りが好きな方なら、一度は耳にしたことがあるかもしれない仏教書、『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』。名前の響きはかっこいいですが、内容は仏教の中でもトップクラスに難解なことで知られています💦さて、ふと疑問に思うことはありませんか?「この『正法眼蔵』って、一体どこの宗派の書物なの?」今日はそのシンプルな疑問にお答えします!ズバリ、答えは…曹洞宗(そうとうしゅう)です!🙏曹洞宗にとって、
将来の事を考えると不安になります。例えば仕事のこと、(フリーランスで仕事をしてきたため、未来の約束がありません)例えばお金のこと、(正社員歴が浅いので年金は期待できません。そもそも、正社員で働き続けたとして、年金どうなるのかわかりません。)未来を思うと不安が募ります。が、今読んでいる本の中に『今この瞬間だけをしっかり味わうことこそが禅の教え』という言葉がありました。今、この瞬間を、しっかり味わうその、味わい方さえよく分からないけれど、いいじゃないか。不
無住着(むじゅうじゃく)どこにも執着せず、心を自由に保つという意味である。私たちは日々、様々なものにとらわれている。地位や名誉、お金や物、過去の成功や失敗。それらに心を縛られ、身動きが取れなくなることがある。ある禅僧は弟子にこう教えた。「水を見よ。器に入れば器の形になり、流れれば岩を避けて進む。水は何ものにもとらわれない」無住着とは、何も持たないことではない。むしろ、持ちながらも執着しないことである。大切な人がいても、その関係に固執しない。仕事に誇りを持っ
小布施から戻り、あっという間に11月も半ば。正眼寺短期大学(禅.人間学科)の70周年の記念講演会に行きました。山川宗玄老師による[禅の心in美濃加茂]の公開講座でした。山川老師は妙心寺派の管長さんで京都からいらっしゃったそうです。大学内ではお抹茶のお接待があり、観音経の写経をして70周年記念の御朱印をいただきました。公開講座の演題は「和して同ぜず」「以頭触柱」と「関中刻苦」の漢詩の解釈。難しかったですが、勉強になりました。大学の裏手の正眼寺にお参りさせていただきました。境内は見事な
六根清浄(ろっこんしょうじょう)子どもの頃、木曽の御嶽山に毎年、登っていた。そのとき、「六根清浄」という言葉を、登山者が唱えていたことをよく覚えている。これは目・耳・鼻・舌・身・意という六つの感覚器官を清めるという意味である。現代人の感覚は常に刺激にさらされている。スマートフォンの画面を見続け、イヤホンで音楽を聴く。私たちの六根は休むことなく働き、やがて鈍くなっていく。六根清浄とは、これらの感覚を一度リセットすることである。静かな場所で目を閉じ、呼吸に意識を
明珠在掌(みょうじゅたなごころにあり)明るく輝く珠、つまり大切な宝はすでに自分の手のひらにあるという意味である。私たちは遠くにあるものを求めがちだ。もっと良い仕事、もっと高い収入、もっと理想的な人間関係。そうして走り続けるうちに、今ここにあるものの価値を見失ってしまう。ある禅僧が弟子に尋ねた。「悟りはどこにあるのか」弟子は遠い山や深い森を指さした。禅僧は首を振り、弟子の手を取って言った。「ここにある」明珠在掌の教えは、探し求める必要などないと
無碍(むげ)何ものにも妨げられず、自由闊達に生きることを意味する言葉である。私たちの心は、様々な障害物に囲まれている。常識という壁、周囲の目という檻、失敗への恐れという鎖。それらに縛られ、本来の自分を見失っていることに気づかない。子供の頃、泥だらけになって遊び、思ったことを素直に口にした。無碍だった。しかし大人になるにつれ、「こうあるべき」という観念が心を覆っていく。禅では「平常心是道」という。ありのままの心こそが真理である。無碍とは特別な能力ではない。余
認知症になったって、脳硬塞になったって、良くなりたい!そういう気持ちがある限り、大丈夫だと思った。「歩けなくなった・・・」と嘆く裏には「前みたいに歩きたい」という気持ちがある。だから悔しいし、だから切ないのだ。だったら、大丈夫、まだまだやる気がある証拠!そうだよね?・・・昨日のブログの一時間後の話wさっきの憂いはどこへやら?ご機嫌にお着替え中の母。こういうとこだよw認知症の良いところは!つくづく思うw人間って嫌な思いに引きずられる生き物。なのに、その部分が抜け落ちて
行住坐臥(ぎょうじゅうざが)歩く、止まる、座る、横になる。つまり日常のすべての振る舞いを指す言葉である。禅の世界では、特別な時だけ修行するのではない。朝起きてから夜眠るまで、すべてが修行である。茶碗を洗う、床を掃く、ご飯を食べる。こうした何気ない行為の一つ一つに、心を込めて向き合う。私たちは「本番」を待ちながら生きている。資格を取ったら、昇進したら、定年したら、そうしたら本当の人生が始まると。しかし行住坐臥の教えは、今この瞬間こそが人生そのものだと説く。
空即是色(くうそくぜしき)「空即是色」という言葉は、般若心経に出てくる有名な一節である。形あるものと空、つまり無は、実は同じ本質を持つという深い教えだ。難しく聞こえるが、身近な例で考えてみたい。目の前のコップは確かに存在する。しかしそれは、土や水、職人の技術、運んだ人の労力など、無数の要素が集まって初めて「コップ」として存在している。それら一つでも欠ければ、このコップはここにない。つまり、固定的な「コップそのもの」は実は存在しないのだ。人間関係も同じである。「私」
少欲知足(しょうよくちそく)欲を少なくし、足るを知ることで平穏な心を得るという意味である。現代社会は私たちに「もっと」を求める。もっと稼ぎ、もっと買い、もっと成功しろと。広告は次々と新しい欲望を植え付け、SNSは他人との比較を煽る。その結果、どれだけ手に入れても満たされない心が生まれる。ある禅僧の部屋には、座布団一枚と茶碗一つしかなかったという。弟子が「寂しくないか」と尋ねると、禅僧は笑って答えた。「必要なものは全てある」少欲知足は貧しく生きることではな
一心万境(いっしんばんきょう)一つの心の中に、あらゆる世界が含まれているという意味である。同じ雨の日でも、人によって見える世界は違う。ある人には憂鬱な一日に映り、別の人には草木を潤す恵みの雨に見える。雨そのものは変わらない。変わるのは、それを見る心なのだ。会社で上司に叱られたとする。怒りの心で見れば、世界は敵だらけに見える。しかし成長の機会と捉えれば、同じ出来事が学びの場に変わる。つまり、外の世界は私たちの心が作り出しているのである。禅では「心が清ければ
行解一致(ぎょうげいっち)行動と理解が一致してこそ、本当の修行になるという意味である。私たちは知識を集めることが好きだ。健康のためには運動が必要だと知っている。感謝の言葉が大切だと理解している。しかし知っているだけで、実際には行動していないことが多い。ある弟子が禅師に尋ねた。「悟りとは何でしょうか」禅師は黙って立ち上がり、床を掃き始めた。弟子が困惑していると、禅師は言った。「知ることと行うことが別では、何も分かっていないのと同じだ」本を百冊読んでも、
如是我聞(にょぜがもん)仏教経典の冒頭に必ず出てくる。「このように私は聞いた」という意味である。この言葉には深い意味が込められている。それは、自分の解釈や判断を加えず、ありのままに受け取る姿勢である。仏陀の弟子たちは、師の教えを自分なりに飾ったり、変えたりせず、聞いたままを伝えようとした。私たちは人の話を聞く時、つい自分のフィルターを通して解釈する。「きっとこういう意味だろう」「私ならこう考える」と。その結果、相手の本当の言葉を聞き逃してしまう。
日日是好日(にちにちこれこうじつ)この言葉を聞くと、毎日が晴れやかで、何もかもうまくいく、という表面的な意味に捉えられがちである。しかし、禅の教えはそう単純ではない。この言葉の真髄は、快晴の日も、土砂降りの日も、喜びの日も、悲しみの深淵にいる日も、その日その日をありのままに受け入れ、味わい尽くすことにこそある。今日がもし雨ならば、雨の音や湿った空気を感じ、雨の日として最善を尽くす。それが「好日」だというのだ。私たちの心は、常に過去の後悔や未来の不安に囚われ、
【書評/要約】『[禅的]持たない生き方』レビュー|金嶽宗信が説く“手放す勇気”が人生を変える理由【ネタバレあり】ミニマリズムや断捨離が注目される中、ひとつ上の視点から「持たない生き方」を示してくれる本が、金嶽宗信著『[禅的]持たない生き方』です。本記事では、本書の内容を要約しつつ、ネタバレありのレビューとして、実際に読んで感じたポイントや学べるエッセンスを詳しく紹介します。「物が捨てられない」「買い物をやめたい」「人間関係のストレスを減らしたい」そんな方にとって、確実にヒントが見つか
11月20日(木)は東福寺・秋の講中斎の日です。東福寺檀信徒の画家の友人に便乗して、講中斎に参加してきました。臥雲橋から見る通天橋東福寺参道を歩きます東福寺に到着講中斎は7年ぶりにこちらのエリアで開催です開山堂・他の建物の老朽化で修復工事に7年かかりましたが、元の形に戻ります開山堂の上部は伝衣閣(でんねかく)と呼ばれていて、京都五閣の一つです伝衣閣には阿弥陀如来立像、布袋和尚像、薬師如来座像が祀られています講中斎の最大の楽しみは雲水さんの作られた、
無事是貴人(ぶじこれきにん)朝、目が覚める。いつもと変わらない天井。隣では家族が寝息を立てている。「今日も何もない一日が始まる」そう思った瞬間、これこそが奇跡なのだと気づく。無事是貴人とは、何事もない平穏な日々こそが最も尊いという教えである。私たちは刺激を求めてしまう。新しい経験、ドラマチックな展開、華々しい成功。SNSには輝かしい瞬間ばかりが並び、平凡な日常は色褪せて見える。しかし、本当にそうだろうか。毎朝同じ道を歩き、いつもの店でパンを買い、変わ