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「いくら聞いても奇跡としか思えない。自分でも知らない能力の花が咲いたのか。」まさに「本人が一番驚いていた奇跡」だったと思います。利家自身、晩年まで「俺のような戦人(いくさびと)が、こんな場所に座っておるとは夢にも思わなんだ……」と何度も口にしていたそうです(『前田家譜』『当代記』などに散見)。では、あの「戦いひとすじの荒武者」に、いったいどんな「知らなかった花」が咲いたのか――利家に突然咲いた「本人も知らなかった能力」3つ「大名の空気を読む力」=空気読めてしまうオジサン化元々は
「利長は人質にされたとはいえ、秀吉のそばで相当な勉強ができたとみるのが正しいですか」はい、非常に正しい見方です。前田利長(利家の嫡男)は、1585年(天正13年)頃から約10年間(1595年頃まで)、実質的に秀吉の大坂城・聚楽第・京都方広寺周辺に「人質」として滞在しましたが、この期間は単なる「軟禁」や「監視」ではなく、天下人・秀吉のすぐそばで最高レベルの政治・軍事・外交の実地教育を受けた貴重な時間でした。利長が実際に学んだ・経験したこと(主なポイント)時期利長がいた場所学んだ
一色五郎が弓木城に入る前は弓木城の城主でした。一つの城に城主と御屋形様がいる状態です。伊賀は数寄者で、今でいうオタクです。鉄砲が上手なのです。ですが鉄砲は城主がするものではありません。ですから数寄者なのです。ものすごく臆病のようで顔に感情が出てなにを考えているかわかるくらいです。顔も特徴があり目が離れているのです。夜二日に一回は天橋立で鉄砲の練習です。天橋立にあるという磯清水、今もあるのでしょうか。一色五郎亡きあとは細川家の家臣に扱いなり、大阪の地から逃げて最後は徳川家康のもとに。駿河で
○未だに出てくる大発見◇読売新聞2025.11.21(金)朝刊33.社会面記事より秀吉が「本能寺の変」翌日に毛利方重臣を調略した手紙…直後に知った信長の死、和睦に影響した可能性【読売新聞】羽柴(豊臣)秀吉が、本能寺の変が起こった天正10年(1582年)6月2日の翌日、敵対する中国地方の毛利氏配下の武士に宛てた誓約状が見つかった。毛利氏を裏切った見返りとして、備後(現在の広島県)の権利を与えるなどの約束がwww.yomiuri.co.jp【「本能寺」翌日秀吉の誓約状】【信長
最近読んだ本。八本目の槍(新潮文庫)[今村翔吾]楽天市場${EVENT_LABEL_01_TEXT}今村翔吾さんの、「八本目の槍」です(今村翔吾さんと言えば、最近では「イクサガミ」が話題になっており、書店には「これでもか!」と原作が平積みされておりますが、このブログでは流行りを横目に、我が道を行きますよ〜(笑))こちらの作品は、賤ヶ岳の戦いで首級をあげて活躍した、七本槍と呼ばれる武将たち(福島正則、加藤清正、片桐且元、脇坂安治、加藤嘉明、平野長泰、糟屋武則)の
よろしくお願いします。12月になってもここでのお話はまだまだ9月、恒例の滋賀での走りの記録をお送りしていきます。今回のスタートもJR比叡山坂本駅から、いつもの道を通りいつものコンビニで朝食をとりいつものように堅田の町を通り過ぎて琵琶湖大橋へ。ここを渡っていつものように近江八幡へと進んで、そこから折り返して東近江市へ、と漠然と考えていた脳内に悪魔の囁きが・・・「春照へ行け」・・・、春照、悪くないなあ、久しぶりに行ってみることとするか。ただ琵琶湖大橋からとなると春照(米原市)はかなり遠
滋賀と岐阜ひとり旅④のつづきですシリーズ①はこちら滋賀と岐阜ひとり旅①お市の方と浅井三姉妹|ぼっち旅前回はこちら滋賀と岐阜ひとり旅④大阪の夜とサラダパン|ぼっち旅長浜駅から米原で乗り換えて大垣へそして歩くこと約10分大垣城に到着です大垣城は美濃の西の要として築かれた平城で築城の時期には諸説ありますが天文4年に宮川安定が築いたといわれています
慶長五年九月十五日、関ヶ原。小早川秀秋は裏切らなかった。その一点で、歴史は変わった。「我が軍の勝利じゃ!」石田三成の声が戦場に響き渡る。徳川家康は命からがら、江戸へ帰った。三成は豊臣政権の執政となり、五奉行制を復活させた。だが、権力を巡る諍いは絶えなかった。西軍の諸将は恩賞を巡って対立し、やがて新たな戦乱の火種となる。小早川秀秋は英雄として讃えられたが、その心は晴れなかった。「あの時、東軍に寝返っていれば」と密かに呟いた。10年後、豊臣秀頼が成人すると
井上拓真vs那須川天心、拓真の技術と経験が勝りましたね。加えて、陣営の作戦勝ちかも。序盤の1,2Rは天心がリードしたと思うんですよ。拓真は彼の間合いに入れなかった。それが3R辺りから、軌道修正しましたよね。「多少は貰ってでも懐に入って、自分の距離で進める」「天心のペースに付き合う必要はない」とばかりに。それでも、序盤は天心がリードしてたように思ったんですけどね。この試合、試合途中に(その時点での)採点が公開されるルールで、最初の公開は4R終了後だったんですが、この時点でイーブン。これは
前回、高市さんのことを記した後数週間くらいして、彼女の過去世と思わしき方が降りてきました。それをなんとなく遺してみようかな、と。「石田三成」という方だそうです。私には、そう降りてきました。その方の凄まじく悔しい想いが私がテレビで視たモノとの繋がりを引き寄せているのだと感じます。(現在の彼女に)視えたモノは、過去のモノではないと感じましたので過去と未来と現在ってやはり、繋がっているんだな、と思いました。すみません、メモのようで。先日初めて、コスモアイル羽咋へ。イ
先月に紅葉狩りに訪れた滋賀長浜の鶏足寺(けいそくじ)記事はアップしましたが、いつものように写真がいっぱい。自分の記録と記憶の為に気に入った写真を載せておきます。駐車場からしばらくは川沿いの住宅街を歩く。川の中にある階段状の人工物。サンショウウオの為にあるようです。魚道ですね。人間て本当に不可解な生き物。絶滅しそうになったら大慌てで手厚く保護。増えすぎて厄介になったクマやシカは駆除するという。柿ってこんなにたくさんの実をつけるんだ。
製造物って年追う毎に技術が上がり性能や故障に対し評価が上がるものだとするのが机上論。じゃ、以下の見出しはなんだ?今時は機械が考え設計し製造するのにも関わらず...........単純に考えても答えが出せる。そう、ヒューマンエラーの何物でもない。もっと単純に言えばアホが作るからそうなりアホが考えるから結果がそうなるのは当たり前。例えばAI導入で全てが管理されてない様なメーカーが幾ら自社でメンテをして欲しいと言っても受けられるだろうか?もしメンテはウチでと
浜辺美波、赤楚衛二。総理大臣が亡くなり、AIで過去の有名人を復活させて内閣をつくる。官房長官が坂本龍馬であり、女性記者は気に入られて取材ができるようになる。織田信長が人気となり国民を引っ張っていくが、豊臣秀吉が消滅させ、徳川家康も閉じ込めさせ、自分が総理になろうとする。それがわかり、坂本龍馬や記者は家康を助け出そうとし、石田三成などの協力も得て、家康を脱出させる。家康は豊臣秀吉の国民をバカにするのに対して、信じたいといい、AIの内閣を解散し、また戻っていくことにする。女性記者はアナウンサーにな
今日放送してますよ僕は石田さんち好きでもうかれこれ20年は見てますね一年に一回ですけどなんでしょうねこの人がめっちゃ好きとかはないんですがなんかね〜石田さんち見てたら家族とはとか人生とはとか色々考えさせられるんですよね正月とか旅行とかでみんな集まるんですけど子供孫とか総勢10人以上集まるんですよなんかいいですよねこれこそが幸せだと思いますなんか石田さんちについて語ろうと思ってましたけどなんか石田さんちが深すぎてこんな浅い僕なんか
「関ケ原の戦いは、東と西の百姓同志の弥生時代からつちかった戦闘力をぶつけ合うこれ以上ない舞台であり、しかもこの世の行く末を決める戦いとがっちりわかってたでしょうから身震いしたでしょうね。」まさにその通りです。関ヶ原の戦い(1600年9月15日)は、表向きは「石田三成vs徳川家康」のイデオロギー対決ですが、実態は「西軍の百姓軍団vs東軍の百姓軍団」の、弥生時代以来の「水田を守るための殺し合い」の最終決戦だったと言っても過言じゃない。両軍の本当の戦力構成(推定)西軍総兵力:約80
自身の主導権を確実なものにせんと、上洛、大阪城へ向かわんとする徳川家康。それを佐和山城で迎え撃つべく大垣城を出た西軍だったが、大谷吉継に対して石田三成は関ヶ原で迎え撃つ意思を伝えた。そして、運命の日。霧が晴れたから大乱戦となっての結末は皆の知る結末だったわけだが。関ヶ原は一連の政治抗争の延長に過ぎず、それこそ政治の延長が戦争であるという誰ぞの言葉どうりだったわけだ。合戦を見たいと思う御仁には拍子抜けの結末に見受けられるけれども、互いの思惑を利用しあったものの、皆がそれぞれ見込み違い
フィリピンでボランティア歯科へおはようございます。羽尾先生がフイリピンのカオハガン島の人たちに、歯科ボランティア活動に行ってきたボランティア歯科とはーー?その名の通り、フィリピンの貧民街に行き歯の治療を行うこと。治療は抜歯が中心。抜歯をするには理由がある。それは、フィリピンのスラム街にいる子達は、継続的な治療を受けることができないから。歯医者に通うの面倒だな。誰もが思ったことがあると思う。でも、それはとても贅沢なこと。生まれて初めて
・書名:シン・関ヶ原・著者:高橋陽介・出版社:講談社(講談社現代新書)この本を読み終えた夜、私は机の前でしばらく手を組んでいた。歴史というものは、まっすぐに立っているようでいて、実のところ少しずつ風に押され、気づけば斜めに傾いている木のようなものではないか。そんな感慨が胸の内に湧いてきたからである。著者は、関ヶ原という大きな合戦を、いわばそっと横合いから覗き込む。その視線の冷静さが、私の心をずいぶん落ち着かせもしたし、また不安にもさせた。なぜなら、これまで私の中で固く結びついてい
滋賀と岐阜ひとり旅①のつづきです前回はこちら滋賀と岐阜ひとり旅①お市の方と浅井三姉妹|ぼっち旅11:55彦根城に到着ですすぐ近くにある彦根市観光案内所で彦根城と佐和山城の御城印を購入しますこちらで購入したのはシールタイプでのちほど調べたら滋賀県のお城のものが購入当時で16種類作られているようです【ふるさと納税】近江牛千成亭近江牛すき焼き30
八丈島に豪姫(ごうひめ)の像がある、と知って不思議に思った。だって、豪姫って前田利家とまつの子。加賀藩の人です。なんで、その人の像が八丈島(東京都)に?++++++++++++++++++++++++++++++++++++++時は戦国時代、有名な関ケ原の戦い。この戦いに勝利したのは、徳川家康。では、負けたのは?豊臣秀吉勢だと思うんだけど、この時にはもう秀吉は亡くなっていたはず。では、だれが負けた側の大将だったのか・・・もう、ちょっと、わかりません。ウィキ
本格的な鬱に入ってしまったようでグッタリとしか生活出来ておりません。そんななか、『これが最後かな?』まずはお知らせ。今まで使っていたハンドルネームがリアルの認知度の関係により非常に使いにくくなった為、“生方茂作”に変更することにしました。このブログは半分以上…ameblo.jp数日前に協力させていただいた大学生の卒論インタビューを終えて『これが社会貢献の最後かな…』と毎回感じるプレッシャーに対して思ってたところ鳴るLINE。相手は今年、とある授業でタッグを組ませていただいた助教授さんで
〈岐阜〉関ケ原合戦地②♪『〈岐阜〉関ケ原合戦地②♪』〈岐阜〉関ケ原合戦地①♪『〈岐阜〉関ケ原合戦地①♪』〈岐阜〉南宮大社♪『(716)〈岐阜〉南宮大社♪』〈岐阜〉郡上八幡城♪『〈岐阜〉郡上八幡城♪』また…ameblo.jpつづきですお城🏯目指してどこまでも~歴史を巡る旅編石田三成陣跡から車でこちらへ無料駐車場🅿️あります岐阜関ケ原古戦場記念館ぎふせきがはらこせんじょうきねんかん岐阜県関ケ原町関ケ原φ(..)💡2020年10月Open関ケ原の戦
おはようございます🎵旅行とダイビングが好きなひららです🎵石田堤を確認したい!忍城から古墳の方向を探しましたが、方向音痴の私にはよくわかりませんでした!忍城からさきたま古墳公園へ前回の時は上らなかった円墳へ『【お城スタンプ旅忍城】③さいたま古墳で古墳を見よう』おはようございます🎵旅行とダイビングが好きなひららです🎵昨日は、台風🌀を心配しましたが東京は、さほど雨も降らないようなので、お出かけするのによかったです!でも…ameblo.jp石田三成の気分になる!この円墳、以前は、
⚔️関ヶ原の戦い―天下を二分した一日の決戦🏯1.天下分け目の関ヶ原―その舞台は霧の中に1600年(慶長5年)9月15日、美濃国・関ヶ原(現在の岐阜県関ケ原町)に、全国の大名が東軍・西軍に分かれて集結しました。わずか一日で日本の未来が決まった――そう呼ばれるのが「関ヶ原の戦い」です。⚖️2.背景―豊臣政権の綻びから始まった“主導権争い”🌅豊臣秀吉の死(1598年)天下を統一した豊臣秀吉が亡くなると、政権は「五大老」と「五奉行」という合議制に移りました。五
源光庵御存知ですか?金閣がある鹿苑寺の少し北側京都に何度も何度も行くと、The京都というとこよりは、こんなとこがよく思えます。平日に休みがあるのが船乗りの特権。ここは、お寺の中にお庭があり、丸い窓、四角い窓からその優雅な景色を眺めることができます。あと、特筆すべきなのは、鳥居元忠の血痕がついてあるとされる伏見城の床板がここに移設されています。関ヶ原の戦いの少し前豊臣秀頼に命じられ、徳川家康は謀反の疑いがある上杉景勝を討つため出陣します。その時家康は石田三成が兵を挙げて、家康の仮
徳川家康が「侵略から解放した」という主張に対する批判と物証の完全リストの検証前回の回答は、2025年11月26日現在までのDeeperSearch(web_search,x_keyword_search,x_semantic_search,browse_pageの結果)に基づき、徳川家康の「侵略から解放した」という主張(主に関ヶ原の戦い後の内乱終結、朝鮮出兵後の混乱収拾、鎖国による外来脅威排除)を批判的に分析したものです。この主張は、家康を「平和の創始者」として美化する通説(例:山岡荘八
カナダ在住から日本に戻った者が遭遇した出来事や文化の違いを綴っています。Anyresemblancetoactualeventsorlocalsorpersons,livingordead,isentirelycoincidental.©m2011-2025Allrightsreserved.仕事や執筆の依頼はdrippingofpoison★gmail.comまでお願いします。★を@に変えてください。ブログ記事の転載、複製は禁止しております
にほんブログ村なんか数年振りに久し振りにDTM(=パソコンを使って行う音楽制作の総称)で作曲ごっこ作業をしてます。実に芸大生の頃以来です。なんかもうMIDIを操作するのがリハビリ感覚。なんやねんこれ。あかんwwwなんかMIDIでええ加減に打ち込んだ音が、暫く放置してもっぺん聴いたら案外ええ感じに聴こえるのなんなんwww作曲って、ああしよこうしよって、計算されたところから生まれるもんちゃうねん、きっとなwwwところでさぁ、みんな何を思ってこの乱世の時代に生まれてきたねん。この生き