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寛永3年、江戸幕府の3代将軍・家光は、父の秀忠(2代将軍)と共に上洛し、「二条城」に後水尾天皇の行幸を迎えた。それに先立ち、二条城は大々的に拡張され、二ノ丸には壮麗な行幸御殿が建てられると共に、本丸には5層の天守が挙げられた。家光は天皇を自らの城に迎える事により、徳川家の天下が定まった事を世に知らしめたのである。江戸期に描かれた『洛中洛外図屏風』には、後水尾天皇の二条城行幸の様子が描かれている。
あなたは、大都会・東京の中心に、千年を超える「伝説の王」が眠っているのをご存知かしら。『平将門の首塚』この地を冒とくするものは、ことごとく祟られ、大勢の死者が出たという最強のミステリースポット。あなたは今、「どうせ都市伝説でしょ」と鼻で笑ったんじゃありませんか。覚悟するがいい。「将門公に謝るのなら今のうち」きゃあああああああああ~■NHK(E+)2020/11/16放送「平の将門・首塚伝説&ツタンカーメンの呪い」より▽かつて大蔵省・敷地内の将門
セックスを楽しむの何がいけないんだろう。戦国の世がやっと終わった江戸初期のこと。公家の力は弱体化していき、完全に武家の時代がやってきました慶長14年後陽成天皇の寵愛の寵愛を受けていた新大介と呼ばれる女官がおりました。この新大介、広橋大納言の娘で並外れて大変美しく、後陽成天皇の「後秘蔵、ご寵愛の方」と当時の文献に残るほど後陽成天皇のお気に入りでした。ところがこの新大介が人目を忍んで少将猪熊教利と密会するようになる。2人の仲を仲介したのは同じく御所に勤めていた讃岐という女房。猪熊
古沢さんのインタビューがアップされてた260年間も続いた江戸幕府の礎、ダメダメ家康…に納得✧︎【インタビュー】『どうする家康』脚本・古沢良太「僕の中ではめちゃくちゃ史実を守ったドラマ」その中で新解釈に挑戦した思い語る#どうする家康#古沢良太#松本潤#大河ドラマ#有村架純@nhk_ieyasu@kosawaryotahttps://t.co/v4ci1az5nR—マイナビニュース・エンタメ【公式】(@mn_enta)2023年12月2日古沢氏は、新しい家康像を打ち出し
ご覧いただきありがとうございます。今期のドラマはNHKの「大奥」しか観ていませんが、「大奥」本当に大好きです。毎回泣けて、魅力のある人物が登場しては退場していって、あっっっと言う間です。原作の漫画は読んでいませんが今放送中の「幕末編」はその昔フジテレビで放送された「大奥」と時代が被っているので脳内で比較して楽しんでいます。私は文系ですが、大学入試では世界史だったので日本史はもうほとんど覚えていません💦(世界史も覚えてませんが笑)お恥ずかしながら徳川将軍家の墓所が東京の増上
【問題】慶長10年、江戸幕府に召し抱えられた堀田正吉は、それ以前、次のうちどの家の家臣であったか?【選択肢】片倉家鍋島家小早川家直江家【正解】小早川家【解説】堀田正吉は、織田信雄、浅野長政、ついで小早川家に仕えた。小早川秀秋が死去し同氏が改易された後、慶長10年(1605)、徳川家より500石を与えられ幕臣となった。
http://news.mynavi.jp/news/2009/07/09/073/一昨日に引き続き、案内原稿まとめです。これも1度まとめりゃどこでも使える!通訳ガイド試験の参考書だけでは短いので自分なりにまとめてみました。説明するとなるとどうしても歴史的な話や政治制度に片寄りがちになりますが、「お客様が聞いてて興味があるのはどんな話だろうか?」とか、「私たち日本人が見落としがちなポイント」に自分なりに焦点を当ててみました。http://ameblo.jp/adoringusa
どうする家康19話を見たよ。録画。2話,遅れてるよ。今回は家康が女中にお手付きしてしまうお話だよ。実際に調べてみると,家康には子供が16人いたと。正室の子供は2人。側室の子供が14人。江戸幕府11代将軍徳川家斉は子供が53〜55人いたそうな。戦国時代,お家を守るためには子供が多い方がいい。跡取り,戦略結婚や人質としての利用価値もある。お江戸の時代はどうなんだろう。・・・女好きだな。あーそうだ。55人だからな。ゴジラだ。ゴジラ。ゴジラ。子供が55人いたら名前忘れたり
1月10日(火)からNHKで放送開始です。今期は10話で終了(3月14日)です。後半(Season2)は秋に放送されます。10代家治から15代慶喜(大政奉還)まで放送される予定です。ラベルダウンロード江戸幕府3代将軍・徳川家光の時代、「赤面(あかづら)疱瘡(ほうそう)」と呼ばれる奇妙な病が日本中に広がっていった。この病は“若い男子にのみ”感染し、感染すれば“数日で死に至る”恐ろしい病であった。対処法も治療法も発見されず、結果として男子の人口は女子の1/4にま
鎌倉幕府成立までの語呂合わせ(時系列)①「細工もヤダし、誠意を見せろ」さ→侍所設置い→一の谷の戦いく→公文所設置も→問注所設置ヤ→屋島の戦いダ→壇ノ浦の戦いし→守護・地頭をおく誠意→頼朝征夷大将軍に②こちらは、少しながくなりますが、他の様々な事柄も入れたゴロ合わせです「寒富士の中、行くのもヤダし、守れ王政」寒→侍所富士→富士川の戦いの中→義仲、京へ行→一の谷の戦いく→公文所設置のも→問注所設置ヤ→屋島の戦いダ→壇ノ浦の戦いし守れ→守護・地頭おく
今日は12月8日☃️『ちょこっと雑学』[[奥付(おくづけ)って何]]書物の末尾に、書名・著者・発行者・印刷者・出版年月日・定価などを記したページまたは部分のことをいいます。法的に定められたのは、江戸幕府が1722年(享保7)12月、5か条からなる出版取締令を公布したときに始まります。これが明治新政府の出版条例(1869年)に受け継がれましたが、記載箇所や形式についての指示はありませんでした。出版法(1893年)になって「文書図画ノ末尾」になり、記載の形式もしだいに整えられてきました
時代劇の「水戸黄門」とか「忠臣蔵」モノで必ず悪役として出てくるのが、柳沢吉保ですけど。江戸時代を通じて最も有能だった官僚が、柳沢吉保と、田沼意次でしょう。この二人は、仕えた将軍(綱吉と家治)が死んだ途端に辞めていますが、田沼の政治が最終的に「失敗」の烙印を押されて葬り去られたのに対して、柳沢は綱吉の治世いっぱいで充分な成果を挙げ、「失脚」というより「勇退」という形で任期を締めくくることができた、という大きな差があります。これは、本人の能力より、幕府が上り坂だったか、下り坂だったか、の時代状