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いやまあよい感じではないです。最近。よくお世話になっている職場が落ち着かない。代表が替わって、不可解なことが多くなっている。前の代表はカリスマ性があったからね。武田勝頼、、、。有能なのかもしれないけど、二代目はやはり先代と比較されて貶められる。新たな取り巻きを重用して古参に訝しがられる。古今変わらぬのかのお。
お盆休み旅行がいよいよ始まりますよ今回1発目は武田勝頼最後の城と云われる新府城山梨県韮崎市にあった戦国時代の平山城で、従来の甲府(躑躅ヶ崎館)の手狭さと広範囲に広がった領国を統治する為の交通・軍事的要所として天正9年(1581)に武田勝頼が築城したが、織田・徳川軍の侵攻により、入城からわずか68日で勝頼自ら火を放ち焼失した。武田家最後・集大成の城として知られ、国の史跡に指定されている。約300段の階段を登ると本丸らしい赤い鳥居の先にも階段階段を登り切ると藤武神社蘊蓄縄
1.長篠の戦い(1575年・天正3年)武田勝頼は徳川方の長篠城を攻撃しました。これに対し、徳川家康の要請を受けた織田信長が援軍を率いて出陣し、長篠設楽原で決戦となりました。織田軍は馬防柵を築き、銃数だけでなく、大量の弾薬と火薬を使って鉄砲を効果的に運用しました。一方、武田軍も鉄砲を使用していましたが、弾薬と火薬は輸入品であり、信長によって経済封鎖されていたため早い段階で弾切れとなってしまいました。そのうえ織田軍の途切れることのない射撃に圧倒されて武田軍は敗北しました(歴史学者・平山優氏の指
伊賀越仁義三河雑兵心得七井原忠政著双葉社630円徳川配下の足軽の出世物語。植田茂兵衛は難敵武田勝頼を滅ぼした祝いの宴で京に滞在中本能寺の変に遭遇。家康主従とともに伊賀越えをして浜松まで帰ろうとする。落ち武者がりを逃れて無装備で敵中突破をする困難さを上手く描いている。主人公植田茂兵衛は穴山梅雪と殿を務めたが梅雪は落ち武者狩りにあって落命。その後伊賀の山中をやはり殿隊として切り抜け浜松に帰還した。
鉄砲大将仁義三河雑兵心得陸井原忠政双葉文庫630円4年に及ぶ砦番を終えた植田茂兵衛は浜松に呼び戻され鉄砲頭として鉄砲50挺、槍足軽40人、小頭9人、寄騎9人の足軽大将になった。この小説で面白いのは俸禄250貫(約2500万円)まできちんと書いてどのくらい出世したかわかるようにしているところだ。植田茂兵衛はこの後、鉄砲大将として武田勝頼の息の根を止めに穴山梅雪の元で甲斐に進出する。武田氏滅亡後、織田信長の招きで上洛したとき本能寺の変に遭遇。家康主従50余名の一
川中島の戦い⑫「二万の御人数を一万二千、謙信の陣取り西条山へ仕懸け、明日卯刻(午前6時頃)に合戦を始め、越後勢、負けても勝候ても、川を超、退申べく候間、そこにて御旗本組二の備え衆をもって跡先より押はさみ、討ち取るようになさるべく候。」(「甲陽軍鑑」)さて、問題の箇所である。ここはよく吟味してみよう。「甲陽軍鑑」では妻女山奇襲部隊を1万2千、旗本二の備えで8千と記している。(2万-1万2千=8千)私は、昔から本隊より奇襲部隊の人数が多いことに納得がいかなか
砦版仁義三河雑兵心得伍井原忠政著双葉文庫650円税別長篠の戦で織田徳川の連合軍が武田勝頼を圧倒して以降東遠江の武田の勢力を削ごうと武田側の城の補給路を断つ仕事を受け持つようになった植田茂兵衛は配下の鉄砲隊を狩りをしながら鍛え配下の信頼を深めていく。そんな中、家康配下では、西三河衆と東三河衆の内部対立が起きていく。やがて徳川信康切腹という形で混乱は終結していく。
覇)名古屋山三郎:傾奇・壱の鑓覇)武田信玄:甲州法度次第覇)赤井輝子:金剛烈女覇)黄梅院:錦衣玉食覇)北条氏康:虎朱印の権威覇)武田勝頼:かくれなき弓取覇)足利義輝:剣気森然覇)愛姫:懐剣の気概覇)上杉謙信:陥陣の軍神覇)上杉景勝:烈戦の志©コーエーテクモゲームス
こんにちは。以前に愛知県新城市へ訪れた時の続きです。亀山城の次は織田、徳川連合と武田が戦った設楽ヶ原へ訪れました。『愛知県新城市亀山城跡(三河国)』こんにちは。今週は愛知県新城市の亀山城跡に訪れました。以前に訪れた田峯城から30分強。『東三河の山奥にある田峯城』こんにちは。6月前半の話しですが、愛知県設…ameblo.jp設楽ヶ原歴史資料館に車を停めて古戦場跡まで10分程歩きます。直ぐに武田の重臣である甘利信康討死の碑が現れる。この戦で武田は多くの重臣を失いました。設楽
皆さんこんにちは、司法書士講師の三枝りょうです。8月2日です。カレーうどんの日、金銀の日、ホコ天記念日、博多人形の日、ハーブの日、ビーズの日、バズの日、パンツの日です。だそうです。夏休み本番だからでしょうか。やたらと多いですけれども。さて、日曜写真館(その1294)です。街の風景シリーズ(その89)銅像武田勝頼像です。武田勝頼公は、甲州武田氏最後の当主です。JR甲斐大和駅にあります。ちなみに。下記が武田信虎像です。2023-01-08記事https://ameblo
塾長の書斎:「武田家滅亡(182)」をUPしました。https://fusanokuniinoujuku.vitaly.jp/book_blog/book182/#小説#歴史小説#戦国時代#武田勝頼#桂姫
【問題】武田勝頼の嫡男・信勝の幼名として正しいものは、次のうちどれか?【選択肢】玄治丸武王丸晴統丸徳力丸【正解】武王丸【解説】武田信勝は永禄10年(1567)、勝頼の嫡男として誕生した。幼名を武王丸(たけおうまる)という。元服後、武田家累代の諱「信」の字を冠した「信勝」を名乗った。
懐中温泉です、歴史シミュレーションその32https://youtu.be/f8WpWDo34Mo勝頼の目に、わずかな光が戻り始めていた。「北条を押す戦に、甲斐がどこまで出るべきとお考えか」「上野の一部に、武田の旗が立つ場所を作る。そこを、『甲斐と上杉の接点』とする。その代わり、武田は関東との覇道において、『兵を出すべきときには出す』ことを約す」謙信が示したのは、甲斐にとって「領地の拡大」であり、上杉にとって「関東支配の
【武田家滅亡】武田勝頼はなぜ、最強の名門を守れなかったのか|戦国-YouTubeYouTubeでお気に入りの動画や音楽を楽しみ、オリジナルのコンテンツをアップロードして友だちや家族、世界中の人たちと共有しましょう。youtu.be武田勝頼と武田家滅亡を「凡庸な二代目」の通説から見直す歴史解説ドラマです。🪭織田信長・徳川家康に追い詰められた戦国最強の名門は、なぜ滅んだのか━━武田を強くしたものと、滅ぼしたものは、同じだったのでしょうか。武田勝頼は、本当に名門を潰した凡庸な二代目だったの
徳川家康が生涯恐れた男真田安房守昌幸表裏比興の男と言われました。武田信玄から英才教育を受けて育ち、信玄の目と言われるくらい信頼された武将です。織田信長の比叡山焼き討ちの時は天台座主を救出した才覚も有りました。徳川家康が人生最大の敗戦を喫した三方ヶ原合戦の作戦参謀でした。武田勝頼を助けようとした義心も有ります。武田が滅んだ後も生き抜く知恵も有りました。徳川家康は直接対決を逃げた唯一の武将です。二回に渡る徳川家の上田城攻めは二回とも徳川が敗れました。ただ、肝心の関ヶ原で西軍が敗れ
≪境内には奇麗に揃えられた樹木が有る!真宗大谷派・「真行寺」!≫真行寺にやって来ました。山号:至誠山院号:成就院宗派:真宗大谷派本尊:釈迦如来武田信玄の妹(娘か?)眞行尼が若山某・岩崎某の二人に抱えれれて当地へ落ち伸び、当社で一寺を建立、武田勝頼の子息が二世になったといいます。住所:川越市宮元町1丁目2本堂へ向かいましょう!ご案内本堂へは、正面階段を上がって、外からご参拝ください。先ずは👏👏パンパ
只今「城スキーのお城紀行」は、「日本100名城」のお城を順次紹介しています。「日本100名城」とは、財団法人「日本城郭協会」が専門家や城郭ファンによって、「優れた文化財・史跡」「著名な歴史の舞台」「時代・地域の代表」という3つの基準に基づいて選んだ100城で、2006年に発表されました。発行されている公式ガイドブックに付随するスタンプ帳を使い、各城のスタンプを集めるスタンプラリーも人気となっています。「日本100名城」を紹介していくに当たっては、そのお城の「歴史と城主(藩主)」
こんにちは。なかなか載せる機会が無かったけど、6月の初旬に愛知県設楽町の田峯城に行ったついでに、少しだけ足を伸ばして豊田市の武節城(ぶせつじょう)に寄り道しました。『東三河の山奥にある田峯城』こんにちは。6月前半の話しですが、愛知県設楽町の田峯(だみね)城跡に行きました。前の週に訪れた足助城から、車で20〜30分山間の道を東へ走ります。『足助宿と…ameblo.jp道の駅、どんぐりの里稲武に車を停めて歩く。道の駅から直ぐ側のトンネルが貫く丘が武節城跡です。南側の登り口。
長篠の戦い・・・天正3年(1575年)5月21日、三河国の長篠城をめぐり、武田勝頼の軍1万5千人と、織田信長・徳川家康の連合軍3万8千人とが戦った戦い。信長側の鉄砲使用により連合軍が圧倒的な勝利を得た、日本戦術史上画期的な戦い。前回の続きです。以前にNHKの歴史番組か何かで見た内容ですが・・・織田・徳川連合軍の勝利の要因の一つとして、連合軍は陣地に簡易な城のようなものを築いて、そこに武田軍が攻めてきたので勝てたというなことを言ってました。馬防柵もそ
長篠の戦い・・・天正3年(1575年)5月21日、三河国の長篠城をめぐり、武田勝頼の軍1万5千人と、織田信長・徳川家康の連合軍3万8千人とが戦った戦い。信長側の鉄砲使用により連合軍が圧倒的な勝利を得た、日本戦術史上画期的な戦い。天正3年5月21日の出来事ですが・・・現在の暦に換算すると7月9日に当たり、この時期に行われた戦いのようです。冒頭に書いた説明は、事典などに掲載されたものを参考にした一般的な説明で・・・実際には、謎なことも多いような気がします。
長篠2026年4月17日公開武田軍と織田・徳川連合軍が争った長篠合戦450年記念映画。国力で劣る武田勝頼は、なぜ無謀ともいえる決戦へと突き進んだのか。合戦に否定的であった武田家の重臣たちがいかにして覚悟を固めたのか、美濃岩村城代・秋山虎繁とその妻・お艶の方の視点から物語を紡いでいく。あらすじ⚔️天正3年(1575年)5月、武田軍は長篠の戦いで、三倍の兵力を擁する織田・徳川連合軍の前に壊滅的な敗北を喫する。撤退することもできたのに、無謀ともいえる決戦へと突き進んだのは一体なぜだったのか?
懐中温泉です、歴史シミュレーションその5その頃、甲斐。武田勝頼は、小さな広間で書状を広げていました。上杉謙信の関東出兵の報。そして、自分宛ての短い文。武田殿、北条とは縁浅からぬと聞く。されど、義の所在を見誤るなかれ。関東平定の折には、甲斐の兵を動かすこと、是非に頼む。勝頼は、長篠の敗戦を思い出します。信長・家康連合に大敗し、家中は乱れ、「甲斐武田も終わりだ」と多くの者が口にしたあの時。越後から届いた一通の書状。負けた
期間:2026/06/30〜07/07天井:100倍率:3倍初回:半額薬)上杉景虎:雲漢燦爛戦)清円院:煌然天衣呪)武田勝頼:鮮紅の恋慕射)桂林院:薄紅の祈願©コーエーテクモゲームス
懐中温泉です、歴史シミュレーションその3北条氏政。小田原籠城の名手。永禄四年、十一万の上杉軍に包囲されながら、父・氏康とともに小田原城を守り抜いた経験を持つ男です。今回も決戦を避け、小田原籠城に出る可能性は高い。「城を攻めるのではない」謙信の指が、小田原の周囲をゆっくりと回ります。「関東そのものを、上杉の“分国”として固める」沼田厩橋鉢形松山この四城を連絡線として押さえること。そこに一万五千から二万の兵力を配し、「関
こんにちは。伊藤です。7月ももう目の前まで来てしまいました。まだ梅雨は続きそうですが、明けると一気に暑くなりそうで、体がついてきてくれるでしょうか?さて今日は6/291575年、三河国の長篠城をめぐり、武田勝頼軍と織田信長・徳川家康連合軍が戦った長篠の戦いが開戦しました。三河国・現愛知県新城市織田信長が採用したとされる火縄銃鉄砲隊三段構え戦術が讃えられる戦いではあるものの、「『信長記』や『信長公記』といった織田信長寄りの史記からの出自なこと」や「武田軍騎馬隊自体がそ
最近は通り過ぎるばかり、各位に礼を失していた甲州路。孫の野球応援で甲府へ、久々甲州路の史跡を辿った。●塩尻峠の合戦の戦死者胴塚・首塚へ(塩尻市柿沢地区)1548年の塩尻峠の合戦は、信濃の小笠原長時が大敗、甲州から侵攻した信玄の大勝だった。小笠原勢は、峠の西側斜面(松本平側)を敗走、坂道を転がるように惨敗した。討たれた兵士を地元の人々が峠から数㌔西のこの地に葬ったという。首塚から西方面の松本平を望む。残念、北アルプスは見えず。●塩尻峠の合戦古戦場跡へ首塚胴塚から8㌔ほ
今朝は上半身トレ୧(。◕‿‿◕。)୨昨日は台風で電車が止まって急遽仕事休みとなりました(・﹏・)大雨で外出もできないので、部屋で本を読み返してましたがプライドが捨てられず自滅する男は多い。プライドを捨てた男ほど成長スピードが早いプライドを捨てた男ほど人生が充実すると言うのにね(´・ω・`)武田勝頼は、あの信長も才能は認めていたのにプライドが捨てられなくて、最期は哀れ家族共々野垂れ死に(。•́︿•̀。)強くなりたいならつまらんプラ
史官~太田和泉守~本能寺41回目四月二十一日信長様は安土に帰陣された。その頃、信長様は織田信孝殿へ四国の阿波国を与えられた。織田信孝殿が出陣し、五月十一日に住吉に到着した。信孝殿は四国に渡る船を集めるように指示され、その用意が半ば完了した。この春、信長様は東国に出陣され、武田勝頼・武田信勝・武田典厩など一類の歴々を討ち果たし、本意を達成した。信長様は駿河・遠江の両国を徳川家康殿へ与えられた。この度そのお礼を申し上げるため、徳川家康殿と穴山梅雪殿が安土に来ることになっ
JR中央本線の石和温泉駅から歩いて15分ほどのところには、石和陣屋とともに八田家御朱印屋敷があります。駅からほぼまっすぐ南に進めば石和陣屋、東南に進めば八田家御朱印屋敷という位置関係です。八田御朱印公園という公園になっていますので、車でも公園そのものを目印にしていくことができると思います。駐車場も完備です。筆者が訪ねたのは2025年の夏真っ盛りの時期。表門前の水堀には蓮の葉がいっぱい茂っていました。7月くらいに行けばきっと綺麗な蓮の花が咲いているのでしょう。この表門、明治になって石和陣
懐中温泉です、古本屋で結がふと学研の歴史群像シリーズで『上杉謙信』を見つけ、そこでの巻末もしも謙信が生きていたらシミュレーションを見つけました。白浜の海は、思っていたよりもずっと静かでした。観光地のにぎやかな印象があったのですが、少し外れると、波の音だけがゆっくりと続いています。その海を眺めながら、ふと頭に浮かんだのが雑賀孫市のことでした。ここから少し北に行けば、かつて「雑賀衆」と呼ばれた人たちの本拠地があります。雑賀衆は、戦国時代でも特