ブログ記事1,617件
1.長篠の戦い(1575年・天正3年)武田勝頼は徳川方の長篠城を攻撃しました。これに対し、徳川家康の要請を受けた織田信長が援軍を率いて出陣し、長篠設楽原で決戦となりました。織田軍は馬防柵を築き、銃数だけでなく、大量の弾薬と火薬を使って鉄砲を効果的に運用しました。一方、武田軍も鉄砲を使用していましたが、弾薬と火薬は輸入品であり、信長によって経済封鎖されていたため早い段階で弾切れとなってしまいました。そのうえ織田軍の途切れることのない射撃に圧倒されて武田軍は敗北しました(歴史学者・平山優氏の指
【問題】武田勝頼の嫡男・信勝の幼名として正しいものは、次のうちどれか?【選択肢】玄治丸武王丸晴統丸徳力丸【正解】武王丸【解説】武田信勝は永禄10年(1567)、勝頼の嫡男として誕生した。幼名を武王丸(たけおうまる)という。元服後、武田家累代の諱「信」の字を冠した「信勝」を名乗った。
5月5日火曜日端午の節句こどもの日大河ドラマ「豊臣兄弟」主要登場人物山県昌景(石井一影)山県昌景/山縣昌景(やまがたまさかげ)戦国時代から安土桃山時代にかけての日本の武将。甲斐武田氏の家臣で、譜代家老衆。後代には武田四天王の一人に数えられる。武田家の譜代家老の飯富虎昌の弟とされているが、甥であるとも言われている。戦国時代の飯富氏の一族では武田信虎家臣の飯富道悦の息子とみられる「源四郎」が永正12年(1515年)10月17日に西郡の国人の大井
全国的に寒い日が続きますが、こちらは徐々に暖まって参りました!!合戦イベント「甲州征伐」の告知が続きます。今日は、両軍の部隊長と陣中見舞いが決定したのでお知らせいたします!織田軍は、当時信忠の直属であった森・河尻に、信長が付属させた織田有楽・滝川一益を加えた陣容です。さらに武田家から離反して甲州攻めの先鋒を果たした木曽義昌の姿も見えます。武田軍は、親類衆の信豊(勝頼従弟)、信廉(同叔父)、盛信(同弟)が馬を揃えます。また、当時勝頼を岩櫃城へ迎えようとしたともいわれる真田昌幸、
兵庫県・尼崎市周辺には、ここで没した「高名な武将」等の(供養)墓があります。4月22日、彼らの(供養)墓を、知れる範囲で訪ねてみました。最初が「武田勝親」の墓(尼崎・園田)です。「甲斐の武田氏」が滅亡した際当時2歳だった「武田勝頼の第三子・勝親」は、織田家臣「池田恒興」に保護されここ(当時は藤田村)で「僧侶・善悦」となり「善念寺」を創建したとされます。「善念寺」(浄土真宗)です。寺院と言うより「立派な民家」の感じです。表札は「武田〇〇」となっており「甲斐武田氏の末裔」と伝わります