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3月16日、地元にある山中城へ行きました。山中城ガバメントクラウドファンディング寄付者限定イベント今回初めて参加するので楽しみにしていました。駐車場に入る時、係員に今日はどのぐらい来るのですか?と聞くと、何とビックリ、テレビで見たことある、お城博士ちゃんが午前の部で参加しますと。集合場所に行き、ノベルティを受け取りました。午前の部は参加者が多く3班に分かれて、学芸員と一緒に山中城を巡ります。三島市市長(左)、お城博士ちゃん(右)山中城戦国武将隊禄寿應穏と言う名で毎月1回、山中城に
最近、久しぶりに行きました「新時代」居酒屋です名古屋駅周辺に数店舗ありますその内の一つに行きました安いです食べ物のメニューは間違えて消してしまいましたメガマークのは1㍑ですこれは280円これは1本50円伝串です少し飲んでしまいましたが、これは190円席料300円が要りますがこの物価高で、この値段それなのに、おいしいですチェーン店なので無い地域もあるようですが関東にもあります前ログの続きです一年以上前に行きました下田市の下田城址から沼津市に向かいますざっくり
「北條五代祭り」は、戦国大名・後北条氏五代を称え偲ぶ祭り。北条氏五代とは、初代早雲、二代氏綱、三代氏康、四代氏政、五代氏直。武者行列のパレードが市内を勇壮に練り歩きます。2024年は60周年記念。
小机城付近の散歩のレポを書いてきましたが。ここで、小机城の歴史について簡単に書きます。小机城の築城小机城は、室町時代の永享の乱(1438~1439)の頃、関東管領の上杉氏によって築城されたといわれていますが、確実な年代などは不明です。小机城がこの場所に選ばれた理由としては。・地形の特徴城のある丘陵は、北・西・東の三方を鶴見川に囲まれており、周囲の展望にも優れた要害の地であったこと。・交通の要所飯田道の陸路と、当時船着き場のあった鶴見川の水路の合流点が小机で、交通の要所であ
昨年9月から、三島市にある山中城では三島市郷土資料館による無料ガイドが始まり今月でガイドが終了します。無料ガイドは、毎月第3日曜日。午前10時、午後13時30分、定員9名。前日までに、三島市郷土資料館へ申し込みます。ガイドは今月で終了します。*昨年の静岡新聞記事ですガイドツアーに参加しました。↓『山中城ガイドツアー12/17』三島市郷土資料館館長による、山中城ガイドツアーに参加しました。前日の暖かい気温22度から、一気に急降下して8度と寒い日になりました。集合場所の山中城大駐車場
大瀬崎の帰りに、長浜城跡に寄りました。7年ぶりに来ました。登城入口には、長浜城の歴史がパネルで展示されています。15世紀後半に北条氏により築城。韮山城を守るため、水軍の主力を集結。武田水軍と海戦した記録があります後北条氏五代御城印今回は、登城しませんでした。駐車場には車が多く止まっていたので、水軍の城を見学に来ている人がいたと思います。長浜城跡の近くで、柑橘類を買いました。寿太郎みかんはるかはるみ長浜城の詳細は下記を参照して下さい↓2017.5.28長浜城北条水軍
小机城付近の散歩、今日は2⃣小机城の概略を話します。駅から程ないところに、小机城があります。入り口にある根古屋という場所へ。この「根古屋」というのは、城のふもとにあった城主の館、家臣の屋敷地になります。中世時の城主は平時は麓に居住しており、戦闘時になると城に詰めるという形が基本でした。この小机城は、いくつかの見どころ別にみていきます。【空堀・土塁】小机城は、城を囲うように堀跡が残っています。また、堀の両側には土塁を巡らせており、後北条氏の築城術の典型「二重土塁」が残されていま
静岡県沼津市にある、長浜城跡に行ってきました。海沿いにある山城で、後北条が迫る竹田軍に備え、水軍基地も兼ね整備した城です。入口の鳥居と、石表説明書きのパネルと模型が有ります。トイレにも、国指定史跡長浜城跡と書かれています。解説パネルにあった遺構の図鳥居の道は一寸荒れています。新しい道?、階段が出来ています。階段の曲がり部分長浜城周辺の漁業資料
後北条氏五代当主北条氏直の墓参りです。どうする家康では、西山潤さんが演じておりました。北条氏直とは関東の戦国大名、後北条氏第5代。氏政の子。母は武田信玄の娘。1580年(天正8)家督を継ぐ。本能寺の変後、上野に進出して織田信長の代官滝川一益を追い、信濃からさらに甲斐に進んだ。武田氏の旧領をめぐり、徳川家康と甲斐国若神子に対陣したが、和睦し、83年家康の娘督姫と結婚した。徳川氏と同盟を結びつつ、上野、下野、上総などに勢力を拡大。89年豊臣秀吉の宣戦布告を受け、翌年3か月に及ぶ籠城のすえ、降
今回を含め二回で終わります。後北条四代目当主北条氏政の墓参りです。どうする家康では、駿河太郎さんが演じておりました。北条氏政とは関東の戦国大名、後北条氏第4代。氏康の子。母は今川氏親の娘。1559年(永禄2)家督を継ぐ。父とともに、上杉輝虎のたび重なる出兵を退けて領国を拡大した。68年末からは駿河に進出した武田信玄と戦い、これを討つため上杉氏との同盟締結に努力、69年に締結した。71年(元亀2)上杉氏との同盟を絶ち、ふたたび武田氏と和睦、ついで織田信長と結んで、関東の制圧を目ざした。8
風魔小太郎(ふうまこたろう)または風摩小太郎は、相模国足柄下郡出身で、風魔一族(ふうまいちぞく)ないし風魔忍者(ふうまにんじゃ)を率いて代々後北条氏に仕えた乱波の首領。後北条氏滅亡後は江戸へ上り、盗賊になったとされる。根拠地は武蔵国や足柄山地ともいわれる。『北条五代記』の風魔と、風魔に関連する『見聞集』の逸話、『鎌倉管領九代記』に登場する風間小太郎から生まれた伝説の忍者である。
今回は、後北条三代目の氏康の墓参りです。北条氏康とは関東の戦国大名、後北条氏第3代。氏綱の子。1541年(天文10)家督を継ぎ、翌年から相模、武蔵の広い範囲で代替り検地を行った。52年上杉憲政を越後に追い、自分の甥の足利義氏を古河公方にたて、前公方晴氏父子を幽閉した。さらに河越、松山周辺に検地をし、滝山、鉢形の支城に子の氏照、氏邦を入れた。そのほか、税制改革、軍役を定めた「小田原衆所領役帳」を作成するなど、領国経営の安定を図った。59年(永禄2)には氏政に家督を譲ってこれを後見し、武田・
後北条氏二代目の北条氏綱の墓参りです。北条氏綱とは関東の戦国大名、後北条氏第2代。早雲の子。家督相続は虎の印判状が使用され始めた1518年(永正15)とみられる。父の遺業を継ぎ、武蔵方面へ領国の拡大を図った。24年(大永4)に上杉朝興を江戸城に攻略。そのころ伊勢から北条に改姓し、上杉氏にかわって関東を支配しようとする意を内外に示した。32年(天文1)には焼失した鶴岡八幡宮の再建に着手し、8年後に大工事を完成させて、その力量を関東諸将や畿内に誇示した。この間、甲斐、駿河、下総に兵を進め、
今回は、早雲寺にあります北条家の墓参りです。はじめに、北条早雲の墓参り。北条早雲とは関東の戦国大名、北条氏初代。伊勢新九郎長氏ともいう。入道して早雲庵宗瑞と号す。一介の素浪人説が流布し、美濃の斎藤道三と並んで、下剋上の時代を代表する人物とされるが、室町幕府政所執事伊勢氏の一族であることはほぼ確実である。1483年(文明15)幕府申次衆となった伊勢新九郎盛時をその前身とみる有力な説があり、単なる素浪人ではない。初め足利義視に仕えて67年(応仁1)の伊勢下向に従ったが、妹が今川義忠の室とな
今回は、箱根まで足を伸ばし参拝です。箱根湯本駅より15分移動し、早雲寺にやってまいりました。総門中門鐘楼本堂早雲寺由緒大永元年(1521年)、北条早雲の遺言でその子北条氏綱が京都大徳寺第83世以天宗清を招き創建されたと伝えられている。だが、大徳寺側の記録では大永元年当時の以天宗清は同寺にいたとされているため、創建年次に関する2つの異説が唱えられている。岩崎宗純は宗清が韮山の香山寺にいた永正年間にまだ健在であった早雲の依頼で湯本に「早雲庵」と呼ぶべき前身寺院を建
北条氏・・・①伊豆国出身の豪族で、鎌倉幕府の執権職を世襲した一族。②戦国時代に関東を広く支配した大名。後北条氏とも呼ばれる。一つ前の記事が鎌倉に関する記事でしたが・・・今回の記事は、②の方の小田原の後北条氏の記事です。本を読むのが好きでして、同時並行的に数作品の本を読んでます(もっとも、漫画も含まれますが・・・)。昨年に読み切ったた最後の作品がコチラです。戦国時代の北条氏(後北条氏)を題材にした『北条五代』です。コチラ・・・北条氏の初代の早
御府内八十八ヶ所霊場の札打ちの続きです練馬区中村の南蔵院から高野台の長命寺に移動します南蔵院にも道標がありましたね…右長命寺って練馬区高野台の長命寺寺号標南大門四天王が安置されてます増長天広目天なんか何時もとイメージが違うぞ!!ちょっと漫画チックというか、ゆるキャラというか…😅目👀がジャイアント・ロボみたい😳持国天多聞天多聞天の持物は正規の宝棒と宝塔でした南大門扁額弘法大師像仁王門仁王様鐘楼堂の周りには十三佛の石仏文殊菩薩は私の守り本尊不動明王虚空蔵菩
三島市郷土資料館館長による、山中城ガイドツアーに参加しました。前日の暖かい気温22度から、一気に急降下して8度と寒い日になりました。集合場所の山中城大駐車場から、館長によるガイドツアーが始まりました。旧東海道箱根路石畳三島宿方面箱根宿方面山中城売店前旧東海道芝切り地蔵南櫓が立っていました。渡辺勘兵衛が駆け上がった傾斜ある土塁本丸本丸天守台からの眺めこの場所で大将二人が討死。大将とは松田康長、間宮康俊のこと。渡辺勘兵衛が中村一氏の旗印を立てたと記されています。これを
静岡県三島市にある、日本100名城・国指定史跡の山中城。後世に引き継ぐため、ふるさと納税制度を活用したガバメントクラウドファンディングで寄付を募っています。募集期間は令和5年9月22日〜12月20日迄。12月20日が締切です。地元にあり一番好きな山中城、寄付しました。来年3月のイベントには、のぼり旗が靡きます。寄附金額1万円・名前入りのぼり旗作成、3月のイベントで提示。5千円以上・限定御城印*市外の方限定。2千円以上・令和6年3月のイベント招待。令和6年3月16日のイベント
9月下旬、山中城に行くと武将隊が西ノ丸にいました。話しを聞くと、山中城戦国武将隊禄寿應穏と言う名で毎月1回、山中城に来ておもてなしをしていますと。三島市後援で、武将隊は神奈川県から来てますと。自分の一番好きな山中城で、こういう活動していたなんて初めて知りました。11月下旬に、武者行列を行いますと言うので見に行きました。*画像は9月下旬の山中城広報みしまを見ると、山中城に武将隊が来ると載っています。三島市のホームページにも載っていました。山中城に行くと、武将隊が演劇をしていました
こないだ高知から城マニア「はまけんさん」が来てくれた時お城巡りに付いて行かせて頂きました♫興味はあったけど、なかなか一人で出かける勇気?がありませんでした^^はまけんさんが掛川駅前に宿泊していたのでインター手前のコンビニに集合♫掛川インターから高速この日は風が台風みたく強く、あおられまくり。ノーマル足の「はまけん」さんは風と戦ってました^^富士川SAでトイレ休憩富士山最高!!
最近なんだか本が読めてない、忙しい訳ではないんですけど・・・なにかとやることがあってまとまった暇が無い感じですかね?そんなこんなで、買ったまま読んでない文庫本の束から今回はこれにしました北条戦国記公式紹介は↓国府台(こうのだい)、河越(かわごえ)、三増(みませ)峠の各合戦や、小田原籠城戦――。北条五代を「合戦」と「外交」を軸に読み解くことで、関東における戦国百年の実相が見えてくる!伊勢盛時(のちの北条早雲)による伊豆平定から、小田原で豊臣秀吉に屈するまでの興亡の歴史を、最新の研究成果
12月2日の鎌倉殿の13人ゆかりの地巡りの続きです前回の記事↓称名寺内にあるトンネルを潜り抜けますこの絵を見ると、永谷園のお茶漬けを思い出すのは私だけでしょうか…😂トンネルを潜ると、称名寺側の金沢文庫の入口に出ます確か、正門は反対側にあったと思います金沢文庫鎌倉時代、北条実時が金沢郷に設けた文庫で、武家の文庫としては日本最古と言われています北条実時は文化人でもあり、金沢家に必要な典籍や記録文書を集め、和漢書を収集しました実時は晩年を金沢館で過ごし、蔵書も金沢に移されたとされてい
今年9月から、三島市にある山中城では三島市郷土資料館による無料ガイドが始まりました。無料ガイドは、毎月第3日曜日。午前10時、午後13時30分、定員9名。前日までに、三島市郷土資料館へ申し込みます。下田城、韮山城でもガイドによる説明会。山中城の詳細は、下記ブログを参照して下さい。↓『山中城早朝散歩8/27』今月インフルエンザに感染して、完治後も体調不良が続き体力が落ちました。今は、体調良くなりました。体力を付けるため、8月最後の日曜に山中城に行きました。山中城は…ameblo.j
北條早雲といえば私の頭の中ではいつも北大路欣也さんが浮かぶ。たしか北大路欣也さんが北條早雲をやったことがあるはず。と調べてみた。あった。あった。若き日の北條早雲1980年(昭和55年)テレビ朝日系で放映された。全20話それだ。たしか国盗り物語のまむし斎藤道三の若いころのように伊勢新九郎が権謀術数を駆使して北條早雲になる話。なんか面白く見た記憶が。その伊勢新九郎がワイルドな北大路欣也さんで良かったのだ。
夏休み中のオレ天です。先週末から涼しくなってバイクを走らせるには良い気温です。そんな今日は逆井城跡公園まで走らせて来ました。平日だからか誰もいないの〜逆井城跡公園茨城県坂東市にある「逆井城跡公園」を坂東市ふるさとガイドの会が紹介します。戦国時代に後北条氏の前線基地だった逆井城跡公園の歴史と自然豊かな光景をご覧ください。youtu.be帰りは「道の駅まくらがの里こが」によってアイスを…
北条軍は、伊豆の南端の下田城を防衛線として、水軍を集結させていたため、西伊豆の諸城砦には、少数の陸戦部隊しか、配置していなかった。同年の3月1日、豊臣秀吉は、後陽成天皇から、北条氏の討伐を名目として、節刀を賜り、聚楽第から、大軍を率いて、東国に下向した。秀吉は、節刀を賜り、正式に北条討伐の大義名分を得たと言える。中山道からは、北国勢の前田利家・上杉景勝・真田昌幸・依田康国等が、3月15日に、碓氷峠へ進軍。近江八幡、柏原宿、大垣城、清州城、三河吉田城を経て、3月19日には、豊臣秀