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トップページ都道府県別索引へ神奈川県の索引へ浦賀城は浦賀港東岸の先端付近に構えている。麓には叶神社があって、その裏山一帯が城。樹林に覆われた今でも東京湾を挟んで房総方面がよく見える。房総半島からの里見氏の攻撃に備え、三崎城の支城として北条氏康が築いたとされ、水軍の拠点が置かれたという。この週末は雨予報だったので遠征は取りやめ、前日は雨が降り出す前を狙って東京の奥の方の山城に登り、この日は京急電車でノンビリ回ることにした。その最初に浦賀駅で降りてここへ。→現在位置(Googleマッ
週が明ければ開戦となる合戦イベント「三増峠の戦い」。今日がレギュラーの予告としては最後の機会となります。ということで、まだ発表していなかった大手柄武将と総攻撃についてお知らせ致します!お待たせしました~。北条軍の大手柄武将北条氏繁猪俣邦憲上田朝直原胤栄成田氏長風魔小太郎武田軍の大手柄武将武田信廉武田信豊初鹿野昌次曽根昌世真田昌幸今回の合戦は久しぶりに両軍で大手柄武将の人数が異なります。北条軍は6人で武田軍が5人となっています。オレンジ色
いや、しびれました…。本日午前11時30分、合戦イベント「三増峠の戦い」がついに終戦し、武田軍の勝利となりました!「三増峠の戦い」は過去の合戦のリバイバルではなく全く新規のテーマだったため、果たしてどちらの軍の人数が多くなるのか予想が難しかったですが、戦況が明けてみると数十人の差とほぼ同数、軍功は北条軍が約4.5万リードしている状況でした。終戦時の軍功差は約2.5万という僅差だったわけですが、それ自体実はそれほど例がないわけではありません(前々回の四国の役は約2.7万差、な
トップページ都道府県別索引へ檜原城は檜原村の役場すぐそば、払沢の滝との間に降りてきた尾根上にある。東京都に一つだけ残った村として観光地にもなっているところで、城に登っても麓を通る車とかの喧騒が聞こえてくるようなところ。室町時代の応永二十年(1413年)に平山正泰が築いたのが最初といわれる。戦国時代には後北条氏に接収され甲斐からの武田氏の侵入に備える拠点になったとのこと。この日は午後から雨降りの予想で、このあたりの城にするか浦賀城あたりにするか迷っていたが、夕方まで天気が持ちそうだった
復元されたけど天守閣があるのは羨ましいなぁ。9年ぶりに小田原城の中へ入ります。入口で料金を払います。パンフレット後北条氏桓武平氏伊勢氏流。初代は伊勢宗瑞。二代の氏綱から北条に改姓。三代氏康、四代氏政、五代氏直まで、豊臣秀吉の小田原征伐で滅亡するまで100年続きます。後北条氏の勢力範囲初代早雲後北条氏の祖。下剋上により戦国大名となる。二代氏綱伊豆韮山から相模小田原へ本拠地を移す。鎌倉時代の北条氏にならい、北条に改姓。三代氏康軍事、外交、内政に優れる。甲相駿三国同