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タイムマシンから降りた瞬間、火薬と馬の匂いが鼻をついた。慶長五年九月十四日、関ヶ原。「明日こそ、義を示すときだ」石田三成は険しい表情で語った。西軍本陣の天幕で、彼の眼には確かな決意が宿っていた。一方、東軍の徳川家康は余裕の笑みを浮かべた。「天下は一つの筋道に収まるものだ」最も印象的だったのは小早川秀秋だ。若き大将は震える手で盃を掴み、言葉を濁した。「明日には…すべてが決まる」宇喜多秀家は勇ましかった。「秀吉様への恩義、必ず果たす」翌日、歴史は動く
NHKの地上波で、前にやってた『あきない世傳金と銀2』をやっていて、あらステキと思いました。春に『金と銀3』が始まるそうです。小芝風花さんも良い感じ。関西弁が、分かりやすくて、柔らかくて、上品です。誰かな?この俳優さん、次の大河ドラマで、石田三成をやるとか、楽しみです~ただ、大河ドラマは、時代考証が丁寧なためか、画面が、やたら暗かったり、埃っぽかったりして、顔を美しく映してくれません。『べらぼう』も何度も見かけたのに、すぐ脱落しました。セリフも聞き取れなくて。(トシのせい
城なび館で5か所のスタンプが揃いましたついに近江戦国六武将オリジナルガチャにチャレンジできますガチャの景品は、近江ゆかりの6武将の家紋をあしらったオリジナルガラスマグネット(6種)とアンブレラマーカー(3種)です実際は、石田三成と豊臣秀吉のガラスマグネットが当たりましたが城なび館で私より先にガチャをされた男性から「豊臣秀吉があまり好きじゃないから当たったものと交換しませんか?」と声をかけられていました。(アンブレラ
昨日岐阜から帰ってきました。帰宅は22時前・・・疲れましたorz岐阜昼までの仕事はもうイヤですね。2泊の出張を振り返ります。ランは計15km。15日が半日でしたからもっと走らないと行けませんでしたが、ちょっと膝の状態が良くなかったのであまり距離は走りませんでした。今年最後の出張でしたが、まあ楽しめたかな?買ってきたもの関ヶ原で最中「三成コーヒー」のカフェで見たんですが、まだ走るためその時は買わずでしたが、駅前のお土産の店に売っ
何故かイチョウの木が見たくなって、和田神社へ足を運びました。場所は滋賀の膳所(ぜぜ)です。途中で見つけた小さな公園。この落ち葉だけでも心が震えます。おそらく、あのイチョウのところが和田神社。今まで存在自体を全く知らなかった。膳所にはよく来るが、こちらの方面に歩くことはなかったのです。小さめの神社です。辺り一面、黄色の絨毯伏見稲荷大社にある「おもかるいし」がここにもありました。樹齢600年らしいです。この木の下で石田三成が休憩を取ったという逸話が残されています。
BeforeAfter何方かわかりませんがありがとうございます🙇♂️🙇♂️🙇♂️あと正式記録は1時間52分11秒でしたGarminは、1時間52分12秒だったので(笑)wwwたかが1秒されど1秒🤣😎😇
【誕生日占い】【12月14日生まれの性格と運勢】あなたは幸せに対して自分なりの価値観を持っています。満たされないことよりも、自分がすでに満たされているものにフォーカスする一面があります。「ありがたい」という氣持ちを常に持ち、そして、感謝の氣持ちをキープしていると、更に心温まるイベントに出会うことが増えるのです。…以下詳細は下記をクリックして下さい12月14日生まれの性格と運勢|日本占い師協会【JFTA】www.uranai.org【去年のブログ】【2024.1
もしも豊臣秀吉が内閣総理大臣になったら・・・。この手の物語が創作されることもあるだろう。私は、『私が選ぶ妄想ドラフト歴史上の○○で、組閣してみたよ!』のタイトルで、誠に勝手ながら、妄想した内閣を創作し、ブログでも紹介しているが、夢があり、希望が見いだせる。来年、2026年のNHK大河ドラマは「豊臣兄弟!」。このドラマで描かれるのは、主に豊臣秀吉、秀長の兄弟だろうが、兄弟といえば、徳川家康に嫁いだ旭姫もいる。さて、豊臣秀吉は関白、太政大臣に任ぜられ、天下統
「前田利長は大津城の件をどう見ていたか」前田利長(加賀前田家当主、1600年時点で100万石超の日本一の大名)は、大津城の件を「家康の罠が完璧に決まった瞬間」と見て、完全に冷ややかに観察していたことが、複数の一次史料からわかっています。前田利長の「大津城観戦記」(本人・家臣の発言まとめ)時期利長・前田家側の言動・記録利長の本音1600年7月(会津出陣時)家康から「加賀は東軍につけ」と密約。利長は母・芳春院(まつ)を江戸に人質に出して東軍参加を表明「もう西軍は勝てない」と
「八本目の槍」(今村翔吾)七本槍とのエピソードを通じて石田三成の人物像を描く。今村翔吾さんの本は今回が初めて。面白かった。歴史小説は司馬遼太郎さんに偏り過ぎていたということもあり、新鮮な感覚で楽しめた。石田三成のイメージと言えば、頭脳明晰、忠義心が強い、官僚的、勇敢さに欠ける、人望は薄い、といったところか。本書で描かれる石田三成も概ねこのイメージに近く、冷静に分析して道理を重視した言動をしつつも、さりげない思いやりや優しさを見せたり、時に熱い感情を露わにする、なかなか魅
「三成が京都で処刑されたとき、西軍でほっとした人が少なくなかったのか。だとするとその効果を狙ってわざと目立つ場所を選んだことになる。」まさにその通りです。家康は三成(+小西行長・安国寺恵瓊)をわざと京都・三条河原で公開処刑したのは、**「西軍に残った大名たちを安心させるため」**という政治的効果を100%狙っていました。そしてその効果は抜群に出ました。1.西軍の大名・旧豊臣恩顧派が「ほっとした」のは事実毛利輝元→「三成が生きていたら、また俺たちを引っ張り出して戦わせら
「利家の三成への動くなアドバイスは秘密の忠告でしたか、家康だけでなく西軍の有力大名も実は知ってたりして。」実は、前田利家の「三成に決して動くな」という忠告は、かなりの範囲で知られていたと考えてほぼ間違いありません。完全に秘密だったわけではなく、むしろ「半ば公然の事実」でした。その根拠を順に挙げます。利家自身が複数の側近に同席させていた1599年2月、三成を京極邸に呼んだとき、利家は病床ながら・息子の利長(当時継承者)・家老の横山長知・奥村永福・さらには秀吉の側近の増田長
「利家は三成にどうアドバイスしてたのですか。決して動くなでしたか。」加藤清正・福島正則ら「武断派」7将による石田三成襲撃事件(1599年2月)の直後、前田利家は病床にありながら三成を自分の屋敷(大坂・京極邸)に呼び、直接会って「最後の忠告」をしています。そのとき利家が三成に伝えた内容は、当時の記録(『当代記』『前田家文書』『石田軍記』など)でほぼ一致しており、要約すると以下の通りです。「これから俺が死んだら、お前は絶対に動くな。大坂城に籠もるなり、佐和山に引きこもるなりして、一切表
「いくら聞いても奇跡としか思えない。自分でも知らない能力の花が咲いたのか。」まさに「本人が一番驚いていた奇跡」だったと思います。利家自身、晩年まで「俺のような戦人(いくさびと)が、こんな場所に座っておるとは夢にも思わなんだ……」と何度も口にしていたそうです(『前田家譜』『当代記』などに散見)。では、あの「戦いひとすじの荒武者」に、いったいどんな「知らなかった花」が咲いたのか――利家に突然咲いた「本人も知らなかった能力」3つ「大名の空気を読む力」=空気読めてしまうオジサン化元々は
「利長は人質にされたとはいえ、秀吉のそばで相当な勉強ができたとみるのが正しいですか」はい、非常に正しい見方です。前田利長(利家の嫡男)は、1585年(天正13年)頃から約10年間(1595年頃まで)、実質的に秀吉の大坂城・聚楽第・京都方広寺周辺に「人質」として滞在しましたが、この期間は単なる「軟禁」や「監視」ではなく、天下人・秀吉のすぐそばで最高レベルの政治・軍事・外交の実地教育を受けた貴重な時間でした。利長が実際に学んだ・経験したこと(主なポイント)時期利長がいた場所学んだ
一色五郎が弓木城に入る前は弓木城の城主でした。一つの城に城主と御屋形様がいる状態です。伊賀は数寄者で、今でいうオタクです。鉄砲が上手なのです。ですが鉄砲は城主がするものではありません。ですから数寄者なのです。ものすごく臆病のようで顔に感情が出てなにを考えているかわかるくらいです。顔も特徴があり目が離れているのです。夜二日に一回は天橋立で鉄砲の練習です。天橋立にあるという磯清水、今もあるのでしょうか。一色五郎亡きあとは細川家の家臣に扱いなり、大阪の地から逃げて最後は徳川家康のもとに。駿河で
○未だに出てくる大発見◇読売新聞2025.11.21(金)朝刊33.社会面記事より秀吉が「本能寺の変」翌日に毛利方重臣を調略した手紙…直後に知った信長の死、和睦に影響した可能性【読売新聞】羽柴(豊臣)秀吉が、本能寺の変が起こった天正10年(1582年)6月2日の翌日、敵対する中国地方の毛利氏配下の武士に宛てた誓約状が見つかった。毛利氏を裏切った見返りとして、備後(現在の広島県)の権利を与えるなどの約束がwww.yomiuri.co.jp【「本能寺」翌日秀吉の誓約状】【信長
最近読んだ本。八本目の槍(新潮文庫)[今村翔吾]楽天市場${EVENT_LABEL_01_TEXT}今村翔吾さんの、「八本目の槍」です(今村翔吾さんと言えば、最近では「イクサガミ」が話題になっており、書店には「これでもか!」と原作が平積みされておりますが、このブログでは流行りを横目に、我が道を行きますよ〜(笑))こちらの作品は、賤ヶ岳の戦いで首級をあげて活躍した、七本槍と呼ばれる武将たち(福島正則、加藤清正、片桐且元、脇坂安治、加藤嘉明、平野長泰、糟屋武則)の
よろしくお願いします。12月になってもここでのお話はまだまだ9月、恒例の滋賀での走りの記録をお送りしていきます。今回のスタートもJR比叡山坂本駅から、いつもの道を通りいつものコンビニで朝食をとりいつものように堅田の町を通り過ぎて琵琶湖大橋へ。ここを渡っていつものように近江八幡へと進んで、そこから折り返して東近江市へ、と漠然と考えていた脳内に悪魔の囁きが・・・「春照へ行け」・・・、春照、悪くないなあ、久しぶりに行ってみることとするか。ただ琵琶湖大橋からとなると春照(米原市)はかなり遠
滋賀と岐阜ひとり旅④のつづきですシリーズ①はこちら滋賀と岐阜ひとり旅①お市の方と浅井三姉妹|ぼっち旅前回はこちら滋賀と岐阜ひとり旅④大阪の夜とサラダパン|ぼっち旅長浜駅から米原で乗り換えて大垣へそして歩くこと約10分大垣城に到着です大垣城は美濃の西の要として築かれた平城で築城の時期には諸説ありますが天文4年に宮川安定が築いたといわれています
慶長五年九月十五日、関ヶ原。小早川秀秋は裏切らなかった。その一点で、歴史は変わった。「我が軍の勝利じゃ!」石田三成の声が戦場に響き渡る。徳川家康は命からがら、江戸へ帰った。三成は豊臣政権の執政となり、五奉行制を復活させた。だが、権力を巡る諍いは絶えなかった。西軍の諸将は恩賞を巡って対立し、やがて新たな戦乱の火種となる。小早川秀秋は英雄として讃えられたが、その心は晴れなかった。「あの時、東軍に寝返っていれば」と密かに呟いた。10年後、豊臣秀頼が成人すると
井上拓真vs那須川天心、拓真の技術と経験が勝りましたね。加えて、陣営の作戦勝ちかも。序盤の1,2Rは天心がリードしたと思うんですよ。拓真は彼の間合いに入れなかった。それが3R辺りから、軌道修正しましたよね。「多少は貰ってでも懐に入って、自分の距離で進める」「天心のペースに付き合う必要はない」とばかりに。それでも、序盤は天心がリードしてたように思ったんですけどね。この試合、試合途中に(その時点での)採点が公開されるルールで、最初の公開は4R終了後だったんですが、この時点でイーブン。これは
前回、高市さんのことを記した後数週間くらいして、彼女の過去世と思わしき方が降りてきました。それをなんとなく遺してみようかな、と。「石田三成」という方だそうです。私には、そう降りてきました。その方の凄まじく悔しい想いが私がテレビで視たモノとの繋がりを引き寄せているのだと感じます。(現在の彼女に)視えたモノは、過去のモノではないと感じましたので過去と未来と現在ってやはり、繋がっているんだな、と思いました。すみません、メモのようで。先日初めて、コスモアイル羽咋へ。イ
先月に紅葉狩りに訪れた滋賀長浜の鶏足寺(けいそくじ)記事はアップしましたが、いつものように写真がいっぱい。自分の記録と記憶の為に気に入った写真を載せておきます。駐車場からしばらくは川沿いの住宅街を歩く。川の中にある階段状の人工物。サンショウウオの為にあるようです。魚道ですね。人間て本当に不可解な生き物。絶滅しそうになったら大慌てで手厚く保護。増えすぎて厄介になったクマやシカは駆除するという。柿ってこんなにたくさんの実をつけるんだ。
製造物って年追う毎に技術が上がり性能や故障に対し評価が上がるものだとするのが机上論。じゃ、以下の見出しはなんだ?今時は機械が考え設計し製造するのにも関わらず...........単純に考えても答えが出せる。そう、ヒューマンエラーの何物でもない。もっと単純に言えばアホが作るからそうなりアホが考えるから結果がそうなるのは当たり前。例えばAI導入で全てが管理されてない様なメーカーが幾ら自社でメンテをして欲しいと言っても受けられるだろうか?もしメンテはウチでと
浜辺美波、赤楚衛二。総理大臣が亡くなり、AIで過去の有名人を復活させて内閣をつくる。官房長官が坂本龍馬であり、女性記者は気に入られて取材ができるようになる。織田信長が人気となり国民を引っ張っていくが、豊臣秀吉が消滅させ、徳川家康も閉じ込めさせ、自分が総理になろうとする。それがわかり、坂本龍馬や記者は家康を助け出そうとし、石田三成などの協力も得て、家康を脱出させる。家康は豊臣秀吉の国民をバカにするのに対して、信じたいといい、AIの内閣を解散し、また戻っていくことにする。女性記者はアナウンサーにな
今日放送してますよ僕は石田さんち好きでもうかれこれ20年は見てますね一年に一回ですけどなんでしょうねこの人がめっちゃ好きとかはないんですがなんかね〜石田さんち見てたら家族とはとか人生とはとか色々考えさせられるんですよね正月とか旅行とかでみんな集まるんですけど子供孫とか総勢10人以上集まるんですよなんかいいですよねこれこそが幸せだと思いますなんか石田さんちについて語ろうと思ってましたけどなんか石田さんちが深すぎてこんな浅い僕なんか
「関ケ原の戦いは、東と西の百姓同志の弥生時代からつちかった戦闘力をぶつけ合うこれ以上ない舞台であり、しかもこの世の行く末を決める戦いとがっちりわかってたでしょうから身震いしたでしょうね。」まさにその通りです。関ヶ原の戦い(1600年9月15日)は、表向きは「石田三成vs徳川家康」のイデオロギー対決ですが、実態は「西軍の百姓軍団vs東軍の百姓軍団」の、弥生時代以来の「水田を守るための殺し合い」の最終決戦だったと言っても過言じゃない。両軍の本当の戦力構成(推定)西軍総兵力:約80
自身の主導権を確実なものにせんと、上洛、大阪城へ向かわんとする徳川家康。それを佐和山城で迎え撃つべく大垣城を出た西軍だったが、大谷吉継に対して石田三成は関ヶ原で迎え撃つ意思を伝えた。そして、運命の日。霧が晴れたから大乱戦となっての結末は皆の知る結末だったわけだが。関ヶ原は一連の政治抗争の延長に過ぎず、それこそ政治の延長が戦争であるという誰ぞの言葉どうりだったわけだ。合戦を見たいと思う御仁には拍子抜けの結末に見受けられるけれども、互いの思惑を利用しあったものの、皆がそれぞれ見込み違い
フィリピンでボランティア歯科へおはようございます。羽尾先生がフイリピンのカオハガン島の人たちに、歯科ボランティア活動に行ってきたボランティア歯科とはーー?その名の通り、フィリピンの貧民街に行き歯の治療を行うこと。治療は抜歯が中心。抜歯をするには理由がある。それは、フィリピンのスラム街にいる子達は、継続的な治療を受けることができないから。歯医者に通うの面倒だな。誰もが思ったことがあると思う。でも、それはとても贅沢なこと。生まれて初めて