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ある程度資産が増えてくると、減らさないが大切になると思います。株式投資のプラスの期待利回りが8パーセントくらいでみると、下落もコロナショックや8月のブラックマンデーを考えると3割くらい下がります。そうすると、株式投資と同じ動きをするのばかりそろえると、年収くらい平気で飛んでいきます。戻る可能性がたかいとはいえ、なかなか平気でいることはできません。だから、リートや債権なども混ぜるのと、現金を2から3割程度利回りが下がっても持ってます。そうすると、バーゲンって思えます。石破だらし内閣
あなたは、大都会・東京の中心に、千年を超える「伝説の王」が眠っているのをご存知かしら。『平将門の首塚』この地を冒とくするものは、ことごとく祟られ、大勢の死者が出たという最強のミステリースポット。あなたは今、「どうせ都市伝説でしょ」と鼻で笑ったんじゃありませんか。覚悟するがいい。「将門公に謝るのなら今のうち」きゃあああああああああ~■NHK(E+)2020/11/16放送「平の将門・首塚伝説&ツタンカーメンの呪い」より▽かつて大蔵省・敷地内の将門
2024年11月19日西村慎太郎です。先日から大堀相馬焼の陶吉郎窯の先祖について確認しています。陶吉郎窯は幕臣の近藤家を先祖とする由緒があり、引き続き、『寛政重修諸家譜』から近藤家について確認してみたいと思います。今日は近世初期に幕府の百人組頭などを務めた近藤貞用の息子と孫について。なお、先に触れておくと陶吉郎窯初代の近藤平吉は1736年生まれであり(「大堀相馬焼陶吉郎窯」ホームページ)、近藤貞用の孫が近藤平吉の先々代に当たるものと思われます。その点についても今回のブログでご紹介
金沢城は、かつて加賀百万石を治めた前田家の居城である。前田家の加賀藩は、徳川家を除けば圧倒的な石高を誇る大藩であった。ところが、その大藩の言わば本拠地というべき金沢城は天守閣がない一見地味なお城である。金沢城の天守閣は、初代・前田利家が建てたものが落雷によって焼失して以降、江戸時代を通して再建されることはなかった。しかしこの金沢城、天守閣はなくとも他の城にはない特徴を持っている。なんと、建物全体の屋根瓦が鉛で出来ているのだ。すなわち鉛瓦である。金沢城石川門。天明八年(1788)に再建さ
京都市西京区にある桂離宮。その歴史は、江戸幕府の成立後から12年後の、元和元年(1615年)から桂山荘としてスタートしたようだ。その後、荒廃の時期もあったが、現在の形になったのは寛文二年(1662年)頃だと記されている。この桂離宮を設計して、陣頭指揮をとったのは、ここのオーナーでもあった”二代智忠親王”だったようだ。この時期になると、幕府の締め付けも厳しく、どこから建設費を捻出したのかが不思議であった。それについては、パンフレットに前田家の姫と結婚したことによる、財政援助と書かれていた。
【問題】【日本城郭検定2級】江戸幕府は武家諸法度で城は修復以外の新たな工事は禁止としたが例外もあった。立藩のため一旦廃城となった城を、大規模に改修して再興した城はどれか?【選択肢】松前城佐倉城福岡城丸亀城【正解】丸亀城【解説】生駒氏のお家騒動の後、寛永18年(1641)に山崎家治が入り丸亀藩を立藩した。その後、大規模な城の改修が行われている。問題・解説文提供:「日本城郭検定」
時代劇で間違いが定着してしまったのに同心の服装があります。町奉行所で働く同心に限ってでもみんながみんな着流しに巻き羽織という制服になっていますが、大変な間違い。この服装は町方同心の中でも定廻り同心に限り南北合わせても10人程。奉行所で働く他の200人以上の同心は羽織袴で勤務します。奉行所には同心の他にも足軽や小者がいますが、みな羽織袴です。同心イコール着流しイコール身分が低いから袴をはく事が出来ないと思っている先生方が多いようですが、袴など門番や素浪人でもはいています。付け加えて言うな
加賀百万石を治めた前田家の居城・金沢城。この金沢城には、明治時代から陸軍第九師団が駐屯していた。これに代わって終戦から四年後の昭和二十四年(1949)に金沢城に入ったのが国立金沢大学である。金沢大学は、金沢東部の角間町へのキャンパス移転が完了する平成六年(1994)までの四十五年間、全国でただ一つの「お城の大学」であった。世界を見渡しても、この金沢大学とドイツのハイデルベルク大学の二つしかなかったと言われている。現在、金沢城はすでに「金沢城公園」としての整備が進められ、大学であった頃の面影
鎌倉幕府成立までの語呂合わせ(時系列)①「細工もヤダし、誠意を見せろ」さ→侍所設置い→一の谷の戦いく→公文所設置も→問注所設置ヤ→屋島の戦いダ→壇ノ浦の戦いし→守護・地頭をおく誠意→頼朝征夷大将軍に②こちらは、少しながくなりますが、他の様々な事柄も入れたゴロ合わせです「寒富士の中、行くのもヤダし、守れ王政」寒→侍所富士→富士川の戦いの中→義仲、京へ行→一の谷の戦いく→公文所設置のも→問注所設置ヤ→屋島の戦いダ→壇ノ浦の戦いし守れ→守護・地頭おく
蔵前橋から両国国技館JR総武線の鉄橋をくぐると再び隅田川テラスにはいります。しばらく歩くと蔵前橋が見えてきます。1927年に完成しました。この周辺に江戸幕府の米蔵があったことから橋の名前がつけられたそうです。お祭りの準備中でした。横網町公園にはいります。東京都慰霊堂と復興記念館。かつて陸軍被服廠があった場所でしたが、関東大震災や東京大空襲の際、被災者の避難場所となっていました。最後は両国国技館です。ゴールはJR両国駅でした。約7km、1時間40分のウォーキン
27-8朝廷に対する統制江戸幕府は、朝廷のもつ伝統的な権威(けんい)を認める一方で、天皇や公家(くげ)の行動に明確な統制を加えていく。それは、最高の権力者であろうとする幕府の決意をよく示すものだった。➊京都所司代(きょうとしょしだい)朝廷の統制と西国大名(さいごくだいみょう)の監視を任務とした。➋武家伝奏(ぶけてんそう)公家から選出。朝廷と幕府とをつなぐ窓口として朝廷に幕府側の指示を与えた。➌禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)(1615)
http://news.mynavi.jp/news/2009/07/09/073/一昨日に引き続き、案内原稿まとめです。これも1度まとめりゃどこでも使える!通訳ガイド試験の参考書だけでは短いので自分なりにまとめてみました。説明するとなるとどうしても歴史的な話や政治制度に片寄りがちになりますが、「お客様が聞いてて興味があるのはどんな話だろうか?」とか、「私たち日本人が見落としがちなポイント」に自分なりに焦点を当ててみました。http://ameblo.jp/adoringusa
徳川家康の一族を親藩、家康の先祖から代々仕えた大名を譜代大名、もともと豊臣氏に仕えた大名を外様大名と言います。江戸幕府の大名統制策は、味方である親藩、譜代大名は江戸に近く、豊臣恩顧の外様大名は東北や九州に配置し、幕府に反乱を起こさせないように配慮しました🌱江戸時代に儒学者の荻生徂徠が大名の配置を『鉢植大名』と言ったように、大名はしばしば領地を替えられます💠。現代の転勤に似たところがあります。一代で3回(出戻り含めて5回)領地が替わった大名もいます。越前福井藩の松平直基です。家康の次男結城秀
2021年11月17日今日は将棋の日1975年、日本将棋連盟が制定。江戸幕府8代将軍・徳川吉宗が、この日を「御城将棋の日」と定め、年に1回の御前対局を制度化したことを記念したもの。
安土桃山時代までは「鬼武蔵」と呼ばれた堀武蔵守長可など、「武蔵守」を名乗る武士は普通に存在しました。しかし、江戸幕府ができて以降、武蔵守という受領名は与えられる者はいなくなります。武蔵は将軍のお膝元だから恐れ多いからです。江戸時代の庶民は、暗に将軍のことを皮肉ったり批判したりするとき「武蔵屋の親爺」という隠語を使っていたといいます。「仮名手本忠臣蔵」は、赤穂事件を芝居にしたものですが、登場人物名に実名を使うのは憚られるため、浅野内匠頭を「塩谷判官高貞」、吉良上野介を「高武蔵守師直」に仮
水戸黄門というひとは、史実では、どんくらい偉いのか?という設問ですけど。「偉い」というのと「政治権力がある」ということは、全く違います。水戸黄門というのは「前水戸藩主権中納言徳川光圀」のことです。御三家のひとつ、水戸家の前の当主で、現在は隠居してるわけですね。隠居つまり引退してるんだから、もう偉いも何もないわけですけど。では、隠居する前、水戸藩主だった時代にはどうだったか、といえば。御三家というのは、将軍の次に権威がある(つまり偉い)立場ですけれど、幕府の中には席がないんで
何事にても、我より先なる者あらば、聴くことを恥じず徳川斉昭(1800年-1860年)徳川斉昭(とくがわなりあき)は、江戸時代後期の大名(親藩)。御三家のひとつ、常陸国水戸藩の第9代藩主。江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜の実父である。略歴寛政12年(1800年)3月11日、徳川治紀の三男として生まれる。初めは父・治紀より偏諱を受けて松平紀教(まつだいらとしのり)、藩主就任後は将軍・徳川家斉より偏諱を受けて徳川斉昭と名乗った。藩政改革に成功した幕末期の名君の
仮名手本忠臣蔵っていうタイトルはどういう意味!?豊竹咲寿太夫オフィシャルサイトclub.cotobuki忠臣蔵、忠臣蔵と当たり前に浸透しているこのタイトルだけれど、あらためて考えると、仮名とか手本とか、そもそも忠臣はわかるけれど、蔵って、なに米蔵https://amzn.to/33eNdzN最後の忠臣蔵文楽の人たちも出演の映画こんばんは。シェリーですこのブログのスタッフですこのブログは人形浄瑠璃文楽の太夫の咲寿太夫さんが、演者ならではの文楽の魅力を、わたしが文楽や上方文