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1月2日に親戚と集まったのですが、帰ってきてから、この日に親戚たちと交わしたたわいもない会話の中に、次のミッションのサインが散りばめられていたことに気付き、衝撃を受けました。どんなサインだったかは細かすぎるので書きませんが、呼ばれた場所は大阪の住吉大社でした。住吉大社なんて、お正月なら誰でも参拝してるやん!と思うかもしれませんが、『神様に呼ばれて行く』、『サインをキャッチして行く』人は少ないかと思います。『神様に呼ばれた時のサインと意味✩ライトワーカーについて。』ヒーラーのAkaneさ
スカイツリーのお膝元墨田区へやって来ました梅雨空が暗っ^^;けど歩くには今回の散策は、こちらの小説を読んで思い立ちました。時代は戦後、北海道から上京した娼婦八重子が働く場所を探して挙がった赤線地区洲崎、玉の井、鳩の街。今は聞かぬこれらの場所がどこなのか、どうなってるのか気になり、散策も兼ねて出掛けてみた次第ちなみに八重子は、亀戸で働くことになりますが、借金のために働いた戦前、混乱の戦後、1956.7年買春禁止法が発令する頃まで、明るい性格でそれほど悲壮感なく描かれてます。(メインは貧困の
****前回の後半で紹介したフジヤマ出桁造り物件の通りは、昔は商店街だったような雰囲気が感じられたが、それが近代に継続されることはなく、静かに住宅街に埋もれているように思えたその通りが大通りにぶつかったところにもこんな物件があった「三伸金属」という古そうな町工場であるこちらは、一見、戦後の新しい建物に見えてしまうが、ブリキの波板で増築された部分ではない建物の本体を見ると、どうも出桁造りの建物に外板を張った
****永井荷風がまるでラビリント(迷宮)のようだと表現したように、玉の井の路地は、今も迷宮のごとく入り組んでいた右に曲がり見通しの悪い路地を左に、ぐるっと回ってまた曲がったら「あれっ、ここはさっき通ったぞ」なんてことが、何度も起こるのだそして、あちこちで建物の取り壊しが行われており、築地と同じように、やけに更地が目立っている。この赤線の遺構が見られるのも今のうちかもしれないしばらくさ迷っているうちに
****ということで後半戦あちこち寄り道しながら、ようやく玉の井にたどり着いた。それにしても、前回の最後に掲載した……この典型的なスタイルを持つ素晴らしいカフェー建築……見れば見るほど惚れぼれするようなたたずまいである(あっ、2枚めの写真は裏側ね)ところでこの界隈は、荷風がラビリント(迷宮)と名付けただけあり、極細のぐねぐね曲がった路地が縦横無尽に入り組んで、まさに迷宮の
****東武伊勢崎線の東向島駅から少し離れたところに、メインの商店街である「いろは通り商店街」があるそのいろは通りの北側にあった赤線地帯が玉の井だ。かつては駅名も玉の井であったが、おそらく赤線のイメージを払拭するため、東向島などという野暮な駅名に変えたのだろう玉の井の赤線、カフェー街は商店街の北側にあったが、それは空襲によって焼かれ移転したからで、荷風が愛した銘酒屋街は、反対の南側にあった戦災で焼失したので、当然のようになんの遺構も残っ
****東向島の赤線地帯を散策したあとは、その周囲の住宅街をうろうろしてみた全体がトタン張りの建物を見つけた。銅板ではないが、けっこう珍しいスタイルであることは間違いないこの建物もかなり怪しい。1階の店舗だったような部分が閉ざされていて即断はできないが、2階の段違いの窓(しかも横に長い)などカフェー建築と共通の仕様が見られるところなど疑惑の物件だところでこのあたりは、台東区の小島や、同じ墨田区の京島あたりとは
****基本的に僕は睡眠が短い。といってもナポレオンのように3時間寝ればオッケーみたいな短眠ではなく、だいたい5時間ぐらいだろうか疲れているときは、6時間寝てしまうこともあるが、そんなことは滅多にない。ところが、この散策のときは、よほど疲れていたのだろう。帰宅したあと久しぶりに8時間も寝てしまったという前おきはともかく前回までの記事で現在も残っているカフェー建築は、だいたい網羅したと思うが、あまり情報がないので、
****今回の取材は約640枚と撮影枚数が多い。ただでさえ、取材したまま未編集の写真が1500枚ぐらいあるのに、いくら記事を書いても更新が追いつかないちなみに、この取材、気合いを入れすぎて翌日は、久しぶりに筋肉痛に見舞われた上に、寝坊までしてしまったところでアメブロは、一回の記事に掲載できる写真の容量があまり大きくない(もっとも画像が大きいと、スマホで見てるひとには迷惑だろうけど)。そこで、今回は「玉の井のカフェー建築」の「Ⅰ」と「Ⅱ」を、2