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私も子供の頃は今川は公家化して弱くなったと思っていました。近年の研究で、大大名となった今川は文化人としても優れていただけではなく、武士として武芸にも秀でていたと解っています。今期の大河の氏真はまるでバカ殿こういう描き方は簡単に人物のくせを表現できるのかもしれないけれど安易に過ぎませんか例えば高師直を歌舞伎の忠臣蔵で女好きの悪役と描いているからと、そのままに転写するのが芸がなさすぎるのと同じに思います。(実際の高師直は文武両道を地で行く文化人。軽薄な人物ではない)文武両道の知的な人
3/15(水)~17(金)に、「青春18切符」を使用して「お城巡り」に出かけた時のブログ、2日目3城目です。2日目は、ホテルを7時半に出て「高崎駅」周辺をブラブラしました。というのも、嘗て高崎には勤務地の支店があり度々訪れていたことがあり、もう10年も経てば周辺の様相が一変していたので変貌ぶりを眺めました。「高崎駅前」には「オーパ」と「イオン」「高崎髙島屋」前までペデストリアンデキッキそして8時前に駅レンタカーに到着して8時15分にはスタートしました。まずは「安中市」にある「
今になっての投稿ですが、今年初の城攻めは1月。続100名城興国寺城。前々から行きたかったんです。ここは戦国大名第一号と言われる北条早雲旗揚げの城。当初、伊勢新九郎盛時(北条早雲)は足利家に仕えており姉(妹の説もあり)の北川殿が今川家の今川義忠に嫁いでいました。1476年北川殿の夫である今川義忠が戦死当時4歳だった北川殿の嫡男・竜王丸と義忠の従兄弟・小鹿範満の間に家督争いが起きます。この時、竜王丸側として今川家に派遣されたのが伊勢(早雲)。小鹿側として扇
北条氏康-大願成就篇(単行本)Amazon(アマゾン)314〜5,104円富樫倫太郎先生の北条サーガ北条氏康編の第二弾です。氏康の父・氏綱は、順調に領土拡張を進めていきます。まず、ここまで良好な関係を維持していた今川家が義元の妻を武田家からもらった件で手切れをし、駿河国の東側をせめて自領にします。更に房総半島で勢力を築いていた小弓公方を国府台合戦で滅亡に追いやり、扇ガ谷上杉家の河越城を奪い取り、武蔵の国をほとんど手中に収めて、扇ガ谷上杉家を滅亡寸前の所まで追いやります。
江川邸から、ガイドの説明を聞きながら韮山城へ行きました。戦国時代の始まり、下剋上の幕開け。明応2年(1493)伊勢宗瑞(後の北条早雲)が駿河國興国寺城から、伊豆國の堀越公方を攻め進出する。伊豆國平定した、伊勢宗瑞は韮山城を整備し本拠地とする。永正16年(1519)宗瑞没する。二代目氏綱は北条氏と改姓。相模國小田原に本拠地を移す。韮山城は小田原城の支城として、足柄城、山中城と西側を防御する重要な城となります。しかし、天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐のさい、山中城を攻める部
報徳二宮神社の先に図書館がありますが、老朽化で最近閉館したようです。図書館の先の郷土文化館は無料で見学でき、遺跡からの出土品や、後北条氏の勢力図、小田原攻めの配置図が展示されています。明治になって箱根登山鉄道小田原市内線の前身の馬車鉄道が出来て、丹那トンネルの工事資料もあり、小田原城の本丸の動物園に2009年までゾウのウメ子がいたのを思い出しました。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%B1%E6%A0%B9%E7%99%BB%E5%B1%B1%E9
土曜日の午後、鎌倉歴史文化交流館で開催中の「北条氏展vol.4北条義時の子どもたち―中世都市鎌倉の黎明」に行って来ました館内での撮影は🆗(一部、展示品を除く)撮影したものはSNSで発信して欲しいと書かれていたので、今回は遠慮なく撮影しました以下、前回記事からの続きです。北条氏滅亡後の室町時代足利氏によって鎌倉府が設置された後、町は一旦活気を取り戻しましたが、長くは続かなかったようですね。4代公方・足利持氏(もちうじ)御教書1445年、4代~5代公方と幕府(京都)との関係が悪化、鎌
相模原市に編入されたかつての神奈川県城山町。城山ダムによって堰き止められた津久井湖。相模湖、津久井湖、この辺りの神奈川県の水源ではいくつかの町、村が湖水に沈んでいます。治水はどうしても地形を変え人が住む場所を変え、湖底にかつて人の営みがあった事さえ忘れ去られます。城山町という名の通り、ここには城がありました。山城です。城跡までこの湖畔の観光センターからは一キロほど登ります。時間が無いので登るのはまた今度にします😅この城山は鎌倉時代に三浦党である津久井氏の築城
都道府県別索引へ雛祭りやDRCにうつつを抜かして城攻め忘れやがったなんて後ろ指さされれんよう、城、城っと💨ここからは土の遺構出てくるよ〜🙌→現在位置八ツ橋の架かる池の横が新曲輪の北端にあたる。斜面の立ち上がりの外側に土塁、その内側は堀だったらしい。沼沢の広がる岸寄りに土塁を築いて、わざわざ堀を入れている…😮この堀は新曲輪の外側を這った後、岩槻城址公民館のところで途切れている。→現在位置野球場の方から入ってくる道があって、ここに大きな説明板が立っている。往時
ある調査研究発表会に参加した。その時、聴衆の質問に対して、尊敬するある研究家が「北条は滅びる運命にあった」と答えた。ある「現象」があれば、その現象が起こる「要因」は必ずあるのではないか。歴史というのは「現象」の連続である。「滅亡」というマイナスな現象があったのなら、その要因を考察し検証することが、歴史研究に対する社会の要請ではないだろうか。そうした社会の要請を考えない研究は、小中学生がやっている「調べ学習」と大して変わらない。「トリビア」的な「新発見」がもてはやされてい
今日は、神奈川県と静岡県の県境にある足柄城の登城記を本編のホームページにアップしました。本編のホームページはこちらです:http://shanehsmt.html.xdomain.jp/index.html足柄城は、足柄峠に位置していて、築城されたのは1555年(天文24年)。北条氏康が改修した記録が残っているそうです。その後、北条氏が、甲斐・武田信玄と駿河・今川義元と結んでいた三国同盟が、武田信玄によって破られた1568年(永禄11年)の翌年から大規模な改修が行われ、更に、北条氏
1月10日、八王子城へ。約3年ぶりの攻城。以前にこんな石碑あったかな?無料駐車場脇にある石碑は以前からあったけど。前回はメイン部分の御主殿を見たので、今回は本丸など山の方へ。籠城戦に備えて築かれた山の部分は八王子城跡自然公園って言うんだ。よく見ると、ツキノワグマに注意だと。マムシ、イノシシに注意の看板は以前からあったけど・・・用心深いクマって、人の気配を感じるとじっと身を潜めるそうで。人が1m横を通っても動かずに隠れるから、我々は気付かないもの。うっかり道を踏
本年最初の城攻めは静岡今回は2泊3日で8城(愛知県含む)をめぐって来ました。まずは後北条氏が築城しましたワッフル堀山城からスタート山中城跡売店に車を停めます(無料)ここでスタンプも頂けました山中城の最前線岱崎出丸と御馬場曲輪を遮る堀堀の中に畝あるやん最先端防御のすり鉢曲輪すり鉢状に見えるからすり鉢曲輪と呼ばれてるとかここから武者溜まりに続いてます。武者溜まり。南北に長く伸びる三の丸堀。西側の出丸まで走ってます西の丸畝堀。現在は見栄えの良い芝生を植えこんでますが、当時は滑りやすいローム
1/15(日)~16(月)の2日間ですが、東京・埼玉の「お城巡り」に出掛けました。1/15(日)に、埼玉県にある「続日本100名城」である「杉山城」「菅谷館」に訪城し、先日のブログで「杉山城」をお届けしましたので、本日は「菅谷(すがや)館」(埼玉県比企郡嵐山町)へ向かいます。「杉山城」からレンタサイクルで約4.8kmの距離でしたが、少し道を迷いましたので25分位かかりました。レンタサイクルで辿り着いた場所は、「都幾(とき)川河川敷」に近い入口でした。ここに自転車を置いてスタート
しばらく穏やかな日が続いたと思ったらいきなり寒い🥶冬なんでしょうがないですが秋から冬にかけては山城シーズンとは言えあんまり寒すぎるのもちょっと・・雪だったりすると尚更困ります津久井城のキャッスリング翌日に向かったのが『滝の城』(たきのじょう)ここは埼玉県所沢市にあって本丸跡には城山神社⛩が祀られ隣接して滝の城址公園として整備されて今も遺構の発掘が続いています公園の駐車場から階段を登っていくと鳥居のすぐ脇に狛犬さまにご対面です↓上の狛犬さま個人的にこちら
皆様、こんにちは~☀☀☀☀☀カネゴンは今日から仕事始めです。(船橋にてシンプリーステップ)😅😅😅😅さてさて!!今回は城攻めブログですが…去年の12月28日(1週間前です。)タイトルが長過ぎですが御容赦、願います。😅😅😅😅JOJOさんのブログを拝読したのと小川町特別満喫切符の期間が28日までと知りコレは城🏯神様の思し召し❓❓と思ってしまったら行くしかあるまいと思って行って来ました。🏯杉山城跡🏯でっす。だって!!城郭研究者の第一任者の🏯千田嘉博先生
11月3日埼玉県東松山市の巌殿観音「正法寺」を訪ねている。「観音堂」「絵馬堂」「薬師堂」「百地蔵堂」そして岩崖には無数の石仏。萱葺き屋根の「鐘楼」と「銅鐘」この銅鐘は天正18年の豊臣秀吉による関東征伐の際、後北条氏の家臣であった大道寺入道政繁がこの鐘を引きずりまわして打ち鳴らし、軍勢の士気を鼓舞したといわれ、その時についた傷が残っているという。やがて大道寺政繁は豊臣方に寝返り忍城攻めや八王子城攻めではその前線に立って戦ったものの、小田原城が陥落すると秀
12月上旬、八王子城跡を見学しました。こちらの山城は人気の高尾山の御近所。高尾山は古来より修験道の霊山です。こういう場所って軍事拠点になり易い。奈良県の吉野や京都の醍醐も然り。北条氏の家紋の「三つ鱗」が・・・・・↑八王子城は北条氏康の三男である氏照が1587年頃に完成させたと伝わります。秀吉の天下統一に備えて小田原城の枝城として築城された訳です。標高445mの城山に軍事施設が点在します。ちょうど圏央道を跨ぐことになる。当時の石垣がそのまま残っていました。↑
「旧東海道歩き」は箱根東坂を下っています。正眼寺から少し下ると「早雲寺(そううんじ)」がありました。「早雲寺惣門(薬医門)」をくぐります。「金湯山」という山号です。箱根湯本はもともと早雲寺の門前町として始まったとされます。「中門」をくぐると…すぐ右手にあるのが「鐘楼」で、鎌倉時代末の梵鐘で神奈川県重文となっています。「山上宗二慰霊碑」…秀吉の茶匠でしたが怒りをかい浪人。前田家に仕えます
昨日はYOUTUBEで歴史動画の最新作、後北条氏編の「第二次国府台合戦」がアップされました。今回の動画で、後北条氏編も一旦完結となり、一抹の寂しさがあります。伊勢新九郎(北条早雲)→北条氏綱→北条氏康と続いた北条家。氏康の最後の戦いです。関東に何度も攻め込んでくる上杉輝虎(謙信)。太田康資の離反と、それに責任を感じた遠山直景と富永直勝の死。そこから始まる国府台合戦(第二次)。遂に里見家との決戦。北条綱成の活躍など、2時間を超える今回も見どころが盛りだくさんです。是非、映画を
史跡・山中城跡は。宗閑寺(三の丸)から「西の丸」をへて時計回りに登城します。㊟余湖くんのHPより「箱井戸」と呼ばれているところで、湧水量が多く城兵の飲料水として利用していたと思われます。となりの「田尻の池」は、↑の箱井戸とは土塁で分離され、排水溝でつながれています。湧水量の多い一段高い箱井戸↑から、田尻の池↓に水を落とすことによって、水の腐敗や鉄分による変色を防ぐための工夫とされます。洗い場や馬の水飲み場として利用されていたよ
「史跡・山中城跡(日本百名城)」をめぐります。山中城は、戦国時代末期の天文年間から永禄年間(1530~1560)に、小田原に本拠を置く後北条氏によって築城されました。急峻な斜面に囲まれた自然の要塞の地に造られた山城は、標高580m、城の範囲は東西500m、南北1000mにも及びます。後北条氏の所領する伊豆地方北部は、武田・今川領と国境を接しており、小田原城の後北条氏にとって、西方防御の要の地でした。天正17年(1589)豊臣秀吉と不仲となった北条氏政は、秀吉の小田原攻めに備え、
9月下旬にテレ朝で放送された、歴史の専門家が選ぶ難攻不落!最強の城総選挙。厳選された20の城の中から選ばれた、最強の城ナンバー1は…あなたが選ぶナンバー1の城は…『春日山城、林泉寺、高田城』直江津の港から次に行ったのは、春日山城と林泉寺、高田城。春日山城と言えば、長尾景虎そう後の上杉謙信の居城。入口には、上杉謙信の銅像が建ってました。ここで旅の…ameblo.jp『五稜郭旧幕府軍最後の戦い』北の大地、最初の観光は五稜郭へ。日本史大好きなので、五稜郭は外せません。五稜郭タワー
「旧東海道」歩きは、三島を目指し歩いていますが、ここでちょっと寄り道です。八幡交差点から東に右折し、しばらく歩くと「柿田川湧水群(柿田川公園)」があります。国指定天然記念物・柿田川は、市街地の真ん中に忽然と湧き出し、集まって川幅30~50m、延長約1200mの河川となって狩野川と合流します。豊富な水量に加えて、水温は夏冬変わらずほぼ15℃を保っています。第一展望台から見たところです。柿田川の最上流部にあたります。その水の源は、約40㎞北
10月11日、沼津駅南口へ。ここからバスに揺られること30分ほど、東根小屋のバス停に着。根小屋とは、城の中心の周辺に設けられた武士の屋敷があった場所。バス停横には興国寺城の石碑。当時の興国寺城池で防御を固めていました。現在の空撮写真道路を挟んでバス停周辺の南北に広がる土地は、全て三ノ丸跡です。バス停の山側三ノ丸です。山側へ登っていく。デカい土塁曲輪の段差が明瞭です。二ノ丸と本丸の境も明瞭。そしてその後方にはすごい段差が
今日は歴史動画・後北条氏の最新作「古河城の戦い」がYOUTUBEにアップされました。今回は2時間という、まさに映画なみの尺です。古河公方と北条氏の戦いを軸に、10年間の関東の情勢が描かれています。大河ドラマに後北条氏3代とかやってくれないかしらね~。
コロナ禍が始まって1年とちょっとたった時の2021年4月ちょっとくらい外出もええやろと深大寺城を訪れたら、入り口が閉まっていて何も出来ずに帰宅したことがごぜぇます悲しみの神代植物公園閉園状態さらに1年引きこもり、もうええやろ!(2回目)ということで、古城跡めぐりを再開青梅市の勝沼城への探訪記録勝沼城1500年の鎌倉時代に三田氏によって作られたとされています。豊臣の小田原征伐後、使われなくなって廃城となったようです。三田氏戦国時代に入り、三田氏は関東管
大磯六所神社の続きです9月4日は櫛の日で例大祭でした人混みの中、拝殿前は奇跡的に人がおりません狛ちゃんお座り型で宝珠も子供も抱いていないピンの狛犬もしかして角有った?!拝殿崇神天皇の時代に創建されたと伝えられ出雲国から移住して来た人達が開墾した土地を柳田郷と呼び、櫛稲田姫命須佐之男命大己貴尊を柳田大明神として石神台に祀ったのが始まりとされています相模国一之宮の寒川神社二之宮の川勾神社三之宮の比々多神社四之宮の前鳥神社平塚神社の分霊と主祭神の柳田大明神を合
川越城本丸御殿6月23日の訪問少し前までは、本殿のすぐ前を道路が通っていた模様。現在は道路を迂回させ、本殿前は広場か駐車場になるのかな。広場整備中のため?こちら側から入ります。ここにも城の全景庭も見ておきましょう。入口の破風入場料100円です。日本100名城スタンプもここにあります。本殿内の順路使者の間使番詰所番抜老体詰所こんな感じに部屋が並んでいます。また、部屋だけでなく、外も見ておきましょう。
埼玉県川越市、川越城へ。(6月の話ですが)川越城と言うと、この本丸御殿が有名。それ以外には何も残っていないように思われがちだが、実はいろいろあるのです。川越城の全景左下が川越駅方向左端の大手門あたりが現在の市役所川越駅東口からバスに乗り、川越市役所前からスタート市役所前に大手門跡の石碑と、太田道灌の像川越城は太田道真、太田道灌の父子によって1457年に築城されました。太田道灌は他にも江戸城をはじめ、藤沢市の大庭城、川崎市幸区の加瀬城など、多くの築城実