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陸軍計根別第一飛行場の有蓋掩体壕群北海道野付郡別海町本別34付近1947/10/31(昭22)USAM643-180(国土地理院)竣工:昭和19年(1944年)2月28日滑走路:1,200mx100m(舗装)、1,300mx300m(転圧滑走路)?陸軍飛行第32戦隊が終戦までが展開。南千島の哨戒で一飛行第74戦隊が在籍していたとのこと。戦後、朝鮮戦争時に米軍によって修復(&滑走路を1,600mに拡張)して、アメリカ空軍不時着用飛行場として使われたこともある。現在、
八戸要塞(通称):島守地区①監視哨?(トーチカ)出典:新編八戸市史近代資料編戦争(付図)より抜粋(詳細な地図だが、塹壕もトーチカも全て同じ赤丸で記されているため、コンクリ系構造物目当てで探索すると情報が少ないだけにつらいものがある。構造物の多くは私有地内にあり、出入口封鎖、破壊、埋没等により、往時の姿で内部進入可能なものは少ない)八戸市の旧南郷村島守地区、県道138号線「鷹の巣展望台」の一帯には、塹壕とトーチカ、火薬庫などが現存している。とはいえ、この138号線の道路工事と開墾など
大本営陸軍部の地下壕東京・市ケ谷の防衛省(市ヶ谷台)のA棟庁舎玄関前の儀仗場。ここに面する雑木林(かつては日本庭園)の地下に掘られたのが大本営陸軍部地下壕。現在の防衛省図:大本営陸軍部は建屋は縮小改悪され「記念館」として移設され、跡地には庁舎A棟が建つ。大本営陸軍部の地下壕は、建設開始は真珠湾攻撃(太平洋戦争の開戦)の4カ月前の1941年(昭和16年)8月。翌年12月に完成した。この地下壕の造られた理由、掘削方法もはっきりは分かっていない。<地下壕が3本並列に掘ら
浜松陸軍墓地跡のトーチカ静岡県浜松市中区住吉4丁目21陸軍浜松飛行場の防衛のために作られたトーチカ。浜松陸軍墓地の端にあったが、陸軍墓地も忠霊殿も壊されて平和記念公園と名前を変え、その南西には浜松市立青少年の家が建つ。南側は傾斜しているが、その傾斜にトーチカがある。前面は半円の形状で、砲口部は至近弾の被害を軽減するために階段状となっている。出入り口は埋めているのか、わざと伐採された木の枝を積み上げているため全容は不明。なお、白亜の霊
金丸原陸軍飛行場の掩体壕栃木県大田原市終戦時の金丸原飛行場は、西側に(主)第1滑走路が1,900×幅100メートル、東側に(副)第2滑走路が1,300×幅100メートル。第2滑走路は那須野ケ原カントリークラブ付近にあった。有蓋掩体壕が那須ヶ原カントリークラブの敷地内クラブ管理棟の前に、1基のみ現存している。終戦時に有効な掩体壕が何基つくられていたかは不明。現在は国際福祉大学キャンパス、大田原市立金田南中学校、那須ヶ原カントリークラブ、大半が田畑になっており、有蓋掩体壕以外
371高地高射砲陣地兵庫県神戸市中央区茸谷町起工:昭和17年(1943年)11月以降、竣工日不明備砲:88式七糎野戰高射砲担当:高射第123連隊(高射第3師団隷下、旧防空第13連隊)撤退:昭和20年(1945年)6月以降、撤退日不明写真右の青谷摩耶橋方向から九十九折りの軍道は、大阪からの物資の輸送に使われた。引用:米軍航空写真(M84-1-49国土地理院)旧摩耶道から学校林道が分岐する地点の少し南にある小ピーク、摩耶山系の東山(砲台山)の山頂(標高372.6m)
[沖縄戦]浦添城趾南側斜面壕群(乾パン壕と缶詰壕)沖縄県浦添市字前田1943-6昭和29年8月以降、第62師団独立混成第63旅団が構築した沖縄本島中部戦線の防衛陣地のひとつ。浦添城趾南側斜面には多数の陣地壕が構築されていたと思われるが、現在確認できているのは3ヶ所のみである、とのこと。南斜面から浦添城趾をみる(みえない)浦添城趾南側斜面には「日本軍用の食糧を保管していた壕がある」と知ったので行ってみた。缶詰壕(糧食壕)『魚肉団子やサバ、パインなどの缶詰の
半田山トーチカ(舟岡山トーチカ)静岡県浜松市東区半田町720-1陸軍三方原飛行場(三方原教導飛行団と第7航空教育隊)の防衛のために作られたトーチカだが、「戦後、土地開発の際に移設された」との話もある。三方原陸軍飛行場は南にあるが、砲口は西に向いている。謎(T_T)前面は半円の形状で、砲口部は至近弾の被害を軽減するために階段状となっている。砲口部というか前の部分しか残っていないため、全容は不明。
[小倉城]②4年式15糎榴弾砲福岡県北九州市小倉北区城内2-1明治8年4月1日、歩兵第14連隊が編制され、小倉城(勝山城)に連隊司令部をおいた。西南の役(明治10年)では乃木希典少佐(連隊長)に率いられて出征している。明治31年11月に第12師団が新設され、小倉城内に第12師団司令部と監督部が置かれ、歩兵第14連隊はその隷下にはいる。第12師団は日露戦争やシベリア出兵を経て、大正14年に久留米に移転した(廃止された第18師団の跡地)。小倉城内指令部跡には第12師団隷下の野戦重砲
昨日、比島エンガノ岬沖において小沢艦隊で敵機動部隊を撃滅せしめた営業Sです(何でかは言わない)。前段で東海を活躍させる事ができ、とても満足しました。元々東海が大好物なもので、、、それは置いといて、海の話からうって替わり陸のお話しです先日、ある方が「この戦車、アメリカ軍の物ですか?」と聞かれ指先を見ると八九式中戦車が。同様の質問はイベントなどでしばしばあります。どういう事かというと、このように星のマークが入っているんと星条旗をイメージされるんですね。当社のブログ
こんにちは。本日は、日本軍の航空眼鏡(鷲の目型航空眼鏡)をメーカー別に紹介していきたいと思います。鷲の目眼鏡にはメーカ―名の刻印が無いものもありますが、今回は特に知名度があるメーカーを選別いたしました。高島屋飯田株式会社金具に高島屋の高のマークが刻印されています。高級品として定評があった。高島屋飯田貿易店は、1916年12月に高島屋飯田株式会社として独立、現在の大阪にある高島屋が本店。画像は曇り止め用調整機構を設けた航空眼鏡。日満
室蘭臨時要塞小橋内砲台および観測所<米軍撮影>室蘭臨時要塞は、室蘭港周辺にある工場群と港湾の防衛と津軽要塞の背面防御を目的として、1945年(昭和20)に建設工事が開始された。絵鞆半島にある小橋内砲台は敵艦を迎撃するため、96式15センチ加農砲×1門と92式10センチ加農砲×1門の計2門据え付けて防備につく予定で、同年6月に第1砲座、翌月7月に第2砲座を完成させる。<掩体を擬装するための土を取り除いたまま>室蘭市近郊には噴火湾一帯の砂鉄、虻田(現在の洞爺湖町)の鉱山
[釧路地区]興津トーチカ釧路市興津の海岸。「岩を刳り貫いてつくられたトーチカ」とされているが、釧路オコツナイ骨格陣地の南端に位置していること、銃眼の形状や大きさからここは監視所を兼ねたトーチカかもしれない。"トーチカ"から見た景色"トーチカ"の出入口は転落防止のため塞いだとのこと(通りがかりのご老人談)。崖地の岩盤を真上から掘り込んだ、とのこと。*釧路海岸の防御陣地道東の太平洋側は戦前より国防上の重要拠点と考えられていた。陸軍ではアメリカ
福山市の緑町公園とエブリイ緑町店などが建ち並ぶココローズの辺りは、昔、旧日本陸軍の歩兵連隊「福山兵営」でした。現在も一部がそのまま残っています。その後、広島大学福山分校として使用されていた期間もあります。福山情報はこちらにほんブログ村
こんにちは。本日は埼玉県S.A様が装着写真を送ってくださいましたのでご紹介したいと思います。以前、防毒マスクやヘッドホーンレシーバーなどを製作いたました。艦内作業服装海兵団での陸戦教練艦上戦闘服装(通信兵)表情もいいですね。左が再現したヘッドホーンレシーバー。~海軍陸戦隊~艦上戦闘服装(機銃員1)~艦上戦闘訓練~襲い来る敵艦載機を迎え撃つ代表がこの高角機銃。単装、二連装、三連装と多彩
北海道戦争遺跡トーチカ探訪:㉝『エツキサイ5号トーチカ』在所:北海道広尾町小紋別探訪日:2019年10月30日『エツキサイ5号トーチカ』『エツキサイ5号トーチカ』在所※トーチカとは…語源はロシア語。コンクリート製などで造られた堅固な小型要塞です。内部に兵士が隠れて小窓(銃眼)より機関銃等の火器を用いて敵を狙います。今回紹介するトーチカはアジア・太平洋戦争末期本土決戦用に旧日本軍が構築したものです。トーチカ内部のイメージ(旧日
[津軽要塞]汐首第1砲台竣工:昭和8年(1933年)3月備砲:7年式30cm長榴弾砲4門備砲撤去:昭和15年7月津軽海峡の東を防備するために築城され、7年式30cm長榴弾砲が備砲された(当初は8門配備だったが4門に減らされる)。第一次世界大戦後、敵艦隊との交戦から航空機との交戦に変わりつつあり、防空に重点を置くようになる。もはや7年式30cm長榴弾砲は無用の長物となり、昭和15年7月には撤去されてしまった。汐首第1砲台は2015年に廃校となった旧戸井高校近くにある。
[陸軍第73師団](本土決戦)二川のトーチカ愛知県豊橋市二川太平洋戦争の戦況が著しく悪化した1944年(昭和19年)夏以降、連合軍による本土上陸作戦に備えて、予想される地域に本土決戦用の防御陣地を構築した。静岡県は浜名湖西岸から愛知県の渥美半島伊良湖岬にかけての遠州灘も、本土上陸作戦が予想されていた場所だった。1944年(昭和19年)7月に新設された日本陸軍第13方面軍第73師団によって、豊橋市一帯には多くの防御陣地がつくられた。具体的には、海岸沿いの丘陵地帯に
日本陸軍階級章解説(戦争史の研究、世界平和のためにお使い下さい)二等兵一等兵上等兵兵長伍長軍曹曹長准尉少尉中尉大尉少佐中佐大佐少将
大砲を奉納する春日山神社新潟県上越市大豆1743春日山神社の境内には、日露戦役(日露戦争:1904年2月8日〜1905年9月5日)でのロシア軍大砲の鹵獲品が奉納されている。解説板はない。出典:佐山二郎「日本陸軍の火砲野砲山砲」p.92どうやらロシア軍の87ミリ野砲(87-ммполеваялёгкаяпушкаобразца1877года)と思われる。87-ммполеваялёгкаяпушкаобразца1877года出典:
どーもアミュージングホビー1/35日本陸軍試作砲戦車五式砲戦車ホリ1塗装前です。履帯はポロポロ取れるので、結局接着しました。1/35アミュージングホビー日本陸軍試製五式砲戦車ホリI戦車模型未組み立て品Amazon(アマゾン)15,800円1/35アミュージングホビー日本陸軍試製五式砲戦車ホリI戦車模型未組み立て品Amazon(アマゾン)15,980円アミュージングホビー1/35日本陸軍試製五式砲戦車ホリIプラモデル楽天市場6,260