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しかし、その直後の1月21日(土)、恐れていたことが起きる。ドレーンが閉塞した。起床時に胆汁が漏れていたので、いつも通りガーゼ交換などするがドレーン内に胆汁が全く流れ出てこない。このままでは胆汁が腹腔内に多量に漏れて腹膜炎を起こし、今の父の体力ではそれが致命的になってしまうだろう。既に熱も39.9℃と上がっている。脈も早く、血圧も高い。まだ腹部はソフトだが、これはいつガタガタっときてもおかしくない。緊急措置として、ドレーンの接続部を外し、シリンジ(空の注射器)で引いてみる
皆さまに再度おしらせさせていただきます。グリーンローズ売り尽くしSALEイベント開催は5月31日初日はオープンAM11時30分クローズPM6時6月1日2日3日はオープンAM11時クローズPM6時6月4日最終日はオープンAM11時クローズPM4時になります。今日は作喜子先生のお教室でお客様の千恵子さんに30日明日イベント行きますねと言われて💦💦💦一番初めてに売り尽くしSALEイベントの開催をブログにアップした時に5月は30日が最後の日だと勘違いしてしまいすぐに訂正
すみれ組、あいにくの雨でお外に出られないので、お部屋𝐃𝐚𝐲でした☔️ブロックで遊ぶ子も入れば、先日みつけたとんぼ(死骸)を図鑑をみながら観察する子もいましたそして、今日は3週間実習に来ていたもえ先生が最後の日みんなで鍵盤ハーモニカを練習した後、もえ先生が得意な津軽三味線を演奏してくれました※音割れごめんなさい💦「きらきら星」と「かえるの合唱」ですもえ先生のお陰でピアノや鍵盤ハーモニカ以外の楽器に触れることができ、良い経験になりました
産後健診は、総合病院ではなく、かかりつけ医での受診となりました。産後2週間健診は、母子共に問題なく終え。その間、家庭内に新たな危機は起きてしまったけど。可愛い赤ちゃんやたくましい子ども達に元気をもらい、比較的、穏やかな気持ちで過ごすことはできていました。経済的な問題はかなり厳しいけれど、夫はずっと一緒にいてくれたので、その点はすごく助かりました。夫も夫で、赤ちゃんと過ごすことでツライ気持ちが癒やされているようでした。赤ちゃんのお世話をすることで、夫も、自分の存在意義を感じることができ
最後の父の顔は。。。穏やかで笑っているようでした。いつもの様に就寝し・・・そのまま旅立ちました。15日の真夜中、亡くなったと施設から連絡ありました。すぐに迎えに行きますとの事で・・・約1時間後に病院へ到着し・・・父と対面しました。まだ、ほのかに体はあたたかくてマッテタヨ・・・最後に会ったのは、先月の下旬、病院でした。次の受診日が11月の下旬で、それまでコチラに出てくることがなかったから、今日、22日に行くことにしていたのに。。。病院も施設に近い病院へ移行
父は2024年4月10日に永眠しました。ブログ公開はゆっくりですが、ブログ記事はなるべくリアルタイムで綴ってきました。父の頑張りや思い出の記録とともに、その時の素直な想いをここに書く事で自分の中の気持ちや考えをまとめ、心を落ち着けていました。父が居なくなって少しの間は、書く気が起きずにいました。少し間が空いて気持ちも落ち着いたので、振り返っていきます。このブログ記事は4月25日に書いています。2023年5月15日に食道胃接合部癌のステージ3と診断された父(当時66歳)の
こんにちは、ギフテッドの中学受験その後です。いつもご訪問ありがとうございます。部屋の片付けと、後任への引き継ぎでギリギリになり、新幹線発車2分前に飛び乗りましたゆっくり東京駅で写真撮る間が無かったです。当分見る事も無いだろうから、東京最後の日の写真を載せておきたいと思います。最後の江戸川沿いラン(こんな事してるから、ギリギリになるんだよ!と言われてそう)東京の高いビル群品川駅前の工事中の建物。次は建ったのが見られるかな?恥ずかしがり屋の富士山。見納めならず、、スゴイカタイアイ
真剣にヨーグルトの話楽しんでただけの正門くん流石に可愛すぎましたし、声色にも表情にも一切出さず「どしたん?」て言ってのける黒幕とまたしても何も知らない男がダブセンなのとても良かったです。ファンの自撮り目線考慮してくれたり、タワレコのサイン書くときも居合わせたファンにどこに書いて欲しいか聞いてくれたり、誠也くんの悪巧みに気付かなかったから晶哉がCDバラまいてるの見て純粋に「すごいすごいすごい!」って言ってる正門くん可愛かったです
またまたご無沙汰しております年末年始を病院で迎え昨日やっと退院しました久々のブログにコメントをたくさんいただき返信できずごめんなさい年末年始の挨拶もせずもう二月になってしまいました今日はお別れブログですお別れと言っても喜んで受け入れなくてはならないお別れ…ブログを通じて知り合った大阪のブロ友さんその方が神奈川の幼馴染みの方に声をかけてくれ、そしてその神奈川の方がまたまた同じ職場の女性に声をかけてくれお陰さまで毛深い娘、もう行き遅れた年齢の娘を二匹一緒に引き取って
連休の最後の日は雨予報なんで遊べるのはその前の日まで。なのに、その前の日に夕方にちょこっとした予定を入れたダンナ。え?じゃー、どこも行けないじゃない?中途半端にそんな時間に…泣。昼間はダンナはメダカの水換え、私は衣替えの続きや買い物をしたりして過ごしたんですが、せっかくだし…と、近所でワンズを連れてご飯に行けないかと調べました。近くでテラス席ならオッケーなお店があったので行こうと誘いました。「え…いいけど…」みたいなイマイチな反応。あれ?行きたくないの?翌日は雨だからどこにも行けな
こんにちは。ちょびです。87歳認知症の母誤嚥性肺炎をきっかけに老衰が始まり4ヶ月…5月7日の夜安らかにお浄土へ旅立っていきました。9日にお通夜10日にお葬式12日の母の日目前でした.🌸🌸🌸棺の中の母にお花を手向ける時斎場の方が兄と私にピンクのカーネーションを手渡してくれました。「お二人でお母様の胸元に置いて差し上げて下さい。」母を挟んで棺の彼方側と此方側兄と一緒に母の胸にカーネーションを添えました。私たち兄妹2人そろった最初で最後
3人の子育てママ、いずみんです4月から新一年生になった娘。母子分離不安で母子登校をしています。現在進行形で悩みや出来事を書いていきます。\福岡web物産展20%OFFクーポン/【クーポン利用で20%OFF】福岡県応援福よか箱6点セット(冷凍セット)贈り物ギフト福袋食品復興ふっこうお取り寄せグルメ訳あり食品ロスギフト送料無料プレゼント※辛子明太子・もつ鍋セット・梅ヶ枝餅が必ず入ります!楽天市場5,000円
2021年梅雨明けが宣言された二日後のことだった。その日は、数日前に壊れてしまったキッチンのIHを取り換えてもらうことになっていた。夕方4時に業者が訪問することになっていたのだが、下の子供の迎えがあったことを思い出し立ち合いを夫に代わってもらった。自営業の夫は、いつも昼食後に仮眠をとる習慣があった。家を出るとき声をかけると仮眠を終えた夫は、まだ寝足りない様子で机に突っ伏していた。「立ち合いよろしくね」の声に、何も返事はなかった。心臓が悪かった夫は10日くらい前から調子が悪
来望から聞いた最後の言葉は言葉にもならない「う”う”う”」でした。忘れもしない来望が行ってしまう最後の日の前夜自分が泊まる日でした。来望がどうなってしまうのか?自分はどうしたら良いのか?そんな不安な日々を過ごす中で日々目に見て解るほどに来望が変わっていく姿を何も言わずに傍にいる状況。現実から逃げ出したいと願ったり真っ白になって何も考えられなかったりそいうった中で来望に向けて放ってしまった最悪の言葉「お願いだから言いたい事を言って
父は2024年4月10日に永眠しました。ブログ公開はゆっくりですが、ブログ記事はなるべくリアルタイムで綴ってきました。父の頑張りや思い出の記録とともに、その時の素直な想いをここに書く事で自分の中の気持ちや考えをまとめ、心を落ち着けていました。父が居なくなって少しの間は、書く気が起きずにいました。少し間が空いて気持ちも落ち着いたので、振り返っていきます。このブログ記事は4月26日に書いています。2023年5月15日に食道胃接合部癌のステージ3と診断された父(当時66歳)の
~『『3月のいろいろ』』から続く〜初めての人はこちらからご覧下さい♪『『突然の逮捕』①<逮捕!!>』こんにちは2個目のブログは突然やってきた逮捕の話です。そのときは突然やってきました。ある朝、5時半頃私が出勤しようと家を出て、いつもの通勤道を歩いている…ameblo.jpエージェントへの対応が済んだ後、私は退職する会社でお世話になった自分よりもひと回り近くうえの人たちへ事件以来初めて、会社の携帯や、プライベートの携帯を使ってお詫び&お礼の電話をしました。隣の部署の方「
いっちゃんの記録レスキュー(オキノーム)を服用してから40分後の10時🕙頭痛の緩和を期待してるのにいっちゃんは、仰向けで左腕を額にのせたまま厳しい顔をしている。そして絞り出すような声で私に助けを求めた『お母さん·····しんどい、気持ち悪い·····』「え?気持ち悪い?」あわてて受け止めるものを探し、傍にあった袋を開きいっちゃんの枕元に持っていった嘔吐した。戻した後に襲う激しい頭痛に舌打ちする。『んあ"ぁー』(早く効いて!早く効い
退院後の1ヶ月、父の容態は坂道を転がるようだった。一週間後には食事をまったくとらなくなった。二週間後には飲み物もほとんど飲まなくなった。日ごとに出来ることがなくなっていき、自分でベッドから立ち上がることが出来なくなった。にもかかわらず、トイレに行こうとしてベッドから何度も落ちた。次第に眠っている時間が増え、起きている時間が短くなった。退院後に本人が望んだ皮下点滴だけで命を繋いでいた。それでも、姪っ子が来てフルートとバイオリンで父の好きな歌を演奏したときは、楽しいなぁ、嬉しいなぁ、と
今日は、就労最後の日です2年くらい頑張ったけど、皆さんの前で、キチンと挨拶しました朝からチーズ明太子を作ったりシチューを作ったりしましたチョコミントパウンドケーキを買って食べたり、ヨーグルトパフェを作って食べたりしました母に会って来ていろいろ話しました日曜日親戚の家に行く話もしました明日は、美容院に行ってきます今週もお疲れさまでした
こちらの地方は、1日雨。朝から、ずっと。今日で最後。誰も何も気にしてないのに。私だけが未練たらしい。息子の学校、最後の日。明日からは、通信高校。入学の実感もなく(当たり前だけど)ただ、時間が過ぎ。そのうち、楽になるのだろうか。つらい。つらい。私が辛いのはおかしいのに。勝手に涙が出てくる。悔しいから?私が。そうだよね。関係ないのにね。自称、二重人格の私。今日も会社は無駄にハイテンション。業務の半分、喋るのも仕事。仕事終わり、ぐっと疲れた。ぐったり。帰りたくなく
今朝不安定な天気の中息子はなんとか学校に行ったこちらの学校最後の日2年弱通えた日数は3分の1以下だったけどそれでもタブレットをやめた後の2ヶ月はこれまでになく通えた学校では家での困り感はなく落ち着いて過ごせていたようで若干の「待てない」はあったものの活動に参加でき順調だったようだお友達や先生にケガが無く今日まで来れたこと本当に良かったと思う見慣れた学校安心できるクラスメイト信頼を置ける先生全てに感謝をしこれからお迎えに行ってきます読んで頂きあ
やっと1週間まだ1週間しか経ってない時間がとても長く感じている沢山のコメントとメッセージ全て読ませて頂きました間違って空白の記事が予約でアップされてしまいましたがそこにコメント下さった方励ましのコメントありがとうございますお返事を書こうとするとまた辛くなってしまうのでここでお礼のお返事とさせて頂きます土曜日に様子が変だと気がついて何故すぐ病院に連れて行かなかったのか1日早く薬を飲ませていたら治ったかもとか色々反省している毎日です会社に出勤する時に今まで通り見守り
誰も来ない精神科の看取り精神科で働く看護師タナトスです。新卒で配属された精神科で今年4年目を迎えました。入職時にいた先輩たちは全員退職し、中途で入ってきたおばさん看護師と後輩たちと力を合わせて、いかれた患者のお世話をする気が狂いそうな毎日です。精神科で認知症患者を看取る皆さんは、病院で亡くなることにどんなイメージがあるでしょうか。心臓マッサージや気管挿管など、必死に延命処置が行われ、多くの医師や看護師が必死になって患者を蘇生しようとしている場面が思い
Aloha🌺いつも訪問いいねをありがとうございます。『ダンナさんの写真とフレーム選び』Aloha🌴いつもブログを読んでくださり、いいねもありがとうございます。この度は、たくさんの皆さまからの温かいコメントや励ましのメッセージを本当にありがとうご…ameblo.jp先日、ダンナさんとの最期のお別れセレモニーがありました。4/15(月)に息を引き取ってから8日目4/23(火)に、セレモニーやお別れの仕方について葬儀社とミーティングがあり、そのミーティングで決まったセレモニーの日が、そ
原作:西﨑義展、総監督:福井晴敏、監督:ヤマトナオミチ、制作:studioMOTHER。第三話ガミラス星最後の日突如現れた無数の黒色の槍〈デザリアム・ハンマー〉がガミラス星へと刺さり、惑星のコア融解を加速させた。やがて惑星は崩壊を始め、大地は裂け、残された人々がマグマに呑まれてゆく。ひとりでも多くの民を救おうとするデスラーの決意も虚しく、いまガミラス星に最期の刻が――!?<雑感>めちゃめちゃ面白いやんけ。ガミラス星が敵の攻撃を受けて、双子惑星のイスカンダルがどこ
こんな仕事をしていると嫌でも人の最期を看取る事がある日常茶飯事とまではいかないけどそれは度々やって来る今の病院に勤め出して半年過ぎた何人送っただろう?結構いたよなみんなそれぞれに歩いて来た人生がある一緒に歩いた伴侶残した子供こんな話があったその人がまだ元気な時、穏やかな人となりで昭和世代の男子らしく少々のお酒とタバコを嗜む普通の男性で良き父親、良き夫仕事もそこそこ順調で夫婦2人で働いてマイホームを購入して二人の子供も独立し、巣立って行き、やっと夫婦2人の穏やかな生活を楽しも
7日月曜日退院が決まったので通院してる心療内科に診察とカウンセリングの予約を電話で入れた。電話なので言葉が通じないのでは?と不安だったけど、一度も聞き返される事なくきちんと通じた。家族以外と初めて電話で会話したのが通じたのは本当に嬉しかった。10日木曜日昼食から全粥から軟飯に変わった。おかずは一口サイズのキザミ食のまま。軟飯でもわりと難なく食べられた。入院最後の日、作業療法士の先生と理学療法士の先生とのリハビリは最後なので寂しかった。最後の晩ご飯。言語聴覚士の先生が「嚥下食3で
いっちゃんの記録入学式中学1年生CT検査室の扉が開きオレンジ色の被曝防護用ベストを脱いでいるU先生が見えた。Mさんともう一人の方がベッドを動かし、U先生は再びいっちゃんに酸素を送る手押しポンプを動かしながら出てこられた。話し掛ける言葉もなく、聞く勇気も出ず、私たち4人は、いっちゃんを乗せたベッドを押しながら、ほぼ無言のまま病室まで戻った。部屋に戻ると、またモニターが繋がれた。そして、U先生が廊下に私を呼んだ。看護師さんが巡回の時に押して来られる台車のパソ
父は2024年4月10日に永眠しました。ブログ公開はゆっくりですが、ブログ記事はなるべくリアルタイムで綴ってきました。父の頑張りや思い出の記録とともに、その時の素直な想いをここに書く事で自分の中の気持ちや考えをまとめ、心を落ち着けていました。父が居なくなって少しの間は、書く気が起きずにいました。少し間が空いて気持ちも落ち着いたので、振り返っていきます。このブログ記事は4月19日に書いています。2023年5月15日に食道胃接合部癌のステージ3と診断された父(当時66歳)の闘病の様子