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このガチャはこちらにて吟味済み。『【信長の野望20XX噺】碓井貞光ピックアップ』星5の光秀さん、欲しいのだがなぁ。まあ、良い……本題に入ろう。先ず、貞光さんはこちら。『【信長の野望20XX】頼光四天王(1)』酒呑童子、キツかったな。とりあ…ameblo.jp……なのだが、三成さんは最近強化されたのでこちら『【信長の野望20XX噺】スキル鍛錬豊臣家3人』先日、豊臣家所属の3武将がスキル鍛錬の対象となり、その強化っぷりが話題となった。ということで、強化前と強化後を比較しつつ見ていこう。先ず
※京都市東山区耳塚、案内板・・・巨大な円墳の上に巨大な五輪塔が載る京都市東山区耳塚1️⃣〜文禄・慶長の役耳塚(京都市東山区大和大路通七条茶屋町)耳塚は、豊臣秀吉の晩年最大の「悪行」と呼ばれ、秀吉を「英雄」から「暴君」に変えた「文禄・慶長の役(朝鮮出兵1592〜1593・1597〜1598)」関連の貴重な史跡です。「文禄・慶長の役」は、「秀次事件」と並んで「サル暴君っぷり」を如実に現した「事件」と言えます。この「文禄・慶長の役」は、今でも朝鮮半島
秀吉が信長の部下で中国方面司令官に過ぎなかった時代には、官兵衛は秀吉とともに行動する「軍師的役割」をしていました。中央から独裁的な命令を下してくる、現場を知らないトップの意向に振り回されながら、苦労を共にしていた、といえます。しかし、秀吉が天下人になると、官兵衛が方面軍司令官として遠征する立場になり、秀吉の傍にいる機会は激減します。かつての官兵衛の位置に石田三成が居座っています。現場を知らないトップに現場を知らない参謀、これでは現場はたまりません。秀吉と官兵衛のあいだが乖離していくのは、いわ
大垣城を見学した後、まだ時間があったので、関ヶ原まで行ってみることにしました。大垣駅から関ヶ原駅へは東海道線で13分ほど。関ヶ原は新幹線で通過する際に景色を眺めたことはありましたが、実際に降り立つのは今回が初めてです。駅自体は比較的こじんまりとしています。駅から徒歩5分くらいのところに「岐阜関ケ原古戦場記念館」があります。駅から記念館へ向かう道の途中です。2020年に開館したという比較的新しい施設です。徳川家康が最後に陣を置いたのがこの記念館のあたりとのことで、最上階の展望室からは戦
城なび館で5か所のスタンプが揃いましたついに近江戦国六武将オリジナルガチャにチャレンジできますガチャの景品は、近江ゆかりの6武将の家紋をあしらったオリジナルガラスマグネット(6種)とアンブレラマーカー(3種)です実際は、石田三成と豊臣秀吉のガラスマグネットが当たりましたが城なび館で私より先にガチャをされた男性から「豊臣秀吉があまり好きじゃないから当たったものと交換しませんか?」と声をかけられていました。(アンブレラ
先日、豊臣家所属の3武将がスキル鍛錬の対象となり、その強化っぷりが話題となった。ということで、強化前と強化後を比較しつつ見ていこう。先ずは星4戦術家石田三成さん比較表……こうして見るとこれは凄いな。まあ、ベースの数値は大したことないのよ。けど、確定でバフがあるのよね。しかもコレは敏捷依存だから妨害が出来ない。だからもう()内の数値は確定。即ち、・味方全体攻+75%・後列敵1体術ダメ4.86確率クリティカル9.98と記して問題無かろう。……ハハ、なんだこりゃ?
腰痛を抱えたまま帰省して栄えある『役立たず』の呼び名を欲しいままにしていた私ですが・・・後半!予想外に!割と存在意義が光っていました!主な理由というか原因:父(イメージ武将:石田三成)が風邪を引いた。まあその他も色々あって複合的な名誉挽回なのですが。ともあれ弱った父を温めて加湿した部屋に押し込んで定期的にお茶や何かを届けております。それで気づいたんですが、わが父はもともと食べ物を手渡したり何か手伝いをしたりすると「ありがとう」と素直にお礼を口
「関ヶ原の戦い」と言われますが、実は戦闘は東北から九州まで、全国各地で起きています。伊達政宗も上杉景勝も黒田如水も、それぞれの場所で(それぞれの思惑で)戦っています。毛利輝元だって、関ヶ原にこそ来なかったものの、毛利軍は西国方面で結構積極的に動いています。輝元が「天下を取りに来ていた」のは事実です。王将が無闇に前線に出るのはヘボ将棋です。毛利輝元が大坂城にどっしり構えて、全国の戦闘を指揮しようと考えていたとすれば、さほど理に合わないことではないでしょう。関ヶ原が「決戦場」になるというのは、
これから、物凄く意地悪なことを書きますよ。豊臣秀吉の死後、上杉景勝が徳川家康に反抗的態度をとり続けた目的は、「豊臣家臣団」を分裂させることです。その目的は、秀吉の天下統一、惣無事令をチャラにして「戦国乱世」に戻すこと。そのドサクサでふたたび「戦国大名が自由に領地を取ったり取られたりする戦国乱世に戻したい」ということです。家康に「立ち向かった」とか、家康と決戦して天下を取ろうとか、そういうことではないんです。とにかく「バトルロワイヤル状態」の混乱に戻ることを期待したんです。関ヶ原の戦い
「関ヶ原の時点で、豊臣秀頼が家康の軍門に降って、徳川幕府の一大名になることを選択していれば、大坂の陣で滅ぼされることも無かった?」関ヶ原は「豊臣」対「徳川」の戦いであり、徳川(東軍)が勝って西軍(豊臣)が負けたのだから、西軍に担がれていた豊臣秀頼は徳川の「軍門に降って」いれば、つまり家康の家来になってしまえばよかったのに、と言うなら、それは間違いです。関ヶ原は豊臣対徳川ではありません。豊臣秀頼は、というより子供の秀頼を支配している母の淀殿は、東軍、西軍の両方に「そなたたちが豊臣正規軍だ、宜し
ご覧いただきありがとうございますいつも遊びに来ていただきありがとうございますとても嬉しいです4月に訪れた長浜今期の大河ドラマ「豊臣兄弟!」で盛り上がっております3施設共通券(大河ドラマ館・義と絆館・大通寺)道の駅「浅井三姉妹の郷」に立ち寄った際に購入しておりました『FYOP+ツアー★サンドーム福井遠征プチトリップ③』ご覧いただきありがとうございますいつも遊びに来ていただきありがとうございますとても嬉しいです最近ディズニーから遠ざかっている
豊臣秀吉と千利休。一人は天下統一を成し遂げた権力者、もう一人は「茶の湯」を極めた茶人です。一見すると、まったく違う世界に生きていた二人ですが、実は深い信頼関係で結ばれていました。秀吉は利休の茶の湯を高く評価し、織田信長の死後、利休を黒田官兵衛、前田利家、石田三成などと同様に側近のように重用しました。利休の茶室は質素で、豪華さを競うのではなく、「わび・さび」を大切にする世界でした。ところが、天下人となった秀吉は、黄金の茶室を造るなど、豪華な茶の湯を好むようになります。ここに二人の考え方の
【問題】石田三成が治部少輔に叙任されたのは、三成が何歳代だった時のことか?【選択肢】20代30代40代50代【正解】20代【解説】天正13年(1585)7月、石田三成は主である豊臣秀吉が関白に就任した際、26歳という異例の若さで従五位下・治部少輔(じぶのしょう)に叙任された。