ブログ記事437件
松平元康は、今川から独立するに際して、徳川家康に改名しました。徳川は、新田氏の一族の得川氏から。今川義元の元を捨て、家をもってきた。俺は八幡太郎義家の子孫だ、足利の一族の将軍家や今川家が「義」なら、こっちは「家」でいくぞ、という意志表示と取って、まあハズレではないと思われます。ただ、家康は十数人いた息子の誰にも「家」の字を継がせていません。長男は信康、次男が秀康、三男(嫡男)が秀忠、四男が忠吉・・・。家康の父は広忠、祖父は清康。松平家の通字は「忠」か「康」であって、最初のうちは子供にもこのど
昨日は土曜日でしたが、おうちには誰もいませんでした受験生改めJK→模試剣道girl→大会(先輩の応援)ダンナ→独国へ出張てな訳で、会期終了間近のこちらを見に行ってきました。こちらです。駐車場から歩くと看板があります。岡崎市美術博物館岡崎市には3つの美術館がありますが、こちらははじめましてです。岡崎市中央公園内にあります。張り切って早めに来たのに、開館は10時からだった10時になるまで公園内にて時間を潰すことに。こんなモニュメントを横切り、野球場も横切り(高校野球、予選大
徳川将軍家に、公人朝夕人(くにんちょうじゃくにん)という、十人扶持の役人がいた。土田(しだ)家という。『子連れ狼』の公儀介錯人、拝一刀を思わせるが、この一族、何をする家柄だったのか。江戸時代の将軍や大名の正装は、ひとりでは着付けができないし、一度着たらひとりでは絶対に直せない。実に厄介な代物だった。かといって、土田家はもちろん公儀着付け人などではない。(そんな役人はいない)。『忠臣蔵』の松の廊下で浅野内匠頭がはいていた長
金沢城は加賀百万石を治めた前田家の居城であり、金沢市の中でも主要な観光地の一つとなっている。この金沢城、規模は東西約700メートル、南北約700メートルに及び、明治時代初期までは壮大な二の丸御殿をはじめ多くの櫓や長屋が立ち並んで、百万石の威容を誇っていた。ところが、明治維新後に兵部省に接収された金沢城は、陸軍の司令部や兵舎に転用され、明治十四年(1881)に火災で石川門・三十間長屋などのごく一部を除いて、ほとんどの建物が焼失してしまった。そこで、平成十一年(1999)から石川県による櫓・長