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【問題】【日本城郭検定準1級】ある城の評判を聞いた森忠政が、津山城築城にあたって家臣の藪田助太夫を派遣し検分した城はどれか?【選択肢】岩国城高松城今治城小倉城【正解】小倉城【解説】小倉城の天守の評判を聞いた森忠政が築城にあたって家臣の薮田助太夫を派遣し、海上から検分したところを見つかってしまった。事情を聞いた小倉城主の細川忠興は、薮田一行を城内に招き入れて好きなだけ調査させ図面まで手土産に持たせたという話が伝わっている。問題・解説文提供:「日本城郭検定」
【問題】宇陀松山城が廃城となったのは、次のうちどのタイミングか?【選択肢】松永久秀が自害した際小牧・長久手の戦い直前福島高晴が改易された際島原の乱鎮圧の1年後【正解】福島高晴が改易された際【解説】宇陀松山城(奈良県宇陀市)は、関ヶ原の戦いの後、福島高晴が入っていたが、高晴が大坂夏の陣での豊臣方への内通疑惑で改易されると、破却され廃城となった。
【問題】≪難問≫淡路各地に城を築いて割拠した安宅氏の一族を、次のうち何と呼ぶか?【選択肢】橘廿一旗淡州十七要害安宅八家衆瀬戸内三家【正解】安宅八家衆【解説】戦国時代、淡路島では安宅(あたぎ)氏が頭角を現し、洲本や岩屋など島内各地に城を築いて割拠した。これら主だった者たちは「安宅八家衆」と呼ばれた。
【問題】武田家臣・馬場信春は、数多の戦で傷一つ負わなかったことから、次のうち何という異名をとったか?【選択肢】攻めの三左天正の楠木不死身の鬼美濃無双の剛の者【正解】不死身の鬼美濃【解説】信春は武田家において、戦歴約40年の中で一度のかすり傷さえ負わなかったため、美濃守の名乗りから「不死身の鬼美濃」、「不死身の馬場美濃」の異名をとった。
【問題】【日本城郭検定準1級】秀吉の信頼が厚かった中村一氏は各地の城主に任じられたが、次の城の中で城主でなかったのはどれか。【選択肢】大和郡山城駿府城水口岡山城岸和田城【正解】大和郡山城【解説】中村一氏は羽柴秀吉時代の家臣で、天正11年(1583)に岸和田城主、次いで水口岡山城主、駿府城主を歴任し、関ケ原の戦いを前に病没した。問題・解説文提供:「日本城郭検定」
【問題】天正12年、根来衆らに岸和田城が攻められた際、城主・中村一氏をあるものが救った伝説とは次のうちどれか?【選択肢】龍神池伝説狐偽旗伝説麒麟雲伝説蛸地蔵伝説【正解】蛸地蔵伝説【解説】蛸に乗った法師と蛸の大群が、落城寸前の岸和田城を救った伝説が残る。後に夢で法師が地蔵菩薩の化身だと知った一氏は、地蔵菩薩を祀り、それが「蛸地蔵」と呼ばれるようになった。
【問題】【日本城郭検定3級】復元された御殿の中で昭君之間がある御殿はどれか?【選択肢】名古屋城御殿佐賀城御殿掛川城御殿熊本城御殿【正解】熊本城御殿【解説】熊本城は築城の名手・加藤清正が築城し、慶長12年(1607)に完成した。本丸御殿にある「昭君之間」は「将軍の間」の隠語で、加藤清正が有事の際に豊臣秀吉の遺児・秀頼を迎え入れるための部屋という説があるほど、清正の忠誠心は厚かった。問題・解説文提供:「日本城郭検定」
【問題】新納忠元が定めた規範で、その後の郷中教育の基礎にもなったものとは、次のうちどれか?【選択肢】『二才咄格式定目』『宗竺遺書』『高山公遺訓』『異見九十九箇条』【正解】『二才咄格式定目』【解説】忠元は島津家中において、文武両道の人物として知られる。晩年に定めた『二才咄格式定目(にせばなしかくしきじょうもく)』は、その後の郷中教育の基礎として用いられた。
【問題】天正18年に中村一氏が与えられた地は、次のうちどこか?【選択肢】越前府中駿河府中甲斐府中備後府中【正解】駿河府中【解説】中村一氏は、天正18年(1590)小田原攻めの際の戦功により、豊臣秀吉手ずから陣羽織を賜わり、徳川家康の領国と接する駿河府中(駿府城)を与えられた。