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三浦市の油壷にやってきましたよ。先日の小網代湾につづいて、きょうはその南にある油壺湾の探索をします。市営駐車場のすぐ脇の細い道から海岸を目指すと、海沿いの小さな公園・油壺公園に出ました。この谷戸にはかつては兵舎が建ち並び、周囲に特殊潜航艇・海龍や、震洋特攻艇の格納壕が掘られていたそうです。海龍とはSS金物とも呼ばれた、二人乗りの潜水艦型の水中特攻兵器でした。ここ油壷には第11突撃隊・海龍隊および、第56震洋隊が配備されていた記録があります。現在はヨットがのんびり浮かんでいる油壷湾に、か
今日は島根県出雲市斐川(ひかわ)町の大社(たいしゃ)海軍航空基地を紹介します。場所はこちら。戦争末期の昭和20年(1945)3月、新川航空基地(第一新川、のち大社基地に改称)の建設工事が開始されました。建設場所は廃川となっていた新川(しんかわ)の河川敷を中心とする一帯でした。この川は江戸時代に開削した斐伊川の放水路でしたが、洪水被害を招いたため昭和14年に廃川となりました。廃川後は直線的な平坦地が残っていたため、滑走路を作るには好都合だったのでこの地が選ばれました。ちなみに下記に掲
今日は小首堡塁左翼側(南側)に設けられた十五糎加農砲座を見に行きます。現地説明看板より抜粋・加筆修正した見取図です。小首堡塁の主力砲は二十四糎加農でしたが、副砲としてドイツ・クルップ社製の克式三十五口径前心軸十五糎加農が2門が配備されました。この火砲は日清戦争(明治27-28年)で鹵獲した戦利品で、東京湾要塞観音崎第四砲台と舞鶴要塞金岬砲台にも据え付けられました。『日本築城史』ではこの火砲について、「砲身が長く旋回時に尻を振るので尻振り大砲と呼ばれたが、射程は14キロもあり、当時最
第146震洋隊宮戸島特攻基地宮城県東松島市宮戸大鮫陸繋島の宮戸島、旧鮫ヶ浦漁港。東日本震災の津波で被災した倉庫を改修した「鮫ヶ浦水曜日郵便局」があった。この郵便局は震災後に企画された1年間限定のもの。「水曜日に起きた日々の何気ない日常や誰かに知ってもらいたい思いを手紙をこの郵便局宛に送ると、担当のスタッフが仕分けて同じように手紙を書いた別の誰かの元へ届く仕組み」旧鮫ヶ浦漁港は、戦争末期にあった第146震洋特別攻撃隊の震洋基地を改修して開港した、とのこと。*第1
[釧路地区]興津トーチカ釧路市興津の海岸。「岩を刳り貫いてつくられたトーチカ」とされているが、釧路オコツナイ骨格陣地の南端に位置していること、銃眼の形状や大きさからここは監視所を兼ねたトーチカかもしれない。"トーチカ"から見た景色"トーチカ"の出入口は転落防止のため塞いだとのこと(通りがかりのご老人談)。崖地の岩盤を真上から掘り込んだ、とのこと。*釧路海岸の防御陣地道東の太平洋側は戦前より国防上の重要拠点と考えられていた。陸軍ではアメリカ
明治維新後、敵国艦隊の襲来に備えて陸軍による海岸防御事業が進められました。欧州から陸軍士官を招へいして指導を仰ぎつつ、重要とされる全国各地の港湾、海峡に堡塁/砲台を設置する計画が立てられましたが、長崎港ならびに港湾内の造船所など重要施設の防御を担うべく立案されたのが「長崎要塞」でした。長崎港は安土桃山時代から内外貿易の要港です。江戸末期には長崎製鉄所が建設されましたが、これがのちに三菱重工業長崎造船所として発展し、大東亜戦争までに軍艦を始めとして数多くの艦船が建造されました。軍港を防御す
[沖縄戦]具志頭陣地壕(クラシンジョウ壕)①監視哨?沖縄県島尻郡八重瀬町具志頭須武座原地内具志頭城跡の琉球石灰岩の岩山、港川に面する側面部分に構築された陣地壕。琉球石灰岩の谷間にある自然壕とそれを拡大構築した壕で構成されている。具志頭城14世紀の中期、琉球王国琉球王国第1王統・第2代尚巴志の三男、具志頭王子が築城したものと伝えられ、以来、代々の具志頭按司の居城だった。代々の具志頭按司は海外貿易で財を成している。北にあるクラシンウジョウ(暗御門)は琉球王国第1王統・第2代尚巴志
たれカツ丼を食べに高崎に行こうとしたらグレが戦跡のにおいがするというので車を停めました!古びたコンクリート製の門柱と、やはり風化が著しいコンクリ製の柵が続いています!調べるとこの一帯はかつて陸軍の火薬製造所だったようだ!これはその当時の境界柵と門柱だ。ここからは立入禁止なので敷地を迂回してみると、群馬の森という大きな公園になってたので、さっそくここでお散歩にしました!憩いの森林公園のような感じだけど、変なオブジェみたいのが転がっている。なんだろうね?くんくクク、ひだりにいってみまし
【沖ノ島戦争遺構群】千葉県房総半島の戦争遺跡続いては沖ノ島。上記写真、館山航空基地の周辺も含めて取材をさせて頂きました。元々は四方が海に囲まれた無人島だった沖ノ島ですが、関東大震災の際の地盤隆起と隣接した同じく無人島の鷹ノ島(現,鷹ノ島公園)が、航空基地建設の為、本土に取り込まれたことによる周辺の海流の変化等、幾つかの要因が重なり現在の様に陸繋島(地続き)になったそうです。※陸繋島(りくけいとう)以前は島だった陸地の事。館山航空基地が完成した昭和5年以降、沖ノ
友ヶ島第二砲台は島の西側、第一砲台の北方200mの海岸低地に築城されました。第二砲台の簡単な履歴は以下の通りです。◆起工:明治27年(1894年)8月21日◆竣工:明治31年(1898年)4月10日◆備砲:加式二十八口径二十七糎加農砲4門(明治31年11月備砲完了)◆設置標高:10m◆廃止:昭和10年3月・全部除籍◆特記:除籍後は二十七糎加農砲を撤去、その後に十二糎速射加農砲2門が設置された(日本築城史より)◆参考リンク:「由良要塞の概略」はこちら→→→※2021年
[2本の素掘り隧道を地下で連結]以前、徳島県小松島市の金磯弁天を祭る弁天山(元、弁天島)を貫通している素掘り隧道について触れたかも知れないが、実は隧道はかつて、もう一本東側にもあった。そして2本の隧道は地下で連結され、H字型横穴壕になる予定だったのだが、連結される直前、終戦となった。昭和19年2月、海軍施設部が地元の建設業者に委託して掘り進めていた。現在残る隧道は入口が高さ、横幅共2m半ほどで全長40mほどだが、海側の出口の径は1.2mほどで隧道自体もやや歪。これは建設業者が雇った技師の
陸軍①[要塞]函館/津軽要塞◆龍飛崎砲台◆大間崎第1砲台①・②・③◆汐首第1砲台◆88式海岸射撃具演習砲台◆御殿山演習砲台88式観測所◆千畳敷砲台①・②・③・④◆砲兵指揮官司令所(戦闘司令所)◆御殿山第2砲台①・②・◆入江山観測所◆御殿山第1砲台◆薬師山砲台(堡塁)◆立待堡塁◆立待電燈◆立待低地観測所◆高龍寺山低地観測所◆穴澗電燈◆穴澗低地観測所◆軍用石橋1号と貯水槽など東京湾要塞◆第二海堡①・②・③・④・⑤・⑥◆◆◆父島要塞◆豊予要塞
遺構探索は陸海軍の砲台・見張所に絞って行っています。◎陸軍…要塞の砲台・堡塁・関連施設、北九州の防空陣地◎海軍…警備隊/防備隊所属の防空砲台・見張所・防備衛所・関連施設◆目次◆~クリックで各ページが別ウインドウで表示されます対馬要塞(明治期/第1期築城)[概略]砲台:[温江*][大平低*][芋崎*][大石浦*]電燈:[芋崎]対馬要塞(明治期/第2期築城)[概略]砲台:[四十八谷*][大平高*][城山*][城山附属*][姫神山*][折瀬ヶ鼻*][尾崎砲台群概略*][郷山
今日は舞鶴湾口西側の半島付け根に築城された建部山(たけべさん)堡塁をレポートします。なお“建部山”は「たけべさん」或いは「たてべやま」と呼ばれているようですが、本ブログの記事では前者の呼び名で書いていきます。地図で場所を確認します。堡塁の履歴です。◆起工:明治32年(1899年)9月1日◆竣工:明治34年(1901年)8月31日◆備砲:十二糎加農砲4門【明治34年12月備砲完了】◆設置標高:313.10m◆廃止:大正8年(1912年)要塞整理にて兵備表より除去→大正15年
[南大東島守備隊]塩屋海岸の水際陣地沖縄県南大東村池之沢塩屋海岸の「塩屋プール」の真上にトーチカが2基?あり、周辺には多くの塹壕がある。トーチカ①海面からの高さは10メートルサンゴ礁石灰岩(古大東石灰岩)に幅2.5m×長さ3mの切れ込みをつくったトーチカ。戦時中は銃眼の上のコンクリートの形状から屋根はあったと思われる。備砲は25ミリ機関砲とされる。屋根が落ちて瓦礫などで砲室が埋まってしまったようだ。上から砲室を見る銃眼の先、切
函館要塞で築造された低地観測所は3か所ですが、立待、穴澗は既に紹介しましたので、今日は3つ目の高龍寺山低地観測所をレポートします。地図で場所を示します。赤色が低地観測所の位置となります。◆起工:明治35年(1902年)9月11日◆竣工:明治35年(1902年)11月10日◆観測所の数:御殿山第一、第二砲台用に各1基函館要塞の概略はこちらをご覧ください→→→立待と穴澗の低地観測所は千畳敷砲台用も設けられたましたが、高龍寺山にはありません。おそらく千畳敷砲台が北側への射撃を
◆参考リンク:「豊予要塞の概略」はこちら→→→大東亜戦争末期の昭和20年(1945年)になると、本土決戦に備えて洞窟陣地を構築し、火砲を移設する作業が各地で行われました。「佐田岬穹窖砲台」もその一つで、鶴見崎第二砲台から移設された三八式十二糎榴弾砲4門を配備する穹窖砲台(洞窟砲台)が構築されました。佐田岬の地図でその場所を示します。佐田岬の先端、灯台下と御籠島に2門ずつ砲台が作られました。現在御籠島の砲台は見学できるように整備されていますが、灯台下の方は外観を見るだけとなりま
厚木空神社深見神社境内摂社靖國社大和天満宮厚木海軍航空基地(厚木飛行場)敷地内には厚木空神社があった。2つあった社殿のうち①302空の英霊(→靖國社)、②天照大神(→南大和天満宮)を祀り、戦後、遷座している。靖國社神奈川県大和市深見3367(深見神社内)深見神社の境内社は靖國社と稲荷社の二社。昭和19年11月8日、厚木航空基地(厚木飛行場)内に、海軍第302航空隊司令の小園安名海軍大佐の指示により、302空所属の殉職将士167柱を祭神とした厚木空神社が創
前回に引き続き萩明倫学舎展示の銃火器を見ていきます。鉄砲と同様に大砲も数多く展示されていますが、明治期の陸軍で使われた大砲の展示は「十五糎臼砲」(15せんちきゅうほう)のみとなります。大砲コーナーです。枠内に詰め込まれてる以外にショーウインドーにも展示されています。「十五糎臼砲」です。明治20年(1887年)に完成した試作品に改修を加え、明治24年(1891年)に制式制定された青銅製の砲身を持つ臼砲です。日清戦争(明治27-28年)、日露戦争(明治37-38年)で使用
◆起工:明治33年(1900年)1月2日(現代本邦築城史による)◆竣工:明治38年(1905年)3月31日(現代本邦築城史による)※『日本築城史』では、起工:明治36年10月、竣工:明治37年8月◆備砲:斯加式30口径12cm速射加農砲6門(明治37年11月備砲完了)◆設置標高:35m◆参考リンク:「由良要塞の概略」はこちら→→→友ヶ島第五砲台は、由良要塞の中で一番最後に竣工した砲台です。射線は西北方向を向いており、中小艦艇に対抗すべく12㎝速射加農砲が配備されました。
淡路島を探索してきましたので、山口県の遺跡紹介をお休みして1ヶ月半ぶりの由良要塞を探訪していきます。なお由良要塞の概略はこちらのリンクから→→→では成ヶ島に築城された3つの砲台を紹介していきます。まずは地図から。成ヶ島(なるがしま)は淡路島の東南端、紀淡海峡に面して浮かぶ島です。北の成山と南の高崎を結ぶ約3㎞の砂州で形成されており、その特徴的な地形から淡路橋立と呼ばれています。なお成ヶ島は無人島ですが渡船が出ているので楽に渡れます。しかも2分で(笑)ただ運航は金・土・日・月曜と
「友ヶ島電燈」は、第三砲台の東南方400mの標高113mに構築されました。電燈所と記載したのがその場所となります。電燈とは夜間に敵艦探知を行う射光機(探照灯)のことです。この射光機が1基と電源供給を行う発電所(電燈機関舎)がセットとなった電燈所が要塞域内の要所に配備されました。由良要塞では、由良地区、友ヶ島地区、深山地区にそれぞれ1つずつ置かれていました。電燈所の履歴です。◆起工:明治34年(1901年)1月8日◆竣工:明治34年(1901年)10月31日◆射光機1基:徑
横須賀に第三海堡の遺構を見に行ってきました。第三海堡は明治に東京湾水深40m以上の場所に石を積み上げて作った大砲台です(アバウトな説明)30年かけて作って、2年後の関東大震災で使用不能(゚ー゚;その後は年中海難事故を引き起こすだけの異物になり、平成12年に解体されますなんというか・・・しょーもないアレです、、、( ̄Д ̄;;海上にあり私達には見る事がない戦争遺構、でも解体された時に横須賀に移籍されました。なぜか二箇所にわけて配置。。一箇所目「うみかぜ公園」猿島が
深山第二砲台は第一砲台の南、標高105m地点に築城されました。第一砲台と同じく28㎝榴弾砲6門と15㎝臼砲4門を持ち、加太瀬戸に侵入せんとする敵艦を撃退する任務を持っていました。第二砲台の履歴です。◆起工:明治25年(1892年)1月18日◆竣工:明治26年(1893年)10月31日◆備砲:28㎝榴弾砲6門、15㎝臼砲4門(明治31年3月備砲完了)◆設置標高:105m/106m◆経過:大正11年度(1922年度)、演習砲台に改築◆廃止:昭和6年(1931年)9月・全部除籍
見取図です。棲息掩蔽部から西側の階段を上がると、目の前に「1番砲座」です。28㎝榴弾砲の砲床です。2門1組の砲座となります。28㎝榴弾砲はコレです。もう何度も載せていますね(^^;レンガ積みの胸墻に伝声管の穴が開いています。砲座内からトンネル方向を見ています。床面も総レンガ張り。ホントにオシャレです(・∀・)砲座間は後方のトンネルで繋がっています。そしてトンネルの下に「砲側庫(弾薬庫)」が2つ並んでいます。「砲側庫(弾薬庫)」の入口は少し奥に設け
◆起工:明治35年(1900年)12月1日◆竣工:明治37年(1905年)2月29日◆備砲:28㎝榴弾砲6門(明治39年5月備砲完了)、31式速射野砲4門◆設置標高:107m◆参考リンク:「由良要塞の概略」はこちら→→→田倉崎堡塁は紀淡海峡前面を射撃の首線として、東南方の沿岸寄りも防御する態勢を整えていました。全域図で確認します。田倉崎堡塁の見取図です。左翼観測所が砲座から離れた配置となっていますので、見取図を1枚に収めようと思うと少々見難くなってしまいますね。
淡路島南東部の由良地区(兵庫県洲本市由良町)には、明治期に築城された数多くの砲台が残っています。これらの砲台は、淡路島~友ヶ島間の由良瀬戸(友ヶ島水道)を通過して大阪湾に侵入せんとする敵艦を撃退することを任務としていましたが、生石山(おいしやま)砲台もそのひとつでした。「由良要塞の概略」はこちら。『由良要塞~概略』明治維新後、敵国艦隊の襲来に備えて、陸軍による海岸防御事業が進められました。欧州から陸軍士官を招へいして指導を仰ぎつつ、重要とされる全国各地の港湾、海峡に堡塁…ameblo.
淡路島の由良地区、友ヶ島地区と見てきましたので、海峡を渡って和歌山県側の砲台をレポートしていきます。まずは全体図を掲載します。和歌山市北西部の紀淡海峡に面した地域に砲台・堡塁が構築されていました。北が深山(みやま)地区、南が加太(かだ)地区となります。今回は「深山第一砲台」を探訪していきますが、まずは砲台の履歴から。◆起工:明治25年(1892年)7月10日◆竣工:明治30年(1897年)9月30日◆備砲:28㎝榴弾砲6門、15㎝臼砲4門◆設置標高:116m/130
久々の由良要塞探訪です。友ヶ島第四砲台は長らく立入禁止でしたが、昨年2022年12月より解禁となりましたのでレポートを掲載します。砲台の履歴は以下の通りです。◆起工:明治23年(1890年)11月29日◆竣工:明治25年(1892年)5月25日◆備砲:二十八糎榴弾砲6門(明治32年12月備砲完了)、十二糎加農砲2門◆砲座設置標高:75m、72m◆廃止:昭和10年(1935年)3月、要塞再整理にて廃止※由良要塞の概略はこちら→→→見取図です。地下弾薬庫から砲座間
今日からしばらくの間、友ヶ島地区に築城された砲台を見ていきます。「友ヶ島」は東の猿島と同様に無人島ですが観光地化されています。なお友ヶ島と言う名前は正式な島の名称ではなく、沖ノ島、虎島、神島、地ノ島の4島の総称で、定期フェリーが就航する観光地の島は「沖ノ島」となります。ちなみに当時の軍の史料を見ると“友ヶ島”ではなく“友島”(もしくは“沖ノ友島”)と記載されていますので“友島第〇砲台”とするのが正式ですが、本ブログでは現在の表記である“友ヶ島”を用いて書いていきます。由良要塞の堡塁