ブログ記事1,341件
史官~太田和泉守~諸国1回目天正九年正月一日信長様は他国の国人衆に正月の出仕を免除された。安土に住んでいる馬廻衆だけが正月の出仕を許された。馬廻衆は信長様が通られる西門から東門の間で目通りするつもりであった。しかし夜中から巳の刻まで雨が降った。信長様は目通りを中止された。安土城の北、松原町の西の海辺に馬場を築くことになった。信長様は菅谷殿・堀殿・長谷川殿の三人を奉行とし、元旦より馬場の普請をさせた。正月二日信長様は鷹狩りで捕らえた雁・鶴を安土の町人にくだされた。
期間:2024/12/20〜12/27天井:無し倍率:2倍(☆4武将獲得するまで確率アップ)武)武田信玄:暴走機関車戦)武田信繁:鉄壁肩組戦)武田勝頼:至妙の司令薬)諏訪姫:魔法の薬缶星2薬)諏訪頼忠:堅気の心組©コーエーテクモゲームス
期間:2024/12/20〜12/27天井:無し倍率:2倍初回:半額戦)武田信玄:甲斐の虎武)武田信繁:即戦即決射)武田勝頼:虎の後嗣薬)諏訪姫:武田の寵愛星2薬)諏訪頼忠:堅気の心組©コーエーテクモゲームス
これまでの話⑥こうして遠山景行は亡くなったのである。一方、「明智光安」が死んだという「明智城の戦い」についても考えてみよう。「明智軍記」によると、弘治2年(1556年)斎藤義龍に「光安が道三側に付いた。」と見なされ、居城の明智城を攻められて討ち死にしたと書かれている。しかし明智荘の長山には明智城は存在せず、光安は遠山景行として、明知城(恵那)にいたと思われるのだ。無論、明智城が顔戸城である可能性はある。しかし長禄3年(1459年)の八幡神社棟札には「地頭御代
㊗️吉報📢私が収録した琵琶弾き語り「祇園精舎」と、謡語り「人間五十年」が海を超えてネパール🇳🇵へ。誇らしい❣️ご縁に感謝。Samuraising御一行様のご武運を日本より心より祈念しております。彌榮須田隆久拝
(雲峰寺①から続く)『「裂石山雲峰寺」に行ってみた①』1か月近く更新をサボっていた当ブログですが、その間も、ちょこちょこと寺社巡りは行っていました。【2024年12月1日】師走最初の日に訪れたのは、山梨…ameblo.jp山梨県甲州市にある裂石山雲峰寺を訪門。その創建時期は明確には分かっていませんが、奈良時代の天平17年(西暦745年)、行基が自ら彫った十一面観音を祀って開創したと伝わっています。開創当時は天台宗の寺院でしたが、古くから地元を治める武田氏
史官~太田和泉守~石山30回目八月十七日信長様は大坂を出て京に向かわれた。京において、信長様は家老の林佐渡守を始めとして安藤伊賀父子・丹羽右近を遠国に追放された。理由は、そのむかし信長様が苦労されていた折、彼らが信長様に敵対行為をしたからである。十一月十七日柴田勝家殿が加賀の一揆勢を攻め、諸所で一揆の歴々の者を生害させた。それらの首は安土に送られ、松原町の西で晒された。首の主は、若林長門・その子若林雅楽助・その子若林甚八郎、宇津呂丹波・その子宇津呂藤六郎、岸田常徳・
大きく名を上げた武田勝頼ですが1575年の長篠の戦いで武田軍は織田・徳川連合軍に大敗します諏訪原城は徳川軍に包囲され落城し牧野城と改名されます1582年、甲州征伐で武田氏が滅亡し牧野城も1590年に廃城となります武田氏時代の遺構は本丸と南端にある小型の丸馬出のみで大型の丸馬出や二の丸などは徳川氏が整備したようです
武田信玄が1573年に病死し跡を継いだ武田勝頼が遠江侵攻の拠点として家臣の馬場信春に命じて築城したのが諏訪原城です🏯信玄死後、1574年に高天神城を攻撃城主の小笠原氏助が待っていた織田・徳川軍は来ず落城します父の信玄も陥せなかった高天神城を落城させた武田勝頼は大きく名を上げる事になりました2016年に二の丸北馬出にあった薬医門が復元されています
12月7日早朝2時半トランポにCB550FOUR積んでこの日は千葉まで下道移動昨年の年末も同じように「北総茶話会」参加の為下道移動しましたがその時は新潟の十日町経由で火打から苗場三国峠で群馬に出て赤城の麓周りで渡良瀬川>利根川沿いを下るコースをチョイス片道500㎞チョイを12時間半しかし今年は寒気が入って来て石川~富山の県境でも雪砺波平野に降りて来てもこんな感じなので昨年通った十日町や苗場はかなりの雪が予想されるため今回はコース変
「殿!武田からの火急の使者です!」ただ事では無さそうな呼び出しである。「すぐに参る!」武田の使者が控える評定の間に急ぎ向かう。使者は甲冑のまま矢傷やら刀傷やらで満身創痍の状態であった。「お目通りが叶い、心より感謝申し上げます。武田軍飯田城主秋山信友の使いとして急ぎ参上いたしました。我が軍は徳川勢に包囲され籠城を続けております。何卒頼朝様のお力におすがりしたく援軍のお願いに参りました。」「南信濃の武田軍はいかがした。」「それが、徳川と合戦に及びましたが、残念ながら。」「すぐにで
うっちーこと宇都宮芳綱です娘がふと「最近くじ引いてない」と言うので、天下鯖の本影で天神くじを引かせてみましたまずは影城主ですグフッ!><ハズレ続いて本城主ですグフッ!><自マネスキルの良素材だけど違うのが良かった天神くじの結果は芳しくなかったですが、また何か引かせたいですねブログ更新のモチベアップのためポチッとお願いします♪にほんブログ村戦国IXA(イクサ
【問題】≪難問≫天正3年、山県昌景が武田勝頼の命によって実施したこととは、次のうちどれか?【選択肢】佐渡へ渡り、本間氏に上杉牽制を命じた百騎程で堂々と上洛し、天皇に拝謁した岐阜城を訪れ、信長に和議の提案をした高野山を参拝し、信玄の位牌を奉納した【正解】高野山を参拝し、信玄の位牌を奉納した【解説】天正3年(1575)武田信玄の三周忌にあたり、武田家宿老であった山県昌景は勝頼の命により、高野山成慶院(和歌山県高野町)を参拝し信玄の位牌を奉納している。
医王寺山砦は、長篠城の北に位置し、武田勝頼が本陣を置いたところでした。麓の医王寺から、軽いハイキングで、15分ほど山を登ります。軽いとは言っても、結構疲れます。実際に行ってみると、長篠城を囲む他の砦も見渡せ、ここから見下ろしていた勝頼は勝利を確信していただろうな、というのが実感できます。だからこそ、この場所に来ると儚さを感じる。医王寺山の砦跡には、櫓とともに、説明用の看板が立てられております。その説明文が何とも物悲しい。以下引用勝頼にとってここ医王寺山は、(中略)、勝利を夢見、幸せなと
2024/10訪問景徳院(旧田野寺)甲州市大和町田野天堂山景徳院本尊阿弥陀如来歴史を1582年武田が織田、徳川軍との戦いで敗れた武田勝頼が家臣と自刃した地のちに、家康公が甲斐国を統治したときに、勝頼公を弔うために田野寺を建立その後景徳院に改称山門本堂(曹洞宗)釣鐘本堂の裏にある小さな庭園甲将殿1582.3.11ここで自刃武田菱最後に武田家の滅亡おわり
11/14木曜日道の駅の朝です左が売店右は役場の施設「高齢者の福祉センター」静かな夜でした村の観光と言うこてローラー滑り台、長さ250mは日本一とか有料でした、腰にも悪いのでパス大菩薩ライン、西に「行けば甲府市まで続いてるとりあえず西へ丁度見頃、曇り空が残念目的もないので適当に空地に車を置いて丹波川へフカフカ甲府にはいかないで途中南下して大月に向かいます大菩薩峰の登山口。大菩薩峠平日でも第一Pは満車ロッジ長兵衛雪のない季節は、上日川峠を
今回のお城巡りの旅は、1泊2日での東美濃にあるお城訪問です。【1城目続続100名城No.78明知城】明知城は岐阜県恵那市明知にある標高530mの山に築かれた山城で別名白鷹城とも呼ばれています。明知遠山氏代々の居城でした。この地は、信州飯田と名古屋を結ぶ中馬街道や中山道大井宿と東海道岡崎宿を結ぶ南北街道が交わる交通の要衝であったため、織田軍と武田軍の攻防の舞台となりました。元亀3年(1572年)織田信長公は、武田信玄公に従属する遠山家の家督相続に介入し、一族を織田方に寝返らせることに成功、
予譲の仲間として、小宮山内膳[1]の恨みがある。武田勝頼の滅亡に際して、はせ参じ死を共にした。赤城の浪客のナントカという人が亡き主人が死ぬときに、殉死すると言い張ったことが伝わっている。いずれの人たちの誰に比較できようか。異国は不義不忠で君主が困難に陥ったとき、命をもって戦う者は非常にまれである。だからこういうことをもって万代にもわたって書産するのである。それに対して日本は本来的に義勇の心があって、忠孝は臣下の家業と心得ているので、この類のことはあまり有名いなっていない。売学の連中は日本を
【問題】武田家に従った平林正恒は、武田勝頼が滅亡した際、次のうちどのような行動を取ったか?【選択肢】天目山で勝頼に殉死した信長に降り本領安堵された越後に逃れ上杉家に仕えた信濃国白馬へ隠棲した【正解】越後に逃れ上杉家に仕えた【解説】平林正恒は信濃国更級郡の上尾城主で、武田信玄の勢力が及ぶとこれに仕えた。武田家滅亡の際は越後に逃れて上杉家に仕え、その後の同家の転封にも従った。
上野整体センター(台東区東上野)|エキテン(ekiten.jp)
期間:2024/11/01〜11/08天井:300(100&200時に星4と交換可)倍率:2倍初回:半額覇)今川義元:東海の覇者覇)武田勝頼:かくれなき弓取覇)塚原卜伝:新當流の端覇)龍造寺隆信:厳酷の巧智覇)北条綱成:常勝の神威覇)井伊直虎:紅粉の領主覇)織田信長:尾張の大うつけ覇)真田幸村:永劫無極の誉星3覇)黒田晴氏:機耐性・参©コーエーテクモゲームス
諏訪原城跡を時計回りにまわってきて諏訪原城内にある諏訪大明神を祀る諏訪神社さんへ諏訪原城の名前の由来になった神社です『◆諏訪原城跡と富士山◆動画あり◆』時間は朝8時半続日本100名城の諏訪原城跡に来ました諏訪原城ビジターセンターの開館は10時なので城跡へ向かいますビジターセンター裏側にある…ameblo.jp当日(10月26日)お祭りの装飾がされていました
時間は朝8時半続日本100名城の諏訪原城跡に来ました諏訪原城ビジターセンターの開館は10時なので城跡へ向かいますビジターセンター裏側にある続日本100名城のスタンプを押します諏訪原城跡大手南外堀パンフレットスタンド横鉄庫内(ビジターセンター閉館時でも押すことができます)諏訪原城跡は国指定史跡です
おはよん(=^・^=)🐾続きです♫此の石畳を暫く進むと古い古い傷みかかった木橋が有りました‼️😳体重制限は無いもののとても不安要素の多い橋!慎重に渡ります(笑)一体の石仏が渡れて良かったね!と言ってくれたように思えました(笑)歩き難い石畳を歩き熊除けを鳴らし結構歩いたつもりでも奈良井宿から未だ700m弱しか歩いていない(笑)古戦場に眠る兵士に騙されているのでしょうか?😂1582年2月に木曽義昌が武田勝頼の二千余兵を迎撃し大勝利を収めた古戦
須玉甲斐源氏祭り2024へ参陣致し候山梨県北杜市須玉町で行われた甲斐源氏祭りへ参陣甲斐源氏の祖であられる新羅三郎義満公がこの若神子の地へ城を築いたと云われ始められた祭り遠くより参られた甲冑体験のお客陣も皆楽しんでくだされたようで安心致した!我が武田信玄の家臣になりきり素晴らしかった!素晴らしいと言えば越後(新潟県上越市柿崎区)より上杉謙信と上杉景勝と綾姫が我が甲斐国へ塩を送ってくれたのだ!蟹かにカニ有難御いす!!もう我らは争わずとも善いのだこの現世では皆手を取り合い平和を守
(しばらく導入が続きます。めんどくさかったら読まないでください)本日、中間の勉強をした。日本史の勉強だ。(まあ、ほかの勉強もしたがな)時代は室町。今日は、貿易について勉強した。まず、明との貿易で足利義満は朝貢貿易(聖徳太子もやっているし、これが初めてではない)をしたらしい。よくよく俺のノートを見ると朝貢貿易とは周辺国の使節が皇帝に貢物を献上することにより、代わりに多くの下賜物を受け取る貿易とのことだ。これを見て俺は思った下賜物が少なければ皇帝が儲かる。(実際は皇帝
第35回甲斐源氏祭りへ参陣致し候うに2024年(令和6年)10月20日(日)甲斐源氏祭りが行われまする‼️開催場所は【須玉ふれあい館広場】先のオリンピックで見た様なクライミングにチャレンジしてみるのもよきかな~我ら‼️久しゅうに皆様に御逢い出来ます事楽しみに致しておりまするあ…‼️出陣武将は新世~風林火山甲斐の虎武将隊武田信玄武田勝頼山本勘助(馬場信春)(山県昌景)(内藤昌豊)(高坂昌信)(阿吽)我らを見つけたら是が非でもお声がけくださりませ
長篠山醫王寺(愛知県新城市)『ちょうじょうざんいおうじ』と読む醫王寺は、1514年に創建された曹洞宗の寺院であり、御本尊は『薬師如来』、長篠・設楽原の戦い(1575年)の時、武田勝頼が背後の医王寺山に本陣を置いた寺院のようです▼蓮池▼▲弁天堂▲▼蓮池▼▲山縣三郎兵衛息継ぎの井戸▲▼参道▼▲▼弥陀池▲▼▲片葉葦碑▲▼山門▼▲境内図▲▼庭園▼▲説明板▲▲石燈籠/旧井戸/手水鉢▲▼庫裡側入口▼▲山門▲▼扁額▼▼石柱碑▼▲
中津市内をとうとうと流れる「中津川(山国川)」の畔に「中津城」があります。中津城。天正16年(1588)に黒田官兵衛が築城した「日本三水城のひとつ」ですが、黒田家→細川家→小笠原家の後に、享保2年(1717)に丹後宮津から10万石で入城した「奥平家」が、明治まで9代にわたり知世を続けました。というわけで、現在の中津城本丸・上檀に鎮座する「奥平神社」です。中津藩中興の祖としての奥平候の霊を祀っています。此の奥平家の初代:貞能公は、あの「長篠の戦い」で武田勝頼軍15000に攻
続日本百名城の高天神城へ行ってきました駐車場にあるトイレがお城風でした登ろうかと思っていたらどこからともなく子猫ちゃんが近づいてきましたしまった~今日はチュールを持ってこなかった~(いつも持ってる。)さんざん遊んでこねくる私またね~って感じで登ることにまずは北側入口となる搦手門側からスタート当時