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武内宿禰(たけうちのすくね)は、古代日本の伝説的な人物であり、日本書紀や古事記などに登場する非常に重要な政治家・忠臣です。彼は神功皇后や応神天皇をはじめ、複数の天皇に仕えた長寿の臣下として知られています。構成:筑前由紀イラスト:YUTARO目次基本情報特徴と伝説実在性子供と子孫LINEスタンプ目次を開く基本情報・時代:古墳時代(3世紀末〜5世紀頃とされる)・仕えた天皇:景行天皇、成務天皇、仲哀天皇、神功皇后(摂政)、応神天皇、仁徳天皇・出身氏族:蘇
結局、現在の皇室が、第8代の孝元天皇まで遡れるならば、当然に初代の海村雲までも遡れるということになり、また、武内宿禰大田根からも遡っていけば、母が山下陰姫で、その母方を遡れば、紀伊国造の祖、高倉下となり、高倉下の父は、海部家の五十猛で、母は、大屋姫にて、出雲王国の郷戸家に遡るので、どちらにしても現在の皇室は、東西出雲王家に遡るというわけなのである。記紀は、万世一系にこだわるばかりに、下手にいじくり回して、史実をおかしくしてしまったのである。・・本来の神功皇后の夫となる「仲哀天皇
『『生夷神社』出張の合間の神社巡り徳島編~えびすさんの生まれたところ~』『『朝立彦神社』出張の合間の神社巡り徳島編~祀られているのは月の神❓️~』『『嵯峨天一神社』出張の合間の神社巡り徳島編~元伊勢ひとよめぐり~』『『天岩戸…ameblo.jp↑のつづき。さて、話は2024年8月末に戻ります。エビス生誕の伝承地に行った翌日。台風が接近しており、強風と時折降る大雨。山に入ることは危険だと思い、無理せず徳島市周辺の神社を巡ることにした。鳥居の扁額は高良神社。「高良(こうら)
若松恵比須神社福岡県北九州市若松区浜町1-2-37立地に感動✨大きな赤い橋(若戸大橋)が、すぐ側に見える!🌉以下、神社公式HPより。若松恵比須神社のご由緒は、今からおよそ一千八百年前、仲哀天皇が神功皇后とともに筑紫野の国へおいでになった時、洞海湾にさしかかると、お出迎えした岡県主熊鰐の奏上により天皇は外海を、皇后は内海を進まれました。皇后の御船が内海の洞海湾を進まれた時、お伴をしていた武将の武内宿禰(タケウチノスクネ)の命令で漁夫に海底を調べさせたところ、海の底からいとも
ご訪問ありがとうございます。今回の解読はわたしにとってはけっこう悩ましかったのですが(;^_^A何とかまとまった…というか、むしろいっそう「古事記」「日本書紀」に近づいた解釈になってしまいました。とりあえず「チ。」のアルベルトのように「疑いながら進んで。信じながら戻って。美しさに、煌めきに、逼り詰めてみせます」というのが、心境(^^;)しかしわたしにとってはまさにコペルニクス的転回💫でしたがwさて、大筋がつかめたので今回は残りを済ませたいと思います目次⑧中費直は誰?「紀直
いよいよ九州の旅も2日目……東横イン「鹿児島中央西口」の朝食バイキングを食べ、チェックアウトをすると、僕は鹿児島中央駅ヘと急ぎました。まずは、鹿児島中央駅から新幹線に乗って、佐賀の新鳥栖(とす)駅へ向かい、その後、第1の目的地である武雄(たけお)温泉駅へと向かいます。旅の1日目は南九州が主にターゲットでしたが、2日目以降は一気に九州を北上し、北九州のあちこちを廻ります。南に行ったり北に行ったり、それにしても極端な行程の九州ツアーを、計画したものだと思いま
神功皇后に従った武内宿禰についてのご質問がありましたが、第二次物部東征で、垂仁天皇に従った武内宿禰は、武内大田根命であり、神功皇后の三韓征討に従った武内宿禰は、日向王・武内襲津彦となります。もちろん、武内襲津彦は、武内大田根の子孫となります。武内大田根は、孝元天皇(磯城王朝)と物部家(宇摩志麻遅命直系の娘)との子・彦布都押之信命と、紀国造の山下陰姫との子になります。海部王家(西出雲王国系)、磯城王家(東出雲王国系)、宇摩志麻遅命系物部分家、紀伊国造家(西出雲王国系・五瀬
ご訪問ありがとうございます。さて今回から武烈天皇ですが、まずは「武烈天皇紀」の冒頭、この前飛ばした総評の部分を見ることにしましょう。小泊瀬稚鷦鷯オハツセノワカササギ天皇は、仁賢天皇の皇太子である。母を春日大娘カスガノオオイラツメ皇后という。仁賢天皇7年、立ちて皇太子となる。長じては刑の判断や執行を好み、法令に詳しかった。日が暮れるまで政治を行い、無実を見抜き、訴えは退けるにしても情はおありになった。と、ここまで見るといい人に見えますが、これは「法治主義」です。法がすべてで、儒教のよ