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期間:2024/05/03〜05/10天井:無し倍率:2倍(☆4武将獲得するまで確率アップ)武)武田信玄:暴走機関車戦)武田信繁:鉄壁肩組戦)武田勝頼:至妙の司令薬)諏訪姫:魔法の薬缶©コーエーテクモゲームス
どうしてここにソーラーパネルが設置されなければならないのか?大切な史跡のひとつなのに・・・・🙁リブログさせていただきます教科書でも有名な「#長篠の戦い」。この古戦場は往時の雰囲気が色濃く残ることで有名でした。地域の方に大切に守られて来た史跡。歴史への敬意と、勇敢な武士達への愛が感じらる場所でした。その歴史と景観がいま失われようとしています。先人と次世代のために真剣に考えたい。#ソーラーパネルhttps://t.co/xIJFNb9XK8pic.twitte
ちょっと放置気味になった。ようやくこのガチャの吟味だ。今回は多いので分割。そして変則的ではあるが、とある事情により吟味する価値があると予想される順にやる。先ずは信長さん。敵全体術ダメ0.60+物術耐性-20%攻撃力最高敵1体物ダメ1.20攻撃力最高敵1体術ダメ1.20攻撃力最高敵1体無ダメ1.20まあ、パッと見ただけで強いな。単純計算で1体には4.20……まあ、耐性減や耐性の問題もあるから実際には前後するであろうが。全体攻撃力はオマケ程度……と申すか、多分運用想定が通常と異
先月末陣触れが発せられた合戦イベント「長篠の戦い」について、両軍の部隊長の着陣が完了しましたので、本日はその発表などをさせてもらいます!さっそく見てみましょう!!以上のようなラインナップとなっております!織田・徳川軍についに三英傑が一堂に会しました!と書こうと思ったら、もう既に姉川の戦いでそれは実現してました。今回の合戦でも歴戦の面々が勢揃いしています。徳川勢としては、家康の他にその嫡子・松平信康が初登場しました。武田軍は、勝頼が初の総大将となり、穴山信君・武田信豊の
元亀四年四月。三方ヶ原で徳川家康を破り織田信長との決戦も視野に入った作戦の途上。病に倒れた信玄は勝頼と幕僚達を集め遺言を託した。我が死を三年の間秘匿し孫の信勝元服までは勝頼を陣代とする-。今回取り上げるのは信玄亡き後の最後の当主となった武田勝頼の軍装です。-強過ぎる大将。甲陽軍鑑にそう記された武田勝頼。信玄亡き後の武田家を率いた勝頼は父、信玄より家督では無く陣代とされました。陣代とは家督継承する次期当主が自ら統治するまでの代行、繋ぎの役とされます。しかしその陣代勝頼は父の版図を大きく塗り替え
諏訪湖口に到着して、上諏訪駅内の足湯でも浸かって電車待とうかなーと思い、次の電車を調べるとなんと5分後しかも次くるのは1時間後なので、もうダッシュ💨てなわけで、足湯には入れませんでした。新府駅まで約1時間ほど電車に揺られ🚃到着!って、でた無人駅!そんな予感がしていたので、ICカードは使わず、切符を買っておきましたが、IC用の機械は設置されておりました。無人駅なのでもちろん待機しているタクシーはないし、人影も何もない。googleマップ先生に頼りながらいくしかないしかもgoogle
デリング・レンブラン『お前の提案には価値がない。皆そう言っているのだ。どんな大言壮語を吐こうともそれを裏付ける信用がお前にはない』めだたく今週での娘LOVEな親父ぶりを発揮した機動戦士ガンダム『水星の魔女』のダブスタが外れたクソ親父さんに敬意を払いまして、もう今週の感想これで終わり…いやもちろん続きますよ!とりあえずとりあえず今回の感想はデリングのこの一言で終わりです。もうさ、史実とかそういうの次元の話ではありません。三河・遠江二ヶ国の正室に過ぎない女性がいきなりEU…じゃないJU(
注意!!今回はかなり『どうする家康』に関する感情的表現が入っています。「批判する者はおかしい」とか「どうする家康」は素晴らしいドラマ!と思っている方はお引き取りしていただくようにお願いします。私が戦国史にのめり込むキッカケとなったのは実は四郎こと武田勝頼の長篠合戦再評価であったりします。「旧時代の遺物である『武田騎馬隊』の威力を過信する愚将」「勇気はあっても知恵が足りない脳筋」「偉大なる父親にコンプレックスを抱く残念な二代目」そういった諸々の評価とは全く違う人物像…或る意味「歴史の面白
決戦か撤退か―。甲論乙駁の議論の末、武田勝頼が出した答えは織田・徳川との決戦であった。いまだ抵抗を続ける長篠城に抑えの兵を置いた勝頼は、残りの全軍を率いて設楽原へと転進した。対する信長・家康は、武田に恐れをなしたかそれとも弱敵を装い誘い込む戦略か、馬防柵の内に籠もったまま動く気配はない。戦端を開いたのは武田軍の一番手・山県昌景隊。押太鼓を打ち鳴らしながら徳川軍に襲い掛かり、瞬く間に戦場は馬蹄の響きと火縄銃の銃声に包まれた。主力と主力が激突する一大決戦!信玄以来の宿敵同士がついに雌
英傑の日本史風林火山編(角川文庫)Amazon(アマゾン)${EVENT_LABEL_01_TEXT}英傑の日本史風林火山編井沢元彦あらすじ戦にも民政にも才を発揮した武田信玄、長く存在を否定されてきた軍師・山本勘助、父の仇に嫁した諏訪御料人――。戦国最強と謳われた武田軍団の野望と人間ドラマから、謀略渦巻く戦国史の襞に分け入る!グッときたポイント井沢元彦氏の『英傑の日本史』シリーズ。今回は戦国最強との呼び名も高い、武田信玄を中心に日本史を読み解く。今回も井沢節は健在だ
うーん、第20回と第21回についての簡易感想をまとめようと思います。①どうする家康「岡崎クーデター」今回はそれなりに見れた回となりました。特に大岡弥四郎の描写についてはなかなかに見ごたえのある描写だったのが好印象。大抵の…といっても大岡弥四郎なんてそんな出番無いのですが、「神君」に歯向かった裏切者という扱いでした。まあ当然ながら家康は「最終的な戦国の勝ち組代表」なので、その路線に逆らう者は必然的に時流の読めない愚者になるのは必定。しかし本作では長引く戦争による厭戦気分の増大と継戦に対す
2018年11月11日JR飯田線の長篠城駅にやってきました。秘境駅もあるローカル線なのですが、電車は通勤ラッシュ並みの混雑でした。もちろん、目的は「さわやかウォーキング」への参加です。怒涛のようにやってくる、人・人・人。昨日の高山線のウォーキングとは全然違いますね。お姉さんから地図をもらってスタートします。今回は、長篠の戦いの地を巡るコースになっています。長篠の戦いとは、戦国時代の天正3年5月に、三河国長篠城をめぐり、
武田信玄や武田勝頼の時代の甲斐(山梨県)の武田家を記した軍記物語の甲陽軍鑑には国を滅ぼす大将を4タイプあげています。馬鹿な大将。利口な大将。臆病な大将。強すぎる大将。甲陽軍鑑は軍記物語であり、史実としては不確かですが、教訓として読むには良いものです。馬鹿な大将は当然に国を滅ぼします。織田信長のようにわざと馬鹿であるように見せ、敵国を油断させる大将ならば別ですが、本当の馬鹿では国を滅ぼします。自分を馬鹿ではないと自負し、賢ぶる大将も馬鹿な大将と言えましょう。馬鹿ではない大将とは部
名古屋市中区:名古屋城。2020年4月以来、2021年の初攻城。築城主:徳川家康。大坂、豊臣方への抑えのため、最大最強の近世城郭を築く。大天守は戦後に再建。(画像は、集合写真地点でもある鉄板撮影ポイント)いくつかの主目的があり。御城印帳のお迎え、桜、そして降臨している金の鯱に会うこと。まずはお迎えを。なんと、売店横には御城印仕様のカレンダーが(日付を手動入れ替え)。犬山城の御城印帳はすでに満員御礼。この金鯱御城印帳は、名古屋城ならではのナイス一品。
今回はノスタルジーの旅。念願の高天神城に行ってきました。実に30年ぶりの攻城となります。私が覚えていることは、神社に行く階段の途中にお稲荷さんがあってそこでお祈りしたら宝くじが1万円当たったということ。あと牢を見た覚えがあります。昔大河ドラマの武田信玄に出てきていたのを見て連れて行ってもらいました。「高天神城を制するものは遠州を制する」と言われ、今川⇒徳川⇒武田⇒徳川といったように持ち主がじゃんじゃん変わります。武田信玄をもってしても攻め落とせなかった(無理攻めしな
「武るる日本全国の武将と城の旅。ときどき観光とグルメ」、戦乱の旅、武田勝頼vs織田信長、「信長怒涛の甲州征伐~勝頼滅びへの道~天目山の戦い~天目山の戦い」史跡めぐりの旅です。武田領へ侵攻してきた織田軍と武田軍の初めての大規模な戦い、鳥居峠の戦いを紹介します。古戦場名ゆかりの武将住所鳥居峠武田軍:武田典厩(信豊)、阿部加賀守(勝宝)、今福筑前守(昌和)、跡部治部丞、有賀備後守、神保冶部、馬場昌房、多田治部右衛門、山縣三郎兵衛尉、横田十郎兵衛尉、仁科盛信、仁科伊豆守、秋山紀伊守、長
2022年10月10日JR東海のさわやかウォーキングに参加しています。中央線の奈良井駅を下車して、奈良井宿の街並みを通り抜けると、いよいよ中山道の鳥居峠口になります。中山道の街道道には、山栗の木がたくさんありました。栗の実が入ったものも落ちてましたが、拾っている時間はありません。なぜならば、今にも雨が降り出しそうだから雨に降られないうちに峠越えしたいのです。道は細いですが、整備されているので通りやすいです。ぽつり雫が垂れ
長篠城に行った。武田信玄亡き後、武田勝頼は南下した。勝頼に天下取りの意志があった。と、想う。YouTubeを観て下さい。https://youtu.be/YfjzoCpu6lQ長城城の戦い(鳥居強右衛門)徳川家康の勢力圏に勝頼は入った。長篠城を封鎖し、城を落とす作戦に出た。長篠城は包囲されている。兵糧攻めにより、兵士の命も危ない。設楽が原の戦いに入る前の話。奥平信昌(長篠城)から家康に窮状を訴える。手段を考えていた。長篠城から脱出し、岡崎城まで使者を募った。
もうすっかり暖かくなってきて、コチラ名古屋の桜は満開間近といった感じでしょうか。と、来れば日本一の桜の名所の具合はどうなのか気になって、高遠に向かいました。高遠城と言ったら、やっぱりこの御仁・五郎さんですね。仁科盛信(高遠城跡・五郎山)高遠城から車で数分くらいでしょうか。舗装されているのですが、細い細い山道を登ったところに信玄公の五男坊・五郎さんのお墓というか祠があります。その脇にあるのがコチラの石像。そしてこの山の名前はその名も五郎山なんです。でっぷりカンロクたっぷりの