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復元されたけど天守閣があるのは羨ましいなぁ。9年ぶりに小田原城の中へ入ります。入口で料金を払います。パンフレット後北条氏桓武平氏伊勢氏流。初代は伊勢宗瑞。二代の氏綱から北条に改姓。三代氏康、四代氏政、五代氏直まで、豊臣秀吉の小田原征伐で滅亡するまで100年続きます。後北条氏の勢力範囲初代早雲後北条氏の祖。下剋上により戦国大名となる。二代氏綱伊豆韮山から相模小田原へ本拠地を移す。鎌倉時代の北条氏にならい、北条に改姓。三代氏康軍事、外交、内政に優れる。甲相駿三国同
戦国時代関東の覇者として君臨した、後北条氏の本拠地小田原城に行きました。前回は平成の大改修が終わった時に登城、実に9年ぶりです。正規登城ルートから天守閣へ行きます。お掘り馬出門平成21年に復元隅櫓と学橋内冠木門銅門と住吉橋切石敷井戸跡馬屋曲輪二重櫓雁木二ノ丸観光案内所無料で小田原城のガイドをしています銅門平成9年に復元本丸へ行く大手筋に設けられた枡形門住吉橋を渡り門を潜ると広い枡形になっています敵が侵入しても、正面・側面から攻撃が出来ます。扉の飾り金具に銅が
神奈川県小田原市にある石垣山一夜城に行きました。石垣山一夜城1590年(天正18年)豊臣秀吉が小田原征伐の時に築城。関東最初の総石垣の城。*関東方面の城は土塁バス停時刻表駐車場からの一夜城入口案内図小田原征伐真田氏と後北条氏との間に沼田を巡る領土問題があり、豊臣秀吉が仲裁。(沼田城割譲)真田領の名胡桃城を、後北条氏が攻め奪い取る事件が発生。(名胡桃城事件)豊臣秀吉の裁定を破った、後北条氏に対し惣無事令をしたと看做されと同時に北条氏政が上洛要請を拒否。秀吉ば後北条氏に宣戦
トップページ都道府県別索引へ神奈川県の索引へ浦賀城は浦賀港東岸の先端付近に構えている。麓には叶神社があって、その裏山一帯が城。樹林に覆われた今でも東京湾を挟んで房総方面がよく見える。房総半島からの里見氏の攻撃に備え、三崎城の支城として北条氏康が築いたとされ、水軍の拠点が置かれたという。この週末は雨予報だったので遠征は取りやめ、前日は雨が降り出す前を狙って東京の奥の方の山城に登り、この日は京急電車でノンビリ回ることにした。その最初に浦賀駅で降りてここへ。→現在位置(Googleマッ
トップページ都道府県別索引へ檜原城は檜原村の役場すぐそば、払沢の滝との間に降りてきた尾根上にある。東京都に一つだけ残った村として観光地にもなっているところで、城に登っても麓を通る車とかの喧騒が聞こえてくるようなところ。室町時代の応永二十年(1413年)に平山正泰が築いたのが最初といわれる。戦国時代には後北条氏に接収され甲斐からの武田氏の侵入に備える拠点になったとのこと。この日は午後から雨降りの予想で、このあたりの城にするか浦賀城あたりにするか迷っていたが、夕方まで天気が持ちそうだった
韮山城(富士)
名称:韮山城別名:龍城城郭:平山城築城年:外山豊前守か築城主:15世紀末か改修者:北条早雲、後北条氏主要城主:北条早雲、北条氏規所在地:伊豆の国市韮山438-3堀切二ノ丸へ二ノ丸本丸へ本丸本丸本丸土塁塩倉土塁権現郭へ権現郭権現曲輪虎口城池より韮山城
前日の雷雨が止んだ5月3日、静岡県三島市山中にある日本100名城の山中城に行きました。前回4月26日に来た時は、ツツジは咲き始めだったので一週間後なら見頃かなと。朝6時に登城しました。既に駐車場には、数台の車が止まっていました。元西櫓山中城の撮影スポット、西櫓(左)障子堀(中)西ノ丸(右)時間が早いので障子堀の半分は陰になっています。雲一つ無い青空に富士山と障子堀とツツジのコラボ。7時過ぎの撮影スポット。ツツジに陽があたり始めました。7時過ぎには、富士山と障子堀・ツツジを撮影
4月29日、チャリンコで多摩川を超えて大田区へ。電車での通過を除き、何と今年初めて都内へ足を踏み入れた。六郷橋を超えて、国道15号(第一京浜)から右の側道へ。この側道は旧東海道。少し進むと六郷神社の鳥居。神社の参道。左の太い道が国道15号。左の赤いジムが上記の鳥居。今回の目的地は右の赤いジム。八幡塚砦(現在の六郷神社)です。元々は普通の神社だったと思うが、戦国時代の1560~1570年頃に北条氏(後北条氏、小田原北条氏)の家臣である行方氏がこの地に砦(と
GW初日の4月26日、静岡県三島市山中にある山中城に行きました。目的はただ一つ、毎年恒例になっている山中城のツツジが咲いているのか確認するためです。元西櫓西ノ丸山中城の撮影スポット西櫓(左)障子堀(中央)西ノ丸(右)西櫓から見た西ノ丸帯曲輪から見た西櫓富士山は雲隠れ微かに富士山が見えるぐらい蕾のツツジそろそろ咲くかな?個体差にもよるけど、見頃になるのは5月になってからかな…もう一度、5月になったら行こうと思います。昨年の山中城のツツジ↓『山中城躑躅が見頃5/3
トップページ都道府県別索引へ静岡県の索引へ函南町には3つの『田代城』があり、それぞれA〜CあるいはⅠ〜Ⅲを付けて呼ばれる。このうち田代の集落から北東1km弱の山中にあるものが田代城Ⅲとされているもの。歴史はよく分かっていないようで、鎌倉時代に田代信綱が修善寺から移ってきて築いたとも、戦国時代に後北条氏が峠越え街道の監視のために築いたともいわれるとか。朝イチに登った田代城Ⅰでは確たる遺構を見つけられず、二つ目のここはどうかと半分不安になりながら入城した😅→現在位置(Googleマップで
静岡県三島市山中新田にある、日本100名城の山中城へ久し振りに行きました。3月29日に行ったのには理由があります。435年前の天正18年(1590年)3月29日、豊臣秀吉の小田原征伐で豊臣軍七万の軍勢と後北条氏の四千の軍勢が激突。序盤は有利に戦うも、圧倒的な兵力差で半日で落城します。今回は、岱崎出丸から巡りました。箱根山方面。出丸御馬場堀。桜が咲いていました。岱崎出丸にある一ノ堀。岱崎出丸から見た、三島・長泉・沼津方面。すり鉢曲輪すり鉢曲輪物見台武者溜まり跡落下している
下田公園は、戦国時代には関東の覇者として君臨した後北条氏が水軍の本拠地として築城。下田城豊臣軍の来襲に備え、伊豆半島南部や小田原への海上防衛の要として改修。豊臣軍の長宗我部元親、九鬼嘉隆、脇坂安治、加藤嘉明の率いる一万の水軍が来襲。下田城将清水康英ら600人の軍勢で、50日間籠城するも後に開城。現在の下田公園入り江の一部は、下田海中水族館になっています。戦国時代末期の下田城崎の各所には、物見台が配置され海上を航行する船を監視。馬場ヶ崎展望台下田湾戦国時代末期には、豊臣秀吉の
海禅寺寛正年間(1460年-1466年)、一州正伊によって開山された。第5世住職太古禅梁の代(戦国時代後期)に辛垣城城主三田綱秀の帰依を受け、三田氏の菩提寺になった。しかし後北条氏によって辛垣城は落城、綱秀は落ち延びたものの、まもなく自害した。現在も綱秀を始め三田一族の墓がある。手入れの行き届いたツツジ、咲いた時期は見事でしょうね。
息子の高校卒業のお祝い旅行の後編は、小田原中心に過ごしました。ホテルの朝食バイキングは、地元で採れた魚や野菜、フルーツを中心にしたメニューです❗️小田原なので、やっぱりアジは外せません朝食後、白糸マス釣りセンターに行ってマス釣りしました一昨年の夏休み『夏休み最後の旅行那須高原その1』夏休みも残りわずかとなりましたが、家族で那須へ一泊旅行に行きました❗️(*゚∀゚*)那須といえば、4年前にも行ってました(^∀^;)『今回呼ばれて行った先は…ameblo.jpに、那須の南ヶ丘牧場で
トップページ都道府県別索引へ静岡県の索引へ海に突き出た腰曲輪たち第二曲輪から上に登るには櫓の階段を登ってゆくが、その前に北側の海に面した曲輪の方へ行ってみる。櫓の下から第一曲輪の裾に沿って北に続く桟道へ💨ここには、海に向かって4段の曲輪が階段状に造成されている。その様子を一望できる。最初の腰曲輪Aには、道が通る。城の南西の麓、重須方面へ降りてゆく道。第一曲輪まで立ち上がる斜面が高いっ😮ここから下は、曲輪の東側の裾に通された歩道を下ってゆく。二段目の曲輪Bには説明板が立つ。
トップページ都道府県別索引へ静岡県の索引へ琵琶湖ではなく伊豆半島の付け根に入り込んだ内浦湾の南側から突き出た岬の上に広がる。後北条氏の水軍の拠点として知られる。天正七年(1579年)に甲斐武田氏との同盟が手切れになり、武田勝頼が北の沼津に三枚橋城を築いたのに対し、駿河湾方面からの侵攻に備える拠点として築城された。軍港となる船掛場が築かれるなど水軍の拠点となり、翌年4月には駿河湾海戦と呼ばれる大規模な衝突が発生、その後も小規模な戦闘が何度か発生したとか。武田氏が滅んでからの動向はよく分か
グンマーシリーズ#松井田城群馬県安中市にあります。3月頭の群馬遠征にて、初日の最後に攻城しました。この日は前半ソロで鷹留城などを回り、午後から地元のフォロワーさんのアテンドで、ここ松井田城に行ってきました😊こちらは鎌倉時代に築城されましたが、室町時代・戦国時代を通じて城主が何度か変わり、最後は後北条氏家臣の大道寺正繁が城主でした。しかしながら、豊臣秀吉の北条攻めにて、別働隊の北国軍に攻められて落城しました🔥🔥現在ある遺構は、後北条氏支配の時代に整備拡張されたものと思われます。一言で言え
part2最後で総構えの案内板を確認し城下張出を目指します。来た道を戻り、真っ直ぐです。下りとなっている道。総構えの名残かも~と想像しながらテクテク・・・・進んで行くと左手にファミリーマートがあるのでその道を左折50~100mほど歩くと右手にめだかの学校めだかの学校の前を左に曲がり左方向へ・・と歩いて行くとありました城下張出堀部分堀なので総構えの外側。見る目は敵兵としてとなります。もし豊臣兵ならこの畝堀を上って北条を攻めなければならな
いや、しびれました…。本日午前11時30分、合戦イベント「三増峠の戦い」がついに終戦し、武田軍の勝利となりました!「三増峠の戦い」は過去の合戦のリバイバルではなく全く新規のテーマだったため、果たしてどちらの軍の人数が多くなるのか予想が難しかったですが、戦況が明けてみると数十人の差とほぼ同数、軍功は北条軍が約4.5万リードしている状況でした。終戦時の軍功差は約2.5万という僅差だったわけですが、それ自体実はそれほど例がないわけではありません(前々回の四国の役は約2.7万差、な
🏯小田原城・後北条氏🏯小田原と言えば、難攻不落のお城です。上杉謙信や武田信玄の攻撃を防いだ名城です。🏯小田原の城主としては、戦国時代の関東一円を征圧した後北条氏のイメージが強いです!戦国武将の代名詞の【北条早雲】明応4年(1495)伊豆より北条早雲が、東上して大森氏と戦い小田原を平定します。早雲・氏綱・氏康・氏政・氏直と5代に約100年間にわたり、骨肉の争いもなく関八州を掌中に治めました。天正1
静岡県三島市徳倉にある徳倉城を学ぶ講座が開かれました。知らなかったよぉ!講座を聞きたかったです!JR三島駅の北東の位置にある徳倉地区は、戦国時代には伊豆國(後北条氏)と駿河國(今川氏)の国境付近あります。山中城の出城とも言われています。*静岡県駿東郡清水町徳倉にある、戸倉城とは違います。三島市徳倉・徳倉城清水町徳倉・戸倉城同じ後北条氏の築城で、地名は同じだけど漢字が違います。呼名は、とくら。北条五代の大河ドラマを見たいので推します。後北条氏ゆかりの地では、署名活動をしていま
週が明ければ開戦となる合戦イベント「三増峠の戦い」。今日がレギュラーの予告としては最後の機会となります。ということで、まだ発表していなかった大手柄武将と総攻撃についてお知らせ致します!お待たせしました~。北条軍の大手柄武将北条氏繁猪俣邦憲上田朝直原胤栄成田氏長風魔小太郎武田軍の大手柄武将武田信廉武田信豊初鹿野昌次曽根昌世真田昌幸今回の合戦は久しぶりに両軍で大手柄武将の人数が異なります。北条軍は6人で武田軍が5人となっています。オレンジ色
三島市にある市民学習センターで、「山中城跡の50年」講演会に行きました。当選通知のハガキ三島市民学習センター山中城を愛する県内外の人で会場は満員になりました。講師の元山中城発掘調査団団長は御年97歳、文化庁・静岡県・三島市と連携して発掘調査時の苦労話しや、山中城の魅力など初めて知ることが出来て勉強になりました。静岡古城研究会会長は、韮山城の講演会の講師。山中城、韮山城と後北条氏の話しは勉強になりました。講演会で話しを聞くと、改めて地元にある山中城は自慢出来る城趾だと思いましたノベ
所在地〒230-0076神奈川県横浜市鶴見区馬場3(殿山公園他)特徴後北条氏の家臣(諏訪氏)が築いた山城で、城跡のほとんどは市街地となっている。ただ、殿山公園には竪堀跡の窪地が残っている。感想恐らく主郭だった場所には石碑もある。
静岡県伊豆の国市三福にある郷土資料館に行きました。昨年10月26日から始まった企画展「韮山城と北条氏の伊豆支配」韮山城図韮山城の紹介。発掘調査で出土した遺物。古文書。パネル紹介は分かりやすく、出土品も説明文があるので内容が分かります。『韮山城まつりプレイベントに参加』韮山城まつりプレイベント講演・韮山城ガイドツアーに行きました。二年後に国指定史跡を目指すイベントのようです。手作り兜絵馬を買いました。受付で貰いました。資料韮…ameblo.jp『韮山城伊勢宗瑞生涯の居城』韮
三浦義意は相模三浦氏最後の当主で、義同(道寸)はその父になる。そもそも三浦氏は鎌倉幕府で北条氏と権力を二分する有力御家人だったが、北条氏によって一度は滅ぼされ、傍流の佐原氏が三浦姓に復して再興していた。しかし、戦国時代となり伊豆から興った後北条氏に攻め込まれ、最後は新井城に籠城して滅亡した。三浦氏は北条氏により2度滅ぼされたことになる。墓は新井城のあった三浦市三崎町小網代にある。
以前、攻略サイトや攻略本について書いたものはこちら。情けないことに、プライド高いくせに人や攻略本に頼りがちです。なので、「烈風伝マニアックス」なる本を買いました。初心者から上級者までわかりやすく説明されてる攻略本です。スマホの影が反射してる…。読んでみて、衝撃の事実が発覚しました。歴史的に知られた事実ですが、九州地方は南蛮渡来のものが豊富で、東海(というより甲信越)地方は馬産地として名高いです。即ち、鉄砲生産地や馬産地があれば黙ってても武器が揃うのです。ちなみに、関東だと鉄砲推
あけましておめでとうございます!本年もどうぞよろしくおねがいします!六星占術で言うところの『大殺界』なので、目標は無難に過ごすことにしました。しかし、無難に過ごすというか、普通に過ごすことって、普段の積み重ねが大事なんですよね。いまのお仕事をテキパキできるようになりたい大殺界じゃなけりゃ、もっとポジティブに祈れるのですが。さて、ゲームドランカー的な今年の目標は、やはり『烈風伝』のクリアです。なかなか思うようにいかず、上杉謙信や島津家のほうが良かった?とも思いました。しかし、内
2013年9月10日掛川駅から三島駅まで乗車し、三島駅南口より、元箱根港行のバスで、約40分ほど乗車し、山中城跡に着きました。この辺りは、小田原から天下の剣と言われた箱根の山を越え、峠の西側に開かれた旧東海道を三島へと下って行く道中、標高580mの地点です。宝暦8年(1680)に初めて石だたみが敷かれ、文久2年(1862)に大改修されました。道標中山城跡の見取り図見学は、戦国山城探訪コース(約2時間)と障子堀・畝堀単房コース(約1時間)があり、2時間コース