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天海(161)「慶長五年七月是ヨリ先、石田三成、東下セル諸大名ノ妻子ヲ大坂城中ニ収メ、人質トセントス、丹後宮津ノ長岡忠興ノ室明智氏、之ヲ拒ムニ依リ、是日、之ヲ圍ム、明智氏、自殺ス。」(「史料綜覧」)ガラシャの遺言が幾つか残っている。「子共の事は我為に子なれハ、忠興君の為にも子也、改め伝におよハす、三宅藤兵衛へ事を頼候也、此上いわれさる事なから、藤を御上へ御直し不被成様に。」(「綿考輯禄」)まず、我が子については忠興にとっても我が子なので、改めて伝える
【2024年4月30日(火)】天候∶雨後曇りAM4:00起床。当初今日はキャンプ場泊で予定を立てていましたが、料金に納得がいかず旅館泊に変更した為、45km歩くことになりました。こういう日に限って雨です。覚悟してAM5:00この旅14府県目となる岐阜県大垣市を目指して出発です。岩脇蒸気機関車避難壕。太平洋戦争末期に大動脈である東海道線の列車を牽引する機関車を空襲から守る為に掘られた壕だそうです。未完成のまま終戦となったが、作業員の苦労を讃え、戦争遺構として保存しているそうです。一旦国
天海(159)佐和山で三成と吉継が挙兵することを決したのが、7月11日である。その翌日には大坂にいる奉行・増田長盛が家康(家臣・永井直勝宛)に書状を出している。吉継が垂井で罹病し、三成が出陣の準備をしていると報じているのだ。色々と雑説があるので、追ってまた報告すると言っている。「一筆申入候、今度於樽井、大刑少日相煩逗留、石治部出陣事申分候而、爰許雑説申、猶追々可申入候、恐煌謹言、七月十二日増田右衛門尉長盛永井右近大夫殿」つまりこの時点で
天海(158)「慶長五年七月一日美濃岐阜ノ織田信秀、東国ニ出陣セントス、尋デ、石田三成ノ勧ニ依リ、近江佐和山ニ至ル。」「七月五日、備前岡山ノ宇喜多秀家、山城豊国社ニ詣ヅ。」「七月十一日、近江佐和山ノ石田三成、家臣樫原彦左衛門ヲシテ、越前敦賀ノ大谷吉継ノ東下ヲ美濃垂井ニ要シテ、佐和山ニ迎ヘ、徳川家康ヲ討タンコトヲ議ル。」(「史料綜覧」)岐阜城主・織田信秀は7月1日に、会津に向けて出陣する手筈であった。ところが、出陣の準備に手間取っているうちに、三成の勧誘を受け
『もしも徳川家康が総理大臣になったら』情報解禁されていろんなキャストがわかってきましたね。実は原作も読んでます。でも、なかなか進みません。することがいろいろあって。。ゴールデンウイーク初日から、掃除してます。冷蔵庫の掃除とか、お風呂掃除とか。急に掃除したくなって。その上、WOWOWオンデマンドでジョンウィックも見始めて余計、先の頁に進まない。ゴールデンウイーク中にちょっとでも進めばいいけれど。。以前『もしも徳川家康が総理大臣になったら』について
覇)三好長慶:吟風弄月の雅覇)甲斐姫:東国の明玉覇)お船:主家存続の決覇)織田信長:古今無双の将覇)立花宗茂:九州の逸物覇)本多忠勝:東国無双覇)佐竹義重:天魔鬼神の業覇)石田三成:主従三世の縁覇)島津義弘:死地後生の決覇)羽柴秀吉:出世の神様©コーエーテクモゲームス
石田三成も気になる❣️明日から滋賀出張まいります☺️☺️☺️体調管理徹底していきます▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう
三重県、岐阜県は大雨でしたが、滋賀県長浜市まで来ると、雨は降ってませんでした。ここでお昼ご飯を予定していましたが、痛恨の時間に間に合わず...。なのでお昼なしで旅を続けます。長浜城を見学します。豊公園駐車場を利用出来ます。公園からは琵琶湖が眺められます。本丸跡長浜城天守です秀吉が羽柴性を名乗っていた頃、この付近を治めていました。もちろん復元です。ここにきた理由は本物の石田三成自画像が飾ってます。秀吉推しなのに石田三成の資料が多いという謎がありますが、結構見応えありです。天
四日市でなが餅を購入して出発します。ちなみに妻のお土産です。これから関ヶ原に向けて出発します。三重県のいなべ市を抜けて関ヶ原へ道中豪雨でトラックの泥水攻撃を受けて車が泥んこです。関ヶ原の博物館来ましたシアターとかあって楽しいひと時でした。展望台から石田三成の本陣がみえます。案内役の三成君平日もあって独占です。近くに家康の本陣後です。なかなか楽しい時間でした。次は岐阜から滋賀に行きます。
さきたま古墳群のエッセンスを求めて久々に忍城を訪れ、「のぼうの城」を読みそしてまた忍城周辺を歩いたオヤジ。しかし、さきたま古墳群のエッセンスには辿り着いていない・・・・・・・・😓という訳で、今回は小説の題材になった忍城の水攻めに関するネタです。まずは石田堤のお話から。これ(↑)は行田市教育委員会発行のリーフ。前回ご紹介した「忍城今昔図」といい行田は自治体が観光誘致に熱心です。😲1590年に丸墓山古墳に陣を構えた石田三成。突貫工事で28㎞にも及ぶ堤
「お城紀行」の掲載で少し中断しましたが、ブログテーマ『城郭建造物の「櫓」の内「平櫓(一重櫓)」』を再開し、具体的なお城の写真をお届けします。「平櫓(一重櫓)」については、「はじめに」をブログで掲載していますのでどうぞご覧ください。「平櫓(一重櫓)」の「はじめに」↓『城郭建造物『全国「平(一重)櫓」を巡る”はじめに”』』今回からのブログテーマを城郭建造物の「櫓」の内「平櫓(一重櫓)」に絞ってお届けしようと計画しています。過去に、全国「復元、復興、模擬」の「天守シリーズ」「三…am
茶道の指導者だった亡き義母の一番弟子だったT先生。4月21日(日)、妙心寺の塔頭の一つ、壽聖院でお茶会が開かれ、主人と私はお招きいただきました。満開の八重桜と🌸厄除地蔵さまがお迎えしてくださいます朝、家を出発して京都に入り妙心寺に着いて、ご案内時間の頃には、しっとりと霧雨の日になりました。壽聖院が見えてくるずっと手前からまるで、打ち水がされているかのように導かれ、ワクワクしながらも、気持ちが引き締まりました。受付を済ませ、待合から見
4/20(土)に、大阪の城友と一緒に「菩提山城」(岐阜県不破郡垂井町)と「松尾山城」(岐阜県不破郡関ヶ原町)に登城しました。「竹中氏陣屋櫓門」からは、「関ヶ原古戦場」内を突っ走り、車で約20分位で「戦国ロード」沿いの「松尾山城登城口」に着きました。「松尾山城」の歴史と城主については、「関ヶ原の合戦」時に、西軍から東軍に寝返った「小早川秀秋」が陣取っていた陣城ということは良く知られていますが、陣城として活用される前の城主は、「主郭」に詳細が記載された案内板に記載がありました。そ
天海(154)「然らば内府様にとって、この度の会津征伐で、理想の展開とはどのような物でしょうか。」と天海は尋ねた。「うむ、大軍を持って、上杉を屈服させ、戦わずして、勝利することである。その際、金山のある佐渡と庄内は取り上げて、上杉は90万石程度で存続を許す。あれは律儀ものであるから、恩を売れば、忠義で応えるであろう。これが理想であるが、実際に交戦があれば、景勝は隠居させ、上杉には養子を入れて60万石程度で存続させるつもりだ。」と家康は言う。「なるほど、では考えら
天海(153)「六月十日、陸奥会津ノ上杉景勝、徳川家康ノ出陣セントスルヲ聞キ、部下将士ヲ訓シ、去就ヲ決シム。」(「史料綜覧」)直江状の真贋はともかく、景勝は上洛も再度検討していたようである。ただ、条件として讒言をした者(堀秀治・直政ら)の取り調べを要求したが、家康に無視され、遂に決戦やむなしとなったのである。さて、当時上杉家は120万石であるから、120万石×300人で36,000人の動員が可能と思われる。さらに防衛戦であるから全体で5万人弱の配置が可能であったこと
おはようございます🌹昨晩は独演会の御礼も兼ねた皿数えLIVEありがとうございました!その時ボロボロ嬉し泣きしつつ言うてましたが実は今、アレルギーか蕁麻疹か、顔中が赤く腫れ上がり膿が出て別人でして😂そしたら朝イチで次男が「おかーさん、いつもとちゃうやん可愛い!」と大谷吉継と石田三成の茶会を体感してしまった朝です🫢⇩⇩⇩YouTubeLIVEアーカイブ⇩⇩⇩【皿数えLIVE198夜】【日曜23時の定期生配信】コロナ禍にclubhouseで始まった皿数え配信!週に一度のSunda
天海(152)「慶長五年五月三日、徳川家康、陸奥会津ノ上杉景勝ノ老臣直江兼続ノ答書ヲ見テ怒リ、諸大名ニ出征ノ令ヲ下ス、徳川家康、下野ノ士伊王野資信ノ、陸奥会津ノ形勢ヲ報ゼシニ答ヘ、守備ヲ厳ニセシム。」(「史料綜覧」)直江状に目を通すと、家康は激怒し、直ちに景勝の征伐を決意した。ただし、ここまでは家康の想定通りである。景勝は前田家のように、戦わずに屈することはないであろうと考えていた。家康の頭の中には、秀吉が行った「四国征伐」や「九州征伐」の光景が浮かんでいたので
<速報>昨日(4/20)、城友と一緒に「菩提山城」(岐阜県不破郡垂井町)と「松尾山城」(岐阜県不破郡関ヶ原町)に登城しました。どちらのお城も以前から登城したい山城で、「菩提山城」は昨年に「竹中氏陣屋」に行った際に、後方に見えた菩提山頂にあるお城は「羽柴秀吉」の軍師であった「竹中重治(半兵衛)」が居住していたお城とのこと、「松尾山城」は「関ヶ原の合戦」時に、西軍から東軍に寝返った「小早川秀秋」が陣取っていた陣城ということで、いずれも興味津々の山城でした。「米原」でカーシェアによる車で
城北線枇杷島駅岐阜県の南西部に位置する安八郡神戸町は、バラ🌹や小松菜などの生産がさかんで、養老鉄道の東赤坂、広神戸、北神戸の各駅があります。日吉神社や夜叉ヶ池伝説、徳川家康、石田三成の関ヶ原の戦いにまつわる噂など、歴史にまつわる話も多くあります。4月21は○民放の日日本民間放送連盟(民放連)が1968年に「放送広告の日」として制定。1993年に「民放の日」に改称した。1951年のこの日、日本で初めて民放16社に放送の予備免許が与えられ、翌1952年のこの日に民放連が発足した。ラジ
欠かさず観てる番組ある?▼本日限定!ブログスタンプ民放はほとんど見ませんバラエティーばかりで見ているのは鶴瓶の家族に乾杯歴史探偵ドキュメント24時間英雄たちの選択NHKばかりですねあっ終わっちゃたけど「不適切にもほどがある」は面白かったです桜旅の記事書いています墨俣城でまったりとした良い時間を過ごすことができレンタカー借りている時間も迫ってきたので(6時間契約)大垣駅前に向かいます途中、桜並木の美しいところが有ったのですが車は止められ
天海(151)実は当年三月は謙信公の追善供養にあたるので、夏中には上洛するつもりであります。それまでに武具を集め、国政を整えていたところ、長盛と吉継の使者が来て、逆心がなければ直ちに上洛せよと言ってきました。赤児でもあるまいに、内府様にしても、讒言を真に受けずに、しっかりと調べれば分かることでありましょう。大体、逆心があっても、知らん顔して上洛すれば褒美をもらえるのであろうか。景勝はそのような世では生きづらいし、弓取りの誇りも失われるであろう。まずは讒言したものを御取調
家康と家臣が「この世で一番うまいものは何か」と話していた際、お梶の方が家康に問われ「それは塩。塩がなければどんな料理も味を調えられず、おいしくできない」と答えた「では一番まずいものは」とのお尋ねには「それも塩。どんなにおいしいものでも、塩を入れ過ぎたら食べられない」と料理は塩加減薬は匙加減指圧は手加減丁度良いが丁度良いだが人によって丁度良いが全員違うだから難しいだから面白い#補寫指圧の施術は石田三成の「三献茶」に通ずるものがある最初は「ぬるく」次に「やや熱く」
彦根を出て、一度ちゃんと行ってみたかった長浜へ移動。昔、添乗員だった頃に何度か行ったことはあるけどあれから20年は経ってますしね🤣黒壁スクエア↓黒壁-滋賀県長浜市ガラスの街「黒壁スクエア」黒壁スクエアは、滋賀県長浜市旧市街にある、伝統的建造物群を生かした観光スポット。江戸時代から明治時代の古建築を活かしたガラスショップ、ギャラリー、ガラス工房、体験教室、レストラン、カフェ等が集積します。公式オンラインショップでお買い物も。www.kurokabe.co.jpガラス細工のアクセサリー
さきたま古墳群のネタ。今日は丸墓山古墳という円墳のお話です。直径約105mの円墳で築造は6世紀前半。かつては日本一の規模を誇る円墳でしたが最近、奈良の富雄丸山古墳の調査が進みその地位を譲ってしまいました。但し、この古墳は高さが約17mで円墳としてはやたらと墳頂が高い。当然使用した土の量は膨大で前回ご紹介した埼玉県で一番大きい二子山古墳を凌ぐ量の土が盛られたそうです。でも何故にこれほどの標高が必要だったのか?それはのちほど・・・・・・・🤔墳丘に
天海(148)「陸奥会津ノ上杉景勝ノ将藤田信吉、景勝ノ石田三成ニ応ズルノ非ナルヲ説キ、老臣直江兼続ト合ハズ、兼続、景勝ニ勧メテ之ヲ誅セントスルニ依リ、信吉、会津ヲ去リ、江戸ヲ経テ入京ス。」(「史料綜覧」)「景勝の将・藤田信吉」とは、元は上野国の豪族で北条家の家臣であった。しかし天正8年に武田家の将・真田昌幸の調略を受けて、武田氏に沼田城を引き渡したという。その武田家では5700貫の所領を得たというので、厚遇されていたようである。天正10年(1582年)武田氏が滅
天海(147)「慶長五年三月十六日、和蘭船リーフデ號、豊後ニ漂着ス、徳川家康、同船ノ按針英国人ウィリアム・アダムス等ヲ大坂城ニ引見ス」(「史料綜覧」)オランダ船リーフデ号が豊後国臼杵黒島に漂着した。リーフデ号は1598年6月24日にロッテルダムから五隻の船団で出港し、極東を目指したという。しかし、この航海は悲惨なものであった。マゼラン海峡を抜けて、太平洋を横断できたのはリーフデ号だけで、さらにそのリーフデ号も110名いた船員が日本に到着する頃には24名まで減って
第九話「紅天」藪重と按針は、石堂に忠誠を誓うつもりで大坂城に到着するが、敵対的な歓迎を受ける。木山は按針を脅し、石堂はすぐに藪重の申し出を断った。鞠子は、幼なじみの落葉の方と10年以上ぶりに再会するが、鞠子が反抗的な態度を取ったため、歓談はすぐに終わる。虎永は鞠子に、虎永の女官たちを江戸まで護送するよう命じていたのだ。それは、石堂らに対する公然の挑戦であった。前話では、吉井虎永(真田)の腹心にして親友の戸田広松(西岡徳馬)があろうことか切腹するという大事件が起きてしまった。大坂の石堂和成
今日は一時雲の広がる時間帯もあったが、気温は21℃まで上がり、春らしい天気となった。しかし午前中北西の空が靄っていて、これは何か飛んでいるなと思ったら、やっぱり黄砂だった。春はいろんなものが飛び交います。Disney+で2月から放送が始まった歴史ドラマ「SHOGUN」。このドラマSHOGUNはイギリスのジェームズ・クラヴェルの小説である「将軍」を原作としたアメリカのドラマであるが、SHOGUNと言うくらいですから、舞台は戦国時代末期の関ケ原の前の日本。主人公は真
細川家はみんな怒ってる!ガラシャの子孫が“辞世の句”を引用した川勝知事に激怒「言語道断でけしからん、無礼千万だ」職業差別とも受け取れる発言をして、謝罪・撤回後に退職を表明した、静岡県の川勝平太知事が「辞世の句」でも物議を醸している。【映像】細川ガラシャの子孫が怒りをにじませる映像退任にあたっての心境を問われた川勝知事が発言したのは、「散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ」。これは明智光秀の娘、細川ガラシャが詠んだ辞世の句で、散り時を心得てこそ美しいとの意味とされる。
天海(146)「是ヨリ先、出羽仙北郡ノ戸澤政盛、密ニ陸奥會津ノ上杉景勝ノ動静ヲ徳川家康ニ報ズ。是日、家康之ニ答フ。」(「史料綜覧」慶長四年十一月)慶長4年(1599年)8月22日、上杉景勝は会津に帰国する。景勝は会津移封、間もない事もあり、領内の整備に努め、山道を切り開き、橋梁を修築し、支城の整備を行ったのである。これを戸沢政盛、堀直政、最上義光など周囲の諸大名は脅威と感じ相次いで家康に報告したのであった。これを受けて家康は戸沢政盛に「お陰で会津の様子が分かった