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覇)名古屋山三郎:傾奇・壱の鑓覇)武田信玄:甲州法度次第覇)赤井輝子:金剛烈女覇)黄梅院:錦衣玉食覇)北条氏康:虎朱印の権威覇)武田勝頼:かくれなき弓取覇)足利義輝:剣気森然覇)愛姫:懐剣の気概覇)上杉謙信:陥陣の軍神覇)上杉景勝:烈戦の志©コーエーテクモゲームス
期間:2026/05/01〜05/08天井:無し倍率:2倍(☆4武将獲得するまで確率アップ)武)武田信玄:暴走機関車戦)武田信繁:鉄壁肩組戦)武田勝頼:至妙の司令薬)諏訪姫:魔法の薬缶©コーエーテクモゲームス
期間:2026/05/01〜05/08天井:無し倍率:2倍初回:半額戦)武田信玄:甲斐の虎武)武田信繁:即戦即決射)武田勝頼:虎の後嗣薬)諏訪姫:武田の寵愛©コーエーテクモゲームス
今年のGWは4/30と5/1に有休取得して8連休です( ̄▽ ̄)まずは日帰りで長篠へヾ(*ΦωΦ)ノ長篠城跡お城は残っていません(´・ω・`)この地で長篠の戦いがあったんですねランチはとくやさんにてお蕎麦700円揚げが美味しいd( ̄ ̄)だんにゃは三色ちらし1,800円美味しかったみたいd( ̄ ̄)こちらは現金でお支払いベジタリアンなのでお蕎麦があって助かりましたごちそうさまでしたm(__)m武田本陣跡設楽原に移動して資料館
「長篠日記」の軍議場面を拡張・再構築した物語の核心本作の脚本的な骨格は、「長篠日記」に記された重臣会議の記述を出発点としながら、そこに登場する人物をさらに増やし、軍議そのものを映画の中心軸に据えた点にある。(C)ミヤオビピクチャーズ史料上の軍議は、勝頼の主戦論に対して宿老たちが慎重論・反対論を唱えたという大枠が伝わるものの、誰が何をどう語ったかという細部は断片的にしか残っていない。宮下玄覇監督はその余白に大胆に踏み込み、十人前後の重臣それぞれに固有の論理・立場・感情を与えた
4月26日、山梨県甲州市で武田勝頼公まつりが開催されます。各種イベントがあります。甲斐源氏武田家終焉の地マップ↓第61回ふるさと武田勝頼公まつりホームページ↓第61回甲州市ふるさと武田勝頼公まつり開催!4月26日(日)-山梨甲州市公式観光サイトwww.koshu-kankou.jp天目山栖雲寺ホームページ↓天目山栖雲寺ホームページ織田信長に追われた武田勝頼が最期に目指したお寺坐禅の聖地®でもありますwww.tenmokusan.or.jp栖雲寺2019.8.
武田信清の墓参り武田信清武田信玄の六男。母は信濃国小県郡の禰津氏の娘である禰津御寮人であるという。正室は甲府城下の長延寺住職である実了師慶の娘。色部清長は孫にあたる。永禄10年(1567年)、信玄の命により巨摩郡加賀美の法善寺に入り、玄竜と号した。後に兄・勝頼の命令で還俗し、甲斐源氏の旧族である安田氏の名跡を継承し安田三郎信清と名乗り、海野城主となる。天正10年(1582年)3月の織田信長の甲州征伐による武田氏の滅亡後、高野山無量光院に逃れる。同年、上杉景勝の正室となっていた異母姉・
みなさんこんにちは織田信長、徳川家康連合軍に、武田軍が敗れ、武田の衰亡のきっかけとなった、「長篠の戦い」より450年を記念して作られた「長篠」。決戦に否定的であった、武田家の重臣たちであったが、なぜいかにして覚悟を固め、負け戦に向かって行ったのかが描かれた作品です。武田軍に包囲されていた長篠城に、織田信長(池田良)が自ら大軍を率いて、援軍に駆け付けるとの、知らせが届きます。武田軍の陣中は騒然となり、武田勝頼(小堀正博)とその側近ら主戦派と、故武田信玄の、恩顧を受けた宿老たち慎重派
4月19日(日)晴れ22℃一昨年の11月に腰痛を発症してから登山に行けなくて辛い日々を送ってましたがこのところ長いこと歩いても腰の痛みがなくなってきたのでそろそろ大丈夫かと思い、登山に行くことにするさあ、どこに行くか?高速の渋滞もないようだし登山道が再開された大月の岩殿山まで行くことにするかみさんとヤリスクロスで出発情報通り中央道は全く渋滞なし途中のコンビニで昼めしを仕込み登山口の駐車場には11時前に到着
14人目穴山玄蕃頭信君あなやまげんばのかみのぶただ読み方が難しすぎる上に変換できない名前です。この方は当初武田家に支えていたようですが、長篠の戦い前後から少しづつ離反していったようです。この戦で敗退した武田勝頼を救った高坂弾正は、のちに「五箇条の献策」と呼ばれるものの中に穴山氏の切腹を述べている所から、このころは武田家に仕えていたとはいえないかもしれません。その後徳川に付いた穴山氏は、本能寺の変の折、大阪から京都への移動中、殺害されてしまったようです。
昔から好きなんですよね。私は武田信玄が好きでドラマに夢中になり、漫画、小説を読み漁った記憶があります。そして滅亡の原因を作ってしまった息子の勝頼まで。武田家終焉の地、景徳院まで行きました。今は秀吉の名補佐役、弟の秀長をやっています。四国と九州征伐、そして彼が亡くなった後の秀吉の暴走、秀吉亡き後の家康の切り崩し工作など、通勤電車の中で調べています。そして今は川崎の歴史にも興味津々です。いろいろと散歩しながら学んでいきたいと思ってます。
「本朝廿四孝十種香」八重垣姫(中村時蔵)腰元濡衣(中村七之助)原小文治(中村歌昇)白須賀六郎(中村萬太郎)長尾謙信(中村芝翫)花作り箕作実は武田勝頼(中村時蔵)他お父さんの八重垣姫ももう一度見たいが、時蔵さんが憂いを帯びた表情で勝頼を思い、一途に恋心を訴える姿もとても魅力的だった。お父さんの勝頼と並ぶと錦絵のよう。七之助さんの濡衣が落ち着いていてよかった。「連獅子」も見たかったがチケットなし。
岩櫃城が謎多き巨城であるという話は、前回の岩櫃城の項で記載した通りですが、岩櫃城の城域南端に接している(というより城域南端に含まれている?)のが古谷館です。古谷御殿とも言われるこの館は、天正10(1582)年にいよいよ武田家が滅びようとしていたその時、真田昌幸が武田勝頼を迎え入れるために突貫工事で築いた館と伝わります。「3日でこしらえた」との話もあるようですが、仮に3日が本当なのであればここには前身となるお寺なり何なりの建物があって、それを勝頼用の御殿とした、ということなのでしょう。考
楽しかった「伊勢・大和ツアー」から戻って、二週間が過ぎました。奈良の地から東京までの帰路、友人のHさんが「上り」の長篠(ながしの)設楽原(したらがはら)パーキングエリアへ立ち寄ってくださった話(2026/3/30ブログ「旅路の終わり~理趣経からの学び~」参照)を書きました。今日は、その時の「上り」の長篠設楽原パーキングエリアへ行った時のことを、書いてみようと思います。ことのきっかけは、2月の終わりに岐阜帰省の時、高速バスが偶然に「下り」の長篠設楽原パーキングエリアに、
こんにちは、水城真以です。最近温泉に行きたい衝動が抑えきれなくなっています。温泉でなくてもいい。広いお風呂に入って、歴史を感じたいというのが本音かもしれません。自宅はもちろんお気に入りですが、自宅じゃない場所で非日常空間を感じるのが旅の醍醐味でもありますものね。個人的に、上諏訪温泉は結構お気に入りスポットだったりします。八王子駅や東京駅など、都内から特急1本でいけるので、プチ旅行に最適です。そんな自分の中の旅欲を満たすために、4月は月曜~土曜日は、これまで行っ
皆様、ご機嫌YOです!かつて英主信玄の下で最盛期を迎えた武田家も次の勝頼の代で織田家に滅ぼされました。武田家滅亡の際に主家を裏切ったのが穴山信君(梅雪)、小山田信茂、そして今回の主人公である木曽義昌。彼らは武田三大逆臣と呼ばれ、今も武田ファンから忌み嫌われる存在です。彼ら三大逆臣のうち穴山と小山田はほどなく非業の死を遂げますが、義昌は以降も大勢力の間を渡り歩き生涯を全うしました。今回は家を守る為に節義や家族の命すらも平然と捨て去った木曽義昌の生涯を見ていきましょう。「義侠心で腹
いつもマメにしていることは?▼本日限定!ブログスタンプとりあえず身体を動かすことから…「インゲン豆の日」1673年(延宝元年)いんげん豆を中国から伝えたとされる隠元禅師が亡くなりました。隠元禅師は中国・明の禅僧で来日後は、将軍・徳川家綱に厚くもてなされ、いんげん豆を精進料理の材料として普及させました。「日本橋開通記念日」1911年(明治44年)日本橋が木橋から石橋に掛け替えられ開通式が行われました。日本橋は江戸時代に東海道・中山道・日光街道・奥州街道・甲州街道の起点となった橋
昨日の外来で、鳥居強右衛門(とりいすねえもん)のご子孫という方が来られました。もう何年も通ってくださっている患者さんですが、初診の際に「私の先祖に鳥居強右衛門がいます」とおっしゃったのを覚えています。そのとき私が「磔になった方ですね」とお答えすると、鳥居強右衛門のことを知っている人はあまり多くないようで、とても驚かれ、そして嬉しそうにされていたのが印象的でした。鳥居強右衛門は、戦国時代の「長篠の戦い」において知られる人物です。長篠城が武田勝頼の軍に包囲された際、自ら志願し
期間:2026/03/30〜04/05倍率:初回1倍(星4以上1人確定)※有償2222回目2倍(星4以上1人確定)※有償2223回目3倍(星5:1人確定)※有償333呪)足利義昭:不撓の鞆公方戦)本願寺顕如:栄諧僧正射)雑賀孫一:建角身の導光射)松永久秀:忠奸無道の乱覇)武田信玄:甲州法度次第薬)足利義栄:望京の奄賢呪)朝倉義景:四大本空武)武田勝頼:虎臥擡頭射)毛利輝元:維新の先触れ射)鈴木佐大夫:雑賀惣国の魁©コーエーテクモゲームス
期間:2026/03/27〜04/03天井:300(100&200時に星4と交換可)倍率:2倍初回:半額覇)織田信長:古今無双の将覇)斎藤義龍:弑父の巨星武)浅井長政:秀外恵中の将呪)朝倉義景:四大本空射)鈴木佐大夫:雑賀惣国の魁武)松永久秀:梟雄の志武)武田勝頼:虎臥擡頭武)長宗我部元親:土佐の出来人射)毛利輝元:維新の先触れ©コーエーテクモゲームス
現在、東急リバーサイドホテルが建っている場所は、三枚橋城の南曲輪があった場所であり、「上土」と呼ばれています。天正年間(1573年~1591年)武田勝頼によって三枚橋城が築かれた際、城の堀を掘った余りの土を積み揚げた地域であり、上土は揚げ土に由来していると言われています。上土にある三枚橋城外堀跡の碑石碑は発掘された石垣の一つです。平成6年、東急リバーサイドホテルの建設現場から大量の石垣が発見され、三枚橋城の外堀はかなりの規模だったことが判明しました。武田勝頼の時代にこのような石垣があっ
大名未満の小さな領主を「国衆」とか「国人領主」といいます。この「国衆」の連合体が「戦国大名」だと理解したほうがいいです。今でいえば郡とか市とか程度の領主が「国衆」です。こいつらは単独では領地を守れないので、近所の国衆たちと同盟を結び、なかで一番強いヤツを棟梁にして、他の皆はその家来になる。こうして信濃国とか越後国とかいった国単位(いまでいう県)くらいでまとまったものが「戦国大名」だ、というふうにイメージしてください。戦国大名の中には、室町幕府の守護や守護代の家が持ち上がった者もいますが、多
昨年11月5日にNHK総合で放送された歴史探偵、今回のテーマは武田勝頼。北は上杉、東は北条、西は徳川・織田に隣接。武田家最大の領土は武田勝頼が築く父信玄が西上作戦の途中、信濃駒場で陣没織田信長は、信玄の後を継いだ勝頼の能力を低く評価。遠州にある高天神城は堅固。搦手門から登城かなりキツイ坂です高天神は本丸が二つあります片方だけ落としてもダメです勝頼が取った秘策とは第一次高天神城攻め家康は織田信長に援軍を要請信長包囲網、四方八方を敵に囲まれていました。同盟は徳川家康だけ
(南蛮貿易)南蛮貿易とは16世紀後半の戦国時代から17世紀の初めの江戸時代初期にかけて日本とポルトガル・スぺインとの間で行なわれた貿易である。スペイン人やポルトガル人は南蛮人とよばれたからこの名がある。1543年ポルトガル人が種子島に漂着して鉄砲を伝えたが、それ以後、ボルトがル人はマカオを拠点に毎年のように九州の諸港、長崎・平戸などに来航して、日本と貿易をおこなった。スベイン人も1584年に肥前の平戸に来航して、貿易をおこなった。スペインはフィリピンのマニラを拠点に日本と直接貿易をおこ
444年前の1582年(天正10年)3月11日の戦国最強騎馬軍団を率いた、甲斐源氏武田家が織田信長による甲州征伐で滅亡。武田勝頼が家臣の離反などで、織田・徳川・北条が一斉に甲斐・信濃・駿河・上野に侵攻され天目山で自刃。父信玄が築いた鉄の鎖で繋がれた最強家臣団。信玄亡き後、なぜ最強家臣団に亀裂が入ったのか…父信玄が落とせなかった高天神城を落とし、織田信長に一目置かれた勝頼。父信玄よりも領土拡大を保持。なぜ穴山、小山田、木曽は離反したのか…勝頼は愚将なのか…勝頼の側近は無能だったのか
みなさま、こんばんはまだまだ肌寒い日々が続きますが、いかがお過ごしでしょうか。今日も前回の続きで、『諏訪御料人』について取り上げたいと思います勝頼を産み、晴信にも寵愛され、幸せの中にいた諏訪御料人でしたが、心の中には常に「諏訪家再興」の悲願が消えることはありませんでした彼女はその宿願を、四郎(のちの武田勝頼)に果たしてもらおうと考えていました。そのために晴信にも折りに触れその事をお願いし、負い目のあった晴信も、四郎勝頼に諏訪家を継がせようと考えていました。しかし、諏訪御料
こんばんは、白黒茶々です。巡った範囲がほぼフラットだった駿遠線。🚃気軽に登れる小丘の上に築かれた横須賀城。🏯それらに対して、これから目指す高天神城は標高132mと、山城にしてはそれほど高くはないのですけど、この日のコースの中では最もハードで汗かきスポットとなります。😧疲れやすくて足腰の弱った波がネバーギブアップをしない限り登るつもりですけど、果たして無事にその山頂にたどり着けるのでしょうか?🤔とかなんとか言っているうちに、高天神城が築かれた鶴翁山の全景が眺められる地点まで来ました。🚗
s57/11/13飯田線本長篠織田信長と武田勝頼が戦った場所朝4時に家を出て山道をひたすら走りました。
一昨日の夜遅くに、岐阜に帰ってきて二日目になります。昨日の岐阜はずっと雨で、お墓参りに行けなかったので、今日はこれからお墓参りに行って来ようと思います。昨日のブログに書いた、名古屋行の高速バスが停車した休憩エリアの中に、戦国の歴史が好きな人なら、思わずときめいてしまうようなパーキングエリアがあったのです。それは、長篠設楽原(したらがはら)パーキングエリア……まずは、この織田家の木瓜(もっこう)家紋の陣幕がかかった切妻(きりづま)屋根の造りの建物に、度肝を
武田信繁公武田四郎勝頼公武田信玄公伊達政宗公真田昌幸公木枯らし紋次郎新選組浪士片倉小十郎忍ロキュータス+ロキュータスつづく…