ブログ記事1,786件
昨日紹介した防府北基地の南側に航空自衛隊防府南基地が置かれていますが、この基地の前身は防府海軍通信学校でした。戦後米軍が撮影した空中写真で見るとこのような配置となっています。(国土地理院地図・空中写真閲覧サービスUSA-M122-23を加工して掲載)なお、施設の名称については「甲飛防通会名簿」を参考にしています。それでは簡単に説明していきます。=============================昭和5年(1930年)、無線通信術を教育する海軍通信学校が横須賀
今日は舞鶴湾口西側の半島付け根に築城された建部山(たけべさん)堡塁をレポートします。なお“建部山”は「たけべさん」或いは「たてべやま」と呼ばれているようですが、本ブログの記事では前者の呼び名で書いていきます。地図で場所を確認します。堡塁の履歴です。◆起工:明治32年(1899年)9月1日◆竣工:明治34年(1901年)8月31日◆備砲:十二糎加農砲4門【明治34年12月備砲完了】◆設置標高:313.10m◆廃止:大正8年(1912年)要塞整理にて兵備表より除去→大正15年
(2022年7月15日に全面書き換え)今日から新しいカテゴリーとして導入する「北九州の防空」では、北九州~関門地区に展開した陸軍の防空部隊を取り上げます。ここで言う防空部隊は主に以下の4つとなります。********************************高射砲陣地…高射砲6門編成を基本とする一個高射砲中隊照空陣地…照空灯や聴音機を有する一個中隊および指揮下の一個分隊電測陣地…電波標定機(対空射撃管制レーダー)を有する一個小隊/分隊警戒機陣地…超短波警戒機(対空警戒レー
江田島市飛渡瀬(ひとのせ)地区には海軍の燃料置場がありましたので、大東亜戦争開戦前より機銃砲台が設置されていましたが、戦争末期には、南西方向から呉軍港に侵入せんとする敵機を迎撃すべく高角砲台が構築されました。呉軍港周辺配置図で示すと、左下の「1飛渡瀬」と「2飛渡瀬」の2つとなります。飛渡瀬地区に配備された防空施設は以下の通りです。******************************************飛渡瀬機銃砲台・・・昭和16年11月~/40㎜連装機銃1基(末期には
明治維新後、敵国艦隊の襲来に備えて、陸軍による海岸防御事業が進められました。欧州から陸軍士官を招へいして指導を仰ぎつつ、重要とされる全国各地の港湾、海峡に堡塁/砲台を設置する計画が立てられましたが、紀淡海峡を閉塞して大阪湾への敵艦の侵入を防ぐべく立案されたのが「由良要塞」でした。地図で場所を示します。紀淡海峡は、和歌山県北西部の田倉崎と淡路島の生石鼻の間の海峡で、その幅は約11㎞です。海峡内には友ヶ島4島(沖ノ島、虎島、神島、地ノ島)が浮かんでいますが、ほぼ中央に浮かぶ沖ノ島~淡路島
山口市上宇野令に陸上自衛隊山口駐屯地(第17普通科連隊基幹)がありますが、元々この場所は大日本帝国陸軍歩兵第42連隊の屯営地でした。大正6年(1917年)の歩兵第42連隊兵営全景です。(山口歩兵第四十二聯隊史より)**************************************では連隊の歴史を簡単に紹介します。明治29年(1896年)12月1日歩兵42連隊、広島で創設(本部、第1大隊編成)明治30年(1897年)8月8日広島仮兵舎から山口の兵営に行軍移
相模線寒川駅にきましたよ!きょうは1984年に廃線になった相模線西寒川支線の廃線跡を歩きますよ!さっそく205系500番代がやってきました!僕の知ってる相模線は非電化ローカル線なので浦島太郎状態だ!グレの前を列車が通過していきます。あれ?でもこのシーン見覚えあるぞ!1978-81年頃にかけて、当時中高生だったグレパパは、しばしば気動車の撮影に来たもんでした!これはカーブの感じ、高圧鉄塔の位置から、ほぼ同じ場所の撮影だと思います!それにしてもベッドタウン化で周辺の環境
防府市南部、三田尻沖を望む江泊山(えどまりやま)の麓に、特攻艦隊留魂碑が建立されています。まずは「特攻艦隊」について説明します。=====================大東亜戦争末期の昭和20年(1945年)4月1日、米軍が沖縄本島への上陸を開始しました。日本軍は沖縄防衛のため天一号作戦を展開、陸海軍機による特攻攻撃を行うとともに、戦艦大和以下海軍残存艦艇を用いた海上特攻も立案され実行に移されました。この艦隊がいわゆる「特攻艦隊」となります。艦隊の編成は以下の通りです。第
先日、4年ぶりに小呂島を再訪しましたので砲台の記事を書き直します。小呂島(おろのしま)は玄界灘に浮かぶ福岡県西区に属する島で、姪浜渡船場から北西約40㎞の位置にあります。150人ほどが住む有人島ですが、戦時中この島には陸軍の砲台と海軍の防備衛所が置かれていました。壱岐要塞の砲台位置図で場所を確認します。島に渡るには福岡市の姪浜渡船場から市営渡船に乗船して65分の船旅となります。日帰りできるのは火、木、土、日で、往路は姪浜・午前9時発、復路は小呂島・午後1時20分発の一便のみです
※2022年9月23日に書き換えました。===========================明治維新後、敵国艦隊の襲来に備えて陸軍による海岸防御事業が進められました。欧州から陸軍士官を招へいして指導を仰ぎつつ、重要とされる全国各地の港湾、海峡に堡塁/砲台を設置する計画が立てられましたが、下関海峡(関門海峡)の防御を担うべく立案されたのが「下関要塞」でした。山口県西部の「下関」(当時は“関”の旧字体“關”を使い、“下關”もしくは“下ノ關”と表記)は本州の西の端に位置しています。(※