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京都御所へ。今は通年公開されているのですね!かつて、参内した人が控えていた「諸大夫の間」や「御車寄せ」を過ぎ、正殿「紫宸殿」へ。紫宸殿から見て左手に桜、右手に橘の木が植えられていて(橘は寒さから守るため建屋で保護)、雛飾りと配置が同じであることに気づきました。御所は何度か焼失していて、最後に紫宸殿などが再建されたのは1855年。ということは、長州と戦った時も、「王政復古の大号令」発令時も、現・紫宸殿は在ったということですね!その後、天皇の日常の住まいであった「清涼殿
帰省中に、3度目の正直でようやっと「源氏物語ミュージアム」に入館できました。さすがに7歳児には「源氏物語」は難しそうでしたが、平安時代の遊びや暮らしぶりは理解できたようで、娘も思いのほか楽しんでいました。宇治は平安当時、貴族たちの別荘地であったそうですが、本当に佳いところですよね。こんもりした山も悠々と流れる川も、架かる橋の感じも…、きっと1000年前の人たちが見ていた景色とそう変わらない。
5月3日は大村益次郎さんの誕生日文政7年5月3日大村益次郎さんは幕末期の長州藩の医師、西洋学者、兵学者長州征討と戊辰戦争で長州藩兵を指揮し勝利させたた立役者であり事実上の日本陸軍の創始者である!!
渋川に行って、大島史郎さんと会う事ができ、ご先祖様のお墓のお参りが実現した。渋川では雷も鳴っていたけど、雨にも合わず歓迎して下さったのかなと。うちにある家系図。中を広げると半紙で巻物上にぐるぐると家系図が書き綴られている。清和天皇から始まり、源氏→新田氏→里見氏→大島氏と、移り変わっている。これがうちの家紋。大島義継と言う人が最初に大島を名乗ったらしい。戦国時代のご先祖様は、どうだったかと言うと、最初は、白井城主長尾氏に仕えていた。しかし武田軍の真田氏に白井城