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ご訪問いただきありがとうございます前回から少し時間があいてしまいましたが・・・外に出る機会が増えているのですが、精神的に少し無理をしたような後はどっと疲れてしまって。まだひと月も経っていないし、時間も必要かな・・と感じています。さて、ついに最後の日。息子が旅立ったその時は、息子と二人だけでしたので、私が覚えていなければ、と思っていたのに、無我夢中だったからかもしれないけど、細かいことが思い出せないところもあるのですが。10月30日(水)前日から鎮静剤の投与がはじま
神戸新聞に母の訃報が掲載されているとのこと。連絡がある。その後、神戸の県庁。昨日に引き続き百条委員会。終わるまでなんとか務める。その後、姫路の実家。夜、実家にいる母の最後の日。ここに住んで51年。そう考えるとかなり感極まる。亡くなるかもしれないと感じた時からかなり涙もろくなっている。今日もそんな感じである。今日も妹やその子どもたちが集まってくれていた。他方、様々な予定をキャンセルさせてもらっている。申し訳ありません。
おはようございます今日はつむちゃんが最後まで頑張ってくれた日のことを書きたいと思います‥悲しく辛い記事になります‥辛くなる方は次のらむくんの記事から見てくださいねこむぎの時のように頑張ってくれた日をちゃんと残したいと思います‥頑張って書きます最後の歯のカット10月7日から1週間のことはブログに書いてあります三連休があり終わったら病院に行こうと思っていました最後の歯のカットをしたあとはペレット以外は食べてくれていましたいつもならカット後はすぐにペレット食べるのですが食べなかったか
いつも、ありがとうございます取り急ぎで申し訳ありません母が今日、6日15時26分に永眠しました末期癌でもありましたが急性心不全でした。本当に突然で。まだ気持ちが受け止めする事が出来なくて後ほど改めて綴らせていただきます。息子
いっちゃんの記録いつメンとアホなことばっかして·····放心状態だったいっちゃんが旅立ったなんて·····これが現実やなんて・・・・・U先生が、彼の目にライトを当てた後死亡時刻をおっしゃった12月2日午前1時52分家族が駆け付けて約1時間いっちゃんはがんばって生きてくれたU先生が、いっちゃんの腕に入ってたカテーテルを抜いてあげましょうねと、おっしゃった。「いっちゃん、よくがんばったね。先生、いっちゃんとお話したかったよ。急いで帰ったんだけど、起きて
いっちゃんの記録大好きな水族館で兄弟といっちゃんの元に、家族が全員揃ったU先生が静かに私達に向かって尋ねられた「先程、お母さんにはお話させて頂いたのですが、今ここで説明させていただいても·····?」「はい」U先生は、子供達もいるからか、ゆっくり優しい声でいっちゃんの現状を説明してくださったあんちゃんと旦那は、ソファに座ったまま伏し目がちに黙って話を聞いていた。ちぃ兄とゴボは、ずっといっちゃんの手足をさすりながら聞いていたそして、とうとう延命措置の話をされ
来望から聞いた最後の言葉は言葉にもならない「う”う”う”」でした。忘れもしない来望が行ってしまう最後の日の前夜自分が泊まる日でした。来望がどうなってしまうのか?自分はどうしたら良いのか?そんな不安な日々を過ごす中で日々目に見て解るほどに来望が変わっていく姿を何も言わずに傍にいる状況。現実から逃げ出したいと願ったり真っ白になって何も考えられなかったりそいうった中で来望に向けて放ってしまった最悪の言葉「お願いだから言いたい事を言って
生きていると、必ず何かの「最後」を経験する。そしてそれはあとから気づくことが多い。ワタシはいつもそんなことを考えている。1番多いのは母と過した時間のこと。母をお風呂に入れたのはあの日が最後だったんだ。母とお出かけしたのはあの日が最後だったんだ。母とお喋りをしたのはあの日が最後だったんだ。そんなことばかり考えてしまう。そして。今日もそんな経験をしてしまった。ALFEEさんのライブ、@神奈川県民ホール。ご存知の方も多いと思うが、神奈川県民ホールは来年3月末をもって
いっちゃんの記録入学式中学1年生CT検査室の扉が開きオレンジ色の被曝防護用ベストを脱いでいるU先生が見えた。Mさんともう一人の方がベッドを動かし、U先生は再びいっちゃんに酸素を送る手押しポンプを動かしながら出てこられた。話し掛ける言葉もなく、聞く勇気も出ず、私たち4人は、いっちゃんを乗せたベッドを押しながら、ほぼ無言のまま病室まで戻った。部屋に戻ると、またモニターが繋がれた。そして、U先生が廊下に私を呼んだ。看護師さんが巡回の時に押して来られる台車のパソ
9/29愛猫コタロウは静かに旅立ちました前の晩、23時過ぎにご飯を食べて自分からもういいとご馳走様をして足早に自分のベッドまで行って横になって顔を拭いて顎下に冷たいウエットティッシュを当てると気持ち良さそうにしていました夜中2時頃?コタロウがソファーで寝ている私の方へトコトコ来てサイドテーブルの下に敷いたひんやりマットでこちらを向いてハコ座り痛みがあるのかなぁと静かに見ていると横になって寝はじめたから時々様子を見ながら一緒に寝ましたソファーで寝ている私の足元には
いっちゃんの記録レスキュー(オキノーム)を服用してから40分後の10時🕙頭痛の緩和を期待してるのにいっちゃんは、仰向けで左腕を額にのせたまま厳しい顔をしている。そして絞り出すような声で私に助けを求めた『お母さん·····しんどい、気持ち悪い·····』「え?気持ち悪い?」あわてて受け止めるものを探し、傍にあった袋を開きいっちゃんの枕元に持っていった嘔吐した。戻した後に襲う激しい頭痛に舌打ちする。『んあ"ぁー』(早く効いて!早く効い
いっちゃんの記録生活発表会なんのお面やろ?笑CTを撮り終えたいっちゃんが、ベッドごと救急処置室に戻ってきた。変わらず眉間に少しシワを寄せ、真っ直ぐ上を向いて目を閉じていた。ベッドのストッパーをガチャンと固定した後、女医先生は胸ポケットからペンライトを取り出し、それで照らしながらいっちゃんの目を覗き込んだ。何?それって、よくドラマで見る最期の時にお医者さんがしはるやつやん?やめてよ〜、縁起でもない←心の声「もう少しお待ちください。」女医先生が出て行
40代最後の夜はブラジル🇧🇷から研修でみえてるエデルさんの最後の日でもありました〜そこで夜は牡蠣パーティーを行いました〜腹一杯に牡蠣を食べた後はケーキタイム❗️エデルさんがもらったケーキも分けてくれました〜大満足の夜でした〜🙂
いっちゃんの記録修学旅行小6なぜかゴーグル常着(笑)どれだけ名前を呼んでもどんだけ手を強く握ってもいっちゃんは、返事をしてくれない『ん?』の一言だけでいいうるさいなって睨みつけてくれたっていいお願い!!おねがいしますオカンの声に反応してください‼️いっちゃんの手を握ったまま彼の名を呼び続けたMさんが真っ先に駆け込んで来てくださった。「どうしました?」なんて聞かずも分かる状況だった。直ぐに2人目の看護師さんが来られた続いてすぐ3人目の方も
いっちゃんの記録小1の時、クラブ入団いつメンとの出会い私は、かなり気持ちが急いていた。トイレに走るように駆け込み終わるまでの間、頭の中はいっちゃんでいっぱいだった。《どうしたんやろ·····落ち着かな!》《なんでこんなにドキドキすんねやろ》身体が心底からガクガク震えるジーパンのボタンを留める手が震えて、なかなかうまくいかない。それが何なのか、どうしてなのか・・・・・ひょっとしたら分かってたのかもしれない。親の勘で。でも・・・・・《んなアホな!
いっちゃんの記録いっちゃんの横顔集めてみたなんかのドラマみたいやわ・・・・・こんなん、現実なわけないわ。いっちゃんがおらんようなるわけない病室の扉を開けそう思いながらいっちゃんの元へ歩いたでも、目の前でモニターに繋がれたいっちゃんが、酸素を送ってもらいながら、真っ直ぐ天井を向いて横たわり、大きく呼吸している。手をにぎった私の大好きないっちゃんの手。柔らかくて細い優しい手。今も、いつも通り温かくてしなやかで·····生後3ヶ月頃・・・・・私が抱っこして
またまたご無沙汰しております年末年始を病院で迎え昨日やっと退院しました久々のブログにコメントをたくさんいただき返信できずごめんなさい年末年始の挨拶もせずもう二月になってしまいました今日はお別れブログですお別れと言っても喜んで受け入れなくてはならないお別れ…ブログを通じて知り合った大阪のブロ友さんその方が神奈川の幼馴染みの方に声をかけてくれ、そしてその神奈川の方がまたまた同じ職場の女性に声をかけてくれお陰さまで毛深い娘、もう行き遅れた年齢の娘を二匹一緒に引き取って
いっちゃんの記録弟ゴボの登校を見送り、8:00たくさんのお薬と、牛乳🥛、エネルギーゼリーをお盆に乗せていっちゃんが待つ2階へ。いつもなら、ベッドの中で携帯をいじりながら待ってるのに今朝は、何もせず天井を見ていた。(´·_·`)ん〜・・・・・今朝はだいぶ痛むのかな・・・・・声をかける「いっちゃん、お待たせ。どしたん?結構痛いんか?お薬飲もか?」『・・・・・・・・・・』返事がないので、ビックリして顔を覗き込んだ。眠ってる。眉間にしわを寄せ
突然夫のガンを告げられ、それも末期であるということ、本人の希望で緩和ケアを選び1週間。まだまだどんな事が待っているのか、絶望というものはないのですが、私自身をどのように保つか、私の目から見た思いを最後の日までを綴ろうと思っています。昨日から緩和ケア病棟なので、面会は確認もなく、病棟を記入すればハイ!とカードを渡してくれます。3時になると他の病棟の人たちの面会で、混雑する受付も、誰もいなくて。クリスマスの飾りつけをした緩和ケア病棟のロビーてす。特に何をすることもないし、話もそんな
いっちゃんの記録憧れの年長さんの和太鼓いっちゃんのベッドの端に腰掛け手を握ったMさんが来て吐き気止めの点滴を入れてくださった。「このお薬は、U先生の指示だからね。先生もがんばって早く行くからねって言ってたよ!」いっちゃんは、うなずくだけだった。やっぱり携帯を見ようともしないし目を閉じたまま、時々眉間にシワを寄せる「もうすぐXmasやし、いつメン呼んでパーティしよな?唐揚げとポテトがあればええやんな?w」なんて、しょうもない話をいろいろした。
ドレーンの入れ替え後、排液の性状は戻った。食事摂取量が少ない分、以前より排液量は減少しているものの、それなりに流れるようになった。しかし、みるみる体力は低下してきている。1/26(木)訪問看護の方に、介護度upの申請をして、訪問入浴なども利用できるようにしておいては?、とアドバイスを受ける。シャワー用の椅子なども借りることにした。1/28(土)38℃の熱があるが、本人の希望もあり、シャワー浴を行う。本人はシャワーチェアに座り私が介助に入り行う。体重を久し
続き看護師さんが帰ったあと旦那さんが子どもたちと観ようと録りためてたビデオをみんなで観る水曜日のダウンタウンアメトーークイッテQドレミファドン!長女とはあまり話さなかったけど笑いのツボは一緒で元気なときはよく同じとこで笑ってたね子どもたちが旦那さんの手を代わる代わる握るパパが手を握り返してくれたパパまだ耳は聞こえてるよちゃんとわかってるからいっぱい話しかけようよ昨日はほとんど目を開けなかったけど今日は目をつぶりそうになるとカッと目を開け旦那さんは5時間
父は2024年4月10日に永眠しました。ブログ公開はゆっくりですが、ブログ記事はなるべくリアルタイムで綴ってきました。父の頑張りや思い出の記録とともに、その時の素直な想いをここに書く事で自分の中の気持ちや考えをまとめ、心を落ち着けていました。父が居なくなって少しの間は、書く気が起きずにいました。少し間が空いて気持ちも落ち着いたので、振り返っていきます。このブログ記事は4月25日に書いています。2023年5月15日に食道胃接合部癌のステージ3と診断された父(当時66歳)の
もう、買いませんもう欲しいものも無かったんだから、プラチナステータス継続のために、無理して買ってあげる必要もなかったのよね丸型のウェルカムギフト(ジュエリーケース)や、今のバースデーギフトは、ハンドクリーム現品や、ウェルカムギフトと同じ柄のポーチ?は、欲しいに気持ちは傾いてたけど、もう見たくもないですわ。しばらくは。わたしの今年のバースデーギフトのネイルケアセットだって、しょぼすぎたし、その直前は、メゾンクリスチャンディオールのキャンドル2つだった、っていうじゃないなに、その格差店員
いつも週末に都内で飲んでから地元守谷に帰ると、必ず寄る居酒屋さんがあります。守谷駅から3〜400mのところに、小さなカウンターだけの飲み屋さんが集まった.通称"屋台村"と呼ばれる一角がありまして、その中にある「ふらっと(仮)」と言うお店です。元々はステーキを食べられるお店だったのですが、閉店して、そこの常連だったクボ君と言う若者が後を引き継ぐ形でスタートしました。なんでお店の名前に(仮)と言うのがついているのかと言うと、サラリーマンを続けながら週末だけ開けると言うスタイルを取っていて、ここ
亡くなる3日前(3月28日土曜日)熱が下がっていたので、予定どおりお出かけ。と言っても、遊びに行くというより車用のカーシートの調整&パーツ変更の打ち合わせをしました。普通のチャイルドシートでは乗りにくいのでいつもなら、療育先で予約を取ってお話するのだけど保育園から『コロナが出た地域に行ったら2週間保育園お休みしてください』と指令がくだり・・・本人だけでなく、家族が行ってもNGってことで療育お休みしてました。(仕事先がその地域だったパパやママはどうして
ずっと書けなかったなーでも、忘れっぽい母なので書き留めることをしないときっと後悔もする下書きして、下書きしてちゃんとyuちゃんのこと残したいすごーーく遠い前のことのよう*******最後の日、前夜からの続き結局、夜もあのまま呼吸が苦しそうなのは変わらず間隔は空くものの1〜2時間ごとポータブルトイレに便意で移動していた前日、旦那さんと交代して泥のように家で寝たのもあり日を跨いで2時くらいまでは起きていられた夜勤ナースはyuちゃんの初発のときからいるナースと
しかし、その直後の1月21日(土)、恐れていたことが起きる。ドレーンが閉塞した。起床時に胆汁が漏れていたので、いつも通りガーゼ交換などするがドレーン内に胆汁が全く流れ出てこない。このままでは胆汁が腹腔内に多量に漏れて腹膜炎を起こし、今の父の体力ではそれが致命的になってしまうだろう。既に熱も39.9℃と上がっている。脈も早く、血圧も高い。まだ腹部はソフトだが、これはいつガタガタっときてもおかしくない。緊急措置として、ドレーンの接続部を外し、シリンジ(空の注射器)で引いてみる
紀元前と紀元後?今日、2024年9月20日は、私が箱根のゴルフ場で脳幹出血を起こして救急搬送された日から丁度11年目の日だ。あの日も蒸し暑い日だった。何度も人に話をしたり思い返していたから、まるで、ちょっと前のことのようによく覚えている。ちゃんと身体が動いた最後の日だ。今だって、日常生活には困らないけど、決して元通りにはならないことを、痛感している。この11年は思い返せば、夢を見ているようだった。本当は11年前のあの日に私は死んでいるんじゃないか?と