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長いあごひげのある歴史上の人物といったら誰を思い浮かべるだろうか。関羽、後醍醐天皇、レオナルドダヴィンチ、板垣退助……いずれ劣らぬ見事なヒゲである。私は、まずこの人が浮かぶ。武内宿禰一時期、日本国紙幣の一円札に描かれていた人物だ。ただし、1958(昭和33)年に発行停止になっているため、私はその実物を見たことはない。ただ、武内宿禰は歴史上の人物かといわれると微妙だ。現在のところ彼は、実在しているかわからない伝説上の人だからだ。この人、戦前までは諸般の事情で超有名人だったはずだが
いよいよ九州の旅も2日目……東横イン「鹿児島中央西口」の朝食バイキングを食べ、チェックアウトをすると、僕は鹿児島中央駅ヘと急ぎました。まずは、鹿児島中央駅から新幹線に乗って、佐賀の新鳥栖(とす)駅へ向かい、その後、第1の目的地である武雄(たけお)温泉駅へと向かいます。旅の1日目は南九州が主にターゲットでしたが、2日目以降は一気に九州を北上し、北九州のあちこちを廻ります。南に行ったり北に行ったり、それにしても極端な行程の九州ツアーを、計画したものだと思いま
パワー溢れる香椎宮と西鉄香椎駅前の『点と線』2025年3月30日のJRウォーキング千早駅です。地元のコースなので、今回は僕が歩きながら香椎の町をご案内いたします。張り切っているので、ブログの説明が長くなりそー千早駅まで歩いて行って、構内で受付を済ませ、11時にスタート。↓受付の為に通って来た駅前の並木通りを、再び香椎の町方向に歩き出す。↓JR鹿児島本線の踏切を渡る。線路と平行に左右に走る道路が旧唐津街道になる。ここから香椎宮前まで、約800mのクスノキ並木の参道
武内宿禰(たけうちのすくね)は、古代日本の伝説的な人物であり、日本書紀や古事記などに登場する非常に重要な政治家・忠臣です。彼は神功皇后や応神天皇をはじめ、複数の天皇に仕えた長寿の臣下として知られています。構成:筑前由紀イラスト:YUTARO目次基本情報特徴と伝説実在性子供と子孫LINEスタンプ目次を開く基本情報・時代:古墳時代(3世紀末〜5世紀頃とされる)・仕えた天皇:景行天皇、成務天皇、仲哀天皇、神功皇后(摂政)、応神天皇、仁徳天皇・出身氏族:蘇
3月10日(月)祐徳さんから真っ直ぐに帰るつもりが…ずぅーっと気になっていた『武雄神社』を検索30分ほどで行けるやんしかも、高速にも近い〜って事で寄っちゃいましたー武雄神社駐車場から歩いていくと…目の前に現れたのがジャーーーーン夫婦桧(めおとひのき)真ん中の後ろになんだかゴージャスな物が鈴なりに…授与所で小さな鈴を買ってここに結んで祈願するようですキラキラ輝いてとっても綺麗さぁ〜神様に会いに行きます階段を上がって…ドキドキん龍🐉と思いながらも…天
許世都比古命神社(こせつひこのみことじんじゃ)大和国高市郡奈良県高市郡明日香村越555(P有るが、狭小で普通車は困難、すぐ近くの牽牛子塚古墳P利用がベター)■延喜式神名帳許世都比古神社の比定社■旧社格村社■祭神許世都比古命明日香村の西外れ、丘陵地に鎮座する社。武内宿禰の御子神である許勢小柄宿禰(コセノオカラノスクネ)を祀る社であろうと考えられます。◎「三大実録」では許勢小柄宿禰を武内宿禰の第五子とし、「五郎宮」と呼ばれていたとします。ところが記などによると第二子。これはお
昨日、『竹内文書』を記した竹内巨麿のことを書いた。皇祖皇太神宮天津教の開祖である。いわゆる新興宗教の開祖だ。古代史の偽書を書いた人物である。今回は、『正統竹内文書』を書き、第73代武内宿禰だと自称する竹内睦泰について書きます。竹内睦泰1966年~2020年、53歳で没。大学受験予備校の日本史講師をしていたそうだ。その時は古事記や日本書紀などをまともに教えていたのだろう。授業アンケートで8年連続全国1位になったとか。優秀な講師だったようだ。頭は
こんばんは!@Ricoです。お正月🎍も終わり、、、ぼちぼち通常運転になっとる方々が多いことかと思います✨てなワケで九州巡礼シリーズ👣高良大社さん⛩️の続きです❗️延々と参道から山道を上がっていき境内到着した直後の朝日☀️に感動しつつ失礼いたします🙏チラ見👀中門〜透弊。こちらでふんわりと風が吹いてきて、めっちゃ心地よいーーー✨✨✨してして。あれ⁉️こちらの中には入っても善きなのかな、と(手前に賽銭箱があり、ちと迷う💧)思っていたら地元の方がズンズンと入っ
近代日本画の幕開けを告げる代表作と言われている狩野芳崖(かのうほうがい1828‒1888)が晩年に描いた「悲母観音像」です。美術好きな人なら、いつかその本物を見てみたい、と思われるのではないでしょうか。芳崖は長府藩で代々絵師を勤めた家に生まれました。絵師の父・狩野晴皐(せいこう)の指導の元、幼い頃から絵の修行をします。彼には非凡な才能があり、御用絵師として必要な作画技術を元服(15歳)までにほぼ習得していたようです。その後19歳で江戸に出て狩野勝川院雅
古代史で『竹内文書』というのがある。偽書と言われている書物だ。古代に武内宿禰という人物がいた。日本書記では武内宿禰。;古事記では建内宿禰と表記されている。第12代、景行天皇、成務・仲哀・応神・第16代仁徳天皇まで5世代にわたって仕えた伝説の忠臣。明治のお札に顔の絵が印刷されている。紀氏・巨勢・平郡氏、葛城氏・蘇我氏の祖始。300歳近く生きた人物だが、世襲制で何代かにわたって朝廷に仕えたようだ。武内宿禰の末裔だと称するのが、竹内巨麿『竹内文書』の本を出
ご訪問ありがとうございます。さて今回から武烈天皇ですが、まずは「武烈天皇紀」の冒頭、この前飛ばした総評の部分を見ることにしましょう。小泊瀬稚鷦鷯オハツセノワカササギ天皇は、仁賢天皇の皇太子である。母を春日大娘カスガノオオイラツメ皇后という。仁賢天皇7年、立ちて皇太子となる。長じては刑の判断や執行を好み、法令に詳しかった。日が暮れるまで政治を行い、無実を見抜き、訴えは退けるにしても情はおありになった。と、ここまで見るといい人に見えますが、これは「法治主義」です。法がすべてで、儒教のよ