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糸満市摩文仁の北側にある真栄平地区です。田園風景が見られる穏やかな地域です。この集落を通るのが私は大好きです。数百メートルにわたる通りは、地域の人達の丹精込めた花が年中咲いています。真栄平集落の人達の優しさを感じられます。年中綺麗さを維持されています。花だけではなく、立木も綺麗に剪定されていました。この状態を維持すことは、なかなかできることではないと思います。花の並びがなければ
[沖縄戦]轟壕沖縄県糸満市伊敷深さ約10メートル×直径30メートルのドリーネの底にある自然壕。東西におよそ約100メートル延びる。内部には川があり上流部はそれなりに乾燥しているが、下流部は湿気っぽい。昭和19年10月の十・十空襲以降、轟壕は伊敷集落など地域住民の避難壕として使われた。昭和20年5月下旬に陸軍第32軍司令部が首里から摩文仁に移動すると、同年6月5日に沖縄県知事以下、県庁職員幹部も南進し、ここに避難してきた。同年6月15日、島田知事はここで警察部を含む県庁解散
「戦争を隠れ蓑にした支配層の松利権工作の闇は、現在も観光という形で引継がれています。大勢の人々を集めて子供を密かにさらうことで、アドレノクロムなどでの裏の金儲けに繋がります。多くの人が隠されたトラップの現実に気づく時です。」第二次世界大戦の沖縄戦の時の支配層・八咫烏の松取り(松果体収穫)の闇は、現在でも引継がれています。戦時中、旧日本軍は、地下壕を掘る兵士や労働者を主に松取りの対象にしてきました。労働力として使役した後に、裏の金儲けのために密かに命を奪うことが成されていたのです。現在
[中城湾臨時要塞]ウローカー砲台沖縄県南城市知念久手堅中城湾防衛のためにつくられた中城湾臨時要塞の陣地壕のひとつ。着工は昭和17年8月、竣工は同年10月頃と思われる。詳細は一切不明。主戦力の中城湾要塞重砲兵連隊は、昭和19年5月に来たるべく沖縄戦に備えるため、野戦部隊的性格の重砲兵第7連隊(独立混成第44師団区分)に改称された。第2中隊は知念半島の知名とウローカーに砲座を構築。同隊第1小隊は知名、同隊第2小隊はチンジ原に布陣している。ウローカー砲台は、重砲兵第7連隊第2
[沖縄戦]与座第24師団陣地壕②司令部壕糸満市字与座出典:沖縄県戦争遺跡詳細分布調査(南部)、P16より抜粋・加工第24師団は昭和14年10月に満州のハルビンで編成された国境警備隊から始まる。昭和19年7月、師団主力は第32軍隷下に移り沖縄本島に上陸。第9師団が台湾への転出が決定したため、島尻郡西部の防衛任務を継承、12月に司令部を与座へと移駐した。米軍上陸時、第24師団は司令部壕がある与座を中心に、東側に歩兵第89連隊〜南西側に歩兵第32連隊〜北西側に歩兵第22連隊を配置し、
沖縄旅行振り返り、ラストです。最終日ですが、朝から我々はやりたいことがありました。ホテルが用意したマリンアクティビティのひとつ、マーブルをやること。いわゆるバナナボートのソファバージョンといいますか、ソファ状のフロートに乗って水上スキーに引っ張ってもらうやつです。↓乗ったのこれ先着予約順とのこと、受付開始の8時半に気合入れて一番乗りで申し込みしたけど(あまり遅くなるとその後の予定に障るので)この日の潮と波の状況により、スタート時刻は1時間後の9時半に。水着着てス
映画「島守の塔」。予告編を見たときに記事にしたっきり、ここでは触れていなかった。沖縄戦の悲惨さをテーマにした作品だが、序盤には、女学生たちの明るさを描く場面もある。池間夏海扮する由紀が、友達を連れて帰宅。その日やっていた穴掘り作業について、姉・凛(吉岡里帆)と会話するところだ。成美という子が、校長に、「なんで、こんな穴を掘るんですかって」と聞いてみたと言い、こんな答が返ってきたと続ける。「空襲でやられて、万が一そこで死んだら、そのままお墓になるんだって」
[沖縄戦]浦添城趾南側斜面壕群(乾パン壕と缶詰壕)沖縄県浦添市字前田1943-6昭和29年8月以降、第62師団独立混成第63旅団が構築した沖縄本島中部戦線の防衛陣地のひとつ。浦添城趾南側斜面には多数の陣地壕が構築されていたと思われるが、現在確認できているのは3ヶ所のみである、とのこと。南斜面から浦添城趾をみる(みえない)浦添城趾南側斜面には「日本軍用の食糧を保管していた壕がある」と知ったので行ってみた。缶詰壕(糧食壕)『魚肉団子やサバ、パインなどの缶詰の
○参謀から直々にお声を掛けて頂く。○まだあどけない表情の隊員。○引き締まった表情の隊員。○真ん中の長身の隊員は沖縄出身で義烈空挺隊最年長の山城金栄准尉(享年31歳)。この日、新聞記者にこう語っています。「私は沖縄生まれというので特別に関心を持たれているようですが、別に悲壮な気持ちはありません。かえって自分の生まれ故郷で戦えるので気易い思いでいます。沖縄県民を救うことができれば本望です」。山城准尉の最後の言葉でした。○最終打ち合わせ
『久々の社員旅行』大分時間がたってしまったが、2月後半の3連休(2月23日~2月25日)に社員旅行で沖縄に行って来た。人生初の沖縄である。社員旅行が開催されるのは20年振りだ。コロナ渦でリモートワークが増え、社員間のコミュニケーションが希薄になったので、団結力強化のために企画したようだ。各自の旅行積立金ではなく、全額会社負担なので参加者も多かった。会社の創業30周年パーティーもある2泊3日の旅行である1泊目の宿は読谷村のリゾートホテル『日航ウィラ』、2泊目は那覇市内のビジネスホテルだった。2日
どーも、子連れおーかみです。「沖縄決戦」のレビューも17回を迎えてしまいました。映画のレビューをする度、のめり込んで長編になってしまい、そんな時に限って仕事が厳しい状態だったり他の悩み事が集中したりして、ハードな状況になってしまいます。しかし逆にそういう時だからこそ、癒し(現実逃避とも言いますが)を求めてレビューをしてしまうのかも知れません(笑)。しかし、早くレビューを終わらせないと、どうにも気持ちが悪いし次に行けない!そしてゆっくり寝られない(笑)!!だが、今回が
[沖縄戦]沖縄方面根拠地隊司令部壕(海軍司令部壕)①沖縄県豊見城市字豊見城236当地へは何回か訪問しているので、撮影時期が異なる写真が入り交じっています矢印の順に進む信号室内部はコンクリートの柱的なものがオブジェっぽくあるが、これは戦後につくられたもの。往時は素掘りで杭木(支保工)で支えられていた。戦後、何者かが司令壕内の杭木(支保工)を持ち出している。反対側の出入口からみる*メイン通路奥は北出口へ、手前は南出口へ南出口は現在、出口として使われてい
台風14号大型で強い台風14号が九州を北上中です。先週訪問した薩摩長崎鼻灯台も激しい暴風雨に耐えています。お見舞い申し上げるしだいです。全国的に今後の被害が最小限におさまることを祈ります。沖縄戦の特攻作戦で戦死した隊員1036名彼らは20歳前後の若者でした。本土最南端の陸軍特攻基地から沖縄戦に向けて飛び立っていきました。遺影が飾られ遺書もありました(館内は撮影禁止です)…三角兵舎数日後には出撃する特攻隊員の宿舎だった。目立たぬ様に林の中に半地下壕で作られた。
3月27日(月)八重山日報の1面トップに、しがくメンバーの大向さんが掲載されました伊舎堂用久中佐の慰霊祭に参加されたときの写真、そして、取材を受けた内容が掲載されました伊舎堂用久(いしゃどうようきゅう)中佐は、昭和20年3月26日に石垣島の飛行場から飛び立ち、沖縄戦で初めての特攻を行い、散華された方になります。その顕彰碑が約3年前に完成したのですが、あまり知られておらず、訪れる人も少ないそうです。大向さんは、第9回くにまもり演説大会で優勝された伊舎堂さよこさんから頂いた
「願われている」ことなのでフォローやいいね!シェア、リブログはどうぞご自由に!大歓迎です!「石野節雄さんを訪ねて」各地に天変地異が起こっています。それらがすべて天からの「日本よ目を覚ませ、早く目覚めよ」という声のように聞こえてならないのは、私の幻聴でしょうか。何が起きてもおかしくない、まさに旧約聖書の物語が目の前で起きているように思えるのです。何か大切なことを思い出せと、天から促されているのかも知れません。そんな時代です。過去の延長線上に、これから
◆沖縄護国神社へ向かいます波上宮から空港へ向かう途中に大きな鳥居があり、鳥居に向かって行くと駐車場入り口です。ナビでルート案内をすると、入り口とは違う場所に連れて行かれました。★一ノ鳥居駐車場入り口で、係員方から駐車券を頂き、駐車場へ向かいました。運動公園内を車で移動するので時速10km制限です。★沖縄護国神社沖縄の地で国の為に命を落とされた方々をお祀りしています、(護国神社なので、各地に鎮魂の社として在ります)★由緒書き日清・日露戦争以降の国難犠牲者を祀る神社