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こんにちは陣イベお疲れ様でした結局、才蔵さん(東軍)1回も勝ち組にならなかったじゃーんえーーこんな事あるんだなぁ。弦ちゃん欲しかったから泣く泣く真珠消費したよ〜今回は節約したかったのにトホホ…華イベはじまりましたね!後発殿6人のイベ秀吉様〜〜早速読みましたよぉ安定の秀吉様の優しさにすごく癒されました後日談はこれからラン特ほしいけど秀吉様また30位(300位)かぁどうしよっかな…迷い中あ、あとビッグニュース恋乱アニメ化だってツイッターで見てびっくり!短
新潟県にある日本100名城と続日本100名城の城をまとめました。【春日山城】日本100名城No.32所在地新潟県上越市アクセス春日山駅から徒歩40分見どころ・上杉謙信公銅像。大河ドラマ『天と地と』の放映に合わせて建立された。・毘沙門堂。謙信が合戦の勝利を祈願したと伝わる。・監物堀。史跡広場に復元された総構の堀。近くには「ものがたり館」が併設されている。【鮫ヶ尾城】続日本100名城No.133所在地新潟県妙高市アクセス北新井駅から
上杉謙信の武将鬼小島弥太郎の墓は、飯山城の北西約700mの皿川沿いの英岩寺にあります。英岩寺英岩寺は、初代飯山城主泉重信の菩提寺で飯山市街地では最古のお寺と言われている。永仁年間天台宗の修験道場として創立され、その当時は江岸寺と呼ばれていた。戦国期に衰微し、文禄4(1595)年、高源七世通庵寿貫和尚によって栄巌寺として中興され、『英岩寺』と改名し現在に至るという。上杉謙信の直臣で「鬼」と呼ばれた槍の名人小島弥太郎は、川中島合戦で深傷を負い春日山城へ帰る途中、足手まといになるとこの地で自
春日山城跡その2です。⭐️本丸跡ようやく春日山城の頂上に到達日本海の方まで良く見えました。ここからは下り坂。⭐️大井戸廃城後400年経った今も水をたたえる井戸。直径10m、井戸と言うより大きな窪みのようで、周りを囲っていないだけにかなり怖い感じでした。この後、景勝屋敷と柿崎屋敷は急な降り階段でしたので残念ながらパス。謙信には「あの景家に分別さえあればのぉ」と言われた柿崎景家ですが(そして「天と地と」ではフィクションとは言え散々な描かれようですが)、こういうシンプルで猪突猛進タイ
埋蔵文化財センターの後は、春日山神社へ。ここからは徒歩移動です。この日は歩数は12000歩でしたが、階段が多かった為、登った階段数(iPhoneによる)は38階でした。我ながら頑張った!💐春日山神社山形県米沢市の上杉神社より分霊され、謙信公を祭神に祀った神社。小川未明の父が祭主となって創建しました。こちらの階段は135段・・。キツかったです。💦頑張って階段を登ると爽やかな景色。この日は本当に良いお天気でした。境内にある春日山神社記念館。上杉家伝来の軍旗(毘、龍、紺地日の丸
ゴールデンウィーク後半は新潟に行って来ました。訪問場所は上杉謙信関連を選んで、もうテンション上がりまくり!とっても楽しい2泊3日でした。新幹線で上越妙高駅へ。上越妙高駅お出迎えキャラクターのウェルモ君。駅のポスター。いきなりワクワク。レンタカーを借りました。💐まず上越市埋蔵文化財センターへ。上杉謙信公騎馬像かっこ良き至るところにいる「けんしん君」ゲーム「上越戦国乱舞」。左のキャラが上杉謙信、右が上杉景勝だそうです。この日は上杉おもてなし武将隊の謙信さんがいらして、一緒に記
春日山神社参拝のあとはてくてくと春日山城跡を登りました。かなりキツかったものの、晴れて気持ちの良いお天気だったので頑張れましたここを謙信公が歩いたかもしれないと思うと、階段もなんのその!若い頃からずっと西洋かぶれでしたが、ここ数年の日本歴オタ生活、めちゃくちゃ楽しい💐春日山城跡。大きな山城で日本百名城の一つです。⭐️空堀空堀を上から覗く⭐️直江屋敷跡直江屋敷からの景色⭐️御花畑薬草園だったそうです。今は何も植えられていませんが、何ともロマンティックな名前。⭐️毘沙門堂謙
前回の私の投稿はとても文章がわかりにくいですねそれから前々回、グラチャンをオールジャパンと間違えてしまいました色々と反省しながら次へ行きたいと思いますコレからもよろしくお願いしますということで上越の春日山城址へお嫁さんと一緒に行った話ですいきなりの階段に洗礼を受けて本丸跡を目指す二人(歩いているのは、私たちではない若いカップル)階段をクリアしたら春日山神社ですはるか昔の謙信公と、そういえば昔はこういう女子がいたなあなどと思いを馳せ、自分たちのピンピンコロリをお願いして山頂の天守
「お城」の「天守台シリーズ」第16弾は、「高田城」「春日山城」です。現在多くの「天守台(天守代用の櫓台含む)」が残されていて、更にはその上に復元、復興等の「天守(御三階櫓)」が再建されている場合も多くあります。「天守台」だけがひっそりと残っている場合は、「天守」が取り払われたケースの他にも、江戸時代には機会が有れば「天守」を建築するために「天守台」だけは用意していたケースや、「天守」を建築したいが幕府の目を気にしたり資金面で難しかった場合は、上物は建てず“権威の象徴”として「天守台」