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[三川地区]観測所観測所、全景*****▼観測窓からの景色・・・観測所、出入口潜ります(・∀・)▼前室コンクリートの面が美しい・・・観測窓支柱は元々ない。竹?竹の伝声管?退出( ̄^ ̄)ゞ次トーチカは2〜3基あるらしいが、これはそのうちの1基*▼表にまわってみる***山を下ります・・・この山、色々あるなぁ・・・坑道の真上に興味深い塹壕があるが、今回は割愛。*時間切れにつき、サクッと退散( ̄^
[日露戦争]南山の戦い*後日、加筆します日露戦争は、従来の戦争には無かった金融やメディアなど言論の参入(金融戦争と広報戦争)、新技術の戦艦や火砲、無線機や電信技術など、新しいものを総動員した総力戦だった。海軍の作戦は、旅順港奇襲作戦→仁川沖海戦→旅順口閉塞作戦(①②③)→黄海会戦→蔚山沖海戦→日本海海戦で、殲滅必須にもかかわらず勝ったのは仁川沖海戦と日本海会戦のみ。陸軍の作戦は、仁川上陸→鴨緑江の戦い→南山の戦い→得利寺の戦い→(海軍に頼まれて)旅順総攻撃①→(旅順総攻撃と並行し
首都圏防衛の要の飛行場の一つだった「陸軍飛行場めぐり:調布飛行場第二弾」で、「震天制空隊は、調布飛行場の飛行第244戦隊だけでなく、印旛の飛行第23戦隊、成増の飛行第47戦隊、所沢の飛行第53戦隊、柏の飛行第70戦隊にも置かれました。それぞれの飛行戦隊の中に特攻隊員が任命されたのです。」と書きましたが。印旛飛行場だけまだ訪れていなかったので梅雨に入る前にと行ってきました。『陸軍飛行場めぐり:調布飛行場第二弾』「武蔵野の森公園の歴史を訪ねる」講座調布市の陸軍飛行場跡を再び訪問しました。東京
大阪市生野区巽南は河内国渋川郡四条村と言い、楠木正成の孫である楠正長が生まれ、晩年を過ごした地でもある。正長の祖父である正成や父の正儀、伯父の正行は、南朝に仕えて北朝と戦ったが、正長の時代には南北朝は合一していたので、正長は父祖の戦跡を巡り菩提を弔って過ごした。
貴様と俺の碑海軍航空隊鹿児島基地跡の石碑というか、鴨池小学校の前のバス停から市営バスに乗り、鴨池市営プールのバス停で下車。鹿児島市勤労女性センターの隣、駐車場スペースの角地の木々が植えられたスペースに「貴様と俺の碑」があります。鹿児島海軍航空隊任隊者有志の方々により、1966年(昭和41年)に建てられた碑。なんだか、すっごい愛と哀惜がこもった碑です。中村晋也という方の造った碑ということです。「多くの若鷲がこの鴨池に巣立ち祖国防衛戦に散った」と碑に刻まれています。
[ガ島/ツラギ]①切通他※2019.10月訪問、数日間ガイドを雇い探索※加筆・修正中昭和17年8月7日に生起したガダルカナル攻防戦開戦以来、連戦連勝だった日本海軍と日本陸軍が、同年6月のミッドウェー海戦と共に敗北を喫し、大東亜戦争での攻守の転換点となった戦闘と位置付けられている。ガ島攻防戦に勝利した連合国は、計画通り南太平洋の増強が可能になった。ツラギ島ツラギ島はガダルカナル島ホニアラから北へ約40km、高速ボートで1時間。フロリダ諸島の1つで島名と同じ名称の町ツラギには、明
[ガ島]ムカデ高地※2019.10月訪問、数日間ガイドを雇い探索※加筆・修正中昭和17年8月7日に生起したガダルカナル攻防戦開戦以来、連戦連勝だった日本海軍と日本陸軍が、同年6月のミッドウェー海戦と共に敗北を喫し、大東亜戦争での攻守の転換点となった戦闘と位置付けられている。日本軍はソロモン諸島から米豪遮断作戦のための前進基地、ポートモレスビー攻略と相俟ってガ島に飛行場をつくろうとした。連合軍にとってはラバウル制圧のために、ガ島は重要な足がかりとなる。ガ島の飛行場奪還に固執する日
[宇佐航空基地]宇佐空地下壕⑧別府地区(魚雷格納壕)昭和14年(1939年)10月1日、呉鎮守府隷下の実用機訓練部隊として宇佐海軍航空隊が開隊した。宇佐航空基地(飛行場)の竣工は昭和15年。滑走路:(開隊時)1,150mx30m(終戦時)1,800mx80mコンクリート敷宇佐空は昭和16年(1941年)11月19日ハワイ作戦(真珠湾攻撃)のため出撃。昭和17年1月11日には蘭印攻略のため出撃。緒戦は華々しい戦果をあげたが、戦況が悪化した昭和19年10月31日には本土防衛のために結
[タラワ/ベティオ島]第3特別根拠地隊司令部地区①司令部建屋キリバス最高裁・モルモン教会周辺*後日、加筆しますタラワ(現在のキリバス共和国)は、日本海軍の重要拠点トラック諸島(ミクロネシア連邦/チューク)から南東約2,000kmの所にあるギルバード諸島にあるタラワ環礁を指す。ギルバート諸島にはタラワ環礁の他、マキン環礁、アベママ環礁の3つの環礁がある。明治25年(1895年)より英保護領になり大正5年(1916年)から植民地になっていた。大東亜戦争開戦直後の昭和16年(1941年
浜松の陸軍飛行場の歴史1933年(昭和8年)8月に浜松陸軍飛行学校が開設され、浜松市、三方原に飛行場を置きました。現在航空自衛隊の浜松飛行場になっている所と、三方原に、陸軍飛行場があったのでした。浜松飛行場は自衛隊基地として残っているけれど、三方原は田んぼと住宅地になっております・・・。1940年(昭和15年)12月からは、航空爆撃の研究が浜松陸軍飛行学校の任務となりました。しかし、太平洋戦争の戦況が厳しくなってくると、1944年(昭和19年)6月、浜松陸軍飛行学校は閉鎖され、浜松教導飛行
[日露戦争]白玉山塔中華人民共和国、遼寧省大連市旅順口区白玉山路(白玉山景区)遼東半島の突端、旅順。旅順港には、北から龍河が流れこみ、川の東が清国時代につくられた旧市街、西がロシア粗菓位置時代につくられた新市街。清国時代末期に港の東を軍港とし、周囲の山々に堡塁・砲台をおいた。日露戦争前、ロシア陸軍コンドラチェンコ少将Kondratenkoは、旅順要塞司令官ステッセル中将の承認の下、砲撃力や防禦能力を格段に高めた要塞築城の陣頭指揮に当たる。旅順港内の旅順艦隊から幾つかの艦載砲を