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【コメント】けぽこさん、こんにちは。いきなり本題ですみません。先日、SHINeeの個別ヨントンがテミンの急遽中止に始まり全てキャンセルとなりました。当初はテミンの体調不良が理由のようにされていましたが、SMとユニバーサルミュージックと揉めていたようで、結果、返品返金という対応になりました。この件で日本シャヲルはファン同士でのメンバー擁護派との対立やファンを辞める流れになりました。SHINee日本デビュー10周年、テミン入隊という大事な時期に多くの日本シャヲルが戸惑い憤りが募る事態と
テレビドラマ「あいつの私」に出演した秘話が語られている。我々視聴者は、番組を見ているだけで、それまでの製作プロセスと言うものは知らないで見ている。映画もテレビも、映像の中のドラマを楽しんでいる裏には、数々の秘話が隠されていると言って良いだろう。時代は変わり、今ではテレビの情報番組や、スターの対談、ラジオ出演等で語られて知る事は有るが、当時では自分自身は語らないだろうし、そうした情報は知る由もない。50年も経った今、当時の雑誌ではあるが、こうして伝えられると、当時の舟木さんの忙しい
昭和45(1970)年11月の夕刊の下ほう。右端こそ「Thisis東映」といった感じだが、左端の『若者の旗』(森川時久監督)は、フジテレビのドラマ『若者たち』の映画化3部作のラスト。東宝配給となっているものの、東宝映画という感じではなく、俳優座映画放送制作による作品だ。左から3番目の二本立て、鳥居恵子と立花直樹主演の『学園祭の夜甘い経験』(堀川弘通監督)と、吉沢京子主演の『バツグン女子高校生そっとしといて16才』(松森健監督)は、そのタイトルからして、いかにも右隣の大映と
BS松竹東急で放映された鈴木清順監督、沢田研二主演の映画「夢二」を初見しました。松竹映画では、斎藤耕一監督の「竹久夢二・恋する」を観ましたが、、、ショーケン兄さんは、鈴木清順監督について、「日本映画監督俳優論」で語っていてシメは「清順さん、本当にひどい人だなァと腹を抱えたよ。」映画夢二のオープニングモノクロ画面に真っ赤な「夢二」が!日活時代の作品を思い出しましたが、、、この映画、アポロンやキティが協力していたのか!澤田研二に寫真のクレジットであるが、俳優に
懐かしい日活映画を思い出すのには格好の作品がある。そして昭和の時代、日活スターが大集合して撮られた作品が「君は恋人」だ。1966年浜田さんが、役者仲間にカラス瓶で襲った時に、割れたガラスが眼球を直撃して、一時失明した。その事故から約400日、浜田光夫再起第一作となったのがこの作品で、多くの日活の仲間たちが友情出演した。その中には、舟木一夫、克美しげる、田辺昭知とザ・スパイダース、荒木一郎、黛ジュン、ジャニーズ、坂本九と言った歌手の人達から、プロデューサーの水の江瀧子、作曲家の中村八大と
松原智恵子という女優㊤granpapaグランパパプロダクション舟木一夫さんは1944年12月12日、愛知県一宮市萩原町の生まれ。松原智恵子さんは、名古屋大空襲を避けるため母親が疎開していた父方の故郷・岐阜県揖斐郡池田町で1945年1月6日に4人姉兄の末っ子として生まれ、戦後に実家のある愛知県名古屋市に戻りそこで育っています。舟木さんも松原さんも高校時代の活動の中心は名古屋市内でした。2人は全く同世代で、同じ名古屋の空気を吸っていた“同郷”と言っていいと思います。2人と
前回に続き映画の話です。1960年にスクリーンデビューし、わずか5年の活動で引退された、日活の女優さんである笹森礼子さん。私が生まれた時にはすでに銀幕の世界にはおらず、もちろんリアルタイムでの活動は知る由もありませんが、その後彼女の出演作を観てその容姿とキュートな演技に魅きつけられました。個人的にはこの時代の女優さんの中ではイチ押しです。当時の女優さんとしては、20歳でのスクリーンデビューは遅いほうではないかと思います。共演もあった吉永小百合さん(写真右から2番目)のちょっと上の世代にな
岡山日活は岡山市北区表町三丁目千日前商店街にある映画館です。昭和58年頃発行された表町商店街のパンフレットには記載されていないことから、新しい映画館なのかもしれません。やっているのかやっていないのかはわかりませんが、この頃は建物の中に気配がありました。照明も灯っていました。最近はあまり気配がありません。あまり情報もなく、ひっそりと営業していた映画館なのかもしれません。ここがなくなると、中四国の同じような映画館は高松のロッポニカか広島横川の有楽座ということになるのでし