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ご縁があって愛知県岡崎市に鎮座し徳川将軍家の菩提寺としても名高い大樹寺に行ってきた家康の遺訓『人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し急ぐべらかず不自由を常と思えば不足なし』人の一生というものは重い荷物を背負って遠い道を行くようなものだ一歩一歩ゆっくり歩み不自由が当たり前と考えれば不満は生じないこの言葉が少しイライラしていたリーラの胸に深く刺さった生きていれば不満も出てくる自由を求めれば求めるほど不自由なことも起こるが拒否せず「そうなんだね」と
姥湯(うばゆ)温泉桝形(ますがた)屋で日本酒「東光」を思う存分味わって、目覚めた心地良い朝……あれだけお酒を飲んだのに、ほとんど体に残っていないし、ちゃんとブログの記事も更新できています。朝の8時ぐらいに、お店の方が一つ一つの部屋を回って、朝食ができたことを知らせてくださいました。Hさんと一緒に、朝食が準備されている大広間に行くと……豪華な朝食が、盛りつけられていました。お米が美味しくて、おかわりを2回もしてしまいました。今日の行き先は、
令和6年8月10日(土)大安寺から帯解寺へ向かう。大安寺から徒歩で京終駅(きょうばてえき)に向かう。徒歩約20〜25分程。暑い時間帯。汗だく。京終駅に着いて水分補給する。〈JR万葉まほろば線京終駅〉駅ピアノがある駅。2両編成ワンマン運転車両。ICOCAでの乗り降りは利便性が良くできている。京終駅から帯解駅へ。帯解駅から徒歩5分足らずで帯解寺に到着する。〈帯解寺〉山門。本堂。本尊地蔵菩薩半跏像受付所。朱印所。授与所。3種類の腹帯が販売されている。他にも安産・
太鼓橋を渡り上段は妙義神社本殿へと続く、男坂165段の参道石段を登ります登っても、登っても、なかなか辿りつかない途中、数回休憩しながらのんびり進みなんとか髄神門の前に到着思わず振り返る髄神門を潜り神域へ更なる上段部、石垣と袖廻廊そのまま左奥へ進むと妙義山の登山コース(中間道方面)へ続くそうだ社殿前の富岡市街地だろうか正面唐門、最後の石段を妙義神社社殿前へ妙義神社は、にある群馬県富岡市妙義町にある神社上毛三山の一つ妙義山の東麓に位置し妙義山信仰の中心
2024年5月23日、京浜東北線浜松町駅で下車し、増上寺へ行ってきた😊後ろに見えるのは東京タワー!斜め横から見ると良い感じ!😊浅草寺&スカイツリーのコラボに匹敵!「ぞうじょうじ」、と読むみたい浅草寺(せんそうじ)同様、お寺だから音読みなんだね!😊車道に一つ目の門があるよこちらが入り口にある立派な大門三解脱門(三門)と呼ぶらしい徳川将軍家との深いゆかりを持つ増上寺1590年、家康公が当時の住職に深く帰依したため、徳川家の菩提寺となる。菩提寺とは、先祖代々のお墓があるお寺の事と
名称:小山御殿城郭:平城築城年:1622年築城主:徳川将軍家主要城主:徳川将軍家所在地:小山市中央町1指定文化財:国史跡御殿跡復元図絵図小山評定
浜離宮恩賜庭園に行ってきました。桜も満開でお花見を楽しみました🌸徳川将軍家の庭園4つの再建された御茶屋があります。将軍たちは御茶屋で賓客と景色を楽しみながら過ごしたのでしょう。鷹狩りの休憩所にもなっていたそうです。きれいな杉の木など使われています。網代の天井もいいですね。立派なお部屋。燕の釘隠しが洒落ている。欄間が素敵。天井は杉。大きな池。樹齢300年の松。江戸の潮風そよぐ浜御殿。都会のオアシスでした🌸かふぇるな🌙
早春の浜離宮恩賜庭園に行った(写真=大手門入り口より)。超高層ビルに囲まれたオアシスに黄色の菜の花周囲を林立する超高層ビルに囲まれ、そこでポッカリと空いた空間のような、さほど規模の大きくない庭園だが、早い春のあふれるほどの陽光に、鮮やかな黄色の菜の花が綺麗だった(写真=背景の超高層ビル群に注意。大都会の中のオアシスであることが分かる)。浜離宮庭園は、徳川将軍家の庭園として著名だ。前記のように周囲を超高層ビル群に取り囲まれているが、よく整備され、静謐で落ち着
雷桜2010年10月22日公開徳川将軍家に生まれた男と村の娘との運命の出会いと身分違いの恋を切なく描く恋愛時代劇。あらすじ愛する人と結ばれることが許されなかった時代。運命に挑み、愛を貫いた二人。徳川家に生まれた斉道は、孤独で退屈な日々を送っていた。ある晩、家臣の瀬田助次郎が語った「私の故郷・瀬田村には天狗がいる」という話に興味を持った斉道は、瀬田村へと向かう。一方、瀬田村で生まれ育った雷は、父・理衛門と二人きりで自由奔放に暮らしていた。山が乱されないよう、雷は山に入った村人を脅
東京タワーの周りをぐるり◆増上寺徳川将軍家墓所龍にもご挨拶霊廟は増上寺の左右(プリンスホテル)に並んでいたと思うとこの場所がものすごいパワーに満ち溢れていて・・・門をくぐるとおぉ〜!っと感動すること間違いなし時間が許されるならもっともっとゆっくりと境内を散策したい・・・浪花家総本店でたい焼きを買って帰りたかったのですが1時間かかるとのことで諦めました回る順番を失敗したなぁ〜前回タイミングよくお土産と食べ歩き用に焼きたてが買えましたそういえば冬じゃなか
2023年10月23日西武線沿線の御府内八十八ヶ所霊場の札打ちの続きです沼袋の密蔵院から徒歩12分程の場所にある江古田の東福寺へ移動します🏃🏃🏃東福寺の寺号標と山門六地蔵巡拝成満記念碑四国八十八ヶ所霊場西国三十三所霊場坂東三十三観音霊場秩父三十四観音霊場の満願の碑ですね!大蔵院不動尊鐘楼堂興教大師像と徳川将軍御膳所跡の碑江戸時代、徳川将軍は鷹狩りの為に江戸郊外のこの地を度々訪れており、当寺は御膳所に充てられていましたかつては本堂に御成の間という部屋が残っていましたが
こんばんは、ともです。長くなりましたが、これで最後です。増上寺目的地の増上寺まで、あともう少しです。途中休憩をしていないので、お腹も空きました。ようやく増上寺に到着しました。愛宕神社を11時35分に出発して、11時50分ごろに到着です。増上寺大本山増上寺徳川将軍家とのゆかりの深い、大本山増上寺の公式サイト。東京、芝にある増上寺は、600年の歴史をもち、徳川家康公ゆかりの秘仏「黒本尊」を祀る「勝運」のお寺として親しまれています。www.zojoji.or.jp東京タワーと大殿
11月としては暑すぎる数日。夏日が続くが、暦は残りふた月を切った習慣のように見ている大河ドラマ『どうする家康』も、あっという間に関ヶ原の合戦を迎え、駆け足で徳川の世がやって来る番組開始から、ゆっくりとしたペースでストーリーが進み、瀬名(築山殿)自害までかなり時間がかかった。築山殿のえがかれ方も、歴史上の諸説とは異なったものになっていたし、我々が知る歴史上の事件や争いは駆け足で終わったような気がしているたくさんいた家康の側室の中で、個性的だった阿茶局。大河ドラマの中でも、その異彩
以前、岡崎市本宿町の法蔵寺へ行ったことを書きましたが、法蔵寺のあと、そこからすぐ近くの旧代官屋敷跡へ行きました。法蔵寺の前は旧東海道であり、街道風の道が続くんですが、西へ100mくらい行ったところに本宿旧代官屋敷という看板があったので、行ってみました。でも、ここはレストラン?あら、すてきなお店。ユギーノ・ユーゴ?イタリアンレストランなんでしょうね。お倉を資料館として展示しているんですね。旧代官屋敷をリフォームして、きれいにして、展示しているんですね。病
💠東叡山寛永寺💠@kaneiji_tokyo_ueno🍃📍東京都台東区上野桜木1-14-11御朱印⭐️徳川切り絵御朱印⭐️三光鳥と朝顔の御朱印です。🔎三光鳥とは………🕊鳴き声から来ているようで「ツキ"月"」「ヒー"日"」「ホシ"星"」と聴こえることから三つの光の鳥と書き、『三光鳥』と呼ばれているそうなぁ💬🔖徳川将軍家ゆかりのお寺徳川家康、秀忠、家光の三代にわたる将軍に崇敬された天海大僧正が創建。6名の将軍が眠る徳川将軍家の菩薩寺御朱印はこちらの根本中
安城市の北京本店でお腹いっぱいになった後は腹ごなしの為に岡崎市までお出掛け目的地は、大樹寺成道山松安院大樹寺/DAIJUJIdaijuji.jp駐車場は有料🅿️コチラの山門からは、岡崎城が望めます🏯ビスタラインというのです国の重要文化財だそうです。松平家、徳川将軍家の墓所なので、どうする家康のポスターも貼ってあります。大河ドラマに乗っかりますね三代将軍家光の乳母の春日局の念持仏があります。松平家の墓所は一般の方の奥にありました。家康さんのお墓。家康公のお墓って色ん
浄土宗の総本山、知恩院金澤成保京都円山公園の北隣、東山華頂山の麓に、浄土宗の総本山である知恩院の堂塔が構えている(庭園拝観料共通券500円)。将軍家から庶民まで、広く信仰を集めていた寺院であり、大晦日の除夜の鐘で全国的に知られている。法然ゆかりの地に営まれた草庵が始まりだが、現在の大伽藍を建立したのは徳川将軍家であった。全国制覇を果たした江戸幕府の威信にかけて、当院の造営に力を入れたであろうことは、7万3000坪といわれる広大な境内と荘厳な建造物に見ることができる。知恩
7月5日の甲子の日不忍池弁天堂と大黒天堂を詣でた次は寛永寺に…その前にちょっと気になる場所が有ったので、寄り道しました天海僧正の毛髪塔寛永20年(1643年)10月2日に寛永寺塔頭の本覚院にて108才で示寂遺命により日光山に葬られ、この地(旧本覚院跡)に供養塔が建てられました後に毛髪を納めた塔も建てられ、毛髪塔と呼ばれる様になりました毛髪塔の案内板江戸時代の平均寿命って40才くらいだよね?天海僧正は108才なんて化物だよ〜😱😱しかし、毛髪塔って…お坊さんに毛髪有るの?何ミ
6月29日芝大神宮の目の前は芝増上寺暑かったけどせっかくここまで来たのですから増上寺お参りイイ天気☀️〜暑い〜日陰日陰増上寺本堂現在お参りできません芝増上寺外国人多かったです皆さん東京タワー🗼と増上寺の写真撮ってました昭和生まれの私にはやっぱり東京タワー何回上ったかな〜一回階段で上りましたこちら安国殿でお参りせっかく来たので徳川将軍家墓所を見ました入園料500円記念品ミニクリアファイルいただきましたお墓は何か映ると困るので撮りません家
岡崎伊賀八幡宮に参拝徳川将軍家累代祈願所の御朱印を授かりました。
徳川将軍家ゆかりの上野・寛永寺根本中堂で初の限定切り絵御朱印「徳川御朱印」の授与が開始されました✨ゴールド✨キラキラしてます数量限定なので、なくなり次第終了だそうです我が家もゲットしましたよ〜
本證寺から東岡崎に戻り、次の目的地の伊賀八幡宮を目指します。東岡崎駅から、バスで10分くらいで到着。結構長い参道です。神橋からの随身門(国宝)さざれ石拝所拝殿伊賀八幡宮由緒文明2年(1470年)に、松平氏4代当主とも伝えられる松平親忠が松平氏の氏神として創建したことに始まる。その後、9代目当主として誕生したのが、徳川家康公で、その徳川家の祖が氏神と仰ぐ名社と言える。三代将軍家光公の時代には、先祖伝来の守護神となる当社に祖父となる東照大権現を合祀して
こんばんは~港区散策の続きです。芝公園を出て、ようやく増上寺に向かいました。芝公園から戻ってくると、まず迎えてくれるのは「黒門」↓この感じ好き緑が映えています。三門が見えてきました。当初、芝公園(古墳・東照宮など含む)は1時間くらいの予定でしたが。30分オーバーして、ようやくこの門まで戻ってきましたただいま~増上寺は浄土宗のお寺です。いよいよ門をくぐります大きな樹がそびえている。その向こうに、本堂である「大殿」と、東京タワー外国人に人気の景色だろうな。日本人でもち
徳川将軍家から篤く信仰されていたー善光寺へ〜高校の修学旅行以来だわー昔過ぎて何も覚えていない〜周辺にはオシャレなお店もたくさんあり散策も楽しー😸😸😸盗難に遭った「びんずる尊者像」も帰って見えました〜そばはたくさん食べたのでとんかつ🐖🐖🐖『かつ蔵』〜豚肉の種類がたくさんある〜『大和豚厚切りロースカツ』〜注文してから揚げるので時間がかかるんだってーそんでもって肉も厚いからさらに時間がかかる〜店も混んどる〜甘みがあり美味しい〜😸😸😸
す今年のゴールデンウィークは5月3日、4日、5日とお休みをもらって東京へ遊びに行ってきました🗼東京には昨年3月に結婚した義弟夫婦がおり、子供も生まれたので甥っ子に会いに行くのも目的の一つでした😆本当はお正月に東京に遊び行くはずでしたが、濃厚接触者となり外出できず、今回甥っ子との初対面が叶いました☺️ただし絶賛人見知り中で短時間ではさすがに笑ってくれません😭義弟宅で昼食をご馳走になった後、義母をつれて3人で2泊3日の東京見物に出かけました。今
この日2か所目の目的地は増上寺。つい数時間前の到着時は曇天だったのに…タワーから降りて来たら…降りて来たら抜けるような青空!これだけ晴れてたら、タワーからの景色違ってたかも…と思いつつも、こればかりは…。ちなみにこの日はこのまま晴れるかな~と思ってたら、午後はまた急変して一瞬だけ猛烈な雷雨(!)にみまわれました。そういえば3月に京都に行ったときも、そんな経験したなぁ…。『京都早春弾丸ツアー④仁和寺』京都早春弾丸ツアー記事は、これがラスト。最後
令和5年4月22日(土)午前中は西山善峯寺の拝観をし、午後一でケアマネのモリタニングを受けた後、久しぶりに知恩院に行くことにした。13:30自宅を出る。14:30知恩院三門前に到着する。大きく立派な三門(山門)である。三門を抜け石段を上がり御影堂へと向かう。知恩院は浄土宗の開祖法然上人が吉水の地に草庵を結ばれたことを起源とし、法然上人がお念仏のみ教え広め、入寂された遺跡に建つ浄土宗の総本山である。正式名称は華頂山知恩教院大谷寺という。〈浄土宗総本山知恩院〉御影堂。巨大な
※眷属とは、神仏のお遣いで修行している存在✨🐅🐇🐀🐂🐉✨(龍🐉さんをきっかけに)現在は眷属の孔雀🦚さんとメインに動いていまーす✨⬇眷属の孔雀とは?『確信の出来事✨~今こそ孔雀を!と言われていた話~』おはようございます✨四柱推命🍀と眷属(けんぞく)さんの力と看護師の視点👼から運気を後押しするぽん太です現在、【孔雀さん】をお申し込み頂いた方とその大切…ameblo.jp※この1年で1000人以上の方に守護とメッセージを届けてきました。孔雀とは、鳳凰・フェニックス⏬『孔
今回は、徳川家茂の正室皇女和宮の墓参りです。降嫁の際京都から江戸まで、約530キロを24泊25日の日程で江戸に入られました。皇女和宮とは親子内親王。仁孝天皇の第八皇女、14代将軍徳川家茂夫人。弘化3年閏5月10日生まれ。母は議奏権大納言橋本実久の女経子で、誕生後、橋本邸で養育された。1851年(嘉永4)7月、6歳で、有栖川宮熾仁親王と婚約した。しかし、58年(安政5)以降、公武関係融和を目ざして、大老井伊直弼らを中心に江戸降嫁が画策され始めた。その結果、老中安藤信正の尽力によって、6
幕末の混乱時の十四代征夷大将軍徳川家茂の墓参りです。大阪城で、脚気のため死亡しました。当時は、わずかなおかずと大量の白米を食すのが多かったそうです。ビタミンB1の不足が原因です。徳川家茂とは紀州11代藩主徳川斉順の長子。弘化3年閏5月24日、赤坂の江戸藩邸に生まれる。幼名菊千代、のち慶福と称す。12代藩主斉彊の養子となり、1849年(嘉永2)4歳で家督を継いだ。将軍継嗣問題で一橋派の推す一橋慶喜に対抗する候補とされ、条約勅許問題と絡んだ激しい政争が展開した。結局、1858年(安政5)