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昨夜の続き、関係です150年前の今頃の事です昨夜の会話で、「師範制度」の事をチラッと書きましたかの有名な撃剣師範沖田池田長倉田中新井吉村斎藤柔術師範篠原梁田松原文学師範伊東武田斯波緒形毛内砲術師範清原阿部馬術師範安富槍術師範谷というものですね。ところがこれ、「あの」西村兼文さんの「新撰組始末記」に書かれているだけで、何の史料も無いそのうえ同時に書かれている十番の組長の編成表。これもまた信憑性の「薄い」ものなんです
幕末、続きです150年前の本日は、慶応4年1月15日。この日、島田さんに百両が手渡されました十五日一同百両也横浜病人手宛嶋田江預ヶ置候(金銀出入帳)これね、もう少し先なんだけど、18日に隊士の手当とかいろんな支出が書かれているところに、突如15日のこの記載があるのたぶんこの日の朝、横浜から品川へ行く時に、島田さんに横浜入院隊士の分として手渡されていたのを、慌ただしさに記入し忘れていたのでしょうねで、18日にいろんな支出を書いている時
150年前の今頃、のお話です。この頃に江戸に下っていた武田観柳斎さんですが、本所在住の旧友を訪ねていたらしい「丁卯雑拾録」によりますと、「元治元甲子歳六月五日於京都祇園町旅籠屋諸浪士召捕之節、会津藩附属壬生浪士新撰組福田広(元雲州母里、松平主計頭藩中)士藩大秋鼎ヲ召捕、同人所持之傍観記事と云小冊を分捕し、同年九月中旬出府之節持参、国友何某ニ譲り置し」とあります。つまり、池田屋事件の時に新選組の〝福田広”が、“大秋鼎”という者を捕縛して“傍観記事”という冊子を分捕った。で、それ
またまた幕末でございます。150年前の本日は、慶応3年12月14日。この日、こんな発令がっ慶応三年十二月十四日守護職所司代以下免職通知此度之儀に付御役御免守護職所司代御作事奉行禁裏附大久保筑後守御目付同岡部肥後守遊撃隊頭見廻組町奉行右之通被仰付、所司代御附伏
②よりしかるに私はその席にあって、「生殺与奪の権は藩主左京太夫に決を採りた上でなれればいかん」と申した。米沢藩片山甚一郎も、同意した。が、各藩口を揃えて私に向って「それはおかしい。生殺与奪の権であろうが何であろうが、藩に関係したことをここで断定しないというなら、何故にここに出張しているのだ」(史談会速記録・安部井談意訳)つまり、安部井さんの意見に同意したのは米沢藩の片山さんであって、他のひとたちは「藩を代表してきているのだから、安部井君の御身体はすなわち二本
消えてしまった続き記事、書きますねそもそも土方が「生殺与奪の権」を主張して云々、という話って、史談会速記録での安部井磐根の談話がもとになっています。慶応4年9月3日、軍議に参加すべく榎本と土方は会議所に赴きます。その席上で榎本が「(列藩同盟の)全軍を指揮する総督を選ん」だ方がいいと発言。各藩代表者たちはそれに賛同するのです。『K4.9.3①歳様軍議に出席&榎本さんもね!』150年前の本日は、慶応4年9月3日。この日歳様が、仙台城での軍議に出席しました。(すみませ
①より榎本が言うに、「奥羽の軍勢が弱いのは主となって戦をなす者がいないからだ。これを挽回するのは全軍を指揮する総督を選ぶべき」というと、各藩は同意した。桑名侯、板倉小笠原侯、または仙台侯がふさわしいと各々申し出たが、榎本は慨然として曰く、「それだからいけない」と言う。「貴君方は今なお門閥によりて事を成さんと言うようですが、門閥が何をか成さん。いやしくも三軍を指揮する総督を仰ぐに、その技量なくば、やはりこれを設けざるの勝るにしかない結果になる。それではどうもご相談になりかねる」
①よりあっけなく武装解除をした大久保隊なのですが、この時彼らから「兵器の回収はできたものの弾薬が非常に乏しくて疑念を持った」と、谷干城さんの「東征私記」に書かれています。そりゃそうです。何故なら、2日に荷送りされた弾丸等が、正規ルートで送られた為にまだ流山に到着してなかったから歩兵たちが訓練に出ていた為に小競り合い程度の戦いしかできなかった、とされている大久保隊ですが、一方で弾薬がなかった為に戦おうにも戦えなかったのだとする説もあります。もしそうであるならば、勇
こんにちはひやしあめです中学生のときに買って、いっそ保存しておこうかと思っていたジャンプがあります。結局処分したと思うのですが。1991年の夏の号で『ー幕末人斬り伝ー壬生の狼』というものすごい萌えな読み切りがあったのです。新選組沖田総司が主人公で、本来の新選組とは毛色が異なるのですが、初めて沖田萌えになったお話です。絵柄が好みなのもありますが、なんとカッコいい沖田なのだろうと。単行本にはなっていないので、買えない。でも読みたい。実はまた読むのは簡単で、国会
①より一方、150年前の本日、慶応4年4月4日の勇さん。越谷から板橋本営に護送されます。翌四日、渡辺九郎左衛門隊下護送、板橋御本陣へ差出候趣、出先之者より申越候。(井伊直憲家記)四月四日(中略)一上田楠次帰る。流山屯集賊兵之長大久保大和守之義は、新撰組隊長近藤勇に付、彦根藩より応接之上、召捕り送り付け候事。(東山道総督尽府日記)この上田さんが率いる彦根藩一小隊が、勇さんを板橋まで連れて行くことになります。勘違いしやすいのですが、あ
幕末、続きます150年前の本日は、慶応4年4月5日。この日、勇さんへの尋問がありました。五日今日、於応接所長及ひ因、土、彦、四藩ノ人数相揃、吾も列席し、近藤勇を紛糾す。勇、申分左ノ如し。(中略)近藤は当駅獄中に入置有之也。(平田宗高従軍日録)この取調べは、谷干城さんの「東征私記」によれば、白洲に莚を引いた上に勇さんを座らせて行われました上記史料の「勇申し分」というのは1、大久保一翁の命により、大久保大和と改めた。1、甲州表へ鎮撫の
①よりそしてもう一つ、重要な事勇さんたちと、新八っちゃんたちが、ついに訣別となりました翌日不残勘定いたし今戸大七江参り、是より舩を仕立て和泉橋江つけ、医学所へ参り近藤勇、土方歳三、同志一統に面会いたす。此時近藤勇、嗔りを含ます、和に挨拶すると宜き処、近藤勇怒りを含み、我か家来に相成るなら同志いたすへく、左様なけれはぜひなく断り申と一同江申聞ける。一同立服、左様なれは是迄永々御世話に預り、難有存すると申し、一同此場を引取り、亦新撰組瓦解と相成る。(浪士文久報
本日、上野公園で彰義隊供養があったようです。お誘い頂いたのに、仕事で行かれませんでしたm(__)m私の記事ではもう少し先のこととなりますが、この先も1年以上、戦いばかりになりますね…彰義隊には、左之さんもいたのかなぁさて、本題。こちらはまだ宇都宮の戦いです150年前の本日は、慶応4年4月23日。この日、新政府軍は宇都宮城への攻撃を行い、秋月・内藤は怪我の為に戦線離脱旧幕軍は今市方面へ敗走しましたと、超簡単に申せば、そういう事なのですが、ざっと経緯を。
幕末、続きます。150年前の本日は、慶応4年4月7日。この日、勇さんの取調べが行われました。七日今日、重て近藤を糾明す。今日、近藤申して曰く、初鎮撫に出しといえども、その実の所存は慶喜恭順とは申せども、その心中を察するに遺憾の至りならん。これによりて江戸を出て傍らに退き、慶喜の安危を見届け、非情の時は臣下の分を尽したきとの事、無きにしも非ずと也。(平田宗高従軍日録)甲府に行った時のことですね。もちろん不穏な者たちの「鎮撫」には行ったのだけれど、
本日はジャポニスム振興会会長・ジャポニスムアカデミー名誉学長大谷暢順さまの特別講座大乗の至極、日本仏教に観る「日本人の知恵」を拝聴してきました。感想などはまた記事を改めますが、勇さんとの絡みも含めて、泣きそうになるほどに、心に沁み入るお話でした。ありがとうございました(-人-)さて、本題はまだ幕末が続きます。150年前の本日は慶応4年4月27日。この日、近藤勇五郎さんたちが、勇さんの遺体発掘の為に板橋に向かったとの事です。翌々日になって寺尾安次郎のいうに
今日は初めて自分で運転して、娘のこまめ家まで行っちゃった自宅もこまめ家も、利用駅からけっこう離れているので、電車・バスだと時間がかかってめんどうなのですでももう車で行かれるようになったから、これからはチョコチョコと…行かれればいいけどなぁさて本題幕末です。150年前の本日は、慶応4年4月2日。この日、大久保隊は流山への転陣を終えました。江戸方歩兵三百八、九十人余、去る朔日より二日迄、流山光明院、流山寺其外江かり居る。長岡七郎兵衛方本陣に相成、此家に大将大
幕末、続きます。150年前の本日は、慶応4年3月11日。この日、彦五郎さんの長男・源之助君たちが、新政府軍に捕縛されました佐藤源之助外農兵一同、擒之由聞入、甚恐縮。(小島日記)日野では新政府軍兵が、鎮撫隊の残兵を捜索していました。彦さんは、勇さんとは義を結び歳様とは実縁になるのですから、特に目をつけられて、「日野の彦五郎は、草の根分けても見付けにゃ置かぬ」と狙われてしまいました。佐藤家ではこの危機に、一家バラバラになって逃げたといいます。この時、彦
本日から「ひの新選組まつり」が始まりましたね今日は歳三忌でした。昨年は雨が降っていたなぁと、その月日の速さに驚いております。さて、今夜も幕末でございます150年前の本日は、慶応4年4月20日。この日、日光を目指してしていた大鳥さん率いる、中・後軍が、鹿沼方面から宇都宮へ進み、先鋒軍と合流いたしました同廿日暁天、諸軍を整ひ城に入る。十二字本丸に整列、技芸をなして大勝利を祝し賀宴を張り愉快極りなし本丸未だ釣天井のあとあり。賀宴中、総督大鳥氏曰、昨日の戦、桑の新
昨夜の記事内で、歳様の足の怪我の場所についての各記載を、本文中に載せるのを忘れました追記にて書いてありますので、ご興味のございます方は再読して頂けると嬉しいです「右の足」と書かれているのは、「天極記」のみと思うのですが、ただこの史料が著者・編者がわからないというものなので、正しいかどうかはわかりません。ただ言えるのは、治療にずいぶん時間が必要だったようなので、その間不自由だっただろうなぁと、思いますさて、幕末記事が続きます。150年前の本日は、慶応4年4月24日。こ
昨夜、歯磨きをしていたら奥歯の詰めものが、ポロリと取れてしまった珠里です歯医者、行きたくないんだけどなぁとグズグズやっていたら、強制的にツレに歯医者の予約を取られてしまいました病院、嫌い。。。さて本題幕末、続きます。150年前の本日は慶応4年4月6日。この日相馬さんが取調べを受けました。六日相馬肇を予等糾明す。是近藤か兵隊に随従せし故細事不分、本は笠間の者なるか、五年前脱藩せし者なり。(平田宗高従軍日録)相馬さんは昨日書状を持っ
本日、旧暦の勇さん祥月命日。会津天寧寺では墓前祭が行われたようです。昨年は150回忌でしたが、今年は150年。私のブログ記事では来月17日となります。。。さて、そんな本日の150年前は、慶応4年4月3日。この日、粕壁宿着陣の田中藩の者が東山道軍宇都宮斥候隊へ陳情に現れました。それによって、流山に武装兵が集結している事が発覚したのです田中本多殿御陣屋加村与申所ニ有之、同日陣屋より杉戸宿官軍御人数江注進致候儀二、官軍凡三百人も粕壁、杉戸より御越…(小松原家文書
幕末、続きます。150年前の本日は、慶応4年4月4日。この日、一度逃げだした隊士たちの一部が流山に集結。会津を目指して出立いたしました四日(中略)此日、昨夕退散の歩兵方所に隠れ居り。□□今朝より百七、八十人立もどり、流山江集り、無銭に而飲食いたし…(恩田家文書)今四日歩兵共又々近辺山野へ、流山へ百人程立戻り退散致候者、金子入用に付、流山に而金千両用立呉候様申聞候に付…(小松原家文書)局中は安富氏を始めとして会に趣くに、下総流山散乱の兵卒を勝
①より日野の佐藤家を出た鎮撫隊は、八王子宿にて昼食。小仏峠を通過して、与瀬宿での宿泊となります。…八王子宿昼飯、与瀬宿泊り、(中略)一同昼刻出立、小仏峠ゟ日武家に相成、与瀬宿へ夜に入着いたし、其段隊長江相届候事(佐藤彦五郎日記)彦さん達は、ちょっと遅れて日野で昼食をとってからの出立だったようです。彼らは人数的にも、さっさと移動できそうですものね鎮撫隊はかなり荷物も多かったようです。新撰組頭取近藤勇事大久保剛<タケシ>、内藤
①よりそして本日、勇さんが処刑されました。一近藤勇先生、四月廿五日官軍之為に被召取、板橋宿庚申塚に於昼時頃斬首、速に被致候由。可惜英将鳴乎天也哉。(小島日記)私のブログ記事で、何度も書いてきた横倉喜三次さんが、太刀取りです「小島日記」や「島田魁日記」、「中島登覚書」など、それらに書かれたものは当然「当事者」ではありませんから、後に収集した情報となっているわけです。実際に上記小島日記では処刑時間が違うわけで、でもそれは致し方ない事。なので以下
関東では穏やかに暖かい日が続き、桜も満開ついのんびりと…じゃなくて、幕末ですっ150年前の本日は、慶応4年3月6日。この日の朝、佐藤家に歳様が立ち寄り、江戸へ向かいました。六日日和よし、九ツ時より曇り、水氷雨少ふる(中略)石田出生土方年蔵早打にて下る、(以下略)(河野清助日記)六日朝五ツ時、長持早駕古弐挺下る。内藤隼人(宇津木政兵衛日記)佐藤家の記録には、歳様が馬で来たと書かれていますね
幕末、続きます150年前の本日は、慶応4年4月12日。この日、歳様は市川の大林院において、旧幕府軍評議で参謀に選出されて、先鋒軍参謀として、宇都宮に向けて出陣しました於之土方公、大鳥公、秋月公、評議の上、大鳥某第二大隊の七聯隊等を本道より宇都宮城へ向ふ。土方某、秋月某と第一大隊、回天隊、新士官隊等を引て水街道より走土村に至る。(島田魁日記)於此土方、大鳥、秋月公等評議の上、大鳥某、第二大隊、七聯隊等を引て本道より直に宇津宮城へ向ふ。土方、秋月両公、第一大隊、回
今日の昼間は暑かったですね私、夜はまだタオルケット2枚を重ねてかけて寝ているのですが、今朝方、ちょっと寒いなぁ…と、目が覚めました。「ん?」寒いはずですよね。そのタオルケット2枚の間に寝ていました上に掛けていたのは、薄手のタオルケット一枚のみ。あれ?なんで寝る時に気が付かなかったんだろう…それとも夜中に無意識にタオルケットの間に潜り込んだ、かなさて、久しぶりの幕末記事です覚えていらっしゃいますでしょうかちょびっとばかり「天狗」?になった勇さんを諌める為に、