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2024年夏公開の映画もしも徳川家康が総理大臣になったら監督:武内英樹原作:眞邊明人出演者は個性的な方々がズラリ!*写真は、東宝公式サイトより。私の注目は別の人石田三成役の音尾琢磨さん一見分からなかったのですが声を聞いてストーリー上でもキーパーソンでした坂本龍馬役の赤楚衛二さんは全然分からなかったです歴史上の偉人を蘇らせて内閣に!という発想がスゴイですがSNSの功罪を批判したり政治への無関心や選挙の投票率の低さを嘆いたり現代への苦言も盛り込まれ…確かに
天下分け目の関ヶ原の合戦並かもしれん。つまり徳川家康軍vs石田三成軍みたいな…https://t.co/LJevhTaPcy—もりぞぉ(@hanaren7)June17,2025
2025年6月15日お土産で買った、みつなーり❗
トップニュースです✨✨✨石田三成さまの遺骨から顔のレプリカが作成され、公表されたのです‼️武将・石田三成はこんな顔だった?遺骨レプリカから生前の顔を再現(朝日新聞)-Yahoo!ニュース戦国時代の武将、石田三成(1560~1600)のものと伝わる頭蓋骨(ずがいこつ)の石膏(せっこう)レプリカから、生前の顔が再現された。シャープな輪郭にすっきりした目元、薄めの唇が印象的だ。佐賀大学news.yahoo.co.jp昭和の時代にも、遺骨をもとに復元模型が作成・公表されていましたが、それは
///歴史が好き🍀(@naruseyanoken1)さん/X//武将・石田三成はこんな顔だった?遺骨レプリカから生前の顔を再現(朝日新聞)-Yahoo!ニュース//午後4:48·2025年6月15日///前後一覧/令和7年6月/
2025年6月14日のおちゃは、伊吹庵❗食べログhttps://s.tabelog.com/gifu/A2101/A210104/21020514/伊吹庵(関ケ原/食堂)★★★☆☆3.39■予算(昼):¥1,000~¥1,999s.tabelog.com営業時間09:30〜17:00
【誕生日占い】【6月14日生まれの性格と運勢】考え方次第、気持ち次第で人生の可能性はいくらでも広がっていく、それがあなたの考え方です。あなたは環境に適応する力が高いのです。豊かな発想力とマネージメント能力で、社会をどんどんわたっていくでしょう。あなたには、悲壮感や苦痛を感じている印象は少しもありません。たとえ厳しい状況に陥っても、冴えた頭脳で乗り切っていくでしょう。…以下詳細は下記をクリックして下さい6月14日生まれの性格と運勢|日本占い師協会【JFTA】www.urana
名古屋から岐阜に行くのにJRか名鉄どちらに乗るかまあ通学定期券で乗るなら名鉄か?それにしても名鉄犬山線という選択肢はないだろう黒野城の加藤貞泰は徳川家康率いる東軍が名古屋から岐阜に迫ってきてるのに岐阜県全体から犬山城に集められる諸将の中にいて石田三成と家康の両天秤をかけていた。たしかに物流の観点から言うと犬山城は重要だが郡上の稲葉貞通方通垂井の竹中重門多良の関一政にとって岐阜城落城はどんな思いだったか。石田三成の頭の中には小牧長久手の戦いがどうしても残っていて、美濃尾張の戦
安土城と関ケ原へ行きました。安土城とその付近で1日、関ケ原で1日の予定だったのですが、要領よく回れたので、1日で。先ずは安土城へ。昨年、滋賀県へ来た時にも登りたかったのですが、いろいろあって断念していたので嬉しくて頑張って登山です。登り始めから結構きつかったです。天守閣跡山中で出会った人は少なかったのですが、近くの博物館には中国人がいました。滋賀県立安土城考古博物館は2025年3月18日リニューアルということでした。全体を見て回ると、結構満足しました。のん
「この列車に乗る」という目的を果たしたついでに行って来た。いったん大垣まで戻ってるので引き返すことになる。『関ヶ原始発7:16豊橋行区間快速』平日のみ運行されるこの列車に関ヶ原⇒大垣で乗ってきた。理由は話せば長い。まず、大垣―関ヶ原では東海道本線の下り本線は北側へ大きく迂回し垂井駅を通らない。…ameblo.jp名古屋から近いと言えば近い関ヶ原だが子供の頃に鍾乳洞へ行ったぐらいしか覚えていない。歴史に興味が無かったから合戦の概略すら知らなかった。今般、ちゃんと観光してみた。
太郎坊宮に登る本宮(滋賀県東近江市)は天狗様の神社。正式には阿賀神社といい、天照大神のご長男を祀っている。聖徳太子も参拝されたとか?3年前に友人と来た。しかし神社のその先におわすご神体の赤神山は登らずじまいに終わった。神社の後背には赤神山や箕作山が控えている。今年、トレッキングの会に入会した。会は40名強で高齢女性が大半だ。ここでも元気が良いのは女性ばかり。新人挨拶に当たって、私は「こうした会に入るのは初めてです。私も年を取ったのかな~」と口を滑らせ、低頭した。「単独登山か
最近、歴史にはまっている。あのときこうしておけば大きな争いはおきなかったと悔やんでいる。では、ワシが石田三成となってしまったあとの新しい歴史を書こう。朝目が覚めたら畳の上。隣に刀がある。外は鶏がコケコッコーと鳴いている。着物を着ている。おかしい、いつのまに和装で寝た?いやそれ以前に、右手にあるこの朱印状……。ワシ、石田三成になってる!!「やべぇ」動揺。混乱。発狂寸前。しかしここで叫んではならぬ。石田三成は叫ばない。いかなる時も冷静沈着で不機嫌そうな顔をしている。そ
戦国三大美少年とは、名古屋山、浅香庄次郎(左馬助)、不破万作のことです。彼らは、その美貌と武勇で知られ、特に男性に好まれたといわれています。戦国時代、美貌は武将たちの間で重要な要素の一つであり、これらの美少年たちは、その美貌を武器に、武将たちの間で重宝されました。❤️不破万作(「伴作」とも記す、天正6年(1578年)-文禄4年(1595年))は、安土桃山時代の豊臣秀次の小姓。尾張国(愛知県西部)の生まれ。文禄4年(1595年)7月、秀次の切腹前に殉死したと伝えられている。享年17。
目でみる日本史[岡部敬史]楽天市場発掘された遺跡や、移築された建物など、歴史上の人物が目にしたであろう景色を収めた写真集です。裏表紙には「いざ鎌倉」とあります。鎌倉は訪れたことがありませんが、歴史でならった御恩と奉公が、スッと浮かんできました。歴史上の人物と直接の繋がりはありませんが、地元の英雄や、文学史上の大家など、身近に思う人の見たであろう景色を見ることができる一冊です。西郷隆盛さんは西南の役で亡くなっていますが、西郷家は弟の従道さんの家系で繋がっています。
みなさんおはようございます~(^_^)雲はあるがいい天気です森ノ宮の越中井に向かいますあまりにキレイなバラです壁一面バラその交差点の角に銅像、文教地区らしいです真っ直ぐの道がいきなり丸く何かを避けているその真ん中に石柱がある越中井とあります細川家の当主である細川忠興の屋敷の台所があったと伝えられる場所で、細川ガラシャ最期の地として知られる石柱にはガラシャの辞世の句「散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ」が刻まれているそして歴史が大きく動いた場所
はじめ大名七人が、石田治部少輔三成を討とうとした。徳川殿は人々を制したので実行には至らなかった。その時伏見の館で、正信がやってきた。その時はまだ亥の刻半[1]ぐらいで、すでに寝ていた。正信はしぶしぶ行き、今夜は早く寝ていらっしゃると申し上げた。徳川殿も何か用があるから来たのだろうとおっしゃった。そこでは、石田三成のことはどうしたらいいだろうか、今ここでどうしたらよいか考えて欲しいとおっしゃる。正信は心静かにそのことを考え、何を言ったらよいかと考えた。少々お時間をいただきたいと出て行った。徳
語り部アロマが紡ぐ「やまと語り二十五」聞いていかれませんか。豊臣秀吉が亡くなった時、子の秀頼は6歳でした。秀吉は病気が重くなるにつけ秀頼の行く末を心配して、徳川家康と前田利家にくれぐれも後のことを頼みました。家康は伏見城で政務をさばく、利家は大阪城で秀頼を育てる、これがそれぞれに命じられた役目でした。ところが利家がまもなく病死しましたので、ひとり家康が目立って盛んになっていきました。徳川家康は三河から出て、初め今川義元の人質となり、義元の死後は信長と結んで次第に勢を伸ばしまし
こんばんは、お財布ショルダー専門店のイシロヨウコです。先日登りそこねた佐和山へ!彦根の街を一望できるお気に入りのスポット♪前回登ったときは観光バスが来ていて何人もの人とすれ違ったけれど、今回は前後に誰も見当たらずちょっと不安に・・・そんなとき、すぐ近くで葉っぱが擦れる音や、パキパキッと小枝が折れる音が・・・熊ではなさそう・・・一瞬ヒヤッとしましたが、正体は2匹のお猿さんでした!ここにヒトがいるよ〜と分かるように大声で話しながら歩いていくと
城巡りコミュニティの愛知ウォーキング城巡りクラブで岐阜県大垣市の大垣城に行ってきました。普段は愛知県や名古屋市の城跡や戦国時代の史跡を巡っている愛知ウォーキング城巡りクラブですが、今回は少し足を伸ばして日本続100名城に認定されている大垣城巡りです。大垣城は関ケ原の戦いで石田三成率いる西軍の拠点になった城ですが、江戸時代も存続し、城の見どころも多いです。そこで今回、個人的に思った大垣城の見どころポイントを3つお伝えします。外堀が残っているこれは現地の案内看板にあっ
【問題】石田三成と豊臣秀吉の出会いとして知られる「三杯の茶(三献茶)」の逸話の初出は、次のうちどの書か?【選択肢】『陰徳太平記』『武将感状記』『竹生島文書』『上井覚兼日記』【正解】『武将感状記』【解説】三成と秀吉の出会いとして有名な「三杯の茶(三献茶)」の逸話は、正徳6年(1716)に熊沢猪太郎(熊沢淡庵)により刊行された『武将感状記』が初出とされる。
どうも、ブネです。今回は、慶長5年(1600年)5月15日に起こった関ヶ原の戦い本戦から2日後に起こった毛利輝元側の武将の一人ーー宍戸景好が大将となって、3,500の兵を引き連れて加藤嘉明の居城ーー松前城を攻めようと迫ったが、加藤嘉明の家来ーー佃十成が守り通したという出来事について、散文詩に書きたく存じます。「伊予松前城を守れ!」慶長5年(1600年)5月15日巳の初刻(午前9:00)、霧がかかっている中で、徳川家康方と大坂方による関ヶ原での戦が始まってしまった。先制
語り部アロマが紡ぐ「やまと語り二十三」聞いていかれませんか。織田信長の跡を受けて海内平定の偉業を果たし、更に世界の形勢に目をやって国威を海外に輝かしたのは豊臣秀吉であります。秀吉は尾張の貧しい農家に生まれました。8歳の時父を亡くして寺で養われながら、立派な武将になりたいものと、常々武術に心掛け、勇ましい戦物語を聞くことが何よりも好きでした。16歳の時、遠江の松下氏の僕になり、やがて信長に仕えました賢く真面目で、陰ひなたなく働くので次第に重く用いられ、ついに武将の列に入りま
先日テレビを見ていたら、戸籍法が改正され、新たに「フリガナ」が収録されるという。逆にいえば、戸籍にはこれまでフリガナがついていなかったわけで・・・法務省の記事がこちら・・・おそらく、ほとんどの人にとってはどうでもいいっていうか、何も問題ないと思うはず。ただ、これを実施するにあたり、戸籍のある自治体から本人あてに確認の通知が届くという。そして、これを収録する大量の事務が発生する。一億以上の人間のフリガナを収録するのは大変だろうし、間違いなく誤収録も発生するだろう。読者の皆さんに
前橋市と伊勢崎市に仕事で来たのでついでに妖怪探訪まずは前橋にある群馬県庁のうらにある虎姫観音この観音には以下のような言い伝えがある。かつてこの地には、一つの城がそびえていました。その城の殿様は、ある日、鷹狩りの折に一人の娘・お虎と出会い、一目で心を奪われました。お虎はやがて城に召され、殿様の寵愛を一身に受けるようになります。しかし、その寵愛は他の奥女中たちの嫉妬を招き、ある日、お虎は謀(はかりごと)にかけられ、無実の罪で責められます。そし
「ああ、田沼意次は、石田三成になってしまうんだ」と気が付きました。何を言ってるのかというと、ってのを説明します。「一橋治済(生田斗真さん)による、徳川家(将軍位)乗っ取りプロジェクト」が、着々と、面白いように進んでいます。将軍世子「家基」を毒殺した「死の手袋」事件は、どう考えても一橋治済の仕業ですが。彼は「傀儡師(人形遣い)であり、人形(実行犯)はもちろん別にいます、徳川家内部に。それは誰だろう、というのが、翌週に明らかになりました。治済が、女性の人形を見ながら、「独りぼっちは寂しいの
2025年5月10日、土曜日、曇り。第33回びわ湖長浜ツーデーマーチ1日目、浅井戦国40kmコース、実距離36.9kmに参加中です。長浜駅近くの、豊公園を、8時02分にスタート、北へ向かい、長浜市浅井支所前を過ぎて、道の駅浅井三姉妹の里から、浅井B&G海洋センターを通って、草野川沿いに進み、飯山橋で渡り、折り返しました。南へ向きを変え、姉川古戦場を過ぎ、七尾まちづくりセンターでしばし休憩。姉川を渡り、茶臼山古墳を回り込んで、南へ歩き、20kmコースと合流して、石田三成出生
2025年5月10日、土曜日、少し雨に降られましたが、曇っています。第33回びわ湖長浜ツーデーマーチ1日目、浅井戦国40kmコース、実距離36.9kmに参加しています。長浜駅近くの、豊公園を、8時02分にスタートしました。東へ向かい、北陸道をくぐってから、北へ向かいました。南郷里まちづくりセンターを過ぎて、20kmコースと分岐、長浜市浅井支所前を過ぎて、国道365号に出て東へ歩き、道の駅浅井三姉妹の里まで来ました。10時18分、11.5km地点です。道の駅
小早川秀秋は最初から東軍です。「最初から」というのは、美濃関ヶ原での合戦の開戦前からすでに東軍、という意味です。戦闘が始まってもまだ迷っていたとかは「ウソ」です。小早川は、松尾山に他の部隊がすでにいたのを追い払って、強引に布陣しています。この時点で、石田三成が「アイツは敵に回った」と認識できなかったのならば、それは悪いけど馬鹿、といって悪ければ、情報収集・分析能力が圧倒的に欠如してます。小早川秀秋は、寧々さんの甥であり、秀吉とも淀殿とも秀頼とも、血縁関係はありません。そのせいでか、秀吉
大谷刑部は、石田三成の前に立ち、真剣な眼差しを向けた。「三成殿、徳川家康には勝てない。負ける戦はすべきではない」彼の声には、重い決意が込められていた。三成はその言葉に反発し、心の中で葛藤していた。「しかし、私の忠義は…」三成が言いかけると、大谷は続けた。「忠義とは、時に冷静さを失わないことだ。あなたの恩に報いるため、私は味方する」その言葉に、三成は驚きと感謝の念を抱いた。「私のために、命を賭けるのか?」三成は目を見開いた。大谷は頷き、決意を固めた。「共に戦
こんにちは!簿記今やり尽くして疲れたのでサワー飲みながら、フジファブリックのLIVEDVDを観ようとしたら、機器が不具合なので、違うことを書き連ねますね。私は元々武将は石田三成、直江兼続推しなんですが、昔大河ドラマの「真田丸」の(脚色はありますが)直江状を見聞きして、より深く直江兼続への愛が増しました。それを思い出しましたので、書こうと思います。親石田三成派だった直江兼続からしたら、秀吉死後の家康の勝手な振る舞いに不満がないはずはありません。。仕えていた上杉景勝とともに政治を行い、当