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s57/11/13飯田線本長篠織田信長と武田勝頼が戦った場所朝4時に家を出て山道をひたすら走りました。
一昨日の夜遅くに、岐阜に帰ってきて二日目になります。昨日の岐阜はずっと雨で、お墓参りに行けなかったので、今日はこれからお墓参りに行って来ようと思います。昨日のブログに書いた、名古屋行の高速バスが停車した休憩エリアの中に、戦国の歴史が好きな人なら、思わずときめいてしまうようなパーキングエリアがあったのです。それは、長篠設楽原(したらがはら)パーキングエリア……まずは、この織田家の木瓜(もっこう)家紋の陣幕がかかった切妻(きりずま)屋根の造りの建物に、度肝を
史官~太田和泉守~本能寺23回目信長様が飯田に逗留されていた時、長谷川与次殿が運んで来た武田典厩の首を信長様のご覧に入れた。仁科五郎が秘蔵していた蘆毛馬、武田勝頼の大鹿毛が信長様に進上された。信長様は大鹿毛を織田信忠殿に贈られた。滝川一益殿が武田勝頼の最後の佩刀を信長様に進上した。信長様は滝川一益殿の使いとして来た稲田九蔵殿に小袖を下賜された。かたじけないことだった。信長様が武田勝頼・武田太郎・武田典厩・仁科五郎の首を長谷川宗仁殿に京都へ運ばせ、獄門に掛けるように命じ
小泉・安倍政権も泣かされた「チルドレン」の宿痾、圧勝の高市政権が抱え込んだ66人の新人議員という"時限爆弾"小泉・安倍政権も泣かされた「チルドレン」の宿痾、圧勝の高市政権が抱え込んだ66人の新人議員という"時限爆弾"「120日前、衆議院の首班指名選挙で237票。過半数をわずか4票上回るだけの薄氷を踏む思いでの政権発足でございました。今回は350票を上回る安定した基盤の下で首班指名をいただきました」「先の総選挙において70年…toyokeizai.net永田町で広がる《幻の麻生議長説》の噂、高
【感想】武田信虎・信玄・勝頼の三代について詳しく記した、平山先生の本。印象的だったのは、戦には強いが、飢饉や内紛が続き、とかくついていなかった武田信虎だろうか。信虎の時代の武田氏は、甲斐を固めるのに大半の時を費やされ、信虎がとことん貧乏くじを引かされたという感が強い。信玄より長寿だったけど、その点運が悪いよな。信玄の信長との敵対は、驚天動地の外交政策の転換であるというのも、面白かった。もし、信長との友好を保っていたら、勝頼の代の武田氏滅亡の運命も違ったモノになってたかもしれないと思うと、外交の
本日お昼12時、2026年最初の合戦イベント「甲州征伐」がついに終戦を迎えました!!その結果、勝利を手にしたのは織田軍でした!!まずは参戦されたすべてのみなさま、大変お疲れ様でした!軍功の経過を振り返ってみると、初日は織田軍がリード、翌日は一転武田軍が10万前後リードを保つ中で戦況が明けました。が、その翌日には織田軍が再逆転してそのまま一回目の両軍同時総攻撃を迎えます。総攻撃終了時の軍功差はたったの5,000(!)、そのまま織田軍がほんの少し優勢な状況で推移しますが、
史官~太田和泉守~本能寺22回目越中の国衆は武田勝頼の報告を事実と心得、小島六郎左衛門・加老戸式部の両人が一揆の大将となり、神保越中を城内に押し籠めた。三月十一日一揆勢は富山城を乗っ取り、近辺を放火した。時を移さず、柴田勝家殿・佐々成政殿・前田利家殿・佐久間盛政殿が一揆勢の籠る富山城を包囲した。彼らは、「落城までに時間はかかりません」と信長様に注進した。信長様が返事を返した。「武田勝頼・武田信勝・武田典厩・小山田・長坂長竿を初めとして、武田の家老の者を尽く討ち果た
甲州征伐の戦場のひとつ高遠城跡(長野県伊那市)合戦イベント「甲州征伐」、早くも熱々の中盤へと突入して参りました!本日は恒例の「よくある質問編」をお届けします。そして!前回の「北の関ヶ原」で実施して非常にご好評をいただいたあのキャンペーンを今回も実施することとなりました!!後半に詳細を記載していますのでこちらもご注目ください!Q.「注進」における“実戦活用情報”の定義は?A.実戦活用情報は、“軍功を増やす方法や合戦のノウハウ”に該当する投稿です。そのため、再掲となりま
最近ははつらつらと日本の国の歴史や価値観の根底に流れるものは何か?などChatGPTと話し込んで楽しんでます。鬼滅の刃から始まり、徳川慶喜、小栗忠順、武田勝頼、後白河法皇に一休和尚…(笑)日本の政治において幕府と朝廷という役割分担がいかに世界的に見て稀有な例だったか明治維新は、あえてそれを壊しにいった存在(薩長としてはそうするしか仕方ない側面もあった)天皇というものが、既存の宗教から見てどのような存在なのか、というのも聞いてみました。日本文明つていうのはどこかで昔読んだ記憶が
史官~太田和泉守~本能寺21回目武田太郎は十六歳だった。太郎は歴々の家柄であったので、容貌は麗しく、肌は白雪のように美しく、余人に勝れていた。見た者はあっと感じ心に印象を残した。しかし会者定離の悲しさ、老人を後に残し、若者が先立つのが世の習い。朝顔は夕べを待たない。ただ蜉蝣の化身のような命である。太郎は家名を惜しみ、切って回り、名誉の高名をあげた。歴々の者で討ち死にした侍分は四十一人、上臈分五十人、巳の刻には全員が討ち死にした。武田勝頼父子の首は滝川一益殿より織田
期間:2026/02/06〜02/10天井:300(100&200時に星4と交換可)倍率:2倍初回:半額覇)今川義元:東海の覇者覇)武田勝頼:かくれなき弓取覇)塚原卜伝:新當流の端覇)龍造寺隆信:厳酷の巧智覇)北条綱成:常勝の神威覇)井伊直虎:紅粉の領主覇)織田信長:尾張の大うつけ覇)真田幸村:永劫無極の誉©コーエーテクモゲームス
本日14時、合戦イベント「甲州征伐」がいよいよ開戦となりました!!今手元の時計は16時、まさに開戦したてで戦況はめまぐるしく動いております!今回の合戦でも細かい改修は実施されておりまして、みなさんの使い勝手に少し影響があるかなと思われる部分について一つだけ補足しておきます。注進(申し上げます!)の画面で、これまでは投稿内容を以下のように絞り込み表示することができました。実戦活用情報含む|のみ|除外これが以下へと変更となります。すべて|実戦活用情報のみ
合戦イベント「甲州征伐」に関する最後の告知となります。本日は論功行賞と最低必要軍功についてお知らせします!さっそく見てみましょう。全参戦者参戦者全員に、協賛楽座特典「龍勢・竹筒水・袖印」の3点セットを贈呈!勝利軍勝利軍全員、家臣団コレクションで「松姫(信松尼)」の登用が可能に!軍功第一の部隊両軍通して軍功第一の部隊全員に、「10,000貫」を贈呈!軍功ランキング両軍軍功上位1~50位までの方へ、それぞれ所定の「大分銅金」他
期間:2026/02/03〜02/12天井:100倍率:2倍初回:半額武)市川局:不敵の闘志戦)井伊直政:英雄勇士の鏡戦)竹中半兵衛:十面埋伏陣射)武田勝頼:虎の後嗣©コーエーテクモゲームス
いよいよ今週金曜日に迫った合戦イベント「甲州征伐」。今日は総攻撃と大手柄武将に関する発表です!スケジュールの発表時に、システムに大きな変更はないと書きました。ただ、今日発表の大手柄武将に関してはいつもと違う点がありますので、最後までよくお読みくださいませ。まずは総攻撃の回数から。総攻撃は、織田・武田両軍ともに2回ずつ予定されています。これまで通り、総攻撃は前もって部隊長によって予告されます。続いて大手柄武将について。織田軍の大手柄武将毛利長秀丹羽氏次金森長
こんにちはみなさま、いかがお過ごしでしょうか。新年のご挨拶から一ヶ月もたってしまい、ご無沙汰していて申し訳ありませんでしたそれにもかかわらず、寛大なお気持ちでこのブログを読んでいただいている皆様には、心より感謝申し上げます。今年最初の記事ですが、久しぶりに日本史の女性を取り上げたいと思います。今日ご紹介するのは、時代は戦国時代、かの有名な武田信玄の側室で、武田勝頼の産みの母である、「諏訪御料人」という姫です諏訪御料人は、1530年に、諏訪頼重と側室の小見氏の娘との間に生まれま
史官~太田和泉守~本能寺20回目駿河・甲斐・信濃・上野、四ヵ国の国衆は縁故を頼って織田信忠殿に服属した。彼らはお礼を申し上げるため、信忠殿の門は市をなすようだった。三月八日信長様は岐阜より犬山まで進んだ。三月九日信長様は金山に宿泊した。三月十日信長様は高野に陣取った。三月十一日信長様は岩村に着陣した。武田勝頼父子・簾中・一門が駒飼の山中に入った。滝川一益殿は山中の険難・節所に分け入って捜索した。田子という所で、武田勝頼は平屋敷に柵を設けて陣所としていた。
全国的に寒い日が続きますが、こちらは徐々に暖まって参りました!!合戦イベント「甲州征伐」の告知が続きます。今日は、両軍の部隊長と陣中見舞いが決定したのでお知らせいたします!織田軍は、当時信忠の直属であった森・河尻に、信長が付属させた織田有楽・滝川一益を加えた陣容です。さらに武田家から離反して甲州攻めの先鋒を果たした木曽義昌の姿も見えます。武田軍は、親類衆の信豊(勝頼従弟)、信廉(同叔父)、盛信(同弟)が馬を揃えます。また、当時勝頼を岩櫃城へ迎えようとしたともいわれる真田昌幸、
創作小説『戦国サイコパス』〜戦の四〜天正10年(1582)甲斐国・武田勝頼(36)は今までの敗戦を穴埋めするため増税に走る。しかしそれは威信の失墜した領内での反発を強く招き、木曽義昌(42)とその一族の離反、織田方への寝返りを招いてしまう。勝頼は激怒憤慨し木曽一族を征伐し、見せしめの処刑を行なった。それを知った鬼の織田信長(48)は、武田勝頼討伐を号令し、軍に動員令を発した。織田信長と織田信忠(25)は伊那方面から、織田家臣団は飛騨方面から、同盟・徳川軍は駿河方面から甲斐国への侵攻
こんばんは、白黒茶々です。いよいよスキーシーズンがやって来ました❗️寒さの厳しいこの時季は外出するのは憚られ、豪雪地帯では雪に悩まされます。⛄️今年に入ってから大雪が続いている上越や北陸地方の方たちには、お見舞い申し上げます。🙇♂️その一方で、冬ならではのお楽しみもあります。😃この時季はシチューが恋しくなり、おでんや鍋物といった汁物もより美味しく感じます。🍲さらにスキーができるのも、冬の間だけです❗️………ということで、私はお正月休みの最終日となる1月4日に、今季初めてのスキーに
【感想】本書は、戦国大名武田氏が滅んだ流れが詳しく記され、父信玄の死後当主になった武田勝頼の動向が網羅的に分かる。そこから分かるのは、長篠の戦いで、父以来の練度の高い将兵を大量に戦死させてしまったツケが、後年まで後を引いている事。織田信長が本願寺や毛利氏に手こずっているうちに、和睦交渉をしようとせず、本願寺が降伏する時期になって、ようやく和睦に動き、遅きに失した事などである。他にも、勝頼の滅亡には、高天神城を見捨てた事とか、色々とあるわけで。だから、運がなかったという事ではないよな。多数の失策
伊那大島城跡(長野県松川町)先週金曜日に陣触れが発せられた合戦イベント「甲州征伐」について、本日はスケジュールなどのお知らせをしたいと思います!!主要な日程は以下の通りです。【開戦日時】2026年02月06日(金)14:00【参戦期限】2026年02月12日(木)13:00【終戦日時】2026年02月16日(月)12:00前回の「北の関ヶ原」と同じく、約10日間の戦いとなります。続いてシステム面について。本合戦イベントでも細かい修正や使い勝手の改善はい
織田信長は武田討伐へと先発した嫡男・信忠に対し、執拗なまでに自制を促す書状を送り続けた。それは勝頼侮りがたしという畏怖の表れであった。だが、信忠は美濃から信濃の地へ踏み込むや、父の危惧をよそに破竹の勢いで伊那谷を駆け抜ける。その姿はまさに若き日の信長を彷彿とさせるものであった。一方、これを迎え撃つ勝頼は要所に親類衆を配置し、信濃を決戦場と定めて自身は諏訪の地に本陣を据えた。何の因果か、そこはかつて“諏訪四郎”の名で将として歩み始めた自らの原点であった。信長の後継者として自らの手で武田を
Tetsu龍でございます。散々な負け戦で、武田勝頼は甲斐に逃げ帰るのですが撤退戦もあわやの事態に。まず逃げ込もうとした、田峰城城主菅沼定忠にまさかの入城を拒否られ武節城まで、逃げます。ここで一泊し甲斐に逃げ帰った勝頼、信玄の息子のイメージが強すぎて小僧っ子と思いがちですが。この時、信長42歳、家康34歳、そして勝頼も30歳なのだな。立派な成人ですやん。当時の寿命から考えると、そこまで若くもないぞ!
おはよん(=^・^=)🏸好きなサービスエリアは?新東名高速道路長篠設楽原PAです♫下りに有ります武田軍の赤揃え甲冑パーキング🅿️の横にポケットパーク織田信長の本陣に行ってみました♫小さな神社⛩️織田信長戦地本陣。。。茶臼山茶臼山からパーキング🅿️を見るとこんな感じです長篠の戦い1575年織田信長・徳川家康連合軍🆚武田勝頼の武田軍馬防柵と鉄砲により武田軍が撤退し後に武田氏終焉の道に進む武田軍を苦しめた馬防柵古戦場には馬防柵のレプリカが展
Tetsu龍でございます。無事倶楽部のプレイベントも終わり、翌日は設楽原歴史資料館へ。10月やのに、結構暑かった。さて、設楽原の戦いと言えば織田徳川連合軍VS武田勝頼でゲス。この戦いで武田の重臣が壮絶な討ち死にをするのですが、織田の三段射ちは、なかったと云うのが最近の説です。馬防柵を見に行きましたが、この柵は少し盛り過ぎやろと言う話になりました。土塁が三段になっていて、復元らしいがこれが三段射ちの真相なのか?三段射ちではないのだな。周りに一杯回るところがあっ
史官~太田和泉守~本能寺18回目武田勝頼は名残惜しかったが、住み慣れた古府を離れた。勝頼は小山田を頼って勝沼という山中より駒飼という山家に逃れた。勝頼が小山田の城に近づいた時、内々にかくまうと約束していた小山田が守るのが難しいと言って勝頼への支援を断ってきた。勝頼一行は逃げ場を失った。勝頼が新府を出た時、侍分は五・六百もいた。途中で、大半が逃げ、残った者はわずかに四十一人になった。勝頼は田子という所にある平屋敷に柵を設け、陣を構えて足を休めた。勝頼が左右を見ると、多
武田軍の猛攻を凌いだ弾丸上の城豊川と宇連川の合流する地点で、川の流れと切り立った崖で守るように建てられた城🏯時代は永正5年(1508年)菅沼元成により築城今川氏が1560年まで領主を務めます。桶狭間の戦いで今川義元は討死永禄7年(1564年)〜永禄12年今川氏真(義元の嫡男)が降伏し、徳川家康の支配下となります。遠江三方原で徳川家康は武田信玄に侵攻され長篠城は武田信玄の支配下となりますが、天正元年(1573年)三河野田城攻略後に武田信玄は病死。このタイミングで徳川家康は猛攻の末、長
おはようございます昨日の午後に大阪に戻って来ました途中で寄った新東名の長篠設楽原(ナガシノシタラガハラ)パーキングエリア1957年に織田・徳川連合と武田軍が戦った長篠の合戦があった地域ですね長篠の合戦と言うと有名なのは織田軍が3000丁の火縄銃を使って三段撃ちという戦法を使った事です火縄銃は連射が出来ないので3段に並んで1発撃ったら後ろに下がり次の者が撃つ事で連続して攻撃すると言う戦法という事ですそんな事もあるのでパーキングエリアには火
掛川城の後はランチタイム。次の目的地、高天神城近くの「鮪屋みやぎ」さんの暖簾を潜りました。海に面した遠江ですからやはり海鮮は食べておきたい。🐟注文したのは海鮮丼。↑驚いたのはお値段です。信じられないけれど、これ1,200円なのです。値段の割にはお魚が新鮮で美味しい。😲当然、食券を購入し、お冷はセルフですがそれでも安いと思いました。訪れたのが平日のお昼時をやや過ぎたあたりだったのですんなり席に座れましたが終末は列が出来そうな気がする。何はともあれ、美味しい