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🌿🌿🏡🌿🌿🌿🌿🌿🌿🌿🌿🏡《年間ベストショット2024》9月・荻窪・代田橋荻窪9月はいつものような長期にわたる連載記事がない代わりに小ネタが多く、したがってあちこちの町を訪れているため、必然的に写真の数が多くなってしまったなので、解説はなるべく簡潔に、というより解説ではなくコメント、キャプション程度に抑える。でないと読み終えるのは一苦労だろうまず
🏡🏡🌼🏡🏡🏡🏡🏡🏡🏡🏡🌼《年間ベストショット2024》11月・行田市①今回から2024年度、最長の連載「行田市」編がはじまる。この土地は僕にとって完全にアウェイのため、以前この近所に住んでいた元地元民であるブロ友みぽぽんさん(以下敬称略)に、ガイドをお願いしたなお行田市に関しては撮影枚数が700カットを越える渾身の取材のため、写真点数が異様に多いため1回の記事では収まらず、11月は前後編でお届けする行田市は小説や映画にな
****川崎市で最も高い場所は、町田市との市境に近い黒川の山のなかで、標高120メートル程度であるちなみに黒川は、小田急多摩線のマイナーな駅で町田市小野路の小島資料館に、布田道を行った記事を過去に掲載しているが、たしかにすごい山道だった横浜市は意外なことに、山頂ではなく鎌倉市との市境にある山の途中が最も高い。つまり美味しいところは、鎌倉市に持って行かれてしまっているわけだしかし、川崎市で最も高い場所にある商店街は、前回の横浜市港北区
****京急羽田線の大鳥居駅の先で、環八から横道に入って京急の踏切を越えると、そこは微妙な商店街になっていた。観音堂商店街である羽田道の商店街は、駅とは広い道で分断されているわりに、けっこう賑わっていたが、こちらの商店街は店がまばらにあるだけで、ひと通りも少なく寂れた印象だったこのように、営業している店は、あちこちにあるのだが、並んではおらず点在している感じで、住宅街に埋もれようとしている雰囲気は、駅から離れた
🏡🏡🚑🏡🏡🏡🏡🏡🏡🏡🏡🚑③天然理心流、自由民権運動の青木医院閑散とした相原駅前のすぐ近くを通る道(相原停車場線)に出たとたんに、驚くほど長く続く黒板塀を備えた巨大な入母屋造りの農家の建物があった駅前からは緩い坂道を下り、そのすぐ先で左に直角に曲がると旧町田街道だが、曲がったとたんに今度は……まるで寺院のように立派な四足門と入母屋造りの納屋のような建物が並ぶ豪農屋敷が目に入ってきたあと少し門を一体
🐬🐬👧🐬🐬🐬🐬🐬🐬🐬🐬🐬①イメージとのギャップに驚く東京の中野区にある新井薬師に関する短編記事を挟んだあとは、再び房総エリアの記事に戻る今でこそ房総方面に関して偉そうに語っているが、正直、訪れた以外の場所に関しては、僕にとって未知という意味合いにおいては、鴨川も上総一ノ宮もアラバマやアーカンソーと大して違いはない要するに、どこにあるのか、また、それがどのような雰囲気の町なのか、まったく知識がなく、地図を見せられて「さあ、
🏠🏠🍖🏠🏠🏠🏠🏠🏠🏠🏠🍖③次第に消えゆく昔の淵野辺の町並み前回の記事の最後でセカスト以外の目的地である1951年創業の老舗洋食屋「上海ジミー」にて衝動的に「牛すじ丼」を食べた顛末まで記したそして、この記事は最初の淵野辺散策から2週後に書いているのだが、前回2度めの取材と書いたが、じつはこの記事は3度めの淵野辺取材から帰る途中の車内で書いているつまり、この2週間のあいだに淵野辺には3度訪れ当然のように「上海ジミー」も3度訪れ
****小仙波界隈その②さて、前回の記事で予告したとおり、川越に残る遊郭の跡地を散策する。跡地といっても川越の場合、首都圏では稀なことに遊郭建築が、ほぼそのまま残されているということは、大都会でもない小さな城下町の川越には、弁天横町のほかにも遊郭跡があることになり、これは首都圏のみならず全国的にも稀な例だろう前回の記事に掲載した銅板葺き看板建築とは、喜多院の反対側喜多院の西側の裏手のひっそりと
🏡🏡🍶🏡🏡🏡🏡🏡🏡🏡🏡🍶①駅前商店街すらない駅前に降り立つ相模原市の政令指定都市への野望は、近隣の町を強引に併合することにより成就し今や横浜市、川崎市に次ぐ神奈川県第三の政令指定都市になったそのおかげで古い町並みなど皆無だった市内に、旧甲州街道の宿場町、与瀬と津久井道の中野という、江戸時代から続くふたつの宿場町が相模原市所属の古い町並みになった相模中野は、Googleマップを見ていて何気なく発見したが、白紙撤回された
みなさま!新年あけましておめでとうございます。旧年中はたいへんお世話になりました。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます(≧∇≦)!という新年のご挨拶もそのままに鎌倉街道中道(なかつみち)歩き第4回のその4に入ります。歩いたのは11月3日(日)=文化の日で、歩行ルートや立ち寄りポイントは以下地図の通り。歩いた距離は全部併せて16kmをちょっと超えるくらい。その3では、鎌倉街道中道が延々と世田谷区/目黒区の区境になっていることや、その区境に残る廃アパートとみられるシブい物件をしげしげ
****首都圏の各地に古い建物を探して歩き回っていると、戦禍を免れた東京の下町あたり(上野から御徒町界隈など)を除くと、そのほとんどが、街道沿いに残っていることがわかるところが、街道沿いとはいっても、中途半端に都心部に近い三軒茶屋や中野坂上、田無などは、戦前から栄えていた町なのにも関わらず、台東区台東三丁目などに見られる、昭和初期の銅板葺きの看板建築などのような古い建物は、皆無と言ってよい川崎市において、戦前から栄えていた町は、東海道の川
🏠🏠🌃🏠🏠🏠🏠🏠🏠🏠🌃⑤昭和初期建造ピンクの洋館・横田診療所古い建物は次々と取り壊されてしまい、すっかり越谷宿の面影を失ってしまった旧日光街道であるが、前回の記事に写真を掲載した2棟の出桁造り商家が向かい合う場所では、わずかに宿場町の姿を偲ぶことが出来たしかし、出桁造り商家の周囲は更地ばかりが目立ち街並みとしては壊滅的な打撃を受けており、それだけではなく商店街としても成立しなくなってしまっていたこ
👒👒☕👒👒👒👒👒👒👒👒☕《年間ベストショット2023年》8月・高円寺・野方--ということで、7月から引き続き高円寺の散策である現在は古着禁止令の真っ最中なので訪問頻度は激減しているが、絶頂期には週に1、2度は確実に出掛けていた町である。ちなみに預金残高を勘案した結果、禁止令は2月いっぱいまで延長が決定したこれはもう、どうにも出来ないギリギリの線で、なるべく古着屋を覗かないようにしないと。あっ、でも念のため初売りには行くけどな
🏰🏰🏰🏰🏰🏰🏰🏰🏰⑮ディープな飲み屋街の外周を歩く商店街の全体が廃墟のような中央銀座商店街を象徴する巨大な映画館廃墟「オリオン座」の裏手にある、車も通れないような細い路地には、北関東でもっともディープと言っても過言ではない飲み屋街があるまず最初にオリオン座の真裏の路地に入ってみたら、たちまちその怪しくも毒々しい雰囲気に魅せられて、夢中で写真を撮りまくったまだ夕方の早い時間なので、飲み屋が営業するような時間帯ではなく、あたりにはひと気
🍺🍺🐺🍺🍺🍺🍺🍺🍺🍺🍺🐺《年間ベストショット2024》7月・大山・板橋本町大山さて前月の中山道の仲宿の入り口を横切っている王子新道を、南方に10分程度歩くと東武東上線・大山駅の東口商店街「遊座大山商店街」にぶつかる「遊座大山商店街」は、ほとんどの店が飲食店のような印象の町で、昔懐かしい雰囲気の中華料理屋、居酒屋がある一方、駅前付近は全国チェーンの飲食店が目につく
****ずいぶん中断していたので、もう忘れていると思うが、埼玉県の宿場町シリーズ第一弾、小川町の続きであるさて、前回までは東武東上線の小川町駅周辺と、国道254号線、南裏通り、北裏通りの町並みを紹介してきた一般的な価値観では、この界隈をくまなく回れば、小川町に残る歴史的な価値の高い建造物はだいたいフォローできるので、ネットで検索してみると、ほとんどのブロガーは、ここで小川町を理解したと判断するようだが、それは間違ってはいないだがしかし!
🔨🔨♎🔨🔨🔨🔨🔨🔨🔨🔨♎②田中屋、灰吹屋、稲毛屋、老舗の矜持・1前回の記事の最後は思わせ振りに終わったが、演出でもなんでもなく単に写真がやたらと多くなったからで、とくに深い理由はない(というか、今回のシリーズは建物がロストの場合、過去に撮影した写真で補うので、写真多めになる)だが、高津図書館の入り口の隣にある廃業した平屋建ての看板建築の隣にある物件は、思わせ振りにした価値のある物件であることは間違いないというのも、その物件
🏠🏠🐤🏠🏠🏠🏠🏠🏠🏠🏠🐤④青木家の裏山と町田街道の看板建築相原駅を降りて駅前通りの相原停車場線から旧町田街道沿いに出ると、あと一歩で長屋門になりそうな納屋と四足門を組み合わせた門構えの豪農屋敷があったこの駅前付近を横切る相原停車場線という道路は、町田市でもっとも短い都道171号線だが、踏切のアンダーパス化に伴い廃止される予定だそうだ都道から旧町田街道に曲がると、いくらも行かないうちに見えてくるのが薬医門を備えた巨大な茅葺き屋
🏠🏠🍚🏠🏠🏠🏠🏠🏠🏠🏠🍚そして辿り着いたのは廃墟の町・2菖蒲の散策はこの図(┻╈)の左側からはじまり、ついに(╈)の上側の(〡)細い縦線まで到達した菖蒲のメインストリートの十字路の反対側は、商店街としてはすでに終わった雰囲気が濃厚で、曲がるとすぐに2棟の廃業した商家、そして戦前の建造物だと思われる元は旅館らしき廃墟があった廃墟の斜め向かい側にも一目で廃墟だとわかる、前回の記事にチラリと端だけ見せて思わせ振りに終
🏠🏠🌉🏠🏠🏠🏠🏠🏠🏠🏠🌉①リノベーション物件が目立つ古い商店街ということで今回から前回の明大前からふたつ新宿寄りの駅である幡ヶ谷を散策する。逆方向から見ると新宿からわずか2駅の場所だといっても、都内およびその近郊にお住まいでない方には、何のことやらサッパリわからないと思うので比較的広域の地図で説明するともうすぐ隣は新宿駅と西口の副都心部であることがわかるだろう興味深いのは、このあたりは区境が錯綜
🚙🚙🍶🚙🚙🚙🚙🚙🚙🚙🚙🍶④小町大路の土蔵造り商家と旧車大路に驚く鶴岡八幡宮の真ん前を横切る北鎌倉から続く道を、小町大路に曲がると、そこには面白味の欠片もない平凡な町並みが続いていたやけに交通量が多いその通りを、少しガッカリしながらすすむと、北鎌倉からはじまった鎌倉散策シリーズにおいて、もう何棟目にしたのか忘れたぐらいたくさんあった房総スタイルの古民家を発見したこれで俄然「さすが鎌倉だ。やはり期待に応えてくれるぜ」と、散策する
昨日の続きになりますが神田錦町を歩いた後、久しぶりに神保町へ出て来ました。ここをゆっくり歩くのは数年ぶりかも。なので、ここは楽しみながら気ままに歩いてみよう!ほとんどの店がまだ正月休みでしたが。神田すずらん通りも人影まばら。でも文房具の老舗、文房堂さんは開いていました。いつ見ても素敵なビルですね。ドアの上はニャンコでしたガードレール代わりのポールもスズラン
🎵🎼🎼🎼🎼🎼🎼🎼🎼🎼🎼🎵final中心街の外れで謎の洋館を発見そういえば、前回の記事の前おきを書いていたとき、ファッションというか洋服に目覚めたのはいつだろうか?--という疑問が思い浮かんだ。考えてみると……おそらくそれは、小学校高学年の頃、クラスメートが教室に持ち込んだそいつの兄貴が購入した「POPEYE」という雑誌を見たときからではないかと思われるその号は、たしかイラストレーターの穂積和夫氏描くところのアイビーボーイが表
🏠🏠🚑🏠🏠🏠🏠🏠🏠🏠🏠🚑⑧もじゃアパートと大正13年の平塚医院現在は中野区に所属している江古田は、かつての江古田村である。その村人が新田開発により拓いたのが練馬区に所属する江古田新田であったその新田に大正時代(大正13年/1924年)に西武池袋線が開通して駅が開設されることになり江古田駅が出来たが戦後になり江古田村は中野区に、江古田新田のあたりは練馬区になったこのあたりの経緯は複雑な上に不確定要素が多くシリーズ最初に記した西武が「え
🏢🏢💃🏮💃🏢🏢🏢🏢🏢🏢🏮④田中屋、灰吹屋、稲毛屋、老舗の矜持・2前回の記事は、たった3つの物件を紹介しただけで終わってしまったが、今回も似たようなもので、タイトルにある「灰吹屋」「稲毛屋」「田中屋」の紹介だけで終わる予定だなんといっても、かつての矢倉沢往還(大山街道)の面影を残す建物は、もうこの3軒しか残っていないのだからところで「灰吹屋」の隣にある秤屋から茶舗になったほうの「田中屋」には、まったく触れていないが、こっちの「
****しばらく横浜の記事が続いたので、今回は東京に戻る、といっても最近激しくハマっていた東京のDEEPEASTではなく東京の西側、多摩地域である少し前に三鷹から吉祥寺まで歩く記事を上梓したそちら側は「コレ」といった目玉の物件がなかったが、今回は、目玉物件があるかつて三鷹駅の北口から歩いてすぐの場所にあった赤線……いや結局、住民運動によって赤線になる前に潰されてしまったので、正確には青線の跡地を見にゆこうというわけだ赤線とは
💃💃🐘💃💃💃💃💃💃💃💃🐘《年間ベストショット2024》8月・西荻窪・八王子西荻窪8月の頭は中央線沿線のディープな町、西荻窪からはじめた。こちらもブロ友Mちゃんと回ったが、単なるデートではなく古書店巡りというテーマを設けた西荻窪は僕が学生の頃から馴染みの町で、当然、その頃から目当ては古書店であった現在もかなり古書店は残っているが、当時よく本を買っていた自然科学に強かった「花鳥風月」は、いつの間にか閉店してしまって
🏠🏠🏭🏠🏠🏠🏠🏠🏠🏠🏠🏭⑥撮影できなかった廃墟と繭蔵に驚く加須駅前から真っ直ぐ伸びるメインの商店街と直角に交差している細い路地には、洋館の篠原医院をはじめとして、出桁造りの旅館だったらしき建物や、もう1棟の洋館の内田病院などが残っていた現在は商店街としての役割を、なかば終えてしまっているように寂れていたが、往時はこちらも商店街として繁栄していたのだろう洋館の内田病院を過ぎてしばらくゆくと、さすがに並んでいる店
🏠🏠🔨🏠🏠🏠🏠🏠🏠🏠🏠🔨②旧町田街道の鉄工所と平屋看板建築相原駅を降りて駅前広場(というほど広くはないが)と数軒の飲み屋しかない商店街(街というほど店はないが)の緩い下り坂を下ったところを、旧町田街道が通っている町田街道は安政年間に鎖国を解き貿易がはじまると絹の集散地である八王子から横浜まで絹を運ぶ街道として栄え、この街道沿いに多くのシルク成金を生み出したもっとも、この絹バブルは長くは続かず、明治時代中期には中国など他の
🏢☁🏢☁🏢☁🏢🏢☁⑤たどり着いたら廃墟と更地の町高崎の町は城下町と宿場町の性格を合わせ持っているかつては各地からの物流の集散地として、いくつもの市が立ち中山道で4番目に大きな町となり、お江戸見たけりゃ高崎田町。と、言われるほど繁栄していた。そして近代以降も東北、北陸への交通網の分岐点として、群馬県でも屈指の大都会になった――という話は、もはや過ぎ去った過去のことで、現在は深刻な空洞化にさらされ、中心街は閑古鳥が鳴いており、そんな大都会だ