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山口県には人間魚雷「回天」の基地が大津島、光、平生の3ヶ所に置かれましたが、光基地は光海軍工廠の敷地内に建設されました。回天基地の遺構は残っていませんが、現地には回天の碑が建てられています。「回天」の概略は大津島の記事をご覧下さい。『山口県の戦争遺跡131~回天の島(周南市大津島)その1(概略)』大津島(おおづしま)は徳山港の南西約10㎞に浮かぶ島ですが、戦時中に人間魚雷「回天」の訓練基地が置かれたことで全国的にも知名度が高い離島です。島内には基地時代…ameblo.jp大東
4年ぶりに再訪した小呂島ですが、一番の目的は電燈所を探すことでした。電燈所は射光機(探照灯、サーチライト)による夜間時の警戒と加農砲の射撃補助が任務でした。要塞砲台に付属設備として構築され、小呂島にも砲台北方島端高地に設けられたことが史料に書かれています。地図で確認します。電燈所の正確な場所は不明ですが、「砲台北方島端高地」は北端にある標高44mピーク以外に考えられませんので、砲台から北に向けて伸びる交通路を辿ってみました。途中から激ヤブになり道をロストする場面もありましたが、
竹崎砲台の記事は2021年1月に書きましたが、先日4年ぶりに訪問してきましたので記事の書き直しを行います。砲台は藪と破壊で見どころが少ないのですが、今回は砲台前方に置かれた電燈所の遺構の有無を調べるため再訪しました。*********************竹崎砲台は昭和期に永久築城された対馬要塞10砲台の一つで、対馬中部東岸の沖ノ島に昭和13年(1938)9月に構築されました。砲台地図で場所を確認します。簡単な履歴は以下の通りです。◆起工:昭和12年(1937)5月
探索日2011/01/23国鉄高砂線から分岐し、旧日本陸軍加古川(尾上)飛行場へのびる予定やった軍用線※飛行場跡はオーミケンシ加古川工場になっている高砂線との分岐点左の道路が高砂線跡加古川飛行場線は右へ分かれて行く柵で囲まれた専用線予定地右へカーブしていく線路用地複線分の幅がある山陽電気鉄道本線を5000系電車が通過山陽本線加古川駅は写真右側にあるこの配線やと、加古川駅へ進入するためには、スイッチバックする必要がある高砂線から分岐する専用線群と同様、
長崎県諫早市北部の山中に坂本少佐慰霊碑が建立されております。場所は非常に分かりにくく、市役所に直接問い合わせを行い、資料を頂いて現地に向かいました。言葉では説明しきれないので、頂いた資料のスクリーンショットをご参照下さい。そもそも坂本少佐とは?B29撃墜とは?について、諫早市HPに詳細が掲載されておりますので、そちらをご紹介致します。坂本中尉機とボーイングB29~『坂本中尉機とボーイングB29』-諫早ロータリークラブ卓話(昭和60年7月26日)より-~犬尾博
明治維新後、敵国艦隊の襲来に備えて陸軍による海岸防御事業が進められました。欧州から陸軍士官を招へいして指導を仰ぎつつ、重要とされる全国各地の港湾、海峡に堡塁/砲台を設置する計画が立てられましたが、本土と北海道の交通拠点である函館港の防御を担うべく立案されたのが「函館要塞」でした。函館港は北海道南西部の太平洋と日本海を結ぶ津軽海峡に面した天然の良港です。巴の形をした函館湾の奥に位置していることから「巴港」とも呼ばれています。ちなみに「巴賞」と言う中央競馬のレース名はココから取られています。(
うるま市字天願を流れる天願川の近くに旧天願橋と呼ばれる遺構があります。天願川に掛かる茶本根橋という橋を渡って対岸へ行くと木々が覆う窪地みたいな場所があります。砂利道のY字路の先に旧天願橋があります。Y字路の先から見たところ。旧天願橋は橋脚の辺りから中央に折れています。これは老朽化して壊れたのでは無く、戦時中に日本軍によって破壊されたのがそのまま残っている姿です。北側から見るとこんな感じです。橋の上は草が覆っています。橋を上から見たところ。ここは立ち入りは禁止されています。南側から見た
堡塁全体図です。今日は赤丸の所から進んでいきます。大きく拡大。4連掩蔽部の左側を進むと砲側庫③が現れます。砲側庫③を見るのは後回しにして左に回り込むと砲台長位置があります。砲側庫③の裏側、3番砲座の横墻裏に位置しています。以前紹介した金岬砲台にも同様の円形遺構がありましたね。砲台長位置のさらに左側に側防砲座が位置しています。中央に盛られた小山の周囲をぐるりと歩けますが、谷側には横墻を配した砲座のような物が作られています。砲座。敵兵が谷を駆け上がってきた
今日は舞鶴軍港東側に設けられた吉坂(きっさか)堡塁をレポートします。右端に離れて位置しているのが吉坂堡塁となります。堡塁の履歴です。◆起工:明治33年(1900年)7月20日◆竣工:明治35年(1902年)11月20日◆備砲(本堡塁):克式十二糎加農砲2門、十二糎加農砲4門、九糎臼砲6門◆備砲(付属堡塁):十二糎加農砲2門◆備砲完了時期:明治35年(1902年)7月◆設置標高:(本堡塁)240m、(付属堡塁)184m◆廃止:大正8年(1919年)要塞整理にて兵備
私の軍跡探索の中心は山の中や島嶼部にある砲台/見張所ですが、5月~9月は遺構が草木に覆われるため探索はシーズンオフとなりますので、この期間は「山口県の戦争遺跡」を紹介していきます。なおこのカテゴリーで扱う戦争遺跡とは、山口県下に残る軍関係の施設(砲台/見張所は別カテゴリーで紹介)、忠魂碑を除く日清戦争以降の記念碑や銅像および関連物、記念館/博物館の展示物などが対象となります。それでは昨年11月以来となる「山口県の戦争遺跡」カテゴリー再開の一発目は、萩市の椿八幡宮に奉納されている日本海海戦
光海軍工廠は光市の光井・島田地区に建設された国内7番目の海軍工廠で、大東亜戦争開戦前年の昭和15年(1940年)10月1日に開庁しました。海軍の兵器工場として、砲煩、水雷、製鋼、爆弾、造機、航空機用魚雷の生産が戦時中においても着実に行われていきましたが、終戦前日の昭和20年(1945)8月14日、米軍の空襲によって施設の7割が壊滅し、700人以上が犠牲となりました。場所を地図で示します。茶臼山から見た光海軍工廠跡地です。戦後跡地には日鉄ステンレスや武田薬品などの工場が建設されました
◆名称:金比羅山堡塁(史料によっては金毘羅山堡塁)◆起工:明治23年(1890年)6月1日◆竣工:明治26年(1893年)4月30日◆備砲:十二糎加農砲4門、二十八糎榴弾砲8門、機関砲4門◆設置標高:64m◆経過:・大正8年備砲を28㎝榴弾砲4門のみとする・昭和10年一部除籍も、終戦まで演習砲台として残置◆参考リンク:「下関要塞の概略(明治期)」はこちら→→→金比羅山堡塁は下関市街地西方の海岸沿いに構築され、海上に向けて敵艦を射撃するとともに、北方の安岡海岸から上
その2では赤丸の所からスタートします。今回紹介する箇所を切り出してみた(・∀・)堡塁入口です。両側の石壁には門扉の留め具?が残っています。入場~♪左手に建物基礎があります。史料にある吉坂堡塁防御営造物明細の中から、炸薬填実所、装薬調整所がこの基礎にあたるのではないかと推測しました。堡塁出入口を挟んで両側に土塁に上がる階段があります。どうやら土塁上は射垜になっているようですね。写真左側の階段を上がってみた。左が谷側ですが射垜かなぁ?(・_・;)階段
<地下のように見える巨大壕と多面監視窓の壕>先月、海軍呉鎮守府跡の海上自衛隊・呉地方総監部が、予約なしで敷地の呉鎮守府電話総合交換所壕を公開していたので、日帰りで行ってきた。雨天だったが、予定より早く到着したため、駐車したアレイからすこじま駐車場近くにある串山防空監視哨跡も見学してきた。尚、電話総合交換所を「地下壕」だとか、串山防空監視哨のことを「串山トーチカ」と呼ぶ者もいるが、いずれも誤りで、機能的に異なる。前者は丘陵の突端を竪に掘り崩した後、かまぼこ型の巨大なコンクリート壕を築造し、
しばらく中断しておりました「大東亜戦争ダークツーリズム長崎県編」を今回より再開したい思います。長崎県内の戦争遺跡探検は何度も行っておりまして、今回からご紹介するものは、2015年9月にシルバーウィークという五連休がございまして、その休みを利用して訪れた時のものからご紹介致します。今回ご紹介する所はあの世界遺産「軍艦島」のある長崎市南部に向かう途中の長崎市伊王島町地区というにある伊王島という島でして、ここにかつて陸軍部隊が置かれていましたので、その痕跡を探しました。そもそもこの島
その2では基地北部の誘導路地区を見に行きますが、基地は築上町、誘導路は行橋市に位置しています。誘導路とは航空機がエプロンと滑走路間を移動するために設けられた通路ですが、誘導路沿いには航空機を格納して空襲から守る有蓋・無蓋の掩体壕が多数構築されていました。史料に記載の掩体数は「中型有蓋4・無蓋20、小型有蓋8・無蓋20、隠蔽170」ですが、今回の探索では有蓋掩体3基の現存を確認しました。なお行橋市によると無蓋掩体も残っているようですが、無蓋はコの字型に土塁を配した形で造られていましたので、
遺構探索は陸海軍の砲台・見張所に絞って行っています。◎陸軍…要塞の砲台・堡塁・関連施設、北九州の防空陣地◎海軍…警備隊/防備隊所属の防空砲台・見張所・防備衛所・関連施設◆目次◆~クリックで各ページが別ウインドウで表示されます下関要塞(明治/大正期)[概略]砲台:[田ノ首*][筋山*][老ノ山*][田向山*][笹尾山*][古城山*][門司×]火ノ山砲台*:[概略][第一][第二][第三][第四][補助施設][低観測所]堡塁:[戦場ヶ野×][一里山×][金比羅山×][龍司山*]
大須山防空砲台は、江田島市の大須地区に築かれました。地図で場所を確認します。簡単な履歴は以下の通りです。(呉海軍警備隊戦時日誌、引渡目録等より)◆竣工:昭和17年(1942年)7月◆所属:呉海軍警備隊第四砲台群◆高角砲:89式12.7㎝連装高角砲4門(2基)~砲座3基に対し高角砲2基配備◆照聴装備:150㎝探照灯2基、仮称ヱ式空中聴音機2基◆照聴施設:砲座の前方両翼に第一聴測照射所、第二聴測照射所を配置し、各々に探照灯と聴音機を1基ずつ配備◆3つ目の照聴施設:砲台南部に聴測
今日は高知県南国市に残る高知海軍航空基地の遺構を見に行きます。中四国九州の飛行場地図で場所を確認します。地図には今後レポートする予定の飛行場を書き込んでいますが、すべての紹介を終えるのはいつになることやら(^^;***********************************それでは、高知海軍航空基地の歴史を簡単に説明します。昭和16年(1941)1月、旧香美郡三島村(かみぐんみしまむら)に海軍の飛行場を建設することが決まり、旧三島村の7割に当たる面積が強制的に接
今日は、昨日の防府海軍通信学校の記事に関連した記念碑を紹介します。記念碑は防府市松崎町の防府天満宮に置かれていますが、防府市の遺構地図で場所を確認します。防府天満宮の楼門。防府天満宮は学問の神様として崇められる菅原道真公を祀る神社です。道真公は宮中の権力争いで失脚して福岡の太宰府に左遷されましたが、その道中に国府が置かれた防府の地に滞在しました。その後大宰府に渡った道真公は903年に亡くなりましたが、薨去されたその日、防府の空では五色の光が射し人々を驚かせました。国司や住民た
後編では赤丸のところから北に進んでいきます。激ヤブをくぐり抜けると、左手に石壁が見えてきました。石壁は砲側庫③の壁でした。入口を覗き込むと前室そして奥に弾室があります。弾室入口は右手にずらして設けられていますが、軽砲加農の砲側庫でよく見かける構造ですね。この窓も前半で見た弾薬庫の窓とそっくりなので灯り置きなのでしょうね。内部は丸っこいです。奥から入口を見ています。砲側庫③の右壁の即用弾丸置場の凹みを見ながら回り込むと、、、2番砲座があります。スロープ
本堡塁の探索が終わったので、今日は付属堡塁に向かいます。場所はこちら。「その1」にも書きましたが、吉坂堡塁の施設は2か所に分けて設けられ、標高245mに本堡塁、その南の標高180m付近に付属堡塁が置かれました。おそらく付属堡塁は本堡塁の射撃の死角をカバーするために設けられたのでしょうね。付属堡塁には移動式の十二糎加農砲が2門配備されたと考えています。通常の十二加ではなく固定式の「克式十二糎加農砲」とする史料が残っていますが、この件については「その3」でああだこうだ考察しましたの
1ヶ月ぶりのブログ更新となる今回は、築城(ついき)海軍航空基地を紹介します。築城基地は福岡県東部に位置していますが、築城の分遣隊だった宮崎県の富高基地にも黄色で色付けしました。福岡県築上郡八津田村(現・築上町(ちくじょうまち))に飛行場の建設が開始されたのは昭和14年(1939)12月でした。2年後には大東亜戦争が勃発しましたが、昭和17年(1942)6月のミッドウェー海戦の大敗で多くの熟練搭乗員を失ったため、搭乗員養成が急務となりました。そこで築城飛行場は練成基地として運用されるこ
今回からしばらく、八幡製鉄所周辺に配備された高射砲陣地を見ていきます。響灘と洞海湾に挟まれた若松半島は八幡製鉄所の北部にあることから、多くの高射砲陣地と照空陣地が設置されていました。現在の行政区画では北九州市若松区ですが、この場所は若松半島を縦断する玄海遊歩道沿いに位置していますので、非常に登山者が多い場所となっています。そんな登山道沿いではありますが、遺構はそこそこ残っていますので戦績好きは楽しみながら歩くことができます。場所はこちらのリンクをご覧ください。『北九州の防空①~
前回に引き続き今回も2年前の記事を書き直していきます。矢筈山堡塁は北九州門司区大里に聳える矢筈山(標高266m)の山頂部に築城されました。現在は北九州市のキャンプ場になっていますが、当時の遺構を取り入れた造りとなっていますので、破壊の多い下関要塞砲台群の中では非常に良好な状態であり見応えがあります。堡塁の簡単な履歴です。◆起工:明治28年(1895年)8月21日◆竣工:明治31年(1898年)3月31日◆備砲:9㎝加農砲4門、15cm臼砲4門、機関砲2門◆設置標高:25
北九州市門司区に聳える風師山(標高362m、かざしやま)は、風師岩頭(かざしがしら、風頭とも呼ばれる)、風師山、風師南峰の3つの峰からなり、中でも風師岩頭は関門海峡を見渡せる絶景スポットとなっていますが、昭和期の陸軍はこの山に高射砲陣地を置いていました。昭和19年半ばの北九州の防空地図で場所を確認します。風師山高射砲陣地は矢印の所にありました。(下関の火ノ山から撮影)大東亜戦争開戦時、風師山には七糎高射砲を有する防空第23連隊第1大隊第1中隊の高射砲中隊と照空灯や空中聴音機を有
前回はこちら鬱蒼と生い茂る緑大久野島は一般車両の通行ができないのですがサイクリングを楽しめる様に山の中でも道が舗装されています。それでも人に会う事がほとんどなくて周りの景色を楽しみながらのんびり散策。やたらシダ類が多いです。途中誰もいないと思ったら前から高校生達がやってきて道を訊ねられました。どうやら山に入ったものの迷ってたらしいwみ、見た事がある…!遂に中部砲台跡に到着。看板に従い歩を進めていくと、そこには見た事がある光景が広がっていた…!リアル棲息掩蔽部何度も見た事があ
奄美大島要塞の砲台建設地は安脚場、皆津崎、実久(江仁屋離島含む)、西古見の4地区ですが、今日から西古見(にしこみ)地区の砲台遺構をレポートしていきます。奄美大島要塞の配備図で場所を確認します。西古見地区は奄美大島南西端に位置しており、大島海峡西口から侵入せんとする敵艦を撃退する目的で2つの砲台の建設が計画されました。大正10年(1921年)9月に榴弾砲配備の第一砲台、12月には加農砲配備の第二砲台が着工しましたが、翌大正11年2月に成立したワシントン軍縮条約により太平洋上の島嶼にお
薬師山砲台は、函館山最高峰の御殿山ピーク(標高334m)から北東にやや下がった標高250m付近に位置しています。地図で場所を示します。なお矢印は射撃の首線となります。御殿山第一、第二および千畳敷砲台が湾内~津軽海峡に向けての海上射撃を行う海正面砲台だったのに対し、薬師山砲台の射撃の首線は後方にあり、函館港内および地峡に広がる函館市街地に敵が侵入した際にはこれを射撃し撃退することが任務でした。陸正面防御の要素が強いので砲台と言うよりは堡塁と呼んだ方がしっくり来ますが、実際史料には「薬師
[逓信省/奄美大島]赤尾木無線送受信所鹿児島県大島郡龍郷町赤尾木昭和13年11月に開設された赤尾木無線送受信所の無線塔。昭和18年頃、長雲峠に陸軍通信隊が設置されこの無線塔は軍事用としても使われた。奄美郷土研究会報第40号によれば、赤尾木無線送受信所は南に送信所、1キロ離れた北に受信所が設置されていた。往時は受信用無線棟が5基・送信用無線棟が5基あった。塔の高さは30メートル(送信)と25メートル(受信)。塔の高さが違うのは立地問題(標高差)か?*赤尾木無線送受信所黄