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京都市西京区にある桂離宮。その歴史は、江戸幕府の成立後から12年後の、元和元年(1615年)から桂山荘としてスタートしたようだ。その後、荒廃の時期もあったが、現在の形になったのは寛文二年(1662年)頃だと記されている。この桂離宮を設計して、陣頭指揮をとったのは、ここのオーナーでもあった”二代智忠親王”だったようだ。この時期になると、幕府の締め付けも厳しく、どこから建設費を捻出したのかが不思議であった。それについては、パンフレットに前田家の姫と結婚したことによる、財政援助と書かれていた。
ある程度資産が増えてくると、減らさないが大切になると思います。株式投資のプラスの期待利回りが8パーセントくらいでみると、下落もコロナショックや8月のブラックマンデーを考えると3割くらい下がります。そうすると、株式投資と同じ動きをするのばかりそろえると、年収くらい平気で飛んでいきます。戻る可能性がたかいとはいえ、なかなか平気でいることはできません。だから、リートや債権なども混ぜるのと、現金を2から3割程度利回りが下がっても持ってます。そうすると、バーゲンって思えます。石破だらし内閣
http://news.mynavi.jp/news/2009/07/09/073/一昨日に引き続き、案内原稿まとめです。これも1度まとめりゃどこでも使える!通訳ガイド試験の参考書だけでは短いので自分なりにまとめてみました。説明するとなるとどうしても歴史的な話や政治制度に片寄りがちになりますが、「お客様が聞いてて興味があるのはどんな話だろうか?」とか、「私たち日本人が見落としがちなポイント」に自分なりに焦点を当ててみました。http://ameblo.jp/adoringusa
例えば、江戸の町奉行は東京都知事兼最高裁判所長官兼警視総監だったというような、ちょっと実態からかけ離れた説明をみて、しばしば違和感を覚えることがある。そもそも時代の異なる、封建社会の、軍政組織における役職を現代のそれに置き換えること自体に無理があるという他ない。そこで、本記事では、『天保年間諸役大概順』に掲載されている、重き役人といわれる「布衣以上」の役職名を現代風に言い換えてみた(※1)1)礼典管理官(高家、※2)2)将軍補佐官(側衆)※加役兼帯者は首席補佐官(側用取次役、
仮名手本忠臣蔵っていうタイトルはどういう意味!?豊竹咲寿太夫オフィシャルサイトclub.cotobuki忠臣蔵、忠臣蔵と当たり前に浸透しているこのタイトルだけれど、あらためて考えると、仮名とか手本とか、そもそも忠臣はわかるけれど、蔵って、なに米蔵https://amzn.to/33eNdzN最後の忠臣蔵文楽の人たちも出演の映画こんばんは。シェリーですこのブログのスタッフですこのブログは人形浄瑠璃文楽の太夫の咲寿太夫さんが、演者ならではの文楽の魅力を、わたしが文楽や上方文
徳川家康の一族を親藩、家康の先祖から代々仕えた大名を譜代大名、もともと豊臣氏に仕えた大名を外様大名と言います。江戸幕府の大名統制策は、味方である親藩、譜代大名は江戸に近く、豊臣恩顧の外様大名は東北や九州に配置し、幕府に反乱を起こさせないように配慮しました🌱江戸時代に儒学者の荻生徂徠が大名の配置を『鉢植大名』と言ったように、大名はしばしば領地を替えられます💠。現代の転勤に似たところがあります。一代で3回(出戻り含めて5回)領地が替わった大名もいます。越前福井藩の松平直基です。家康の次男結城秀
日本橋駅から日本橋川を越え1キロほど北東に行きますと小伝馬町駅があります。現在は何の変哲もない都心近くの少し生活感を感じさせる駅ですが、江戸時代はここら一帯には伝馬町牢屋敷がありました。江戸幕府最大の牢屋であり、常時数百人が収容されていたようです。現在の刑務所と異なり、この牢屋敷は刑期を全うするというよりは、刑を待つ拘置所のようなものであったと言われています。多くの人が牢屋敷内の処刑場で処刑されています。磔(はりつけ)刑は荒川区の小塚原で行われたようですが、斬刑はこちらで行
こんばんは昨日29日が私の誕生日でして、今週はいっぱい遊んでおりました今日はシャンパンで家族で誕生日会眠いですが、今日からまたしゃきしゃき書こうと思います今日は「幕府と藩の機構」ですちゃちゃっと復習していただけると嬉しいですまず、幕府の財政基盤ですが、(幕領)からの年貢です。400万石あとは、主要鉱山(佐渡・伊豆・但馬生野・岩見大森など)を直営したり、主要都市(江戸・大坂・京都など)を直轄にして商工業や貿易を統制するなどして、稼いでいました次に、政治の機構。ここは図
鎌倉幕府成立までの語呂合わせ(時系列)①「細工もヤダし、誠意を見せろ」さ→侍所設置い→一の谷の戦いく→公文所設置も→問注所設置ヤ→屋島の戦いダ→壇ノ浦の戦いし→守護・地頭をおく誠意→頼朝征夷大将軍に②こちらは、少しながくなりますが、他の様々な事柄も入れたゴロ合わせです「寒富士の中、行くのもヤダし、守れ王政」寒→侍所富士→富士川の戦いの中→義仲、京へ行→一の谷の戦いく→公文所設置のも→問注所設置ヤ→屋島の戦いダ→壇ノ浦の戦いし守れ→守護・地頭おく
水戸黄門というひとは、史実では、どんくらい偉いのか?という設問ですけど。「偉い」というのと「政治権力がある」ということは、全く違います。水戸黄門というのは「前水戸藩主権中納言徳川光圀」のことです。御三家のひとつ、水戸家の前の当主で、現在は隠居してるわけですね。隠居つまり引退してるんだから、もう偉いも何もないわけですけど。では、隠居する前、水戸藩主だった時代にはどうだったか、といえば。御三家というのは、将軍の次に権威がある(つまり偉い)立場ですけれど、幕府の中には席がないんで
蔵前橋から両国国技館JR総武線の鉄橋をくぐると再び隅田川テラスにはいります。しばらく歩くと蔵前橋が見えてきます。1927年に完成しました。この周辺に江戸幕府の米蔵があったことから橋の名前がつけられたそうです。お祭りの準備中でした。横網町公園にはいります。東京都慰霊堂と復興記念館。かつて陸軍被服廠があった場所でしたが、関東大震災や東京大空襲の際、被災者の避難場所となっていました。最後は両国国技館です。ゴールはJR両国駅でした。約7km、1時間40分のウォーキン