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レプリカ零戦格納庫の目前にある小山の地下には戦闘指揮所が存在した。この筑波海軍航空隊基地は飛行兵育成のために設立運用されていたが、大戦末期に本土防空基地と位置付けられ基地の要塞化がすすめられた。その一環としてこの地下戦闘指揮所が作られたのである。基地北端にある司令部から約1000m離れた指揮所まで2.2kmの地下通路(地下排水路)が作られていたという。薄暗い地下壕に入る前に係員のかたからLEDライトを手渡される。通路の高さは2mほどか?!仮設のほの暗い灯りが当時を思い起こ
遺構探索は陸海軍の砲台・見張所に絞って行っています。◎陸軍…要塞の砲台・堡塁・関連施設、北九州の防空陣地◎海軍…警備隊/防備隊所属の防空砲台・見張所・防備衛所・関連施設◆目次◆~クリックで各ページが別ウインドウで表示されます下関要塞(明治/大正期)[概略]砲台:[田ノ首*][筋山*][老ノ山*][田向山*][笹尾山*][古城山*][門司×]火ノ山砲台*:[概略][第一][第二][第三][第四][補助施設][低観測所]堡塁:[戦場ヶ野×][一里山×][金比羅山×][龍司山*]
室蘭臨時要塞小橋内砲台および観測所<米軍撮影>室蘭臨時要塞は、室蘭港周辺にある工場群と港湾の防衛と津軽要塞の背面防御を目的として、1945年(昭和20)に建設工事が開始された。絵鞆半島にある小橋内砲台は敵艦を迎撃するため、96式15センチ加農砲×1門と92式10センチ加農砲×1門の計2門据え付けて防備につく予定で、同年6月に第1砲座、翌月7月に第2砲座を完成させる。<掩体を擬装するための土を取り除いたまま>室蘭市近郊には噴火湾一帯の砂鉄、虻田(現在の洞爺湖町)の鉱山
[十勝地区]十勝太トーチカ北海道十勝郡浦幌町十勝太浦幌十勝川の河口、少し北十勝太トーチカと山砲陣地がある。1948/07/23(昭23)USAR329-61(国土地理院)銃眼、出入口共に土砂に埋もれているが、銃眼は北側(釧路側)に付いている。銃眼からみた景色(釧路方向)十勝太トーチカと浦幌十勝川の間の海岸段丘は、それなりに標高が高く、ここに山砲陣地があったらしい。人為的につくられた幾つかの窪み、塹壕の痕跡がある。(十勝川方向)
愛知県清須市には、戦時中に陸軍の飛行場が作られていたらしい。今は全て田畑になっているそうですが、飛行場近くに作戦指令室があり、そこは少し残っているらしい。これは行って確認するしかない!※追記さらなる情報を求めて行ってきました!『【戦争遺跡】旧陸軍の清洲飛行場の情報を求めて』先日、旧陸軍の「清洲飛行場」の作戦指令室跡を訪ねました。そして、戦後に建てられた「元飛行場開拓記念碑」を甚目寺公民館で見ることができました前回記事→旧陸…ameblo.jp清洲飛行場清洲飛行場(英
[紀伊防備隊]伊島防備衛所(乙)徳島県阿南市伊島町紀伊防備隊の任務は紀淡海峡(紀伊水道)の海上防備、哨戒、海上交通の保護。管轄下に5ヶ所の防備衛所(聴音所等)を持つ。太平洋戦争前から設置されていたのは友ヶ島・伊島(徳島県阿南市)・日御碕(和歌山県美浜町)。戦時中に瀬戸崎(和歌山県白浜町)・阿波大島(徳島県牟岐町)にも設置された。友ヶ島は紀淡海峡(航路幅11km)〜大阪湾に出入りする最終チェックポイントであるため、防備衛所(甲)となり、管制機雷を装備した唯一の防備衛所でもあった。伊島
(海軍)牧之内飛行場(根室第二飛行場)②戦闘指揮所壕と牧之内トーチカ北海道根室市牧の内海軍牧之内飛行場(根室第二飛行場)の戦闘指揮所は、滑走路の北東側にある。Googleでは誰かが掩体壕とマーキングしているが、実際行ってみると戦闘指揮所壕だった(・∀・)いちおう引渡目録でも確認(^^)/とりあえず1周してみる。戦闘指揮所壕の全景出入口部分がこんもりしている。では出入口に木が無い方から入壕してみよう。出入口は2ヶ所。どちらも長い階段を
本堡塁の探索が終わったので、今日は付属堡塁に向かいます。場所はこちら。「その1」にも書きましたが、吉坂堡塁の施設は2か所に分けて設けられ、標高245mに本堡塁、その南の標高180m付近に付属堡塁が置かれました。おそらく付属堡塁は本堡塁の射撃の死角をカバーするために設けられたのでしょうね。付属堡塁には移動式の十二糎加農砲が2門配備されたと考えています。通常の十二加ではなく固定式の「克式十二糎加農砲」とする史料が残っていますが、この件については「その3」でああだこうだ考察しましたの
厚木空神社深見神社境内摂社靖國社大和天満宮厚木海軍航空基地(厚木飛行場)敷地内には厚木空神社があった。2つあった社殿のうち①302空の英霊(→靖國社)、②天照大神(→南大和天満宮)を祀り、戦後、遷座している。靖國社神奈川県大和市深見3367(深見神社内)深見神社の境内社は靖國社と稲荷社の二社。昭和19年11月8日、厚木航空基地(厚木飛行場)内に、海軍第302航空隊司令の小園安名海軍大佐の指示により、302空所属の殉職将士167柱を祭神とした厚木空神社が創
今日は“愛のトンネル”内の遺構をレポートします。第一砲台(旧第二砲台)と第二砲台(旧第三砲台)を繋ぐ軍路には全長約90mの隧道が設けられており、公園整備に伴い“愛のトンネル”と言う愛称が付けられました。隧道の中には2階構造のレンガ造りの部屋が大小12部屋も残っており、これらは弾薬の一元管理を行う弾薬元庫と旧第一砲台(旧)の物と推測されています。猿島の砲台は明治14年(1881)に着工、明治17年(1884)に竣工しましたが、おそらく同時期に構築されたのではないかと思われます。猿島
[由良要塞](淡路/明治期)生石山電燈所生石山砲台群(第1〜5砲台と堡塁)は生石山山頂から北東にのびる尾根上に点在する。このうち昭和20年8月の終戦まで使用されたのは、第1、第4、第5砲台のみ。出典:国土地理院1986/04/13(昭61)KK863XC1016、抜粋・加筆出典:「現代本邦築城史」第二部第四巻由良要塞築城史(陸軍築城部)*生石山電燈・発電所由良地区の海上用探照灯(生石山電燈)および発電所が、第4砲台と桟橋(エトワール生石)の間にある。生
久々の由良要塞探訪です。友ヶ島第四砲台は長らく立入禁止でしたが、昨年2022年12月より解禁となりましたのでレポートを掲載します。砲台の履歴は以下の通りです。◆起工:明治23年(1890年)11月29日◆竣工:明治25年(1892年)5月25日◆備砲:二十八糎榴弾砲6門(明治32年12月備砲完了)、十二糎加農砲2門◆砲座設置標高:75m、72m◆廃止:昭和10年(1935年)3月、要塞再整理にて廃止※由良要塞の概略はこちら→→→見取図です。地下弾薬庫から砲座間
※2024年4月に記事を書き直しました。『下関要塞探訪156~大島砲台その1(砲座/砲側庫)-書換-』宗像の大島には10回以上渡島していますが、砲台の記事は4年前に書いて以来更新していませんので、この度全面的に書き直します。*****************…ameblo.jp以下旧記事となります。**************************************◆砲台名:大島砲台◆起工:昭和10年5月1日◆竣工:昭和11年11月20日◆備砲:45式15㎝
三瓶原陸軍演習場:東の原監的所島根県太田市三瓶町志学1892年(明治25年)9月、第5師団の大砲射撃場として三瓶原陸軍演習場が開設された。場所は三瓶山の北西の裾野。敷地は拡大していくが演習の合間には放牧が許可された、とか(今のある牧場が該当)。現存する監的所は2つ。1つめの東の原監的所は三瓶山の北東(東の原)、三瓶山観光リフトの東の原駐車場に近い牧場にある。出入口の高さは低い。メモを執ったり小物を置くのに最適な台付き覘視孔の前に雑草が
砲台内の見取図です。「副機関室」を南側に出ると、いくつかの部屋が並んでいます。北側の「予備室」は破壊が激しいです。「油脂庫」です。内部。奥の壁に文字が書いてあるので見てみると、、、火気厳禁でした。もうひとつ油脂庫がありますが、見取図では「送風機室」としています。内部には通気孔があります。「送風機室」から見て左隣りに「予備室」(プレートは工作室)があり、さらにその左側には水槽が設置されています。「濾過槽」は4槽、その先は「冷却用水槽」です。
撮影日2022/06/04砂浜にポツンと一軒家がある所在地は兵庫県南あわじ市阿万吹上町門吹上海岸(吹上浜)にあるこのコンクリートの色戦時中の建物やと思うんだが監視所かなんかか?船模型これは近年に置かれたもんやろけどピット便所?炊事場?出入口ここにもピット海岸へのびる二条のコンクリートレールあの建物から続いている排水路か?
その2では地下発電所から見ていきます。発電所は地下に造られています。内壁には迷彩が施されていますが、その1で紹介した迷彩建物とは違ってこちらは鱗状になっていません。間取りを描いてみました。右手に物置のような凹みがあります。左手に開口部があるので入ってみると...。デカくて深い貯水槽が現れました。貯水槽の内壁に鉄製の梯子が残っています。左側に土管と奥の壁に丸い穴があります。丸い穴の地表露出部分はおそらくコレ。こんなところにも迷彩が施されてお
八甲田雪中行軍遭難事件(八甲田山死の彷徨)明治35年(1902年)1月に陸軍第8師団隷下の第4旅団の歩兵第5連隊が、青森市街から八甲田山の田代新湯に向かう雪中行軍の途中で遭難した事件。訓練への参加者210名中199名が死亡(うち6名は救出後死亡)。日本軍の冬季軍事訓練において最も多くの死傷者を出した。当時、対露関係は極度に悪化していた。日清戦争後に日本に割譲された遼東半島は三国干渉により渋々返還させられ、ロシアは清から東清鉄道(満鉄)の敷設権、遼東半島にある旅順・大連の租借に成功して
大東亜戦争末期の昭和20年(1945)、米軍による日本本土への空襲が本格化しましたが、徳山は2度の大規模な空襲を受けました。最初の空襲は昭和20年5月10日で、第三海軍燃料廠と大浦油槽所が狙われました。午前9時50分、B29約110機による燃料廠への爆撃が開始され、その15分後にはB29約80機が大浦油槽所を襲いました。空襲は午前10時50分に終わりましたが、投下された3,500発以上の爆弾(燃料廠に2,017発、大浦油槽所に1,533発)により、設備の大半は破壊されて事実上壊滅、5
[南大東島守備隊]陸軍本部壕(山下洞)沖縄県南大東村新東島の北東部、東は長幕断崖の内側が迫っているが、その山麓(標高約10メートル)に縦穴状のドリーネ(落込穴)があり、大東島守備隊(歩兵第36連隊)の本部はここの自然洞穴(鍾乳洞)を利用している。出典:沖縄の戦争遺跡、P.296より抜粋・加工『大東島戦時日誌』によれば、在所集落の西外れの具志堅洞の自然洞穴(鍾乳洞)を利用していたが、同年4月8日には「軍旗」を島の新東地区の通称・山下洞に移動させ、ここを核に一帯を秋葉
[南大東島守備隊]塩屋海岸の水際陣地沖縄県南大東村池之沢塩屋海岸の「塩屋プール」の真上にトーチカが2基?あり、周辺には多くの塹壕がある。トーチカ①海面からの高さは10メートルサンゴ礁石灰岩(古大東石灰岩)に幅2.5m×長さ3mの切れ込みをつくったトーチカ。戦時中は銃眼の上のコンクリートの形状から屋根はあったと思われる。備砲は25ミリ機関砲とされる。屋根が落ちて瓦礫などで砲室が埋まってしまったようだ。上から砲室を見る銃眼の先、切
「道の駅うずしお」建替え工事に伴い「門崎穹窖砲台」の発掘調査がおこなわれました。結果、日本最大級のドーム型穹窖砲台が姿を現しました。その調査成果の現地説明会を開催するとの事で参加してきました。ま、ありきたりの説明会であり、完全な立ち入り制限まである、つまらん説明会でしたけどね。どれだけ貴重な戦争遺跡であろうと、道の駅の建替えは中止にはならないし、状態が悪いだの危険だの、保存する気など更々無い・・・解体前提の意味の無い説明会。建替えれば済む道の駅とは違うんですよ。解体すればそれでお終い・
うるま市字天願を流れる天願川の近くに旧天願橋と呼ばれる遺構があります。天願川に掛かる茶本根橋という橋を渡って対岸へ行くと木々が覆う窪地みたいな場所があります。砂利道のY字路の先に旧天願橋があります。Y字路の先から見たところ。旧天願橋は橋脚の辺りから中央に折れています。これは老朽化して壊れたのでは無く、戦時中に日本軍によって破壊されたのがそのまま残っている姿です。北側から見るとこんな感じです。橋の上は草が覆っています。橋を上から見たところ。ここは立ち入りは禁止されています。南側から見た
千葉県の大原漁港に面する八幡岬に、(人間魚雷)回天小浜基地がある。横須賀鎮守府第7特攻隊所属(本部は勝浦)の第12回天隊73名(諸説あり)が配備された。1945年(昭和20年)7月30日に小浜基地は完成したが、回天を運搬する第21号1等輸送艦が輸送中に触雷して到着せず(諸説あり)、そのまま終戦になった。海に向かって3本の格納壕が並列につくられている。当然だが3本とも坑口はあるが、現在は中央に位置する1本の坑口のみ開いており、両側の坑口は戦後の擁壁工事で塞がれている。<擁壁工事で塞が
宇部市小野来見にある墜落慰霊碑をレポートします。場所は宇部市北部。車で5分も走れば美祢市に入ります。こちらの場所となります。慈母観音菩薩像です。建立の趣意が書かれています。ちょっと見にくいので文字に起こします。建立の趣意昭和十九年十月初旬B二九邀撃のため日本陸軍に最新鋭戦闘機二機が小月基地に配備され歴戦の搭乗員二名による高々度上昇テストが命令され十月十五日午後三時頃テスト飛行が実施されました高度七〇〇〇米で基地との交信が絶え爆発音とともに当来見
小倉北区と門司区の境界に位置する田向山(たむけやま、現在の表記は手向山、標高76m)には、明治期に下関要塞の砲台が築かれましたが、昭和期の大東亜戦時下には砲台跡地に高射砲陣地が置かれました。場所はこちら。(北九州の防空についての概略はこちら→→→)大東亜戦争が始まった昭和16年(1941年)12月の西部防空旅団の展開位置表を見ると、田向山には防空第22連隊第1大隊第2中隊の高射砲中隊が駐屯していました。その後西部高射砲集団に改編後の昭和19年(1944年)9月の編成表では、高射砲
[霊に秘孔を突かれる?]御籠島(みかごじま)は面積僅か5,300㎡、最高所標高36mという小さな無人島。この西端の断崖に昭和26年、延命地蔵が建立された。島の砲台壕で事故死した21歳の見習い士官の母親が建立したものである。昭和20年のある日の朝、その士官は隊長に叱られ、「頭がグラグラする」と言っていた。当時、島の二門の砲台壕は工事中で、壕は豊後水道側とその反対側からそれぞれ掘り進めていた。掘り出した土砂は小さなトロッコのようなもので崖下へ落としていた。その日、見習い士官は隊長の命令
陸軍①[要塞]函館/津軽要塞◆龍飛崎砲台◆大間崎第1砲台①・②・③◆汐首第1砲台◆88式海岸射撃具演習砲台◆御殿山演習砲台88式観測所◆千畳敷砲台①・②・③・④◆砲兵指揮官司令所(戦闘司令所)◆御殿山第2砲台①・②・◆入江山観測所◆御殿山第1砲台◆薬師山砲台(堡塁)◆立待堡塁◆立待電燈◆立待低地観測所◆高龍寺山低地観測所◆穴澗電燈◆穴澗低地観測所◆軍用石橋1号と貯水槽など東京湾要塞◆第二海堡①・②・③・④・⑤・⑥◆◆◆父島要塞◆豊予要塞
[南大東島守備隊]バリバリ岩の陣地壕沖縄県南大東村北369北港付近のバリバリ岩陣地跡は、岩陰を利用し石積で部屋状に設けた部分がある。海岸から200メートル程しか離れておらず、水際陣地と連携した棲息壕的な機能をもつもの、と思われる大東諸島(南・北・沖大東島)は、もともとはニューギニア沖で生まれた島とされている。そこからフィリピン海プレートに乗り、なんと4,800万年かけて3,000キロ以上移動して、現在のところに来たそうだ。南大東島は今でも1年に7センチのスピードで
秋吉台は美祢市中・東部に広がる日本最大級のカルスト台地です。現在は国定公園となっていますが、明治時代から大東亜戦争終戦の昭和20年8月まで、旧日本陸軍が戦闘訓練の演習場として利用していました。ではまずは歴史から。陸軍が秋吉台上を使用し始めたのは明治18年(1885年)と言われています。最初に広島野戦砲兵隊が、明治22年(1889年)には下関要塞砲兵連隊が実弾射撃場として使用し、明治32年(1899年)ごろから山口歩兵第42連隊が戦闘訓練の演習を開始しました。明治42年(1909年)