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[佐世保要塞]高後崎砲台②棲息掩蔽部他長崎県佐世保市俵ヶ浦町高後崎砲台(こうござき)起工:明治30年9月13日竣工:明治31年12月31日備砲:斯加式9センチ速射加農砲×4門(砲座2)標高:12.8メートル目的:湾口に敷設する水雷を掩護す廃止:大正8年要塞整理にて廃止に分類→大正12年復活→昭和8年修正計画要領にて廃止決定/昭和10年備砲撤去(鎮海湾要塞に転用)/昭和12年2月20日全部除籍出典:「現代本邦築城史第2部第7巻佐世保要塞築城史」高後崎砲台の
[勇払平野/苫小牧]①植苗トーチカ&緑ヶ丘公園トーチカ安平川(&勇払川)の西側。丘陵・山地にも縦深陣地では、植苗トーチカ(41式山砲)が現存、緑ヶ丘公園トーチカ(92式重機関銃?)がほぼ埋没しているが気配は確認はできる。安平川(&勇払川)の東岸に隣接する柏原には、山の中に柏原2号トーチカ(41式or94式山砲)が現存しているようだが、こちらは詳細がわからず行けなかった。勇払海岸〜汐見町海岸〜高砂海岸〜基町海岸には水際陣地が構築されていたが、現存するのは元町海岸トーチカ(92式重機関銃
[佐世保要塞]前岳堡塁①15M長崎県佐世保市横尾町前岳堡塁起工:明治33年4月24日竣工:明治34年11月23日備砲:12センチ加農砲×6門(3座6門)、15センチ臼砲×4門(2座4門)※7センチ可能砲×2門も配備?標高:12K→317メートル、15M→306メートル任務:大野村十福寺南方の高地方向より、中里村方向に亘る前面の地域を射撃することを目的とす。廃止:大正2年廃止決定→昭和4年6月14日全部除籍出典:「現代本邦築城史第2部第7巻佐世保要塞築城史」
[根室地区]昆布森トーチカと歯舞トーチカ根室市昆布盛168付近「日本建築学会北海道支部の専門家が、根室市昆布盛地区の海岸付近を調査し、戦時中に旧日本軍が造った防御陣地「トーチカ」1基を正式に確認した。市内16基目で、新たな確認は21年ぶり。崖を掘った当時のままの状態で保存されており、同チームが年度内にも発行する道内のトーチカの記録台帳に掲載する。ー中略−昆布盛のトーチカは19年に都内の会社員が発見した」(北海道新聞根室版2021/11/15)おおおおおお!これは行くしかない。
高校生の頃、プレスアイゼンバーン刊行「Eくろがねの馬の物語」で、西武鉄道に譲渡された鉄道連隊のSLが安比奈採石場に放置されていたのを知り、(既にSLは無いものの)安比奈を訪れました。(「くろがの馬の物語」プレスアイゼンバーン)大学生の頃、安比奈から玉川上水駅近くの西武運輸倉庫へ移ったコッペル製E形を撮っています。津田沼は陸軍鉄道第2連隊が所在した地で、津田沼一丁目公園の川崎車輌製K2形は、西武鉄道へ譲渡後、西武運輸倉庫を経て「ユネスコ村」で保存された3機のうちの1機。(2024.5.
[陸軍第153師団](本土決戦)一色機銃陣地愛知県田原市和地前畑日本陸軍は昭和19年7月、第3師団を再編成して第73師団(怒師団)を編成。浜名湖〜渥美半島地域の防衛を目的とし、本土決戦用の防御陣地の構築を行っている。出典:伊藤厚史「愛知・名古屋の戦争遺跡」p.101第73師団は昭和20年2月に新設された第13方面軍に編入(師団司令部は名古屋から豊橋に移転)し、その防衛担当区域を浜名湖〜豊橋南方区域に縮小した。最終的な複廓陣地(主抵抗地帯)を豊橋市大岩町の北山の山腹(と岩屋緑地
『劔岳への道@劔岳9/26⑤』『剱澤小屋はステキな山小屋(^^♪@劔岳9/25~26④』『立山に入った~@劔岳9/25③』劔岳から帰って来て4日目の昨日、12人でお山に行ってきた疲れて…ameblo.jpこの続きね。平蔵の頭(ずこ)の手前では、あたし達の頭上には青空が広がっていた北村ガイドは、夕べから何度も何度も天気予報をチェックしていた。劔岳にアタックする9/26の天気は、朝に晴れマークがかろうじて出てたけど、どんどん悪化して15時には傘マークが見えたんだ
北海道戦争遺跡トーチカ探訪②:『新富士トーチカ』『新富士トーチカ』在所:北海道釧路市新富士町2丁目探訪日:2019年10月30日このトーチカは南側の海岸部から約300メートル東側の新釧路川河口からも約300メートルの地点JR釧路駅から車で道なり約3キロメートルにあります。新富士駅(線路北側)の東端にあり新富士通りと線路に挟まれた土地です。トーチカ内部のイメージ※トーチカとは…語源はロシア語。コンクリート製などで造られた堅固な小型要塞です。内部
宇都宮陸軍飛行場(清原/鐺山飛行場)の掩体壕栃木県宇都宮市宇都宮市清原地区には陸軍宇都宮飛行場(清原/鐺山飛行場)があった。付属の有蓋掩体壕は合計5基あったとのことだが、今では栃木県農業大学校の敷地内の2基のみ現存している。(栃木県農業大学校の敷地内にある倉庫)現存する2基の有蓋掩体壕はいづれも大型のもので、北側の掩体壕は幅28.1メートル×奥行き22.6メートル×高さ4.7メートル、とのこと。南側の掩体壕もほぼ同じサイズと思われる。陸軍の大型の有蓋掩体壕は、庇(前
[南大東島守備隊]陸軍本部壕(具志堅洞)沖縄県南大東村池之沢陸軍本部壕は、現在及び戦時も島の中心地であった在所集落の西外れ、標高は15メートル前後の平坦地(サトウキビ畑と貯水池)にあり、ドリーネ地形に東西方向に広がる自然洞穴(鍾乳洞)を利用している。出典:沖縄の戦争遺跡、P.295より抜粋・加工図①本壕跡がいつから利用されていたかは明確な資料はないが、『大東諸島戦時日誌』によれば「昭和20年2月17日より警備中隊、棲息壕・戦車壕構築などの作業に従事」と書か
371高地高射砲陣地兵庫県神戸市中央区茸谷町起工:昭和17年(1943年)11月以降、竣工日不明備砲:88式七糎野戰高射砲担当:高射第123連隊(高射第3師団隷下、旧防空第13連隊)撤退:昭和20年(1945年)6月以降、撤退日不明写真右の青谷摩耶橋方向から九十九折りの軍道は、大阪からの物資の輸送に使われた。引用:米軍航空写真(M84-1-49国土地理院)旧摩耶道から学校林道が分岐する地点の少し南にある小ピーク、摩耶山系の東山(砲台山)の山頂(標高372.6m)
各務原陸軍飛行場の穹窖掩体壕不動山(矢熊山)の南麓の岩盤を掘り込んだ穹窖掩体壕。部分的にコンクリートで補強されている。幅19X奥行29X高さ7m。民家(廃墟)の敷地内にある。雑なつくりだ。1917年(大正6年)6月、各務原陸軍飛行場が竣工。各務原陸軍航空支廠、川崎航空機工業各務原工場、三菱重工業名古屋航空機製作所各務原格納庫などがあり、重要な飛行場に位置づけられた。戦況の悪化を鑑み、1944年(昭和19年)7月頃から飛行場の南の長
早朝からグッドモーニング(笑)多趣味で軍事オタクのゼロです。今回は太平洋戦争時に日本陸軍機の一式戦闘機(隼)で活躍された穴吹智(あなぶきさとる)さんをご紹介します。1921年~2005年は、日本陸軍軍人で太平洋戦争時は主に一式戦闘機(隼)で戦った日本陸軍のエースパイロットの一人。太平洋戦争開戦時には九十七式戦闘機乙で南方作戦におけるフィリピン攻略戦に従軍、同年12月22日にはリンガエン上空でアメリカ陸軍P-40戦闘機を撃墜し初戦果とする。画像はすべて拾い画で、一部コピ
昨日、比島エンガノ岬沖において小沢艦隊で敵機動部隊を撃滅せしめた営業Sです(何でかは言わない)。前段で東海を活躍させる事ができ、とても満足しました。元々東海が大好物なもので、、、それは置いといて、海の話からうって替わり陸のお話しです先日、ある方が「この戦車、アメリカ軍の物ですか?」と聞かれ指先を見ると八九式中戦車が。同様の質問はイベントなどでしばしばあります。どういう事かというと、このように星のマークが入っているんと星条旗をイメージされるんですね。当社のブログ
kato@kato8501様製作の3Dプリンター製、「日野小室式自動拳銃」の実物大モデルガン(写真↑の左側)を苦労して入手しました。樹脂製なので改造とかはまったくできない安全な物です。この日野式は個人の超少量製作品なので店舗では販売していないですし、納期も3ヵ月くらいかかりました。それでも待った甲斐はありました。上の写真の右側(下側)は日本軍の14年式拳銃で㈱共栄製の実物大6連発木製輪ゴム銃です。これも良く出来ています。↑日野小室式拳銃は1904年(明治37年!!
宮城県県民の森(宮城県仙台市宮城野区岩切台屋敷)仙台市水道局岩切入山配水所から岩切城跡(高森山公園)に向かう道沿いの斜面にある2つの防空壕。岩切城跡入口の交差点に近い。坑口は道路よりも4〜5mくらい高い位置にあり、民家から遠いので民間用防空壕ではないだろう。坑口①から入ってみる。道路からは直登りになるが、坑口の辺りは平らに造成されている。坑道は途中から左へ緩やかに曲がる。緩やかに曲がったところで向かって左側に凹み(小部屋)があり、程なく突き当た
[小倉城]②4年式15糎榴弾砲福岡県北九州市小倉北区城内2-1明治8年4月1日、歩兵第14連隊が編制され、小倉城(勝山城)に連隊司令部をおいた。西南の役(明治10年)では乃木希典少佐(連隊長)に率いられて出征している。明治31年11月に第12師団が新設され、小倉城内に第12師団司令部と監督部が置かれ、歩兵第14連隊はその隷下にはいる。第12師団は日露戦争やシベリア出兵を経て、大正14年に久留米に移転した(廃止された第18師団の跡地)。小倉城内指令部跡には第12師団隷下の野戦重砲
✨思い出の地碑✨この碑は…『ここが出征兵士を見送り帰還者を出迎えた場所!!ここに碑を建て平和へのシンボルとする』と細谷町に住む出征経験者71人が協力建立したもので昭和63年9月23日に除幕式が行なわれた!!細谷町には、太平洋戦争当時230世帯ほどあり、この中から出征したのは計144人(中には一家から4人も駆り出されたケースもある)といわれるこれらの人々の多くが中国大陸や南方戦線の激戦地に赴き無事に終戦を迎え生還できたのはわずか75人で、69人の若き尊い生命
室蘭臨時要塞小橋内砲台および観測所<米軍撮影>室蘭臨時要塞は、室蘭港周辺にある工場群と港湾の防衛と津軽要塞の背面防御を目的として、1945年(昭和20)に建設工事が開始された。絵鞆半島にある小橋内砲台は敵艦を迎撃するため、96式15センチ加農砲×1門と92式10センチ加農砲×1門の計2門据え付けて防備につく予定で、同年6月に第1砲座、翌月7月に第2砲座を完成させる。<掩体を擬装するための土を取り除いたまま>室蘭市近郊には噴火湾一帯の砂鉄、虻田(現在の洞爺湖町)の鉱山
一、前置き二、日本を支配する在日朝鮮人三、北朝鮮建国の真実四、横田家と金一族の関係五、結び一、前置きこんにちは。朝鮮情勢について、朝鮮戦争の休戦協定成立後も南北対立は続いたものの、冷戦終結後から南朝鮮の盧泰愚、金大中、盧武鉉、文在寅政権に代表される南北の融和政策が行われたことは記憶に新しいかと思います。また、日朝関係に関しては日本人拉致や核開発など身近で根深い問題が残っていると認識されているのかと思います。皆さんは第二次世界大戦後に朝鮮が日本からの独立後に、米ソの分割統治の結果
[陸軍大刀洗北飛行場]掩体壕福岡県朝倉市筑前高上937-3日本陸軍では4番目につくられた大刀洗飛行場は、大正8年(1919年)に完成している。特に整備された滑走路はなく、飛行区画(1,300mx1,500m)内で離発着する感じ。昭和19年3月着工・昭和20年2月竣工の大刀洗「北飛行場」は重爆撃機用の飛行場。北飛行場が運営されたことで、従来の大刀洗飛行場は「南飛行場」と区別された、らしい。大刀洗飛行場に関しては様々な資料があるので、説明は割愛。大刀洗平和記念館北飛行場
[航空総軍]屯鶴峯地下司令部壕(戦闘指令所)②奈良県香芝市穴虫大阪と奈良の県境に近い屯鶴峯(どんづるぼう)。この奇岩群から程近い南北の小さな尾根の裾、東側と西側に地下壕が格子状に張り巡らされている。本土決戦を目前にして、昭和20年4月に全国の陸軍航空部隊を統一指揮するための航空総軍が編成された。その司令部諸施設として、屯鶴峯近くの山中に同年6月〜8月の2ヶ月間で掘られた、とされる。だが8月15日の敗戦(停戦)により、地下壕は未完成のまま放置された。NPO法人屯鶴峯地下壕
笠寺高射砲陣地愛知県名古屋市南区見晴町47笠寺台地と呼ばれる高台にある笠寺公園は、笠寺観音の近くにあり、公園のほぼ全体が、弥生時代~古墳時代の見晴台遺跡となっていている。笠寺公園内にある名古屋市見晴台考古資料館の展示が、実に詳しいので同資料館で撮影したパネルなど交えて書く。*昭和16年(1941年)8月に「名古屋防空隊」が編成され、名古屋市内に展開する各部隊の高射砲の教育をおこなった(同年11月に防空第15連隊に改編)。昭和17年4月、初の本土空襲(ドーリットル
はい,皆さんこんばんは。実はお父さん,まともに被れる帽子を持っていません。国軍の軍帽とか略帽はあり,また,山散歩用の帽垂付き帽子(帽垂を取り外すことができれば,これでいいんだけど。)はあるのですが,街中で被れる野球帽的なものがないのです。母ちゃんが買えば?と言ってはいたものの,どうも欲しいと思える帽子がありません。そこで,夏休みの工作として作ったのがこちらです。御覧のとおり,国軍の略帽を模して作りました。日本軍装複製品の雄である篠原工房製の昭和17年型特号をメインのモデル
[釧路地区]興津トーチカ釧路市興津の海岸。「岩を刳り貫いてつくられたトーチカ」とされているが、釧路オコツナイ骨格陣地の南端に位置していること、銃眼の形状や大きさからここは監視所を兼ねたトーチカかもしれない。"トーチカ"から見た景色"トーチカ"の出入口は転落防止のため塞いだとのこと(通りがかりのご老人談)。崖地の岩盤を真上から掘り込んだ、とのこと。*釧路海岸の防御陣地道東の太平洋側は戦前より国防上の重要拠点と考えられていた。陸軍ではアメリカ
こんにちは。本日は埼玉県S.A様が装着写真を送ってくださいましたのでご紹介したいと思います。以前、防毒マスクやヘッドホーンレシーバーなどを製作いたました。艦内作業服装海兵団での陸戦教練艦上戦闘服装(通信兵)表情もいいですね。左が再現したヘッドホーンレシーバー。~海軍陸戦隊~艦上戦闘服装(機銃員1)~艦上戦闘訓練~襲い来る敵艦載機を迎え撃つ代表がこの高角機銃。単装、二連装、三連装と多彩
1982年、玉川上水駅から程近い西武運輸の倉庫に保管された旧陸軍鉄道連隊のE形タンク(コッペル社製)を訪れました。元を辿れば西武鉄道へ払い下げられて入間川の砂利採取線で使用された3両のうちの1両でした。(1982玉川上水西武運輸倉庫E16)元々は3両全てが玉川上水に集結していたのですが、うち2両(E18.E103)が1971年にユネスコ村へ移転し展示されました。(1991ユネスコ村跡E18.E103)1990年、ユネスコ村が閉園となり1両(E18)が豊島区内のエリエイ(プレ
松代大本営(舞鶴山地下壕)長野市松代町西条3511松代大本営は大日本帝国陸軍において計画・推進されたもので、太平洋戦争末期、皇居・大本営・政府中枢機能移転のために長野県長野市松代地区などの3山(象山=イ、舞鶴山=ロ、皆神山=ハ)を中心に掘られた地下壕群を指す。3つの地下壕の長さは10kmにも及ぶ。陸軍は昭和19年4月より本土決戦態勢に入る。特に「東京から大本営および政府機関を地方(松代)に移さなければ、本土決戦は行えない」との立場を貫く中堅将校たちは地方への大本営の建設を推進した。中堅