ブログ記事1,949件
映画を観て、「感動した」より先に違和感を覚えてしまいました🤔あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。という戦争映画を見ました🎥🍿よくあるような戦争のときの話で、特攻隊員の方が自分の命をかけて突入するまでの話です✈️もちろん、この方たちのおかげで今の私たちがいる。その命の重みや、犠牲の大きさには、ただただ感謝しかありません。でも私は、映画を観ながら、どうしても思ってしまいました。「この特攻隊員の人、おかしくない?」自ら飛行機に乗って突撃していく…家族や国のために命
経営をしていると、「前例がないから不安、、、」「このやり方で本当にいいのだろうか?」そんな風に迷うこともあるのでは?特に中小企業の社長は、リソースも限られ、情報も揃わず、“正しい答え”が見えない中で決断を迫られます。だからこそ、前例がない挑戦は怖く感じるのではないでしょうか?かつて前例のない状況の中で、勇気ある一歩を踏み出した人たちがいました。それが、戦局が極限に追い込まれた時代に現れた「特攻隊員」です。もちろん、当時の戦術を肯定するつもりはまったくあ
特攻兵という言葉はない私は以前、特攻隊についてブログに書いていました。そのブログはもう削除して、一度退会してしまったので、記事はないのですが、特攻隊のブログを書く時に注意していた点は、【特攻兵】という言葉はない。というのが基本にあり、私自身もブログを書く時には特攻隊、特攻隊員と、書いていました。特攻兵という言葉が戦後使われていることもそうですが、戦後書かれた特攻隊の本は、すべてを鵜呑みにしてはいけないとわかりました。なかには、捏造だと言われている本もあります。私はその本を一冊も読んでいま
鹿児島知覧町の平和公園、知覧特攻平和会館を訪れた、黒いアゲハ蝶が飛ぶ頃のお話です。館内は撮影禁止です。館内にも、外にも零戦が数機展示されています。館内の零戦は機体が破壊されたもの、部品など無残な姿もあります。会館から園内を歩いていると黒いアゲハ蝶が前へ飛んで出てきて案内でもしているように長い間上下に揺れてそばを回っていました。特攻隊員への追悼の思いを込めた石灯籠特攻隊員が出撃までの期間を過ごした
■特攻隊員と社長の共通点特攻隊員たちは、任務の時、「死の恐怖」と向き合いました。遺書には、「生きたい」「家族に会いたい」「帰りたい」という、人として当然の感情が数多く残されています。それでも彼らは、・家族のため・仲間のため・未来の人々のためという恐怖を上回る“大義(使命)”を胸に、空へと飛び立ちました。ここは、現代の起業家・社長とも共通しています。但し、経営者は死と向き合うわけではありません。しかし、・倒産・信用失墜・人生の破綻といった
心・体・魂・人生をととのえるスピリチュアルヒーラー、アニマルヒーラーもりふみかです少し空いてしまいましたが、先日の三重県の旅の続きです。神社に参拝した後、すぐ近くにある香良洲歴史資料館に寄りました。予科練教育を行っていた三重海軍航空隊があった土地です。資料館の外には特攻隊の慰霊碑がありました。資料館には戦争中の写真や戦争の写真、遺留品や資料が展示されています。当時の教科書や教育に関わるものも展示されていました。3階には特攻隊として若くして亡くなった人々の遺品室がありました。遺書や写真が展
小林雄一軍曹のことを思い出す…。小林雄一軍曹は、陸軍で、常陸教導飛行師団第二飛行隊所属。屠龍でB29に体当たりして特攻戦死されました。戦死後の階級は少尉。私が以前、靖國神社で参拝をして、遊就館に行った時、小林雄一軍曹(少尉)の写真を見つけました。そこには、小林雄一軍曹(少尉)の墜落した屠龍の部品の一部が展示してありました。その並びには、海軍の菅野直大尉の写真と財布が展示してありました。それを見た時、『なにか一つでもいいから小林雄一軍曹の遺品が展示してあれば、訪れた皆さんもよく見てくれるのでは
【特攻隊員】熱望した人が指名されず、望まぬ人が選ばれた…新発見の「志願者名簿」が示す“残酷な選抜ルール”|ニュースな本|ダイヤモンド・オンラインhttps://diamond.jp/articles/-/375024https://diamond.jp/articles/-/375024【特攻隊員】熱望した人が指名されず、望まぬ人が選ばれた…新発見の「志願者名簿」が示す“残酷な選抜ルール”特攻隊員は、みずから「志願」して命をささげたのか。あるいは「命令」だったのか。戦後80年、特
生まれ変わる前に特攻隊員として出撃した、としつつ発言に矛盾が見られる子供をネタにしたスピリチュアルな商売があるようです。//////////////////////////////////////////ご視聴ありがとうございます。この動画は、「特攻隊の生まれ変わり」と名乗る人物の発言に対して、実際に出撃命令を受けた元陸軍特別攻撃隊隊員の証言を通して“真実”を問い直す内容です。あなたは、どちらの言葉に耳を傾けますか?戦争体験者の名誉、そして語り継がれるべき歴史について、感じ
▼千玄室さんのお別れ会が開かれる元特攻隊員・千玄室さん最後のメッセージ「今を大事に。今があってこそ明日がある」2025年8月、102歳で亡くなった千玄室さん。お別れ会には親族や親交のあった人たちが参列しました。(京都府西脇隆俊知事)「会うたびに背中を思い切りたたかれて『がんばってや』と言われたのが非常に印象に残っています。ご冥福をお祈りする気持ちで献花させていただきました」(文化庁都倉俊一長官)「日本を代表する外交官・文化人として、日本文化を世界に発
恐怖を乗り越える—社長が「怖いまま前に進む」ための条件―特攻隊員が向き合った“死の恐怖”から学ぶ、経営の本質―経営をしていると、「恐怖」に直面することもありますよね?売上が落ちたとき。資金繰りが不安なとき。社員が辞めていくとき。などなど、、、■特攻隊員たちも「怖くなかった」わけではない特攻隊員たちの多くの遺書や証言に残されているのは、「生きたい」「会いたい」という、あまりにも人間らしい正直な感情です。それでも彼らは、空へと飛び立ちまし
鹿児島県南さつま市の万世特攻平和祈念館の慰霊碑です。万世特攻慰霊碑·南さつま市,鹿児島県Googleマップで地図を検索。乗換案内、路線図、ドライブルート、ストリートビューも。見やすい地図でお店やサービス、地域の情報を検索できます。世界地図も日本語で、旅のプランにも便利。maps.app.goo.glよろずよに特攻隊員は東の方向を向いています。副脾には万世基地から出撃し戦死された特攻振武隊員一二一柱、飛行第六六戦隊七二柱、飛行第五五戦隊六柱、海軍第一正統隊一柱、通信連隊一柱、計二
@坂本龍馬・特攻隊員など英霊たちが眠る靖国神社特攻隊員に学ぶ「大義の持ち方」――社長のWHYが、社員と会社の未来を決める「この選択は本当に正しいのだろうか」「このまま続けていて意味はあるのだろうか」「なぜ、こんなに苦しい思いをしてまで会社をやっているのだろうか」経営をしていると、一度はこうした問いが頭をよぎるのではないでしょうか。特に中小企業の社長は、資金繰り、採用、離職、顧客対応、価格競争、トラブル処理など、毎日のように重い決断を迫られます。そんなとき、あなたの
⇒続き。回天の島、大津島。馬島港、昔はここ一帯が海軍の基地だったそうです。大津島回天神社があり、手を合わせます。回天記念館への道の途中、どこでもドアが。関ヶ原のひまわり、コスモス畑にもどこでもドアがありましたが、ここもですが、深い意味を考えさせられました…。回天兵舎・整備工場等跡地、旧点火試験場を右手に見ながら進みます。このコンクリートの壁は当時のまま。整備工場と兵舎をつなぐ急な階段も残っています。14時、回天記念館に着きました。あとから聞いた話しですが、港からここまで約50
鹿児島県南さつま市の万世特攻平和祈念館です。万世特攻平和祈念館·南さつま市,鹿児島県Googleマップで地図を検索。乗換案内、路線図、ドライブルート、ストリートビューも。見やすい地図でお店やサービス、地域の情報を検索できます。世界地図も日本語で、旅のプランにも便利。maps.app.goo.gl知覧特攻平和会館に比べて規模は小さいですが、展示は同じように充実しています。4ヶ月しか使われなかった陸軍の特攻基地、「万世飛行場」。万世飛行場での出撃・戦没者は201人です。とても空い
知覧特攻平和会館を見た後に向かったのが〝特攻の母〟として慕われた鳥濱トメさんが営んでいた「富屋食堂」へ行きました!知覧は、大東亜戦争末期、沖縄に上陸した米軍に対し、20歳前後の若者達が250kg爆弾を飛行機に積み、敵艦に体当たりをしていった〝特攻隊〟の陸軍最大の特攻基地となっていました。陸軍は、特攻隊員の食事などの場として「富屋食堂」を軍の指定食堂としました。ここでは、食事の他に身の回りのお世話などもされていました。その跡地に平成13年(2001年)10月に外観は当時のままに
義烈空挺隊宇津木五郎少佐義烈空挺隊二番機指揮官宇津木五郎少佐27歳私が以前、訪れたことがある、戦没者慰霊碑を再び訪れてみました。義烈空挺隊二番機指揮官宇津木五郎少佐の出身地の戦没者慰霊碑です。以前も訪れたことがありましたが、写真を撮ったのは初めてです。私の他に人はおりませんでした。静かで落ち着く雰囲気の場所でした。合掌。宇津木五郎少佐のために出身地の戦没者慰霊碑を訪れることが出来てほっとしました。宇津木という漢字がいろいろありますが、知覧特攻平和会館では【宇津木五郎
朝、玄関で交わすたった数文字の挨拶「行ってきます」「行ってらっしゃい」これ、実はただの日常会話じゃないって知っていましたか?昔の人にとっては命をかけた言葉だったんです■「行ってきます」に隠された、帰りを誓う想いもともと「行って参ります」『行きますが、必ず戻ります』という約束の言葉だったんです当時は夜道ひとつ歩くのも命がけ旅に出たら、二度と帰られへんこともあったせやから、大切な人に向かって、「必ず帰るから」「また笑って会おうな」って誓いを込
2008年8月記忘れてはいけない過去がある今が幸せなのは過去が不幸だったからと考えるにはもう時が経ちすぎてしまったのだろうか忘れたいと思う人もいるかもしれない知りたくなかったと言う人もいるかもしれないだけど、国を守りたいというただそれだけで自らの命を捧げることをするということがどれだけ偉大なことだと感じるためには伝えないといけない知らないといけないこの島国の「負の遺産」を鹿児島県鹿屋市は神風特攻隊が飛び立った地である戦争史上類を見ない攻撃である神風特攻隊時は終戦間近
@坂本龍馬・特攻隊員など英霊たちが眠る靖國神社1.大義(使命)を問われた特攻隊員たち―“守る”という決断の重さ太平洋戦争の末期、日本の若き特攻隊員たちは、自らの命を賭して空へと飛び立っていきました。彼らを動かしたものは、決して「上官の命令」や「狂気的な精神論」ではありませんでした。彼らの胸の奥にあったのは、ひとりの人間として抱く“守りたいもの”への想い。その対象があまりにも明確だったからこそ、彼らは極限の恐怖を超え、最後の一瞬まで自分の意思で生き切ったのです。
みなさまこんにちは任意団体人生100年時代QOL女性サポート会です。特攻隊員だったおじいさんとお話を少し紹介させて下さい↓お兄さんも特攻隊員で先に飛行機に乗って行かれたそうです。もう人生楽しんだ死にそうになったから施設に入ったけどもう2年になるあまり食べられなくなったけどまだ死ねないと。私がお聞きしたおじいさん👴おばあさん👵のリアルな言葉を残したいと思います。今を生きられる方に今という時間は永遠ではなく、過ぎてしまえばあっという間で取り戻すことができない大切にものだ
知覧特攻平和会館から出張展示の企画展開催中埼玉県桶川飛行学校平和祈念館で、知覧特攻平和会館から出張展示の企画展が開催されているので行ってきました。(2025年11月24日まで)いつもの入口の写真です。もう何回も訪れている場所です。もしかしたら私とすれ違っているかもしれませんね…。開催中の企画展は、戦時中熊谷陸軍飛行学校桶川分教場で訓練を行った方などの知覧特攻平和会館に展示してある手紙の複製が展示してありました。知覧には簡単に行けないので、この出張展示の企画展は本当に有り難いことだ思いま
.特攻隊のお兄さん達の歌※“子犬を抱いた少年兵”の一人特攻隊員のめい伯父が最後に飛び立った地・南さつま市万世で抱いた思い(25/05/2818:50)#特攻隊のお兄さん達の歌#子犬#チロ#特攻隊#特攻隊員#特攻隊の歌#特攻隊と子犬#鹿児島県#南さつま市#太平洋戦争
今夜はブラックアウトします。【ブラックアウトと言うのはアルコール呑んでいないのに短気、腹立つ、状態の事を言います】8日(土)靖国神社に参拝した事は書き込みしました。今日、「俺は君のためにこそ死にに行く」ユーチューブで泣きながら2回、観ました。そんな馬鹿な事あるかい!!!ヒロポン(覚醒剤)飲んで体当たり攻撃は戦史物の本で読みました。だから上重聡の役はあり得ない。1番機の隊長機が生き残るはずが無いんだ。1番機の後を突っ込んで行くんだからあり得ない。体当たりした時に海に放り出さ
今日は「刈谷市平和の集い」に参列して来ました!刈谷市戦没者追悼式の後アイリス少年少女合唱団の曲5曲演奏🎶その後映画上映📽️「あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。」高校生役の福原遥さんが戦時中にタイムスリップして特攻隊員役の水上恒司さんに出会い、、、
リフレッシュ休暇を取得して九州旅行に来ている11/3新幹線で鹿児島中央駅へ🚄みずほで、ゆったりとしたシートだったので4時間の移動でも疲れなかった。途中1時間ほど寝たし。鹿児島へ到着したらレンタカー🚗を借りて、知覧へ。せっかくなので知覧茶は飲んでみたい🍵お昼ごはんは、知覧茶屋というお店にした。第二次世界大戦末期に、富屋食堂という店名で、陸軍の指定食堂として特攻隊員も食事をしていたそう。戦時中の荒れた土地でも育てることができたゴボウを使って鶏肉と炊いた釜飯が今もメニューとして残って
微かなる身に大任務かしこみて何を欲せん皇国あれば大津島仁科精神受継ぎて競いて咲くは回天桜抱かれて伊三六母艦[いさむみふね]の愛児こそ米鬼[ヤンキー]征伐回天太郎―海軍二飛曹松田光雄(回天天武隊S20.4.27)—特攻隊員の遺書bot(@WillKamikaze)November1,2025
今年6月に2泊3日で鹿児島へ旅行に行きましたが、行きたい場所をリストアップして3日間で希望する場所を全部は周れませんでしたがどうしても行きたかった場所の1つが特攻基地のあった知覧でした。当初は知覧(陸軍)、鹿屋(海軍)、万世(陸軍)の特攻基地を周りたかったのですが韓国岳、高千穂峰、開聞岳に登ることを優先した為、知覧だけになってしまいました。昨年暮れに映画「あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。」のロケ地として使用され注目を集めた茨城県阿見町(霞ヶ関の西側)にある予科練平和記念館へ
知覧の空は悲しいほどに青く青く澄んでいた。こんな青すぎる空に飛び立った若者たち。飛び立つその時。笑顔を見せて、決して涙を見せることがなかったという。「知覧」という地名が出てきたら、イヤフォンから流れてきたのは偶然にもサザンオールスターズの『螢』だった。お母さん大元気ででっかく落としてきます二十歳前後の若すぎる青年たち。皆さん驚くほど達筆で「お母さん」と書き出していた特攻隊員の多かったこと。私はお母さんだから、その呼びかけが悲しくて泣かずに遺書を見ることが出来なかった。特
鹿児島へ向かっています。目的は知覧特攻平和会館と万世特攻平和祈念館を訪れるためです。靖国神社にある遊就館を訪れた時に、数々の特攻隊員の方たちの遺書を目にし、彼らが飛び立った場所を訪れなければ、と強い想いに駆られたからです。人生で三度目のひとり旅です。何度もblogには書いていますが、特攻作戦には批判しかないです。年端もいかない青年たちがその命を散らさなければならなかったその愚かすぎる作戦には怒りしかありません。けれど、いや、だからこそ従わざるを得なかった青年たちのその魂が悲しく、辛く