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[鳴門要塞]鳥取弾薬本庫と鳥取繋船場(明治36年5月に由良要塞に併合)行者ヶ嶽砲台から東へ(繋船場方面へ)350メートル、低地に鳥取弾薬本庫がある。起工:明治31年4月1日竣工:明治34年11月30日施設:火薬本庫2、弾薬本庫2、火具庫1(施設は各々土塁で仕切られている)出典:近代築城遺跡研究会「由良要塞I」P.143東北にある施設は破壊・崩壊がひどい。残りの3空間は建屋こそ概ね消滅しているが、煉瓦の基礎部分はよく残っている。奥に行けば行くほど藪
放送中の連続テレビ小説「虎に翼」ですが、ヒロインの父親が「登戸火工」なる火工品製造会社を経営しています。ドラマの展開が早いので、陳腐化しないうちに火工品について調べたことを記しておきます。火工品製造会社の工場で火工品を作りますが、これは火薬や爆薬を細工してつくった工作物のことで、火薬を燃焼させたり、爆薬を爆発させるための補助手段として用いられるものの総称です。ドラマのナレーションでは、「発煙筒」や「信号弾」を作っていると紹介されていました。他にも信管・雷管・導火線・実包・空包・花火など
[沖縄戦]与座第24師団陣地壕②司令部壕糸満市字与座出典:沖縄県戦争遺跡詳細分布調査(南部)、P16より抜粋・加工第24師団は昭和14年10月に満州のハルビンで編成された国境警備隊から始まる。昭和19年7月、師団主力は第32軍隷下に移り沖縄本島に上陸。第9師団が台湾への転出が決定したため、島尻郡西部の防衛任務を継承、12月に司令部を与座へと移駐した。米軍上陸時、第24師団は司令部壕がある与座を中心に、東側に歩兵第89連隊〜南西側に歩兵第32連隊〜北西側に歩兵第22連隊を配置し、
日曜に筑波山に行ってきたので、いよいよ日高見国の中心だった常陸の謎を解いてゆきたいと思います。このシリーズ、長くなりそう。まずは筑波山の巨石の紹介から。筑波山神社でバスを下車し、筑波山神社に立ち寄ってからの登山。筑波山神社は西の大和朝廷が東征したときの名残が残っている神社。山門で祀られているのは、ヤマトタケルとトヨキイリヒコノミコト。ヤマトタケルの人物紹介に、しっかりと「日高見国」と書いてある。大和朝廷が執拗に征服しようとした、もう一つの日本にし
[陸軍第1技術研究所伊良湖試験場]愛知県田原市起工:明治34年(1901年)3月31日竣工:明治34年(1901年)11月30日増築:大正13年(1924年)西射線を追加明治後期以降の大砲や弾薬の研究、鹵獲兵器の試射、効力実験、弾道研究、採用検査などを行った施設(通称:伊良湖試験射場)。昭和に入ると兵器開発も手がけた。陸軍の使用する大砲や弾薬のほとんどがここで試験検査を受けているとのこと。同様の施設は富津、浜松等にもあった。富津:大砲専用で射程が5キロ程度浜松:高射
[亀山(北伊勢)陸軍飛行場]中型有蓋掩体壕三重県鈴鹿市三畑町5079-722004年2月、国の登録有形文化財に指定昭和16年(1941年)4月、開設滑走路:1,450m×1,450m格納施設:掩体10ヶ所出典:国土地理院1947/11/04(昭22)USAR470-57中型有蓋掩体壕:鉄筋コンクリート造建築面積:533平方メートル(幅29.6m、奥行き23.1mの扇形)長方形部分:正面幅29.6メートル、奥行8.4メートル台形部分(尾翼格納):奥行14.7メ
[陸軍第73師団](本土決戦)蔵王山陣地愛知県田原市田原大沢115-86(第1駐車場&展望台)日本陸軍は昭和19年7月、第3師団を再編成して第73師団(怒師団)を編成。浜名湖〜渥美半島地域の防衛を目的とし、本土決戦用の防御陣地の構築を行っている。出典:伊藤厚史「愛知・名古屋の戦争遺跡」p.101第73師団が昭和20年2月に新設された第13方面軍に編入(師団司令部は名古屋から豊橋に移転)。防衛担当区域を浜名湖〜豊橋南方区域に縮小。最終的な複廓陣地(主抵抗地帯)を豊橋市大岩町の北
満州国、1932年~45年まで存在した日本の傀儡政権の領土。ロシアで迫害を受けていたユダヤ人が人口40万人のハルビンにはじつに5万人のユダヤ人が逃げて住んでいました。商売上手なユダヤ人は世界的な富裕層が多く居て、ここにユダヤ人に依るイスラエルのような国を作ろうと考えていました。そこで満州の利権を持っていた日産自動車の始祖の鮎川氏や元総理の岸信介はそのユダヤ資本を利用して経済の拡大を考えていた。ユダヤ資本は毒に例えられたが、美味しいのでフグ計画と言われました。しかし頻繁に起きる反共産党運
[由良要塞](由良/淡路)成山第1砲台兵庫県洲本市由良町由良出典:「現代本邦築城史」第二部第四巻由良要塞築城史(陸軍築城部)(赤は廃止/青は終戦時現役/黒は設置予定)由良地区の由良の対岸、南北(約6.4キロ/砂州は約3キロ)に延びる成ヶ島。北の成山(標高52m)と南の高崎(標高23m)はもともと陸繋島であり、江戸時代初期までこれらは砂州で淡路島と繋がり、砂州の中間付近が湾口だった。北の成山と由良を新川口、南の高崎と由良を今川口と呼ばれている。成ヶ島は中世から近
371高地高射砲陣地兵庫県神戸市中央区茸谷町起工:昭和17年(1943年)11月以降、竣工日不明備砲:88式七糎野戰高射砲担当:高射第123連隊(高射第3師団隷下、旧防空第13連隊)撤退:昭和20年(1945年)6月以降、撤退日不明写真右の青谷摩耶橋方向から九十九折りの軍道は、大阪からの物資の輸送に使われた。引用:米軍航空写真(M84-1-49国土地理院)旧摩耶道から学校林道が分岐する地点の少し南にある小ピーク、摩耶山系の東山(砲台山)の山頂(標高372.6m)
八戸要塞(通称):小峠トーチカ出典:新編八戸市史近代資料編戦争(付図)より抜粋(詳細な地図だが、塹壕もトーチカも全て同じ赤丸で記されているため、コンクリ系構造物目当てで探索すると情報が少ないだけにつらいものがある。構造物の多くは私有地内にあり、出入口封鎖、破壊、埋没等により、往時の姿で内部進入可能なものは少ない)八戸市の旧南郷村。国道340号線(登り街道)は是川地区と天狗沢地区の間を通る。陸軍は是川も天狗沢を重要な防御陣地として考えていたようで、コンクリート製トーチカや掩体などが多
各務原陸軍飛行場(中飛行場)の南側、長平山の南麓にある大型の有蓋掩体壕。幅22メートルx奥行22メートルx高さ6メートルで、前面の上部には庇が付いており、内部は梁で補強されている(一般的な大型の有蓋掩体壕)。運送会社の倉庫として使用されている。掩体壕の後部の先は、山を大きく堀り込んでいる。1917年(大正6年)6月、各務原陸軍飛行場が竣工。各務原陸軍航空支廠、川崎航空機工業各務原工場、三菱重工業名古屋航空機製作所各務原格納庫などがあり、
こんにちは。本日は、兵庫県K.T様より装着写真をいただきましたのでご紹介したいと思います。今回は岡山県にあるドレミコレクションミュージアムでの撮影写真です。川崎キ61三式戦闘機「飛燕」それでは搭乗(登場)していただきましょう!高高度迎撃の場合は、地上から、マスクを装着し、3,500m~4,000mで連結蛇管をつないで吸入操作を始める。★日本陸軍一種航空頭巾(昭和13年製、レシー
[小倉陸軍造兵廠]福岡県北九州市小倉北区大正5年(1916年)、陸軍造兵廠が直轄する6機関の1つ、小倉兵器製造所として開設されたのが始まり。東京砲兵工廠の集約移転先として昭和8年(1933年)に小倉工廠は完成した。昭和15年、陸軍大臣直属の陸軍兵器本部が設置され「小倉造兵廠」と改称。昭和17年、小倉陸軍兵器補給廠(城野)と共に東京第2造兵廠の管轄になった。176,000坪の敷地を有し、小型戦車、小銃、機関銃、高射機関砲、砲弾、風船爆弾、化学兵器などを製造していた。※環境省が
室蘭臨時要塞小橋内砲台および観測所<米軍撮影>室蘭臨時要塞は、室蘭港周辺にある工場群と港湾の防衛と津軽要塞の背面防御を目的として、1945年(昭和20)に建設工事が開始された。絵鞆半島にある小橋内砲台は敵艦を迎撃するため、96式15センチ加農砲×1門と92式10センチ加農砲×1門の計2門据え付けて防備につく予定で、同年6月に第1砲座、翌月7月に第2砲座を完成させる。<掩体を擬装するための土を取り除いたまま>室蘭市近郊には噴火湾一帯の砂鉄、虻田(現在の洞爺湖町)の鉱山
松代大本営(象山地下壕)長野市松代町西条3511松代大本営は大日本帝国陸軍において計画・推進されたもので、太平洋戦争末期、皇居・大本営・政府中枢機能移転のために長野県長野市松代地区などの3山(象山=イ、舞鶴山=ロ、皆神山=ハ)を中心に掘られた地下壕群を指す。3つの地下壕の長さは10kmにも及ぶ。陸軍は昭和19年4月より本土決戦態勢に入る。特に「東京から大本営および政府機関を地方(松代)に移さなければ、本土決戦は行えない」との立場を貫く中堅将校たちは地方への大本営の建設を推進した。中堅将
宗谷臨時要塞宗谷砲台の観測所北海道稚内市横に幅が広いゆったりとした2階建て。熊笹や藪がひどく全景は撮影不可能。出入り口は1階と2階にある(2階から入った)。(2階)2階部分の窓枠の上には偽装網をかけるためのフックがある。奥には司令室もある。地下部分に測遠機を設置。1階の天井(というか2階の床)にある四角い穴から潜望鏡を出して観測したようだ。半円状に突き出た部分(測遠機室)のみ、堀のように掘り下げた構
[釧路地区]興津トーチカ釧路市興津の海岸。「岩を刳り貫いてつくられたトーチカ」とされているが、釧路オコツナイ骨格陣地の南端に位置していること、銃眼の形状や大きさからここは監視所を兼ねたトーチカかもしれない。"トーチカ"から見た景色"トーチカ"の出入口は転落防止のため塞いだとのこと(通りがかりのご老人談)。崖地の岩盤を真上から掘り込んだ、とのこと。*釧路海岸の防御陣地道東の太平洋側は戦前より国防上の重要拠点と考えられていた。陸軍ではアメリカ
陸軍成増飛行場(高松飛行場)の掩体壕(東京都板橋区成増)(赤丸は現存する有蓋掩体壕)陸軍成増飛行場は1942年(昭和17年)4月18日のドーリットル空襲(日本本土に対する初の空襲)を期に、帝都(東京)防空のための飛行場として急遽建設が計画され、1943年(昭和18年)年8月着工、同年12月に完成した。(誘導路脇の土塁の跡)滑走路は1,200×60メートルのコンクリート舗装。路面は迷彩ペイントを施された。陸軍の飛行第47部隊、第43飛行場大隊、航空廠立川分廠成増分遣整備が
[十勝地区]トイトッキ浜トーチカ①北海道十勝郡豊頃町(豊北原生花園)十勝川の河口、少し南トイトッキ浜と呼ばれる海岸に一対のトーチカがある。トイトッキ浜トーチカ②①はおそらくオリジナルのまま現存していたが、②は擬装の盛り土は取り払われ躯体が露わになっている。ここまでのアクセスは容易。なぜか祠と鳥居もあるし。一周してみる。①と造りは同じのように見える。南西側の銃眼銃眼から覗き込んでみる無理すれば入れそう。ゴミだらけだが。
[沖縄戦]浦添城趾南側斜面壕群(乾パン壕と缶詰壕)沖縄県浦添市字前田1943-6昭和29年8月以降、第62師団独立混成第63旅団が構築した沖縄本島中部戦線の防衛陣地のひとつ。浦添城趾南側斜面には多数の陣地壕が構築されていたと思われるが、現在確認できているのは3ヶ所のみである、とのこと。南斜面から浦添城趾をみる(みえない)浦添城趾南側斜面には「日本軍用の食糧を保管していた壕がある」と知ったので行ってみた。缶詰壕(糧食壕)『魚肉団子やサバ、パインなどの缶詰の
[勇払平野/苫小牧]①植苗トーチカ&緑ヶ丘公園トーチカ安平川(&勇払川)の西側。丘陵・山地にも縦深陣地では、植苗トーチカ(41式山砲)が現存、緑ヶ丘公園トーチカ(92式重機関銃?)がほぼ埋没しているが気配は確認はできる。安平川(&勇払川)の東岸に隣接する柏原には、山の中に柏原2号トーチカ(41式or94式山砲)が現存しているようだが、こちらは詳細がわからず行けなかった。勇払海岸〜汐見町海岸〜高砂海岸〜基町海岸には水際陣地が構築されていたが、現存するのは元町海岸トーチカ(92式重機関銃
金丸原陸軍飛行場の掩体壕栃木県大田原市終戦時の金丸原飛行場は、西側に(主)第1滑走路が1,900×幅100メートル、東側に(副)第2滑走路が1,300×幅100メートル。第2滑走路は那須野ケ原カントリークラブ付近にあった。有蓋掩体壕が那須ヶ原カントリークラブの敷地内クラブ管理棟の前に、1基のみ現存している。終戦時に有効な掩体壕が何基つくられていたかは不明。現在は国際福祉大学キャンパス、大田原市立金田南中学校、那須ヶ原カントリークラブ、大半が田畑になっており、有蓋掩体壕以外
[陸軍第1技術研究所伊良湖試験場]③伊良湖ベトン愛知県田原市伊良湖町宮下2822-2(伊良湖シーサイドゴルフ倶楽部)起工:明治34年(1901年)3月31日竣工:明治34年(1901年)11月30日増築:大正13年(1924年)西射線を追加明治後期以降の大砲や弾薬の研究、鹵獲兵器の試射、効力実験、弾道研究、採用検査などを行った施設(通称:伊良湖試験射場)。昭和に入ると兵器開発も手がけた。陸軍の使用する大砲や弾薬のほとんどがここで試験検査を受けているとのこと。*伊
[沖縄戦]浦添城〜前田高地沖縄戦最大の組織的な激戦地浦添城文化遺産オンライン「浦添城」より浦添城は、舜天王の居城ともいい、また、英祖王統や察度王統がいずれも浦添の出といわれているところから、英祖王統や察度王統時代に築かれたともいうが、確証はない。しかし、この三王統のうちいずれかの時代に築かれたものであろう。15世紀頃の首里遷都とともに、城跡は荒廃していくが、尚真王の長子尚維衡が父の不興をかって浦添城に一時遷されたり、慶長14年(1609年)、島津侵攻の際戦火にあったこと、万暦4
[鳴門要塞/由良要塞]門崎砲台(穹窖砲台)②兵庫県南あわじ市福良丙前回の訪問記録→[鳴門要塞]門崎砲台24K穹窖砲台(右翼)全景説明会、24K右翼砲台に向かう・・・ヲイヲイ、そのコンクリート片は何なんだ?******たまやさん(@tamaya8901)の投稿の写真を見ると・・・往時は2連(右翼・左翼)の穹窖砲台、とわかる。当然、盛り土と植林をして偽装もばっちり!右翼側は今回の発掘で日の目を見たが、左翼側は上に管轄外の灯台が建っているため、埋まった
半田山トーチカ(舟岡山トーチカ)静岡県浜松市東区半田町720-1陸軍三方原飛行場(三方原教導飛行団と第7航空教育隊)の防衛のために作られたトーチカだが、「戦後、土地開発の際に移設された」との話もある。三方原陸軍飛行場は南にあるが、砲口は西に向いている。謎(T_T)前面は半円の形状で、砲口部は至近弾の被害を軽減するために階段状となっている。砲口部というか前の部分しか残っていないため、全容は不明。
八戸要塞(通称):島守地区①監視哨?(トーチカ)出典:新編八戸市史近代資料編戦争(付図)より抜粋(詳細な地図だが、塹壕もトーチカも全て同じ赤丸で記されているため、コンクリ系構造物目当てで探索すると情報が少ないだけにつらいものがある。構造物の多くは私有地内にあり、出入口封鎖、破壊、埋没等により、往時の姿で内部進入可能なものは少ない)八戸市の旧南郷村島守地区、県道138号線「鷹の巣展望台」の一帯には、塹壕とトーチカ、火薬庫などが現存している。とはいえ、この138号線の道路工事と開墾など
宗谷臨時要塞宗谷砲台の弾薬庫北海道稚内市道路に程近い丘陵に掘られた横穴式の弾薬庫。導入部は大口径のヒューム管(土管)をつなぎ合わせた構造。通路を10メートル前後進むと、天井がとても高い空間に出る。左手にモルタル塗りの四角い内庫(弾薬庫)があり、内庫の周囲を一周できる構造になっている。(鍵がかかっており開かない)戦後は地域住民の火薬保管庫になっていたようだ。内庫(弾薬庫)には2方向からのアプローチがあるが、1方向
福山市の緑町公園とエブリイ緑町店などが建ち並ぶココローズの辺りは、昔、旧日本陸軍の歩兵連隊「福山兵営」でした。現在も一部がそのまま残っています。その後、広島大学福山分校として使用されていた期間もあります。福山情報はこちらにほんブログ村