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おはようございます。ブログをご覧くださいまして誠にありがとうございます。ブログ管理人の高坂美慧です。韮崎市観光協会では来年、武田勝頼公ゆかりの歴史探検ツアーを開催予定で募集が始まりました。武田勝頼の軌跡をたどる歴史探検ツアー2026年1月17日(土)参加費9,800円【1/17開催】武田勝頼の軌跡をたどる歴史体験ツアー※要申込み|韮崎市観光協会武田家ゆかりの地・韮崎を舞台に、武田勝頼の足跡をたどる貴重な歴史体験ツアーを開催。全行程、韮崎市教育委員会文化財担当者
タイトルにある通り戦国大名の日常生活について、甲斐武田家の三代を例に検討していくことを試みたものです。「日常生活について」と強調するのは、本書が2000年に講談社より刊行された『戦国大名の日常生活-信虎・信玄・勝頼-』が原本であり、内容もあとがきの後に追加されている補論以外はほぼ当時のままであると思われるためです。武田三代に関する最新研究を記した本だと思い読み進めていくと「今川義元の西進」「斎藤義龍」「改革者・織田信長」「徳川家康の嫡男・岡崎三郎信康は信長の命で処断された」といった直近2
信玄ミュージアムで知られる武田氏館跡歴史館の情報についてgooブログで長らく投稿してまいりましたが、このたびAmebaさんへお引越しいたしました。お初の方には初めまして。以前からごひいきいただいてきた方にはお待たせいたしました。まだ使い勝手もわかっていませんので、表示等に失礼がありましたら、初心者マークですのでご容赦願います。さて、しばらく放置状態も続く中で、更新頻度も落ちてしまっていましたが、お知らせしなければならないことなども実はたくさんあったのですが、先に謝罪いたしますが、遅
2025年11月10日今日の朝食は冷凍保存してあった中華ちまきを解凍して食べました。おかずは笹かまぼこと烏賊タコ天とオリーブの塩漬けです。食後にヨーグルトに蜂蜜レモンで甘くしたものを食べました。今日は新宿駅から特急あずさ25号で松本駅まで乗車します。中央線快速で人身事故があったので、発車が15分.遅れました。乗車券昼食は駅弁です。タコ飯とアンコウの唐揚げ、アサリのしぐれ煮でした。大月駅近くで岩櫃城跡が望めます。山の頂上です。武田
西沢渓谷に向かう途中にあった店で「良さそうじゃん」とチェックしていた。そして、やはり西沢渓谷からのハイクの帰りに、吸い込まれるように駐車場へ。店名は「富士見茶屋いろり」。時間は14時半を過ぎていたけど、駐車場には数台の車が停まっており…ナンバーを確認すると品川、世田谷、横浜など関東地区の車で…もしかしたら有名な店ではないかと…けど、地元の山梨ナンバーが無いのは気にはなっていた。注文したのは看板メニューのほうとう(1300円)、初めて目にした焼きほうとう(1450円)、そして焼き
⚔️長篠の戦い(1575年)―鉄砲が時代を変えた決戦🏯1.背景―武田信玄の死と勝頼の挑戦1573年、戦国最強と称された武田信玄が死去。跡を継いだ武田勝頼は勢力維持のため徳川領・三河へ侵攻。1575年、勝頼は約15,000の軍を率いて長篠城を包囲。👉長篠城を守るのは、奥平信昌とわずか500人。絶体絶命の状況でした。🕊️2.鳥居強右衛門の忠義信昌の家臣鳥居強右衛門が岡崎へ走り、家康に援軍を要請。捕らえられるも「援軍は必ず来る!」と叫び、磔にされる。👉その忠義
静岡からの帰路、妹が間違えて新東名に入ってしまいました私は開通したての頃に1回だけ利用し、両親と妹は初めてです新東名なら、長篠設楽原PAで武将グッズを見たいので寄ってもらいました気合が入ってます前回、立ち寄った時は夜だったので全く気付かなかったのですが…父が「古戦場が見えるぞ!!」と私達を呼びに来ました設楽原古戦場なんとPAの裏側に長篠の戦いの設楽原が広がっているではありませんかしかもPAの横に信長の本陣があり、階段で登れます織田信
山梨県甲州市塩山で菅田天神社の楯無、塩山駅で四季島を撮影したあとJR甲斐大和駅に行きました。久し振りに武田勝頼公銅像を見ました。甲斐大和駅の近くには、織田信長による甲州征伐で武田勝頼が天目山に逃れる途中の田野で自害し武田家が滅亡する悲しい地です。栖雲寺『栖雲寺甲斐源氏武田家の聖地』景徳院から天目山栖雲寺に行きました。甲州市甲斐大和は、甲斐源氏武田家の終焉の地でもあり聖地なのです。臨済宗建長寺派栖雲寺貞和4年(1348年)業海本浄によ…ameblo.jp景徳院『景徳院甲斐源
令和7年11月8日(土)天目山栖雲寺にて、蕎麦奉納の儀その後、蕎麦の振る舞い。たいへん美味なる蕎麦にござった!!茶の振る舞い処も御座った。恵林寺古川老師にて大変貴重なお話をお聞きし候午後からは90名の皆様が観光に参られ賑やかであった。皆様が去った後には、紅葉が🍁更に紅く色付いた様にも感じた某に御座った。阿吽(あ、うん、)も皆様から大人気で元氣に走り回っておったぞ!!因みにこの、阿吽(あうん)コンセプトは何?!とよく聞かれるのでお答えしよう!お犬に御座る!コンセプトは、
「中島与五郎重次の墓」。能済寺に。(静岡県浜松市中央区(旧南区)若林町1881-1)駐車場あり。トイレ・自販機なし。中嶋氏(中島氏)は藤原秀郷流士族でありもともと尾張・三河の出で徳川家康と共に浜松に来て家康に200石を与えられていました。時に武田氏の水軍は遠州灘海上から現れる様になり1576年家康の命で様子を見に舞阪の湊から海に出ました。しかし相良の浦で武田氏の水軍に敗れ白羽の湊から鎧橋まで遺体が運ばれ能済寺に葬られました。墓地の一
天目山栖雲寺(SEIUNJI)へ出陣じゃ!甲州市蕎麦奉納祈祷会11月8日(土)10:00〜ご祈祷開始
大僧正天海(99)さて、天海が「遠山氏」である、といっても最近このブログに参加した方には何のことか分からないかも知れない。このブログでは「天海=明智秀満説」なのである。以下内容を簡記する。美濃国恵那郡明知城の明智遠山氏は、遠山景安の時代に次男・遠山直景が士卒180人を率いて、伊勢宗瑞(北条早雲)のもとに出奔する。これが武蔵遠山氏である。明智遠山家は長男の遠山景成が継いだが、嫡子がいなかったため、土岐明智家から明智光安(光秀叔父)を養子とする。(「恵那叢書」)
10月2日の朝、中央線特急あずさでGO。長野県諏訪市の高島城を目指します。山梨の勝沼あたりのぶどう畑。富士山も大きく見えます。高島城へ着?いやいや、これは線路のすぐ横にある甲府城。富士山が後方に小さくなっていった頃に、上諏訪駅に着駅から南へ伸びる並木通りを進む。途中、いくつか小さい川にかかる橋を渡る。これらの川はすぐ先で諏訪湖に注ぎ込んでいます。1つ目の橋を渡った場所にある、味噌樽のモニュメント。現在は味噌蔵がありますが、江戸時代には高
〇時間短縮の悪手で失った時間武田家は信玄以来の西進策で駿河→遠江→三河→美濃と織田・徳川領の多くの地域を制圧していき、そこに武田流築城術の粋を集めた名城を築城・改修してきました。しかし、長篠の敗戦以降これらの諸城の多くは失陥していきます。そんな武田家にとって遠江最後の砦となったのが静岡県榛原郡吉田町にある小山城。ここは武田にとっての重要な地域となる駿河へは国境河川となる大井川が間近となるまさに遠江最後の武田城郭です。ここもまた牧之原台地の南東端に位置し、大井川の渡河点と海岸沿いの街
史官~太田和泉守~本能寺7回目信長様は喜ばれた。人質は菅屋九右衛門殿に預けられた。二月二日武田勝頼父子と武田典厩が木曽殿の謀叛を知り、新府今城から出陣した。武田軍は一万五千ほどで諏訪の上原に至って陣を据えた。勝頼は各方面への出撃を命じた。二月三日信長様は各方面から武田領への攻撃を命じた。駿河口からは徳川家康殿。関東口からは北条氏政殿。飛騨口からは金森五郎八殿。伊那口からは信長様と織田信忠殿。諸口から進軍するように命じられた。織田信忠殿・森勝蔵殿・団平八殿
滝堺城は遠江においては貴重な100%武田の城です。築いたのが武田家ならば、その城の役割も武田家の戦略目的のため、そして武田の遠江支配が終焉するとその役割も失われ、以降使用されることもありませんでした。遠江まで勢力を拡大させた武田家はこの遠州灘の海岸に位置する高天神城攻略の為に拠点を構築します。まずは駿河との国境に近い小山城を改修、さらに前進拠点として築いたのが滝堺城です。その狙いは遠江南部の要衝にして武田の死命を決することになる高天神城攻略のためでした。元亀二年(1571)遠江侵攻の
新田次郎の風林火山の主人公、武田信玄になりたい。ただ、信玄公と私の違いが一つ有ります。性欲の強さです。信玄公ほど私は強くないし、敵だった女性を側室にはしない。身分の低い女とはエッチしないでしょう。この2つには、伏線がある。身分の低い女とエッチしたから肺結核が発症した。これが信玄公の寿命を著しく縮めた。諏訪頼重の娘を側室にして産まれたのが武田勝頼。武田勝頼を当主にしたから武田は滅んだ。長篠の闘いは、重臣達は反対したのを押し切って闘い、惨敗して武田崩壊の始まりになった。信玄公は
どーも、castom98です。最近、長野県阿智村関連の記事をよくご紹介しておりますが、今回の記事も阿智村に関する史跡。武田勝頼首実検の跡です。訪問したのは2025年9月ですので、現在では状況が異なっている場合がある点をご了承ください。『長野県阿智村中関の大杉』どーも、castom98です。以前の巨木・御神木紹介で、長野県阿智村にございます阿智の大栗の記事を書きました。『長野県阿智村阿智の大栗』どーも、cas…ameblo.jp『長野県阿智村阿智の大栗』どーも
おはようございます。ブログをご覧くださいまして誠に有難うございます。ブログ管理人の高坂美慧です。山梨文化学園のホームページでようやく今年後半の武田の講座についてアップされました。9月後半から毎日リサーチしていたのです〜10月はすでに終了していますので、次回の分から連絡します。山梨文化学園歴史文化教室徹底検証!武田氏の歴史と文化後編2回11月15日(土)描かれた武田信玄松田美沙子先生3回12月20日(土
朝、ホテルでNHKニュースを観ていたら、群馬県みなかみ町のコキア畑が紹介されていた泊まっているホテルは、群馬県の渋川市みなかみ町って近いのでは?と調べて見たら意外と近いだったら行って見るかと急遽、予定を追加思い付いたのは良かったが、生憎小雨が降っているそれでも、群馬県なんて滅多に来ることは無いので強行行って見るとテレビでは、夏の暑さで色付きが悪いと紹介されていたが、納得この農園は、個人でしているのか、設備もそれ程充実している訳でもない様だしかも、寄付金を入れる箱まであ
へぇ~、駿河屋のセット売り、安いな~・・・・・・買ってしまいました。魔が差した~いや、これ、もう持ってるんですよホレこの通り。これも過去、中古で買ったものなので、良いものに差し替えてコレクションをアップデートさせようかと・・・※ビックリマンでよくそれやってるからな!コレクションアップデート。変な悪癖がついちゃったな~ほら、追加のほうが状態がキレイ。印刷も鮮明。しかし・・・古い方(ボロい方)は初版本なんですよね~どうする?別に初版本
期間:2025/10/03〜10/07天井:300(100&200時に星4と交換可)倍率:2倍初回:半額覇)今川義元:東海の覇者覇)武田勝頼:かくれなき弓取覇)塚原卜伝:新當流の端覇)龍造寺隆信:厳格の巧智覇)北条綱成:常勝の神威覇)井伊直虎:紅粉の領主覇)織田信長:尾張の大うつけ覇)真田幸村:永劫無極の誉©コーエーテクモゲームス
木霊の声武田勝頼の設楽原(文春e-book)Amazon(アマゾン)偉大な武田信玄を父に持つ四男の武田勝頼。何かと父と比較されているように思えてしまう。亡き信玄を慕う宿老たちと、勝頼を支える跡部大炊助勝資や長坂釣閑斎らの、反目というか仲が悪いというか。武家の代替わりは、現在の企業の代替わりと同じですね。勝頼なりに苦労しますが、それでも時間をかけたくなく、早期に実績を挙げて認めてもらいたい。武田家のお館様としての器でなかったのでしょう。「現し世(うつしよ)とは木霊のご
袋井市立浅羽郷土資料館のこの近隣地域にあった山城のジオラマ模型です。この地でも戦国時代、徳川家康、武田信玄、今川義元などの戦国武将が覇を競っていたのです。上記山城は徳川家康(皆様に知られている名前で書いていますが、当時は別の名前を名乗っていました。)が武田勝頼との戦いで築いた山城です。
道の駅甲斐大和(山梨県甲州市)の記念きっぷです。「蕎麦切は甲州よりはじまる」武田勝頼・武田家終焉の地である、景徳院が近くにあります。
浅間神社から、車で甲州街道を東に15分ほど。今回最後に訪れたのは、甲州市にある道の駅甲斐大和富士五湖方面には道の駅は多いけど、こっちの方は少ないんですよね。初めて訪れました。まずは道の駅スタンプトイレに行って、少し買い物を。武田勝頼と北条夫人近くに、武田家終焉の地(武田勝頼親子が自刃した)で武田勝頼の墓がある景徳院があります。何年か前に行ったことがあります。せっかくなのでお酒買いました。この辺と関係ない、北杜市のお酒。そして道の駅記念きっぷさらに、道の駅カード時間も17時
(西曲輪南馬出)武田信玄のお墓と家臣団屋敷跡をめぐり躑躅ヶ崎館跡である武田神社まで戻ってきました。旧甲州街道は江戸時代に制定された道ではありますが、甲斐の国といえばやはり武田氏なのです。お墓に寄ったのですから、時間と体力が余っていれば、信玄公の生まれた場所の方へと、さらに登っていってみましょう。その前に、武田神社に向かって左側、横から裏手に並んでいる家臣団の屋敷跡をもう少し巡ってみましょう。自転車旅でなければ、こうした細かい史跡探訪はなかなかできないものです。ということで武田神社前か
大僧正天海㊾「(十一月)廿七日立花左近将監宗茂、陸奥国棚倉三万国を転じ、旧領筑後国山門、三池、三瀦、上妻、下妻五郡の内にて、十万九千六百石を賜ひ、再び柳川城主となる。」(「台徳院殿御實紀」)田中忠政が改易となった理由の一つに、基督禁教令への対応が甘かったため、ともいわれる。密かにキリシタンを保護していたとさえ、いわれているのだ。なお田中家は、病弱で後継をはずされた三男・吉興が近江で2万石を与えられ存続が許された。ところがその吉興にも、男子がいなかったため、菅