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おはようございます昨日実家から旦那様宅に移動してきました。昨日は雨も風も穏やかで、台風はどこ?という雰囲気でしたが、流石に今日は雨風が強くなるかなぁ。ちなみに東京は千葉と比べるとかなり蒸し暑いです旅程2/10(1日目)・太宰府館(マンホールカード)、太宰府天満宮・太宰府展示館・とびうめアリーナ(マンホールカード)・呼子泊2/11(2日目)・呼子の朝市・名護屋城(日本100名城スタンプ)・唐津城(続日本100名城スタンプ)・松浦泊2/12(3日目)・平
島根県立古代出雲歴史博物館・加茂岩倉遺跡出土銅鐸「国譲り神話」が実際にあったことを神話化したものだとしたら、「国譲り」=「出雲侵略?」はいつのことだったのか。奈良時代以降だったりすると、出雲国造家などに記録があるような気がします。加茂岩倉遺跡出土の銅鐸については、どうでしょうか。銅鐸は集落よりも山中などから出土することが多く「国の有事」とはあまり関係がないかも知れません。。島根県立古代出雲歴史博物館・荒神谷遺跡
本日二つ目の記事ですが、、、前回の記事で紹介した石井昌国氏の名著を読んで思い出した事があります。古刀は芯鉄を入れない無垢鍛え・丸鍛えという方法で作られていたという俗説があって、結構信じている人がいるようです。これは完全にデマ、というか誤解です。無垢鍛え・丸鍛えの刀は古刀にも新刀にも現代刀にも一定の割合で存在しますがいつの時代においても常に少数割合です。今回はこれについて書いていこうと思います。・・・・・蕨手刀日本刀の始源に関する一考察/石井昌国著/雄山閣/
はい!奈央です。今回はちょっと訂正記事みたいなものです。これまで、弥生早期とは、水稲農耕とともに夜臼式土器(突帯文土器様式)のみが使用されていた時期とされるということを書いてきました。ところが、もう一つ、夜臼式土器と並んで最古とされる弥生時代早期の土器として、山ノ寺式土器があるのです。泉城の古代日記コダイアリーHPよりお借りしました。この山ノ寺式土器の発掘にまつわる経緯をご紹介します。1956年(昭和31年)、長崎県の雲仙火山群、野岳東麓より有明海
こんにちは😃今日は大阪や奈良の人にはぜひ見ていただきたい内容となっております。土曜日は新嘗祭でしたが、近畿地方の奥底に封じられている太古の竜神伝説についてお話ししていきます。太古の日本はかつては蛇🐍の信仰でしたが、中国から龍のイメージが伝わり、龍神となりました。これが竜蛇であり、水神の化身となっております。※廣瀬大社⛩️かつて沼地や池だったところは、災害が起こりやすい、というのは聞いたことがあるでしょうか。事実、広島市でも平成26年8月に起きた大規模土砂災害により甚大な被害があった
本の宣伝本の発売日が正式に決まったようですので、お知らせします。(国常立大神が言っていた通りでした!本はもうすぐ出来上がります)販売開始2月1日、文芸社からです。タイトルは、です。価格は定価は本体900円+税となります。宣伝するのは得意ではありませんが、とりあえず、してみますので、皆様方、どうぞ、よろしくお願いいたします。『本の宣伝?●11/28国常立大神』の続きになります。ページ数が多くなってしまいましたが(500ページ弱です)
立石山遺跡:愛媛県越智郡上島町生名生名島生名島は対岸の因島土生港からフェリーで渡る。その距離300m。僅か五分で立石港に接岸する。あまりにも近い。乗ったと思ったらすぐに降りるので拍子抜けする。多島海の瀬戸内は僅かな距離でも渡船がなければ生活が成り立たない。ごく当たり前の日常風景なのである。立石港から歩いて五分のところに三秀園という小さな庭園がある。そこにメンヒルがあるとかねてから聞いていたので訪れてみた。三秀園は立石山という山の麓にある庭園だった。真ん中に高さ5,6mほどのメンヒルがでんと
サンメッセ日南モアイ像を後にし20分車を走らせると🚗🌬️道の駅フェニックスがありますここの名物ソフトクリーム🍦を頂きます🙏別に名物じゃなくても食べますけど…😆マンゴーと日向夏を食べたけど日向夏の方が美味しかったです☺️👇ここから5分走れば🚗🌬️堀切峠この辺りの海は洗
素敵なPHOTOが撮れる吉野ケ里遺跡へ吉野ケ里遺跡へ、もの申す~~_________________(佐賀・福岡旅行202310月上旬3日目③)祐徳稲荷神社拝観後・・・祐徳稲荷神社前からバスで肥前鹿島駅へ移動。肥前鹿島駅から吉野ケ里公園駅まで約50分。公共交通機関での移動を終え、吉野ケ里公園駅コミュニティーホールでレンタサイクルをお願いしました。1台¥200也。歩くと20分ほどかかりますので、時間の節約になります吉野ヶ里歴史公園へ入場します。
2日連続フリマ\(^o^)/私たちのライフワーク。今日は池上曽根公園まで来た。ゆうじいさん、夏に買ったサンダルを冬でもずっと履いてて😅そろそろボロくなってきたから新しい靴欲しいって最近探してた。やっといい感じなん見つけた。サイズ少し大きいけど、靴の形的に履けるって😊フリマ友達のお店で1300円。200円おまけしてくれた🥰池上曽根公園は骨董がけっこう多い。ゆうじいさん、ゲルマニウムのブレスレットに反応。定価
武家思想・武士道精神を通史で考察することを目的とする。最新研究の反映や内容見直しなどによって、内容は随時変更する予定。↑源頼朝像(鎌倉)武士道論もくじ「序」幕末ヤ撃団版の武士道論を再構築すべく、同人誌『武士道の明治維新』の反省を踏まえた上で、再度武士道論を最新の研究と照らし合わせながら論じてみたいと思い、ブログテーマに武士道論を加えた。昭和初期から現代に至るまで、武士道に関する書籍は多い。しかし、その多くが形而上学の理想論であったり、単なる空疎な精神論と化していることも事実
さて。ここ2年くらい、いつの間にか私のあだ名が卑弥呼様になっておりましたwwwwwwwwwwwwいやぁ。光栄で御座いますw昔から日本神話、邪馬台国、卑弥呼、魏志倭人伝はすごく興味があり。幼い頃から土偶や銅鏡を粘土で作って遊んでたりしてました∴(故に)幼い頃の将来の夢の一つは「日本のシュリーマン」(トロイ遺跡を夢で見て実際に発見したすごい人w)です。そーね。いつか古墳の発掘に参加させて欲しいなぁ。w危なっかしかったら写メ撮るだけでもいーからさw誰か関係者宜しくwなんてね😄因みにTwitt
❑令和4年度用重要語句まとめ(~飛鳥時代)最初から古墳時代まで中学歴史【目次】
オフ会の常連様から興味深い動画を教えていただきました。熊本にあるトンカラリンという遺跡についての動画です。https://www.youtube.com/watch?v=dcDYPUH-AtM【謎の遺跡トンカラリンの正体を調査せよ!】トンカラリン遺跡は、熊本県和水町にあるトンネル型遺構です。江田船山古墳がある清原台地に位置し、全長は464.6メートル、自然の地割れや人工の石組暗渠で構成されています。「トンカラリン」という不思議な響きの名称は、穴に石を投げ込むと「とんからりん」
大宮売神社(おおみやめじんじゃ)丹後国丹波郡京都府京丹後市大宮町周枳1020(P有)■延喜式神名帳大宮売神社二座並名神大の比定社■旧社格府社■祭神大宮売神若宮売神丹後半島の中央付近、大宮町「周枳(すき)」に鎮座する社。丹後国二ノ宮、式内名神大比定社、旧社格は府社。◎「宮中八神」の一座したいでもある大宮売神を主祭神として祀る、式内社では全国唯一の社。境内及び周辺からは弥生前期からの遺跡が数多く発見されています。遺跡は100箇所以上とのこと。勾玉や土器などが大量に出
日本の歴史区分で古墳時代の前は弥生時代(邪馬台国や卑弥呼の時代)です。では弥生時代の古墳はどう学術的に呼称されているかご存じですか?弥生時代に築造された古墳は古墳時代に築造された古墳と区別するために『墳丘墓』と呼ばれています。島根県出雲市にある出雲弥生の森博物館はその墳丘墓群を整備してできた考古博物館です。※方墳の「四隅突出型墳丘墓」は山陰地方に多く見られます。
(大宮売神社)◆丹後の原像【27.謎の大宮売神社にじわりと…~1】ずいぶんとこのテーマ記事をごぶさたしておりました。もちろん忘れていたわけではなく、やはり丹後へ向かわないと題材が浮かばないものです。いや…浮かびはするも、資料が整っていないというべきか。~*~*~*~*~*~*~*~*~*~今回取り上げるのは大宮売神社。まだ十数回ほどしか参拝できていませんが、参拝のたびに心の高揚を覚える数少ない社。これほどの霊地、聖地というべきものも全国にはそう多くはないのでしょうが、学者さ
ひでです。お早うございます。今日から2組だけでのスタンブールの旅が始まります。ですので、朝の集合時間も観光する箇所も2組の合意である程度自由になります。最終日に時間が無くて行けないような所は、今日の観光も含めて考えてもらえるそうです。なので、最初は11時出発だった今日の行程も9時に早めてもらいました。早く回れば帰りも早くても構いませんし、もっと回れるかもしれませんし、何より11時までの無駄な時間を過ごさなくてもいいんです。先ずは、朝食を食べて。このレストランはもう3回目の利用です。勝手知った
今週のお花は・・・・白菊をメインに・・・じゃじゃ~~ん百合カーネーションベニバナ菊・・・・の横に庭の梅が添えられているぞ。梅ちゃん初デビュー■ゆりは弥生時代からあった弥生人が球根を食べていた?事がわかっているらしい■カーネーションは江戸時代初期にオランダから持ちこまれた可憐なお花■ベニバナは弥生時代原産国中近東からシルクロードを経て日本にやってきたらしい■梅は25年前ホームセンターから買ってきたらしいくまぱぱが・・・・
宮城県栗原市一迫真坂山王にある縄文時代末期から弥生時代中期の集落跡で、竪穴式住居やゴミ捨場が復元されている。
日本における男性の平均推定身長は、時代によって大きく異なっています。この男性の平均推定身長の推移に関連した大学入試問題がありました。この入試問題には、縄文時代の男性の平均推定身長は「157㎝」、弥生時代の男性の平均推定身長が「163㎝」と書かれてあり、弥生時代に平均身長が飛躍的に高くなっている理由を考えさせるものでした。縄文時代と弥生時代の異なった特徴を考えさせるには、とても良い問題だと感じました😊今回は、なぜ弥生人男性は縄
「弥生時代」のはじまり東京大学の東側にある弥生門です。ちょうどその向かい側に弥生美術館・竹久夢二美術館がります。弥生美術館のほうは明治から昭和にかけての挿絵画家の作品を展示しています。竹久夢二の絵は竹久夢二美術館に所蔵されています。「弥生式土器発掘ゆかりの地」の石碑です。縄文時代の次の弥生時代。弥生式土器が1884年に文京区弥生で発見されたことから命名されました。明治時代にこの地で発掘されたことは、小学生の時に授業で習って以来、忘れたことはありません。
宝石のヒスイは、弥生時代の原産地は糸魚川だけです。甲信越です。同じ甲信越の八ヶ岳南麓の金生遺跡で、最大の大珠のヒスイが出土しています。八ヶ岳南麓を流れる山梨県の釜無川は、1980年代まで住血吸虫に汚染されていました。釜無川は、九州北部の宝満川と並び、1980年代まで日本最大の住血吸虫汚染地域でした。九州北部の「宝満川の住血吸虫の開始時期」は、倭国大乱そして女王即位(1)、(2)、(3)より、AD146と特定しました。甲府盆地は、武田信玄の日本の戦国時代には既に住血吸虫汚染があ
こんにちは良いお天気です地震活動がまた一段と活発になって来たような気がしますが、乗り切りましょう〜数年前は、やけに「縄文」というのがキーワードになっていました自分的に今は、弥生時代が来たなぁ…なんて感じます大陸から人々が移住してきている中東からも来てますね・歴史は繰り返す…習って来た歴史はどこまでほんとだか分かりませんがパート先にも、台湾人のパートさんがいますが(もう10年位働いてるらしい)毎度遅刻してきて、仕事もあんまりアレらしく一緒に仕事をしている人が、
邪馬台国卑弥呼続2渡来系移民の以来尺遺跡◆表紙の説明:表紙の写真は、福岡県の以来尺遺跡の周辺の航空写真です。新国道3号線バイパス工事に伴い発掘調査されました。すぐ南には五郎山古墳があります。右下の新国道200号線バイパスの東側(枠外)には、隈・西小田地区遺跡群があります。以来尺遺跡は、大字筑紫・大字原田の谷部を挟んで丘陵上に位置し、女王系の隈・西小田地区遺跡群に対峙していた反女王系の最前線の拠点集落です。この以来尺遺跡は、倭国大乱期と次の女王卑弥呼時代(弥生後期)のわずか約100年
不思議な力さんの話です。ある朝目覚めると目の前に女性が立っていました。よく見るとその方は『卑弥呼さま』でした。何も言わずただ立っていました。服の柄(三角形)が強烈に目に焼きました。何の意味があるのでしょうかね?と言う事です。卑弥呼さまは、謎の存在です。よく分かっていません。ただこうして姿を現したのは、現在は神として存在しているんでしょうね。3月3日に、九州大学の教授が卑弥呼についてセミナーを行いました。そのきっかけで、姿を現したのかもしれませんね。邪馬台国の卑弥呼と古墳時
前回、徳島市の上八万が、”榧ヶ大岐”だったと、ほぼ思い込んでしまいそうな考察を進めましたが、その大岐のある上八万町を深掘ってみるとまだ続きがありました。この上八万の大岐(現在の大木)、吉野川河口付近の粟国の南方に接する長国の一部でした。その長国の最も北その場所だけではなく、その周辺、とても重要な形跡がありました。樋口(ツイグチ)遺跡①樋口遺跡とは上八万の園瀬川南岸にある弥生時代終末期の遺跡(つまり邪馬台国の時代)です。樋口と書いて(ツイグチ)遺跡と
城野遺跡/帰ってきた弥生人-城野遺跡発見の一部始終をたどる-第3章注目すべき事実⑤“水銀朱の入手先”前回のブログでは、城野遺跡の二つの石棺内に撒かれた水銀朱の量が、今まで日本でみつかっている墳墓の中でも群を抜いて大量であることを述べました。朱の採取と分析を行った九州国立博物館の志賀智史さんは、その後別の角度からさらに研究を進め、それらが中国産の水銀朱であることを突きとめました。「硫黄(いおう)同位体分析」とよばれるこの分析方法は、朱に含まれる元素のひとつである硫黄の4つの同位体
1958年の中山貝塚の調査風景中山貝塚は現在、広島市東区の住宅街の中にあります。しかし、貝塚が形成された当時は海に近い立地であったと考えられています。1950年代後半には、当研究室の故松崎寿和先生・故潮見浩先生らによって発掘調査が行われ、広島湾岸における弥生時代前期の様相を知ることができる考古資料を得ることができました。写真右側に写っているのが潮見先生です。土器・石器・骨角器をはじめとする膨大な出土資料は当研究室に保管されています。一部資料は木造展示ケースで展示され、研究に活かされ