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久しぶりに「素晴らしい小説に出会えた」と思った。特攻隊の復員兵である「内瀬清治」。国から死ぬことを強要され死を覚悟し、「生きよう」とする願望や意欲を捨て去ってしまった元特攻隊員である彼は、死を免れて、戦後復興を始めた華やかでにぎやかな日本の空気になじめずにいた。生命力をみなぎらせ<生>を謳歌する人々の中で孤立していた。彼は、<自分が生きていること>を肯定的に考えることができなかった。捨て去った<生きる喜び>を失ったままだった。そんな「清治」に、「私」が、自作の詩を、涙を流しな
出撃前の特攻隊員たち(まだ17歳か18歳だったそうです。)出撃前の訓示と水杯特攻隊の出撃を見送る被弾しながらも突入を試みる特攻機上空で撃墜された特攻機突入寸前に撃墜される特攻機米国戦艦ミズーリに突入する特攻機米国航空母艦に特攻機が突入した瞬間体当たり攻撃を受け炎上する米国航空母艦体当たり突入した特攻機の残骸(プロペラ部分)体当たり突入した特攻隊員の遺体(写真右側が頭部で口と鼻の穴が見える)大東亜戦争(アジア・
【4月11日】~前略~その晩、20振武隊、69振武隊、30振武隊のお別れ会が食堂であった。特別9時まで時間をもらって給仕する。前に隊長さん、住所を書いてやるから家に出撃したことを知らせてくれ、とお願いされたのを思ひつき、酔ふていたけど住所をおききする。酒臭いいきをふきかけながらやさしくかいて下さる。「空から轟沈」のうたを唄ふ。ありったけの声でうたふつもりだったが、何故か聲がつまって涙が溢れ出てきた。森さんも「出ませう」といふて兵舎
こんにちは、カタロスです今日は、特攻隊員「穴澤あなざわ利夫大尉としおたいい」についてご紹介したいと思います。穴澤大尉の遺書は、書籍やYouTube上でも目にすることが多いです。ご存じの方もいらっしゃるかもしれませんね。私は、今年の春ころ知覧特攻平和会館を訪れた際に、語り部のお話の中で、「穴澤大尉の婚約者だった智恵子ちえこさんのその後」について知り、時間が経っても頭から離れず、心に深く刻まれた話でしたので、特攻隊関連の書籍を何冊か購入して更に深く調べることにしました。
戦艦ミズーリは、アイオワ級の3番艦として1944年6月11日に就役しました。これは米海軍が建造した戦艦の中で一番遅く就役した艦になります。就役後東海岸で訓練を行い11月にパナマ運河を通過し太平洋にやって来ます。パナマ運河を通過中のミズーリ1945年2月16日、敵は硫黄島に上陸。この上陸作戦を掩護すべく、敵機動部隊が17日、関東各地の航空基地に対し空襲を行いました。ミズーリはこの機動部隊援護に同行し
ホテルをチェックアウトして、鹿児島中央駅のみどりの窓口へ。とても感じの良い女性スタッフに対応してもらい、無事に払い戻しの手続きとチケットの取り直しができました~。女性スタッフが女神様に見えたわ♡本当に良かった~(*≧∀≦*)昨晩からもんもんと悩んでいたのはなんだったんだ?悩み損~笑なんなら、昨日もみどりの窓口に来たのに、、、その時に同じ対応をしてくれていれば、悩まなくて済んだのに、、、よくよく考えてみれば、JRのチケットの払い戻しをクレジットカード会社に連絡するもの?まぁ、クレ
皆様こんばんは。続きです。夫は知覧特攻平和会館に行きたかったようです。館内は撮影禁止なので画像は撮影OKのフロアのみです。16才、17才、18才と若い特攻隊員の遺影やご家族や婚約者に向けた手紙や遺書の展示が沢山あります。---------国守て南の空に生きる大和男子のほこりなり---------任務ハ重シ死ハ軽シ---------笑っていきます男ですもの---------と…国旗には天皇万歳と書かれてあったり血で書かれた血筆があったり涙が
中日新聞では、今年「戦後80年昭和100年」というシリーズで、色々な大東亜戦争に関しての記事が掲載されています。今日の中日新聞は、母の日が近いからか、「母へ特攻隊員の遺筆」というテーマで「知覧特攻隊員の散りゆく思いを母に宛て」た手紙が掲載されていました。特攻で亡くなられた方は6371名にもおよび、ほとんどが20歳前後だったそうです。私も縁あって、恵まれて、母になりました。絶賛反抗期でゲーム以外すべてをめんどくさがって何もやる気のない息子に腸が煮えくり返り、泣けてくる毎日です。彼なり
前々々回にご紹介した梅ケ浜地区被爆慰霊碑のあった梅ケ浜に近い、日南市油津の油津港にはかつて第5特攻戦隊第33突撃隊第3回天隊及び126震洋隊が配備されておりました。場所は地図の示すとおり油津港大節鼻埠頭の手前、埋め立て地と漁港の境付近です。この基地には9名の搭乗員が赴任されました。まずは帖佐大尉他4名が昭和20年5月5日に大津島を出発、残り5名が6月2日に大津島を出発しました。また、基地迄の移動は回天は第二〇号一等輸送艦に積載され、整備員、基地員が便乗して進出、搭乗員は陸路での移動
私はかねがね、政治や宗教上の悪質なプロパガンダ以外の映画は全てその存在を認めるべきだと考えている、だからFacebookやその他のSNSで、制作者サイド(主にインディーズ)からの「こんな映画は映画じゃない」的発言を見かける度に胸が痛む。しかし「好きか?嫌いか?」と問われたら話は別で、否定はしないが観たくない映画(ジャンル)はある。その筆頭が「特攻映画」だ。為政者(軍部)が「‟国体”の保持」に名を借りた自己の保身のために、自国の若者を大量にシステム的に死に追いやった、いわば自国民に対する
数年前に初めて聴いて好きになった歌がある。灰田勝彦が歌った「森の小径」という曲。1940年(昭和15年)に発表された曲である。世は戦争へと突き進む時代。歌謡曲は軍歌にとってかわられた時代。哀愁を帯びた曲や、恋愛を歌った曲、戦意を喪失させる曲がことごとく禁止され、歌うこと、放送されることが許されなかった時代。「森の小径」はそんな時代の曲とは思われない。作曲は灰田有紀彦。灰田勝彦の兄。作詩は佐伯孝夫。昭和歌謡史に残る名曲を数々作詩している。ハワイアンを思わせるメロディー。思いを寄
【義烈空挺隊の最期の給養の献立‼️】〜腹が減っては戦は出来ん⁉️〜特攻隊の先駆けはレイテ沖海戦で海軍の神風特攻隊敷島隊の関行雄大尉とされています。大東亜戦争で特攻隊で出撃、散華された将兵は6,418柱と伝えられています。この特攻兵の最期の給養(食事)は、どんなものだったのでしょうか?陸上自衛隊第一空挺団の資料館にあった資料から、意外な事実が分かったので紹介します。陸軍落下傘部隊の最後の空挺作戦である義烈空挺隊の出撃前の食事内容と機内食の内容が資料として残されています。義烈空
叔父が亡くなり、葬儀も終わり、ほっとしている近頃です。ここでびっくりしたのは、電車の自由席のことです。自由席は、全部指定席となっていたので電車が取れないと思っていましたが、自由席の指定座席が取れなくても乗れるということが葬儀の最中にわかりました。そして、叔父の葬儀で驚いたことは、以前から、話には聞いていたのですが、第2次世界大戦の時に特攻隊に叔父は、入っていたということです。叔父から、よく、特攻隊に入って終戦を迎え、あと、少ししていたら、僕(叔父)も飛行機に乗っていたとの話を聞いてい
「神風特別攻撃隊」――その言葉を聞いたとき、あなたは何を思い浮かべるでしょうか?国のため、家族のため、命を投げ出した若者たち。彼らは本当に「志願」した英雄だったのでしょうか?それとも、戦局に追い詰められた軍部が生み出した犠牲者だったのでしょうか?私たちの多くは、教科書や映像を通して断片的な知識を得ているかもしれません。しかし、そこには血の通った生身の人間がいたこと、彼らが私たちと同じように笑い、悩み、そして生きたかったであろうことを見落としてはいないでしょうか。
航空機による体当たり攻撃…いわゆる“特攻”が作戦として開始されることが決定し、昭和19年(1944年)10月25日に“敷島隊”の列機と共に米海軍の護衛空母群に突入し、「セント・ロー」を撃沈せしめたとして、その戦果が大々的に報じられた関行男海軍大尉が“特攻第一號”とされている。戦況の進展悪化に伴い、大勢をいくらかでも挽回せんと…いわゆる死中に活を見出すべく、当初は非常手段としての作戦計画であった“特攻”が…圧倒的優勢な米艦隊に対する日本軍の唯一無二の攻撃法となり、この残酷かつ狂信的な非常手段は
こんにちは!今回は、特攻隊の藤井中尉のお話をご紹介させていただきます。「特攻」それは、自らの命を懸けて特攻する、完全捨て身の作戦です。藤井中尉は教官であり、さらに家庭を持っていました。藤井中尉だけが特攻したのではなく、妻や子供たちもお国のために命を懸けられた、家庭レベルの捨て身を貫かれたお話です。日本を守ってくださった方々への感謝を、我々は一時たりとも忘れてはいけません。では、ご覧ください。**************************************
今日も4㎞をランニングしました。7月のランニング距離は計28.8㎞。あと13kmほどですが、フルマラソン達成できるかな。今日は趣向を変えて真面目な話。ブルーになりたくない方はスルーしてくださいね。昨日何気に見ていたYOUTUBEで思わず涙しました。18歳で戦死した相花少尉(特攻隊員)の遺書。出典articleimage.nicoblomaga.jp遺書母を慕いて母上お元気ですか永い間本当に有難うございました我六歳の
おはようございます!(^o^)丿よりタフに!より美しく!より笑顔に!あなたを鍛えて、壊して、癒やす空手師範の田中です。10月8日(日)~10日(火)0泊3日で鹿児島県南九州市知覧町へ行ってきました。0泊3日弾丸ツアー|好きなものに対していつも正直でありたい空手師範の独り言(ameblo.jp)知覧特攻平和会館~世界恒久平和を願いながら~|好きなものに対していつも正直でありたい空手師範の独り言(ameblo.jp)私が知覧にハマったキッカケ‟なでしこ隊”を
U-NEXTで思いっきり泣ける映画邦画20選!無料視聴の方法も紹介映画は、心の奥深くに触れ、感動の涙を誘う力を持っています。今回は、U-NEXTで視聴できる、思いっきり泣ける邦画20本をご紹介!切ないラブストーリーや胸に迫るヒューマンドラマ、心温まる家族の絆を描いた作品など、涙なしでは観られない映画ばasobiba77.biz映画「永遠の0」あらすじ・ネタバレ感想と考察!無料視聴する方法も紹介映画『永遠の0』は、百田尚樹の同名小説を原作に、2013年に山崎貴監督が映画化した
神風特攻隊の遺書婚約者へ送った最後の手紙穴澤利夫(あなざわとしお)大尉の遺書は大変有名で、多くの方がこの遺書を読まれ涙されたことと思います。穴澤利夫Wikipediaより特別攻撃隊時代1943年10月1日、中央大学を卒業し、志願して第20振武隊特操1期生として入隊この頃から、利夫は死を覚悟していたという。利夫が正式に智恵子と婚約を始めたのは1945年3月であった。利夫は同年3月8日、特別に休暇を貰い、故郷の福島で両親に「私は、特攻隊としてこの戦争で死にます。けれど、死ぬ前
あなざわとしお生まれ変わり昨日、フォロワーのGAIYAさんに教えていただきました。GAIYAさんどうもありがとうございます。フジテレビ『何だコレ!?ミステリー』で、特攻隊員の生まれ変わりであるという10歳の男の子のことが放送されていました。教えてもらって途中からテレビを観たので、私は『以前は戦艦大和の乗組員の生まれ変わりの男の子の特集だったけれど、今度は飛行機の特攻の生まれ変わりなんだなぁ…。』と思いました。男の子が手に持っていたのが隼のプラモデルだったので、『陸軍特攻なんだ…。陸軍沖
こんにちは😃唐突ではありますが、皆さんは今の日本国を見てどう思われますか?私が何かおかしなことが起きてるな、、と思い始めたのはこの日本で貧困家庭が増えていてご飯もまともに食べられない家庭があり『子ども食堂』が増えていると聞いた時です。もう既に30年の空白の期間と言われていて日本は経済成長が全くない国としての把握はありましたが、何か理由はあるだろうとは思っていても自分ごととしては捉えてはいませんでした、、その頃私自身も3人の息子を持ち一番お金が掛かる時期に家のローンを抱えていながらの元旦那
今日は、本来なら休みだったのだ、前から気になっていた今は誰も住んでいない私の生家の敷地の除草を予定していた、しかし一昨日のこと...22日に除草作業に同行した仲間から連絡から、作業が終わらないのでと応援要請があったことから、手伝うことになった、そんな訳で朝7時前に出かけたのだった!そんな時は仕方のないことだ、仲間からの要請だからね、通勤途上に黄色い花に紅色が混在した「ガイラルディア(和名・天人菊)」が見事な咲きっぷりだ、私は車🚗を止めて写メである!実は、以前にも「天人菊(テンニンギク)」につ
監督:成田洋一2023年主な登場人物(俳優)役柄【現代の人々】加納百合:かのうゆり(福原遥)高校3年生。将来に悩み、母と喧嘩をして家出する。加納幸恵:かのうゆきえ(中嶋朋子)百合の母。ヤマダ(坪倉由幸)百合の学校の担任。【1945年の人々】佐久間彰:さくまあきら(水上恒司)特攻隊員。秋田出身。21歳。石丸(伊藤健太郎)特攻隊員。彰の親友で同じ部隊に所属する。高知出身。21歳。板倉(嶋﨑斗亜)特攻隊員。大阪出身。18歳。故郷に許嫁を残してきている。寺岡(上川周作)特攻隊
1泊2日薩摩半島一人旅2日目指宿フェニックスホテルをチェックアウトして知覧特攻平和会館に向かいました。入館料は500円入場券と共に三つ折りのパンフレットを渡されました。パンフレットにはこう記されていました。「この知覧特攻平和会館は、第二次世界大戦末期の沖縄戦で、人類史上類ない爆装した飛行機もろとも敵艦に体当たりした陸軍特別攻撃隊員の遺影、遺品、記録等貴重な資料を収集・保存・展示して当時の真情を後世に正しく伝え世界恒久の平和に寄与するのもです。」その
(C)2013「永遠の0」製作委員会2013年/144分/配給:東宝監督:山崎貴出演:岡田准一三浦春馬、井上真央ほか百田尚樹のベストセラー小説の映画化。司法試験に4年連続で落ち続け、進路に迷っていた青年・佐伯健太郎(三浦春馬)は、祖母の死をきっかけに祖父とは血のつながりがないことを知り驚く。そして実の祖父は、太平洋戦争で特攻により戦死した宮部久蔵(岡田准一)だったことを知る。戦後60年目の夏、彼はフリーライターの姉(吹石一恵)と共に、宮部について調べ始めた。宮部が特攻で命を
浄化タロット鑑定士☯まかねふくじーのです☯講演会に参加してきました。イベントなどでお世話になっている越前市Hugpopoのオーナー谷樹里さんの講演会穴澤利夫少尉の生まれ変わりの少年がいるって話そういえば、なにかのYouTubeで聞いたことがあるなあまさか、こんな身近なところに前世の記憶を持つ人がいらっしゃったなんて!正直、戦争の話には苦手意識があってなんか怖いなあという思いもあったのですが生まれ変わりのお話を聞ける機会なんてそうそ
1945年、敗戦となったあの戦争を振り返っています。戦地で苦難を乗り越え生還された方、無念の想いで殉職された方、戦時下でも高潔な人格を貫き通した方、さまざまな方を取り上げますが、根底にあるのは、あなたたちの想いは繋いでゆきますという考えです平和な祖国を願い戦地に赴いていった人たち決して戦争を美化するものではありません1945年(昭和20年)4月12日鹿児島県、知覧の飛行場から三機の特攻機が飛び立ちましたそのうちの一機、パイロ
感動した"特攻隊員"の言霊です。21歳の特攻隊員が出陣する前に部下に言った言葉をネットで見つけました。感動したので備忘録としてアップします。なぁ〜お前たち知っているか?牛や馬は「一頭」鳥は「一羽」魚は「一尾」…と、こう数える。何故か?実は動物の数え方は「死んだあとに何が残るか」で決まる!じゃあ、ここで一つ聞きたい。俺たち人間はどうだ?「一名」そう名前だ!俺たち人間は死んでも名前が残るんだ!お前達、自分の大事な「名」に恥じない「生き方」が出来てるか?一回きりの人生…