私は20代の頃にロシアに約2年間住んでいました。極東のハバロフスクとウラジオストックです。当時、ゼネコンの海外事業部に勤めていた私は、ソ連の国営航空会社だった「アエロフロート」との共同事業で海外駐在員として滞在していました。その頃の日本は全盛だったバブル景気に陰りが見えていました。会社の資金繰りは徐々に厳しくなり、事業を遂行するために必要な資金も送金が遅れるようになってきました。そのためロシアの駐在員たちは仕事がスムーズに実行できず、手持無沙汰になっていました。その結果、駐在員は次々に日本へ呼び