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今日は1日中、雨の予報でしたが。。。昼前には曇っては居るけどお散歩出来そうな天気に変わったので港区(大阪のね)に有る港住吉神社(みなとすみよしじんじゃ)に行ってみましたってか弁天町に着いた頃には土砂降り行けるのかっ折り畳み傘は持って来たけれど。。。しかし神は見ていて下さった大阪港に到着した途端に止んだ良かったです(笑)正面鳥居御祭神は住吉大神神功皇后海が近くに有るからですかねっこの辺りの神社には、住吉大神(住吉三神とも言う)が良く祀られています住吉大神と
伊達神社(いだてじんじゃ)紀伊国名草郡和歌山市園部1580(P有)■延喜式神名帳伊達神社名神大の比定社■旧社格郷社■祭神五十猛命神八井耳命「紀三所の神」として志磨神社、靜火神社とともに一連の神として祀られる社。「式内名神大社伊達神社」の比定社。◎創建由緒は不詳ながら、あらゆる文献から当社の歴史の手掛かりを掴むことは可能。そこからさまざまな説が推測されています。当記事では定説に反して、志磨神社は大屋津姫(定説は市杵島姫)と靜火神社は都麻津姫(定説は火之迦具土神)と
この前の続きです。ヤマトタケルの子、仲哀天皇は西の方にある宝の国(朝鮮半島のようです。)をやろう」という神託を信じず、祟神の怒りを受けて亡くなりますほかにも「日本書紀」の別伝には「熊襲と戦って敗れた」ともあり、「戦死した」説もあるほどで、なんだか大変なことになったはずなのですが、残された皇后息長帯比売(オキナガタラシヒメ)は、身重の身でありながら新羅を攻めます。(正確には三韓征伐ではありません。飛鳥時代には日本は百済と親しくて、天武朝を除いて基本的に新羅が仮想敵国だったため対新羅戦が
新屋坐天照御魂神社(西川原)(にいやにますあまてるみたまじんじゃ)摂津国島下郡大阪府茨木市西川原3-1-2(P無し、磯良神社の兼務社であり許可をもらえば停め置きできると思います、北へ50m)■延喜式神名帳新屋坐天照御魂神社三座並名神大月次新嘗就中天照御魂神一座預相嘗祭の論社■旧社格郷社■祭神天照国照彦火明命天児屋根命建御名方命「安威川(あいがわ)」中流域の東岸、茨木市「三島丘」に鎮座する社。◎同名他社が三社、「福井」、「西川原」(当社)、「上川原」にそれ
第737話神仏の声を聴いて皆様にお届けしています菊水千鳳です東京、新宿区にある穴八幡宮参拝体験をお届けしています。前回の日記(一陽来復の御守りが有名な穴八幡宮(東京)参拝2七福神の布袋さんからのお言葉他)の続きです。拝殿の前まで来ると、参道に並んでいた出店のトンネルが終わりました。拝殿の写真を撮影していたら、今度は先ほどの神功皇后さまに代わって応神天皇さまがスーッとお越しになられました。応神天皇さま【出店を見るだけでもいい氣を得られるぞこういった出店のものは
こんにちは、神社伝書びと守本です。香椎宮の続きですよ。(※今回の記事は、私が仲哀天皇さまについて個人的に感じたことを書いており、何ら証拠に基づいているものではありません。)さて、本殿や竹内神社などにご参拝したあとは古宮に向かいました。上の写真の門を出たところに摂社、巻尾神社があります。下の写真が、巻尾神社。「巻尾」という名の由来が気になりますが今のところわかっておりません。ここにお祀りされているのは、中臣鳥賊津大連命さま。(なかとみのいかつおおむらじのみこと)
先週の日曜日。本来なら我が町内でもだんじりが曳行される日でしたが、ご承知の通り曳行は自粛され寂しい一日を過ごしてました。が!、私の住む泉大津市のお隣、忠岡町で新調だんじりがお披露目されるとあって、少しの時間でしたが拝見させていただきました。忠岡地区で現在曳行されている四町のうちの1つ、生之町・またの名を「生帰(しょうき)」。短時間での撮影でしたので限られた箇所しか撮影できませんでしたが、またいつか機会があれば、じっくり拝見したいです。ではどうぞ。正面姿見。三手先、切妻の
こんにちは。キュアサロンマナです。久留米に帰った時のブログです。娘から頼まれて、上の孫と一緒に神社巡りです。名前はカノンちゃん。現在、小学校5年生です。下の孫が保育園の卒園式で、暇なカノンちゃんとドライブです。今度は那珂川町の現人神社にお詣りします。高速を利用して、久留米から30分のドライブ。福岡神社仕事運-現人神社–仕事運アップ、商売繁盛、就職祈願なら福岡県那珂川市の仕事運の神様宿る現人神社にお任せください。会社・企業・個人事業主・学生から
天神様は、この山に登って天を拝んだ。天拝山(てんぱいざん)は、福岡県筑紫野市にある標高254.7mの低山。地元の方の憩いのお山。(写真は色んな時に行ったものが混じってる)(山頂の天拝山社)御祭神、菅原道真公太宰府に流された菅原道真公は、無実の罪を訴え、一心に天を拝した。その為に、この山に何度も何度も登ったのだ。中腹に「荒穂神社」がある。(中腹の荒穂神社)
こんにちは。MichikoSです。昨日の福岡は夏日でした💦身体がビックリ‼️して、今朝は浮腫が出てます。あ、我慢出来ずに飲んだビール🍺のせいかしら🤭皆様も季節の変わり目、体調管理お気をつけて💚さて、そんな夏日の昨日と一昨日は、香椎宮「神幸式」が執り行われていました。このお祭りは筥崎宮と交互に2年に一度おこなわれていたのですが、コロナでなんと6年ぶりの祭祀。香椎宮を出立された神輿が、頓宮にお泊まり翌日またお宮に戻られます。昨日、頓宮からお囃子の音が聞こえてきたので、慌てて参加
【福岡】【美奈宜神社御朱印帳】(大判サイズ)表には縁結びの美奈宜神社裏には悪縁切りの白峯神社のステキな【御朱印帳】色は他に緑色ベースもありました9月よりオンライン授与所も開設されました詳細などは美奈宜神社オンライン授与所【美奈宜神社御朱印】【白峯神社御朱印】【鳥居】【拝殿】【御祭神】素戔嗚命大己貴命事代主命西暦202年神功皇后により創
こんにちは、スタルペスです福岡県みやま市の蜘蛛塚から近くに「権現塚古墳(ごんげんづかこふん)」があります。周りには住宅はなく、田畑の中にポツンと1基だけがある大きな円墳です。直径45m、高さ5.7mの2段築成の円墳です。周囲には幅11m、深さ1.2mの周溝が巡っています。古墳時代中期(5世紀)の築造と考えられています。※権現塚古墳主体部は確認されていませんが竪穴式石室ではなかったかと思います。墳丘は、周囲のどこからでも眺められる堂々とした古墳
濱男神社(はまおじんじゃ)香椎宮の末社で、旧唐津街道の道脇に鎮座しています。御祭神は「神功皇后が朝鮮半島出征の祭、航海の安全を司った神」と伝えられていますが・・・後に触れる「御島神社(みしまじんじゃ)」との関わりからして、綿津見大神(わたつみのおおかみ)であろうと推測しています。濱男神社神功皇后は仲哀天皇亡き後、朝鮮半島出征を決心しました。香椎潟沖に浮ぶ御島神社で祭神の綿津見大神に戦勝祈願をし、海水
別府宮地嶽神社の120周年例大祭素晴らしかったです〜✨御神事も午前、午後とそれぞれ違う祝詞が奏上されてご祭神の宮地嶽三柱大神の神功皇后さん、勝村さん、勝頼さんが喜ばれているのが伝わってきました。御神事の玉串奉奠は、参拝者の代表として、午前は、別府の長野市長と宮地嶽神社の御神木の絵を奉納された大塚義則さん午後は、なんと!御朱印をデザインさせていただいた私、長坂樹璃が、行わせていただきました😆✨宮地嶽神社の記念すべき大切なお
タイトルの前に^^)今週の虎太郎^^)↓久しぶりにきりっとした顔が撮れました^^)ダイドーの新商品「冷やしパインソーダ」を買いました^^)↓ダイドー冷やしパインソーダ350mlx24本Amazon(アマゾン)引き締まった味でさっぱり飲みやすかったです^^)それからコタの餌を買いに行ったんですけど、みんな餌が値上げしていて驚きました^^;)ただ量は増えていましたけど^^)↓銀のスプーン贅沢うまみ仕立てお魚づく
鏡山大神社(かがみやまだいじんじゃ)福岡県田川郡香春町大字鏡山705祭神気長足姫命足仲彦天皇鳥居だけは、バスハイクで近くを通りかかって見た事があった。バスハイクは福岡市の天神が発着地だから、距離感が全然違う(笑)我が家からのが圧倒的に近い。バイク越しに二の鳥居パシャリ📸ちなみに、一の鳥居は、ここにバイクを置いてからわざわざ歩いて戻って撮ったよ。停めたら発進したりモタモタする位なら、この距離歩いた方が早い…。鳥居向かって右の方に地図。この地図、なかなか興味深いものが色々書い
駕輿八幡宮福岡県糟屋郡粕屋町駕与丁3-9-1一、駕輿八幡宮の祭神について神功皇后応神天皇玉依姫命(神武天皇の母君)住吉大神の四柱神です二、駕輿八幡宮の由来についてこのお宮は、神功皇后が応神天皇を出産されるため香椎宮を出発され宇美八幡宮に行幸されたときこの地で休息されたので、ここに住んでいた人々が祭神したのが、駕輿八幡宮の由来とされています。↑は境内にあった説明文。補足すると、神功皇后は輿に乗ってて、ここで休んだんだと。『ムーミンの木のある五所八幡宮』六所の次は五所
神功皇后の遠征の時、皇后に助言を与えられた、底筒男命・中筒男命・表筒男命(住吉大神)の和魂を神命によって祀られた社であります。後に神功皇后を加えて四座としました。海路の神として古来より崇敬を受けてきたのが住𠮷神社です。住吉神社兵庫県明石市魚住町中尾1031拝観・駐車場は無料鳥居は、海に面したところにあり、神功皇后の三韓征伐の際に播磨灘で暴風雨遭遇し、魚住に上陸ご滞泊になり神籬をたてて住吉大神に平穏を祈願されたところ、暴風雨がおさまったとされています。凱旋後、神功皇后により
私は『日本書紀』に記された歴代天皇の実年代を復元するアプローチ法として、無事績年を削除して延ばされた年代を縮めていくという方法を採りました。『日本書紀』研究は、邪馬台国に関する『三国志』「魏志倭人伝」研究以上に、古くから学問的に取り組まれてきました。ですから、無事績年を削除していくという方法はすでに誰かが試みているはずだ、と思っていましたが、そういう論考には出会わずにきました。しかし、今回、笠井倭人(かさいわじん)という方の論文に出会いました。笠井倭人氏については、その著書には19
ご訪問ありがとうございますこの日は主に佐用姫伝承地を巡っています。かがみやまじんじゃ(かがみやまいなりじんじゃ)住所:佐賀県唐津市鏡6052−20(鏡山公園の駐車場の住所です)鏡山神社は鏡山(標高284m)の頂上に鎮座しています。神功皇后が三韓征伐の際、この山に登り戦勝祈願し、その時に用いた鏡を山頂に埋めたことから、その名が付いたといわれています。また、佐用姫が山の頂上から領巾ひれを振りながら大伴狭手彦の舟を見送ったという伝承から別名を領巾振山(ひれふりやま)ともいいます
奈良盆地南西部の御所市(ごせし)に葛城一言主神社(かつらぎひとことぬしじんじゃ)という神社があります。葛城山麓にある、立派できれいな社殿を持つ神社です。ご祭神は一言主大神(ひとことぬしのおおかみ)で、願い事を一言だけ聞き届けてくれる「いちごんさん」として親しまれていて、「無言まいり」の神として信仰されています。【葛城一言主神社拝殿】ここが、全国各地の一言主神を奉斎する神社の総本社だそうです。この一言主大神は、『日本書紀』では「一事主神(ひとことぬしのかみ)」として登場します
・・・現在も続いている出雲王家の伝承から・・・ヤマトでは10代目大王のヒコイマス(彦坐)が亡くなりヒコミチノウシ(彦道之宇斯=道主大王)が11代目大王になりました物部イクメは大和に入り三輪山の祭祀は代々登美家の姫巫女が行なっていましたが三輪山の祭祀は停止され姫巫女は各地を逃避行しました記紀では姫巫女の逃避行が「倭姫巡幸」にされていますイクメは三輪山の祭祀をしてい
廣田神社兵庫県西宮市大社町7-7御祭神御本殿天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ)の荒御魂伊勢の神宮に坐す天照坐皇大御神の勇猛果敢で活動的進取的な霊験灼たかな御魂御主神の御名は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)と申し奉り、即ち伊勢の神宮の内宮に御鎮座の天照坐大神の御荒御魂に坐しまし、神功皇后御征韓の時御霊威を示し給える大神なり。−廣田神社由緒記より抜粋−神功皇后が神降しをした際に出て来た謎の神様「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」
blogを書けと言われたので「八十禍津日神と大禍津日神」の話。八十禍津日神(ヤソマガツヒノカミ)と大禍津日神(オホマガツヒノカミ)なのですが……正直、書くかどうか悩んだんですよね。何だか難しい神様なんです。とりあえず思いつくままにキーを叩いてみましょう。古事記の表記。(伊邪那岐大神)於是詔之「上瀬者瀬速、下瀬者瀬弱」而、初於中瀬墮迦豆伎而滌時、所成坐神名、八十禍津日神訓禍云摩賀、下效此。次大禍津日神、此二神者、(伊邪那岐大神)所到其穢繁國之時、因汚垢
ソメイヨシノが満開になって、ウォーキングが楽しい日々なのですが、今朝はあいにく雨。そして、寒いです。「三寒四温」「花冷え」・・・この時期の日本らしい言葉だなぁと思います。さて、今日ご紹介する本は、2024年に発行される新紙幣ですが、お札の顔になる人物が気になりませんか?そこで見つけた本が↓2022年あすなろ書房出版監修・著/河合敦編/こどもくらぶ「お札になった21年の偉人」なるほどヒストリー1881年(明治14年)日本で初めて誕生した肖像画紙幣から2024年
【神社名】當島八幡宮【鎮座地】山陽小野田市大字西高泊1019【御祭神】應神天皇仲哀天皇神功皇后【旧社格等】村社【御由緒】平安時代の仁和元年(885)ごろ宇佐八幡宮を勧請、社殿を創建。天正年間(1573~)炎焼したと伝える。現在の本殿は慶安元年(1648)、拝殿は元文二年(1737)の改築今は小山の上に鎮座。昔は干拓池の中だったんですね(@_@;)安政6年(1859)2月建立の狛犬。風化が進んでます。文字が読めません。何て刻まれているんでしょう(2
大浦荘から、森沿いを散策。長ーい塀があります。角を曲がった先も、長ーい塀が続く・・・まだ続く・・・広い車寄せもしやこのお宅は・・・たまたま、通りかかった関係者の方が敷地内に入るのを捉まえて尋ねてみると、やはり麻生本邸私邸なので門の中は立ち入り禁止だけど、門から中を覗いたり、写真を撮るのは構わないとのことなので、お言葉に甘えて。「大浦荘」と同様、玄関前にこんもりとした寄木があります。玄関からの視線を避ける意味合いなのかもしれませんね。
蘇我氏に関する定説とは異なる内容だが、古代作家の関裕二氏の『蘇我氏の正体』を読んだので、興味深い点を以下のとおり記す。・ヤマト王家の弱い立場を強いものにしようと考え出されたのが、6世紀に登場した王家の直轄領「屯倉」であった。屯倉は7世紀から8世紀にかけて整備が進む律令制度の先駆けとなるものだった。6世紀の「屯倉制」を、王家が独自に進めたわけではなく、蘇我稲目や馬子といった蘇我本宗家が尽力したと考えられている。・ヤマト王家を守り、律令制度を整えたのは蘇我氏であった。藤原氏は始祖の中臣鎌
ブログに訪問くださってありがとうございます。日曜日義実家での法事が終わったあとその足で福岡県に帰省してきました。母の誕生日だったので一泊2日で筑後川温泉にも行ってきました。筑後川温泉は肌がしっとりする美肌の湯でしたよ。筑後川筑後川温泉からほど近い大分県日田市豆田町にも行ってきました。豆田町の街並み進撃の巨人実家から自宅に帰る途中で山口県下関市の住吉神社に立ち寄りました。山口県下関市一の宮住吉1丁目1-1青葉が目に眩しいです。拝殿御祭神第一殿住吉大神(底筒男