ブログ記事6,112件
残念ながら今に至っても星5左近さんのスキルの数字が不明である。このまま時間切れの雰囲気が漂ってきたので、久々の一旦枠だけ作って後日修正パターン。……まあ、この手のことをやって後日ちゃんと修正した記憶がないのだが。先ずは星5武芸者島左近さん……の予定。後日加筆修正予定次は星4戦術家石田三成さん吟味済み。『【信長の野望20XX噺】新生活応援20(2)』地震中々凄かったな。一部地域では停電などもあった様だな。諸君らご無事で……あったからこれに目を通せているのか。さて、昨日『【信長
歴史学者の方が、「豊臣兄弟!」のことを、厳しく批判しておりました。私同様、お市の介錯については、特に痛烈でした。まあ、そりゃそうです。歴史ものですから、創作が入るのは当然です。ただ、ものには限度というものがあります。例えば、明智光秀や石田三成などは、視点によって良くも悪くも描けます。「麒麟がくる」などは、光秀を頭脳明晰で、信長の信頼は秀吉よりも遥かに厚く描かれておりました。しかし、「どうする家康」などでは、日和見で卑劣な性格になっておりました。前者が長谷川博己、後者が酒向芳ですから、実にわか
大河ドラマ『豊臣兄弟』毎回楽しみは楽しみなのだが…。実は一昨年、この大河ドラマが決まった時から心配が…。そんな思いを地元タウン紙に投稿。うれしいことに掲載されました。ドラマの流れは先まで決まっているのだろうが、そこをなんとか…。佐吉どん、石田治部少輔三成をぜひ良く!投稿「石田三成の描かれ方が心配…」今年の大河ドラマ『豊臣兄弟!』の主役は、秀吉の弟で生涯を補佐役に徹した大納言秀長という。今までと違う秀吉像なども描かれそうで楽しみなのだが、私には気がかりなことが…。それは我が
「関ヶ原の戦い」と言われますが、実は戦闘は東北から九州まで、全国各地で起きています。伊達政宗も上杉景勝も黒田如水も、それぞれの場所で(それぞれの思惑で)戦っています。毛利輝元だって、関ヶ原にこそ来なかったものの、毛利軍は西国方面で結構積極的に動いています。輝元が「天下を取りに来ていた」のは事実です。王将が無闇に前線に出るのはヘボ将棋です。毛利輝元が大坂城にどっしり構えて、全国の戦闘を指揮しようと考えていたとすれば、さほど理に合わないことではないでしょう。関ヶ原が「決戦場」になるというのは、
小早川秀秋は最初から東軍です。「最初から」というのは、美濃関ヶ原での合戦の開戦前からすでに東軍、という意味です。戦闘が始まってもまだ迷っていたとかは「ウソ」です。小早川は、松尾山に他の部隊がすでにいたのを追い払って、強引に布陣しています。この時点で、石田三成が「アイツは敵に回った」と認識できなかったのならば、それは悪いけど馬鹿、といって悪ければ、情報収集・分析能力が圧倒的に欠如してます。小早川秀秋は、寧々さんの甥であり、秀吉とも淀殿とも秀頼とも、血縁関係はありません。そのせいでか、秀吉
「もし関ヶ原の戦いで、石田三成率いる西軍が勝利したら、どうなっていただろうか?」歴史にたらればやもしは禁物だ、という人もいますが。たらればや、もしがいけないなのではありません。「もし、石田三成が勝ったら」というならば、現実世界では何故石田三成は勝てなかったのか、その原因は何か、を分析することからしか始まりません。それ無しに「もし、は、もしだよ」とか言っても、それは単なるオアソビで、歴史語りとしては意味がないのですよ。もし関ヶ原で、互角の兵力同士がぶつかって、ほんのちょっとした時の運
〝石田三成〟役のいしだ壱成「自分のご先祖さまを演じさせていただくというのは格別」(東スポWEB)-Yahoo!ニュース俳優の和泉元彌、いしだ壱成、桜井凛らが2日、東京・草月ホールで行われた時代劇「PRINCESSTOKUGAWA」(2日~8日)の囲み取材に応じた。この舞台では、戦国時代に生きた浅井三姉妹をnews.yahoo.co.jpちょっと待て💦石田純一氏が石田三成の子孫??😅有り得ない調べれば簡単に分かるのになぜ公に言ってしまうのか…石田三成は関ヶ原の戦いに敗れた武将だが
豊臣秀頼の実父ではないか、と当時から噂されていたのは、大野治長です。淀殿の乳母「大蔵卿局」の息子、つまり乳兄妹です。淀殿の側近くに近侍していたことから、密通の噂は秀頼出生直後からありました。資料的根拠というなら、毛利家臣内藤隆春の書状、興福寺の僧の「多聞院日記」、朝鮮軍人の捕虜・姜沆(きょうこう)の日記「看羊録」といった文書に書かれています。もちろん、どれも噂話をそのまま書いたレベルで、真実である根拠にはなりませんが。当時結構広まっていた話であるとは言えます。もちろん、皆んなが言ってるか
3月27日金曜日大河ドラマ「豊臣兄弟」主要登場人物細川藤孝(亀田佳朗)細川藤孝(ほそかわふじたか)戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名、歌人。細川幽斎(ほそかわゆうさい)、長岡藤孝(ながおかふじたか)、長岡幽斎(ながおかゆうさい)としても知られる。天文3年(1534年)4月22日、三淵晴員の次男として、京都東山にて誕生。のちに、晴員と共に12代将軍・足利義晴の近臣であった細川晴広の養子となる。天文15年(1546年)、
戦国時代の合戦の経緯というものは、江戸時代以降に書かれた「軍記物」が、参考にされていて、それが、全くの創作なのだろうと個人的には、考えているということは、このブログでも、何度も、書いたところ。そして、同時代に生きた人や、当事者の残した「書状」や「日記」による「一次史料」を元に、合戦の様子を探ろうという研究が進んでいるのが、この「関ヶ原の戦い」です。シン・関ヶ原(講談社現代新書)Amazon(アマゾン)この本は、その一次史料を元に、豊臣秀吉の死から、関ヶ原の戦いまでを、徳
書店の新書コーナーで興味を惹かれた、高橋陽介著「シン・関ヶ原」(講談社現代新書)を購入して読みました。表紙(本書の紹介)「関ヶ原の戦い」とは、江戸時代に各地で編纂されたさまざまな史料を、明治になってから帝国陸軍参謀本部が集約し、再構築したものである。そして、これをもとに「国民的作家」司馬遼太郎が創作した長編歴史小説『関ヶ原』によって、日本人の「関ヶ原像」が決定づけられ、いまもなお、多くの人々を魅了しつづけている。本書は、著者が、1600(慶長5)年9月15日に美濃の関ヶ
9月19日金曜日信長協奏曲(信長コンチェルト(再放送)主要登場人物細川藤孝(細川幽斎)(市川知宏)細川藤孝(ほそかわふじたか)戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名、歌人。天文3年(1534年)4月12日、三淵晴員の次男として、京都東山にて誕生(異説あり)。のちに、晴員と共に12代将軍・足利義晴の近臣であった細川晴広の養子となる。天文15年(1546年)、13代将軍・義藤(後の義輝)の偏諱を受け、与一郎藤孝を名乗る。幕臣として義輝に仕え、天文21
中日文化センター栄で開講された高橋陽介氏の著書シン・関ヶ原の史料を読むに参加してきました。>>詳細はこちら|中日文化センター栄公式サイト6回シリーズで今回は第2回西軍の首謀者は石田三成ではないでした。どんな本?私たちが知っている関ヶ原の戦いは、江戸時代に編集された軍記です。高橋氏は一旦それを置いておき、別視線で調査をはじめました。それは現存する当時の武将(人物)の書状を時系列に並べるというもの。すると軍記とは全く違う関ヶ原の戦いが浮かんできたのです。それを
「大坂の陣」って、戦国最後の決戦、と言われるけど。実際のところは、強大な幕府権力に、(かつては名家だったにせよ、いまは)単なる一大名が叛乱を起こして、鎮圧された、というだけのもの、とも言えます。所詮は島原の乱と同じです。豊臣に万に一つも勝ち目はありませんでした。でも、それじゃあ面白くないじゃあないですか。「まるで、天下分け目の最後の戦い、みたいな壮大な言い方をされるのは何故なんだ」といえば、それは「みんな、面白い話が聞きたいから」でしょう。夢が見たいんですよ。徳川があと一歩で
腰痛を抱えたまま帰省して栄えある『役立たず』の呼び名を欲しいままにしていた私ですが・・・後半!予想外に!割と存在意義が光っていました!主な理由というか原因:父(イメージ武将:石田三成)が風邪を引いた。まあその他も色々あって複合的な名誉挽回なのですが。ともあれ弱った父を温めて加湿した部屋に押し込んで定期的にお茶や何かを届けております。それで気づいたんですが、わが父はもともと食べ物を手渡したり何か手伝いをしたりすると「ありがとう」と素直にお礼を口
うっちーこと宇都宮芳綱です今日は極を引けなかったので、代わりに育成中の無尽防御部隊のことを書きますまずは三成さん旧スキル追加で龍驤虎躍を狙いますこの確率でも付く時はあるので、期待を込めてポチリしてみたらグフッ!><ん~ダメだったか次は確実に付けます天を使った特殊候補が龍驤虎躍で良かった果たして結果はグッジョブ♪('-^*)/まあ100%ですからね次は極限枠の合成です
山城と違ってなんとラクに登城できるんだ!と実感。小牧山城の次に行ったので上の写真、東門はかつて「内柳門」といい、この場所ではないところにあったんですって。後に戸田家別邸の門となり、さらに大垣城の天守再建に伴ってこちらに再移築。立派な門て使い回しできるのね←庶民の感想石段はたったこれだけ。小牧山城、岐阜城、犬山城で散々登ったからな。楽勝楽勝。11代に渡って大垣藩を納めた戸田家の家紋九曜紋(九曜曼荼羅)昔インドで占いに使われた星土曜星(聖観音)水曜星