ブログ記事1,694件
人生ボンバイエのトピックス★これまでのトピックはこちら------メールはこちらから↓arita013@yahoo.co.jp--------------2026年3月26日【将棋動画】[新たな非常口を出現させるな/詰将棋の原則/5手詰将棋]|人生ボンバイエ2026年3月24日【戦跡動画】629「戦後復興の大分臨港線-3・西大分駅付近/大分県大分市」戦跡の声を聴く|人生ボンバイエ2026年3月23日【将棋動画】[♪もしもお馬が打てたなら/詰将棋
[三川地区]観測所観測所、全景*****▼観測窓からの景色・・・観測所、出入口潜ります(・∀・)▼前室コンクリートの面が美しい・・・観測窓支柱は元々ない。竹?竹の伝声管?退出( ̄^ ̄)ゞ次トーチカは2〜3基あるらしいが、これはそのうちの1基*▼表にまわってみる***山を下ります・・・この山、色々あるなぁ・・・坑道の真上に興味深い塹壕があるが、今回は割愛。*時間切れにつき、サクッと退散( ̄^
僕も関わっている「(一社)普久原未来のための事業団」。戦争や平和を語り継ぐ活動」の一つとして「戦跡の声を聴くビデオ」の作成をしています。------------------大分県大分市を訪ねました。昭和24年、つまり敗戦から4年後、大分市に、西大分駅と大分港を結ぶ「大分港臨港線」が着工しました。これは、戦後の復興、産業振興を担う、空襲にさらされた大分市の希望となる鉄道でした。戦後初の公選市長・上田保氏のアイデアです。彼は、お猿の高崎山や、現在の水族館「うみたまご」の発案者でもあります。主に
沖縄には戦跡がたくさん残っており、実際の現場を見ることは戦争を知る上で非常に有意義だ。また、県内には慰霊碑が無数に建てられていて、広範囲にわたって激しい地上戦が繰り広げられたことを肌で感じられる。現地に足を運び、実際にあった戦争の苛烈さや悲惨さを学び、同年代の子供だったひめゆりたちなどが戦地で働き命を落とした崇高な精神などを知る。真の平和学習はこうした場所へ足を運び、フラットな気持ちで事実を捉え、行われてこそ、現代に生きる我々が何をすべきかということ、平和を守ることの意味、人とし
油津基地跡仕事で全国津々浦々飛び回っている妹、このブログでいうところのfuyunoB。今度は宮崎県日南市に行ってきたそうです。あくまでも仕事ですけど。空き時間を使って、油津の特攻基地跡を訪れてきたそうです。油津には太平洋戦争末期、海軍の特攻隊、回天隊と震洋隊の基地が築かれました。1945年(昭和20年)5月ともなると、沖縄戦の戦況は悪化の一途で、本土決戦に対する備えを陸軍・海軍ともに始めていました。鹿児島、宮崎などの南九州の地は、アメリカ軍が最初に上陸してくるだろうと考えられてお
昨日ですがちょっと遠出して来ました調布の白糸台掩体壕です中々デカイ内部床に飛行機の輪郭線が書いてあります武蔵野の森公園を通って掩体壕大沢弐号コチラも綺麗に保存されています続いて近くの掩体壕大沢壱号コレは蓋がされていて端が削られているみたい鉄筋でてるし蓋には飛燕の絵が書いてあります飛燕の模型も有りました近くの枝垂れ桜が見事でした掩体壕から歩いてすぐに新撰組局長近藤勇の生家跡と井戸があります道場跡もありますコレ私有地内のなんですがココの郵便受けに近藤の文字が血縁の方が管理
僕も関わっている「(一社)普久原未来のための事業団」。戦争や平和を語り継ぐ活動」の一つとして「戦跡の声を聴くビデオ」の作成をしています。------------------大分県宇佐市を訪ねました。宇佐市立天津小学校に二宮金次郎像が残されています。天津小は昭和の大横綱双葉山の母校。また、宇佐海軍航空隊の爆撃演習場に近いのです。この像は全国の小学校に設置されました。戦時中は奉安殿と金次郎像がどこの学校でも見られたのです。陸軍の山縣有朋もこの設置を進めた一人です。造られたのは日露戦争後や皇紀2
九段会館ずっと東京に住んでいながら訪れたことがなかった九段会館と昭和館。現在、昭和館で「昭和映画禄」展が開催中ということで、昭和映画が好きな私としてはこれは行かねばならないと、生まれて初めての昭和館訪問。そして、昭和館の隣が九段会館。正確には、旧九段会館で、現在は九段会館テラスというマダムたちがアフタヌーンティーを楽しむオシャレな場所として人気があります。が。九段会館はもともと、1934年(昭和9年)に軍人会館として建てられたもので、2011年の東日本大震災の時に、天井が落ちてきて亡くな
豊予要塞司令官官舎大分県大分市大字佐賀関字太田180-2大正15年頃に建てられた陸軍仕様の和洋館併設の官舎。佐賀関の要塞司令部(現在は佐賀関中学校)の裏山、中腹に建つ。切妻造桟瓦葺の平屋建(居住空間)とコンクリート造の洋館(公邸機能)の組み合わせ、と思われる。門柱(天理教の教会の表札)と塀官舎の門柱*ご近所さんに一言、断り、庭だけお邪魔しました。▼玄関の北に応接間、南に次の間と座敷を設けている、らしい。*和風部分(居住空間)*一般公開を望む建
[奉納/砲身]熱田神宮愛知県名古屋市熱田区神宮1-1-1文化殿(宝物館)玄関前に置いてある古い砲身をみに行った。テキトーな案内板だが・・・これは日清戦争で陸軍が押収した戦利品(Booty)当該の砲身はアームストロング社製「七珊米突半阿式口装砲(船舶)」のようだ。日清戦争の戦利品は、軍部を除くと、博物館、陸軍諸学校、学習院、華族女学校、文部省及び直属学校、造幣局、陸軍工場、台湾総督府、各府県に配賦されている。各府県には神社仏閣・一般諸学校が含まれ、府県知事が配布先を決めて
僕も関わっている「(一社)普久原未来のための事業団」。戦争や平和を語り継ぐ活動」の一つとして「戦跡の声を聴くビデオ」の作成をしています。------------------私たちは、いろいろな角度から戦争を考えたいと思っています。その中から、ある人物に焦点を当てたものです。今回は昭和の大横綱「双葉山」が、戦前・戦中・戦後に果たした役割を考えました。彼は、大分県宇佐市出身。69連勝という偉業を成し遂げた人物であり、その活動時期が、戦争の時代に重なるのです。彼の代表的な言葉が「いまだ木
旅のことを書こうと思っていたらの、沖縄の修学旅行生のあの海難事故。辺野古の抗議船に乗り込んでの「平和授業」ってなんのことよと、思わずにはいられません。私はもう10回ぐらいは沖縄に行っております。最初に来た時は車は右側通行だったわよが鉄板ネタになっているくらいですが、この地は好きです。ただ、楽しいだけの島でないことは、最初に洗礼を受けました。新婚旅行で訪れた摩文仁の丘は、今みたいには手入れされておらず、海に突き出した岬の端に木肌も荒々しい丸太の手すりが付いているだけ。覗き
皆様ももし機会があれば是非パラオを訪問して頂きたい。日本よりも日本らしく、今の日本人が忘れてしまった日本らしさをいまだに継承し続けている国パラオ共和国成田から直行便が週二便飛んでるし、今のうちだと思います。場所的に現在でも軍事要塞化が進みつつありますが、戦跡などもその建設工事で消滅する可能性もあります。是非とも一度は訪れて頂いて、古き時代の日本を感じてほしいと思います。
川崎航空機瑞浪地下工場岐阜県瑞浪市明世町戸狩67-1昭和17年4月のドーリットル空襲以降、米軍機による日本本土を目標にした空襲が頻発。爆撃目標の一つであった川崎航空機は工場を分散、一部を地下工場に疎開させている。川崎航空機株式会社岐阜工場(各務原機体工場)の疎開工場のひとつとして、瑞浪市の戸狩山(化石山/へそ山)が選定された。四式爆撃機「飛龍」=キ67(陸軍機)の一貫製造を企図したとのこと。出典:1974年度岐阜県各務原高校郷土研究部「各務原空襲」昭和20年4月頃から間組による
愛知航空機瀬戸疎開工場愛知県瀬戸市上本町1(瀬戸市民公園)愛知航空機株式会社は時計の生産を行っていたが、日露戦争の最中から陸軍用の信管など精密兵器の製造も開始。大正9年頃からは空機の生産を開始する。三菱重工業・中島飛行機とともに、日本を代表する航空機製造会社に成長、99式艦上爆撃機、零式水上偵察機、彗星などをつくっていた。昭和16年、愛知航空機(当時は愛知時計電機)永徳工場が操業開始。昭和19年12月7日には東南海地震(M7.9)、昭和20年1月13日には三河大地震(M6.8)が発
長崎県防空本部跡仕事で全国津々浦々飛び回っているfuyunoB。今度は長崎へ行ってきました。そして仕事の空き時間を活用して、長崎県防空本部跡に行ってきたぞと報告がありました。長崎県防空本部??私はその存在を知りませんで・・・。fuyunoBからのレポートで初めて知った次第です。「すごいものが残っている・・・・しかも保存状態もかなりよい」とfuyunoBは感動しておりました。訪れる人が少ないようですが、ぜひ、多くの方に知って頂きたい戦跡です。長崎県長崎市の立山にあるので、別名、立山
太佐山高射砲陣地(名和高射砲陣地)愛知県東海市名和町(名古屋市南郊)には、2つの高射砲陣地がある。ひとつは平山高射砲陣地(ながら隊)、もうひとつが太佐山高射砲陣地(てんりゅう隊)。太佐山高射砲陣地(名和高射砲陣地)着工:昭和19年10月頃竣工:昭和19年12月頃(とりあえず)、同年4月に諸施設工事・砲床のコンクリート床改良工事も完了。備砲:99式8cm高射砲×6門標高:約44m任務:名古屋市南部の臨海地に立地する軍需工場を防護配備:高射砲第124連隊第2大隊(笠寺/いすず
元宇品公園2025年5月に広島の宇品の戦跡を訪ねたFuyunoB。今年も再び仕事で宇品を訪れたそうです。「海軍の呉、陸軍の宇品」と言われるほど、宇品は日本陸軍にとって重要な拠点でした。日中戦争の時に陸軍の兵や物資を大量に中国大陸に運ぶために、陸軍も船舶が必要でしたし、太平洋戦争に入ってからは南方方面に兵士や武器や物資を運ぶためにますます陸軍のための船舶輸送が重要になり、宇品港は陸軍船舶部の重要拠点となり、海上輸送を担う船舶司令部が宇品に置かれました。そして昭和20年8月6日、広島に原爆
豊予要塞に行く前に、94フェリーターミナルの確認と休憩をしに、三崎港へ立ち寄りました目の前には少しのお土産屋とカフェが一つ「coffeeひかる」昭和かわいいロゴが気に入った、お茶しますあーいいなぁ、こういう頑張らない系の喫茶店コーヒー美味しかった!お勧めですよここから15km先の佐田岬駐車場へ九州にあるのは佐多岬🎵要塞まで結構な距離があるからか、お客さんがほとんどいなくて寂しいルートですアップダウンを繰り返して見えた・・・うわあああ、標高差100mはあるじゃん
fuyunoB、下関へ行く仕事で全国津々浦々旅している妹、このブログでいうところのfuyunoB。今回は下関へ行ってきたそうです。下関といえば、下関要塞。明治時代に関門海峡ルートを敵(その頃の仮想敵国はロシアだろうか)の船の侵入に備えて陸軍がたくさんの砲台を関門海峡を囲い込むようにして構築。砲台群は下関要塞と言われました。1895年(明治28年)に下関要塞司令部が置かれました。↑現在の関門海峡(写真はWikiからお借りしました)なんといっても幕末、山口県(その頃は長州藩だったけど)は
[東京湾要塞]走水低砲台②演習砲台神奈川県横須賀市走水2-698(旗山崎公園)神奈川県側の旗山崎(御所ヶ﨑)に築城された走水砲台(竣工時名)で、日清・日露戦争に備えた。昭和期は演習砲台となり終戦まで存続した。旗山崎は東京湾が最も狭まる地。出典:浄法寺朝美「日本築城史-近代の沿岸築城と要塞」P.122、抜粋・加工走水低砲台起工:明治18年4月竣工:明治19年4月標高:約15m備砲:27cm加農砲×4(4座4門)→加式27cm加農砲×4門(明治26年/同27年8月完了=日清戦
浦賀ドック戦跡?とは言えないかもしれませんが。第二海堡を訪問した時のはとバスツアーには浦賀ドック訪問も含まれていました。以前浦賀は戦跡ツアーに訪れていますが。『戦跡訪問:千代ケ崎砲台【追記あり】』浦賀戦跡ツアーよく晴れた初秋の日曜日。fyunoA&Bは浦賀戦跡ツアーに行ってまいりました。浦賀周辺は戦跡てんこ盛り。一回では紹介しきれないので、数回に分けて…ameblo.jp浦賀ドックはガイドさんつきツアーでなければ見学できません。貴重なものを見ることができました!浦賀駅のすぐ
[東京湾要塞]走水低砲台①明治期神奈川県横須賀市走水2-698(旗山崎公園)神奈川県側の旗山崎(御所ヶ﨑)に築城された走水砲台(竣工時名)で、日清・日露戦争に備えた。昭和期は演習砲台となり終戦まで存続した。旗山崎は東京湾が最も狭まる地。出典:浄法寺朝美「日本築城史-近代の沿岸築城と要塞」P.122、抜粋・加工*****東京湾要塞は明治13年以降、海軍と協同しながら東京湾に侵入する敵艦艇を防圧し、帝都と横須賀軍港を掩護する目的で建設された。仮想敵は幕末〜明治初期の欧米列強、清国(
先日、沖縄出張へ行ってきました。昨年10月と出張での沖縄は2回目。以前、娘との沖縄旅行の時はひめゆりの塔へ行きました。ひめゆりの塔は、世の中的に言われているほど霊はいませんでした。当時の女学院の先生の霊が生徒と待ち合わせしているため残っていました。詳しい内容は過去記事『ひめゆりの塔パトロール』を参考にしてください。その時は、ひめゆりの塔の資料館へ行きました。沖縄戦の悲惨さは資料館にあった記録残された遺品、写真だけでは想像しきれないほど壮絶だったということをその後
私は英語出来ないから国内かな❓日本でまだ見たことない景色を見たい。城🏯と神社⛩️仏閣戦跡見て回らないとね❗️
[横須賀鎮守府]猿島防空砲台神奈川県横須賀市沖(三笠桟橋から片道10分の航海)*後日、加筆予定江戸時代末期の猿島猿島砲台は、江戸幕府末期の弘化4年(1847年)に川越藩によって、猿島に3ヶ所台場が建設されていた。出典:横須賀市教育委員会「史跡東京湾要塞猿島砲台千代ヶ崎砲台保存活用計画」2017年3月、P.26陸軍時代(明治)の猿島猿島砲台起工:明治14年11月5日竣工:明治17年6月30日(一応の竣工)備砲:第1砲台→備砲据付無し→明治23年に司令部第2
先日来てくれた友人の一人が「戦跡巡り」をしているというのです。びっくりしました。びっくりしたというのは、「美術館巡りじゃなくて戦跡」という驚きと、楽しいランチのおしゃべりに唐突に「戦争」が登場するという衝撃。その気配が日に日に濃厚になっているという衝撃。彼女によれば、あと「長野」が残っているんだそうで、「知ってる?長野って満蒙開拓団を一番に出した県なのよ」と言われる。はい、それは知っておりました。記事にしたこともあります。私には「くるみ沢」という一枚のメモから始ま
僕も関わっている「(一社)普久原未来のための事業団」。戦争や平和を語り継ぐ活動」の一つとして「戦跡の声を聴くビデオ」の作成をしています。------------------福岡県久留米市を訪ねました。戦時下の久留米市には、陸軍墓地がありました。現在は、その大部分が久留米競輪の競技場となっています。この墓地には、臨川台と呼ばれる展望台があります。高良川を含む一帯を一望できる展望台です。明治44年8月、陸軍省は、高良台一帯の山地約百万坪を買収し、第18師団の演習場としました。これが高良台演習場
愛宕山事件先日、増上寺の阿波丸慰霊碑を訪れた時、愛宕神社にも行ってきました。愛宕神社は愛宕山という東京都内では一番高い山(といっても26メートルくらいなのですが)の上にあり、愛宕山では太平洋戦争終戦時、愛宕山事件が起きました。その愛宕山事件の慰霊碑があるということで、愛宕神社を訪ねてきました。「戦跡訪問:北の丸公園」でも書きましたが。『戦跡訪問:北の丸公園』「日本の一番長い日」の場所ずっと東京に住んでいながら一度も訪れたことがなかったので、行ってみました北の丸公園。堀を挟んで皇居と隣