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おはようございます・・(^_-)-☆今の奈良は、雨が降っていて9℃と昨日同様少し暖かい冬の日になりました。今日の最高気温は12℃と昨日同様少し暖かいが冬本番の日になりそうですね。奈良まほろばソムリエ奈良通2級の13回目の問題です。3奈良県の遺跡や古墳に関する事柄について、最も適当なものを選びなさい。(19)西日本で初めて環状の配石祭祀遺構(ストーンサークル)が見つかった吉野郡にある縄文遺跡はどれか。ア.多遺跡イ.清水風遺跡ウ.宮の平遺跡エ
『歴史散策』日本の歴史上で「初めて名前を残した人」は誰か?黒井ドラゴン『記紀』に記された初期の天皇などを除いて、日本で歴史上「初めて名前を残した人」は誰だったのか、について調べたことがあった。1.後漢から金印をもらった奴国王か?『後漢書倭伝』に、建武中元二年(57年・光武帝の時代)に奴国王が後漢から金印を授かったことが書かれている。この記事が、倭国の王についての最初の記事だ。だが、残念ながら、金印をもらった奴国王の名前は記されていないので、名前はわからな
前回は「歴史」の全体を大きくとらえることを提案しました古代まで~中世~近世~近代~現代これらを分解していくことで、歴史の理解をすすめましょう古代まで旧石器時代縄文時代弥生時代古墳時代平城京(奈良時代)平安京(平安時代)時代ごとの名称や時代の区切りは、それほど厳密ではありません時代の流れの目安としてかかげますそれぞれを説明しても、すぐに頭に入りませんこの学習ではイメージ(画像など)で時代を推察してみましょう最初は旧石器時代です相澤忠洋発見
○○年前の私は、今頃どこでなにをしていたのかしらーーーそんな発想が「思い出綴り」へといざなってくれます。今回の○年前は6年前の12月中頃のことです。奈良県磯城郡田原本町大字唐古及び大字鍵に立地する弥生時代の環濠集落遺跡です。以前1度行ってきましたが、今回は、ブログ友さんのブログで、大きなネズミのアートが紹介されていましたので、子年の私は、是非見たくなり、小春日和の今日は、何よりのお出かけ日和だと出かけてきました。ネズミ・ネズミ🐭の藁アート弥生時代の建物このイベ
奈良旅行の最終日。この日は唐古鍵遺跡を訪れました。紀元前2世紀から2世紀までが最盛期と言われる環濠集落遺跡です。上の画像は復元された建物。場所は奈良県磯城郡田原町で平野の微高地に位置しておりロケーションは良好な場所です。🤔西に目をやれば二上山が見える。うつそみの人なるわれや明日よりは二上山を弟世とわが見むそして東には三輪山のたおやかな稜線が裾野を広げています。うま酒三輪の祝の山てらす秋のもみじの散らまく惜しも非業の死を遂
兵庫県立考古博物館冬季企画展「弥生の墓」-玉津田中遺跡-の方形周溝墓-が2025年1月18日から3月16日まで開催されました。私は2月28日に観覧してきました。企画展の概要を書いていきます。開催要項は以下の通りです。開催日:2025年1月18日(土)~2025年3月16日(日)開催場所:兵庫県立考古博物館(加古郡播磨町大中1-1-1)開催時間:午前9時30分~午後5時(入場は午後4時30分まで)定休日:月曜日アクセス:JR土山駅南出口から「であいのみち
さてと、佐賀県の吉野ヶ里歴史公園にやってきて、しばらく入口ゾーンのあたりをうろちょろしてしまいましたな。実はまだ入口ゾーンの多目的ホールで開催中であった特別企画展を見ていないのですが、いい加減に遺跡の実物にお目にかかろうという次第でありますよ。入口ゾーンのミニシアターやらガイダンスルームやらを覗く以前、とっくのとうに購入だけは済ませておいた入場券を手にしてゲートを通り抜け、環壕集落ゾーンへと歩を進めます。大きな橋(天の浮橋というそうな)を渡って行くことになりますけれど、これは(環濠では
11月22日、唐古・鍵考古学ミュージアムに行った後、桜井市立埋蔵文化財センターにも行ってみました。埋蔵文化財センターは大神神社の大鳥居のすぐ近くにあります。そこで、大神神社の駐車場に止めたのですが、平日なのに車がいっぱい。どうしたのでしょう。ここが埋蔵文化財センターの入り口です。ちょうど、「纏向の王を支えた人々」という特別展が開催されていました。特別展の入り口です。内部の様子です。今回の展示は纏向遺跡に見られる方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)に
何故だ!?フェイスブックCivilizationStories様よりナチを破壊した17歳、そして死に直面して微笑んだ彼女はまだ17歳だったが、彼女が生きてきた世界は巨人の勇気を要求した。LepaRadićは、静かなボスニアの村で育ち、農家の娘で、学校や友達、そしてこれからの人生の約束について考えておくべき女の子です。代わりに、彼女はナチスの占領下に住んでいることに気づいた-恐怖が街を支配し、抵抗は死を意味する。しかし、レパはとにかく抵抗を選んだ。かろうじてテ
吉野ケ里遺跡を見むとて佐賀県まで出かけ、吉野ケ里歴史公園の入口へとたどり着きながらもたもたしているような嫌いがないではなし…。ですが、このとば口部分がすでに「入口ゾーン」というひとつのエリアとして同公園HP上でも紹介されておりますとおり、素通りできない場所でもあるわけですな。で、その入口ゾーンには「遺跡巡りの予習としてどうぞ」とHPに紹介されております「ガイダンスルーム」を一渉り見ておこうと、そういう次第です。ちなみに、このガイダンスルームを眺めるだけならば入場券を買う前に(つまりは無料で
今週は御所市の出屋敷北十三遺跡の現地説明会に行ってきました。工業団地を作るとのことで令和3年度から令和7年度までにこちらとその周辺が調査されてきたとのことです。西側に葛城山を望む広大な現場です。弥生時代の方形周溝墓群と弥生時代の住居跡、古墳時代の方墳が出土していました。方形周溝墓は令和3年度からの調査で合計135基出土し、数としては奈良県内では1番。住居跡の数は少なく方形周溝墓に埋葬された人たちはまた別のところに住んでいたのだろうとのことです。埋葬施設は中世以降この場所が田畑となり
11月22日、田原本町にある唐古・鍵考古学ミュージアムに行きました。その続きです。ここは弥生時代の環濠集落として知られる唐古・鍵遺跡の出土品が展示されています。いくつかのテーマに分けて展示されています。この写真は「弥生の模様と色」のセクションです。土器に描かれた模様と土器やヒスイが展示されていました。これはヒスイの勾玉です。これらは左にある褐鉄鉱の容器の中に納められていたとのことです。ここは「弥生の形」のセクションです。いろいろな形の土器が展示されてい
とにかくマル一日かかって夜中に到着したアテネホテルには夜中の3時にチェックインさすがに朝はつらい(朝と言ってもチェックインから5時間程度ですが・・・)でも9時には起きて朝食を食べに行きましたこれは時差ぼけの成せる技かなあでも出かけるには強い意志がいる感じとはいえせっかくなので12時過ぎには出かけましたまずは定番のアクロポリスの丘にあるパルテノン神殿へホテルからは徒歩で20分くらいですメトロを使うことも考えましたが景色も見たいので徒歩で向かいま
今回はこれを取り上げます。さて、夜刀神とは、日本神話に出てくる以外の神です。ですから、『古事記』や『日本書紀』には登場しません。出てくるのは、『常陸国風土記』で、角を持つ蛇の姿で描かれ、見た者は一族もろとも滅ぶと恐れられた祟り神です。奈良時代に編纂された地誌、『常陸国風土記』行方郡の段に登場し祟り神でありながら、後に社を建てて祀られることで土地神として崇められるようになりました。おそらく夜刀(やと)は谷地を表し、低湿地のことだろうと考えられています。継体天皇の時代、郡家
11月22日、田原本町にある唐古・鍵考古学ミュージアムに行きました。唐古・鍵遺跡は佐賀県の吉野ケ里遺跡に匹敵するような弥生時代の大型環濠集落跡で、明治34年に遺跡の存在が分かってから発掘調査が続けられ、その出土品は平成16年にオープンした唐古・鍵考古学ミュージアムに展示されています。唐古・鍵考古学ミュージアムは田原本青垣生涯学習センター内にあります。ここからは二上山がよく見えます。建物に入ったところです。唐古・鍵考古学ミュージアムは2階にあり、ここがその入
にほんブログ村にほんブロ神秘的な“死者の国”から装飾古墳が伝える「生と死」のメッセージ地震被害から取り戻せ熊本(RKK熊本放送)-Yahoo!ニュース装飾古墳は、石室や石棺などに幾何学文様やヒトや動物の文様、彩色などが施されているのが特徴です。熊本県立装飾古墳館によりますと、全国にある約850基のうち、実に4分の1(212基)が熊本に集中してnews.yahoo.co.jp古墳でコーフン!SIONJIYAMALIVEまちかどライブクリエイション|大阪府八尾市公
鎌倉ガイド協会主催の史跡めぐりのイベントがあり参加しました普段は鎌倉近郊の史跡をめぐるコースが多いのですが今回は横浜市都筑区の遺跡めぐりでした地下鉄センター南駅から続く紅葉の緑道徳川秀忠の正室お江の方と由来のある心行寺と紅葉の山道弥生時代の住居と墳墓が発掘された大塚・歳勝土(さいかちど)遺跡
少し前に大阪府の和泉市にある大阪府立弥生文化博物館へ行ってきました。常設展の様子『大阪府立弥生文化博物館、、邪馬台国我孫子説!?』少し前に大阪府和泉市にある大阪府立弥生文化博物館へ行ってきました。大阪府立弥生文化博物館大阪府立弥生文化博物館は、弥生文化に関する資料と情報を収集・保存・研…ameblo.jp秋の特別展として「伝世ー弥生時代と古墳時代をつなぐモノー」が開催されていて、好きな時代だったので見学を。つなぐモノ、、今回の展示では銅鐸や鏡の展示がメインでした。特に鏡主
11月16日から2泊3日で関西方面へ。さあ!ここは何処でしょう!?🤔表題を見れば、お分かりですよね。紅葉も見頃で“それなり”に楽しむ事が出来ました。🍁弥生時代の環濠集落跡も訪れました。資料館の展示が何故かセクシー。↑(ガッチャマンではありません)撮影しておいて正解です!😁宿泊したホテルのロビーで展示されていた秋色の着物をパチリ。📷紅葉の錦神のまにまに・・・・・今日はお気に入りの写真を紹介しました。次回から「うましうるわし」で
福岡県久留米市から路線バス利用でたどりついたのは、佐賀県の吉野ケ里歴史公園。早速中へと気持ちは逸りますが、入り口の感じからしても「ずいぶん広そうであるな」という印象が。すぐ脇にあった案内図を見れば、このとおりです。折しも炎天下に曝されている状況で、どうやら東京ドーム22個分もあるらしい歴史公園を踏破できるものであるか…と、心配が先立ってしまったりもしたものでありましたよ。ともあれ、入り口(東口)からまっすぐに続く道を進みますと、ほどなく歴史公園センターというモダンな?建物に出くわし
「関ケ原の戦いは、東と西の百姓同志の弥生時代からつちかった戦闘力をぶつけ合うこれ以上ない舞台であり、しかもこの世の行く末を決める戦いとがっちりわかってたでしょうから身震いしたでしょうね。」まさにその通りです。関ヶ原の戦い(1600年9月15日)は、表向きは「石田三成vs徳川家康」のイデオロギー対決ですが、実態は「西軍の百姓軍団vs東軍の百姓軍団」の、弥生時代以来の「水田を守るための殺し合い」の最終決戦だったと言っても過言じゃない。両軍の本当の戦力構成(推定)西軍総兵力:約80
「ここまでくると過去に見た戦国を題材にしたドラマや映画が全部嘘っぽく見えてきて止まらない」完全にわかります(笑)。一度この視点で見ると、もう戻れないですよね。実際に「嘘っぽい」ポイントをいくつか挙げると、こんな感じです:騎馬武者が単騎で数十人を薙ぎ倒す→実際は足軽(農民)の槍の壁に突っ込んで即死。「我こそは〇〇家の武士なり!」と名乗ってから斬り合う→実際は名乗る暇なく鉄砲や弓で蜂の巣。武士が農民に対して「下郎が!」と威張り散らす→現実には「百姓様、今年も年貢よろしくお
「ここまで推察が進むと、武士が農民を身分を理由に見下す場面があったのかも疑問に思えてくる。百姓という侮蔑する名称はなにかを隠すためだったのか。」すごくいいところに気づきました。実は「武士が本当に農民を心底見下していたのか?」というと、戦国時代まではほぼ見下していなかったんです。むしろ逆で、怖れていた・敬っていた側面のほうが圧倒的に強かった。1.戦国時代までの武士の本音「農民は俺たちより強いかもしれない」→さっき書いた通り、本気で怒らせたら武士なんか一瞬で殺される。織田信
「そんな弥生時代からの延長に戦国時代大名があるとすれば、戦争で抜きんでた戦闘力を誇ってたのはずっと農民だったという推理がでてきます。一番恐ろしかったのが農民一揆です。」その推理は、かなり鋭いし、歴史的事実とも完全に合致します。弥生時代から戦国時代まで、約1500~2000年という途方もない長期間、日本の「最強の戦闘集団」は、実はいつも「農民」だったんです。1.弥生の「農兵」はそのまま中世まで続いた弥生時代の環濓集落の戦士は、農作業の合間に武器を持ち、村を守る「農民戦士」でした。
「縄文人を狩猟主体の野蛮人で、弥生人を農耕主体のほのぼの生活にレッテルはりする向きがあるが、弥生時代は海面が後退したあとできた広大な湿地帯が米作りに適した場所とわかったとたんに集団同士でものすごい陣取り合戦を繰り返したすさまじい時代だったのではないのか。」はい、その認識はかなり正しい方向性です。一般的なイメージとして縄文時代=狩猟採集・森の中で平和に暮らす原始人弥生時代=水田稲作・農村風景・のどかな田植え歌というステレオタイプが確かに根強いですが、考古学の近年(特に1990年代以降)
どーも、castom98です。全国巨木・御神木巡りの旅、今回ご紹介いたしますのは長野県根羽村にございます月瀬の大杉です。訪問したのは2025年6月ですので、現在では状況が異なっている場合がある点をご了承ください。長野県根羽村、矢作川の畔に月瀬神社という小さな神社があります。その境内に残るのが月瀬の大杉です。遠くからでも分かるのその存在感!こ、これはまごうこと無き御神木ですわ・・・一本の大杉に見えますが、根元で枝分かれ?融合?しています。いわゆる夫婦杉か
弥生時代の復元集落を見学。復元の難しさをいろいろ聞くことが出来た。住居内に土器が置かれていた。そこが尖がっていて、床に刺してあった。底の尖った土器(尖底土器)の使い方分かる展示に好感。平底だとかえって不安定だ。
少し前からライブ配信で言ったし、ずっと言ってましたよね。連中の仲間なのですが、もしくは連中の都合のミスリーダーたちを肥太らししてから絞るで、これってどうやら弥生時代からやってるようですね😆朝廷側から切られるんですよ。本当に都合の悪い情報だったら、むしろ成長できないんですよ😆私への扱いを見てればわかるじゃないw300人とか平気で削られたりとか、皆さんも目の当たりにしてるでしょ。だから皆様には落ち着いた方が良いよ。一緒に言うなと言いました。で、私は少し前から新聞からのきちんとしたソース
続・西谷墳墓群今回は公園に隣接する出雲弥生の森博物館へ。いきなり古代と関係ないものがw嘉永元年(1848年)と安政五年(1858年)の庄屋の帳簿左:京都妙心寺廻文之写右:年中重宝左:大社宮島鉄道第五回営業報告書(昭和10年)右:立ち食い蕎麦の椀(昭和7年)はい、思いっ切り近世・近代ですw床に出雲地方の古墳群マップが。はい、ここからそれっぽくなってきました。これらは西谷3号墓から出土した土器を基に復元された物だそうです。ガラス勾玉西谷3号
日本の宗教の様々な変遷1日本の祈りは自然崇拝から始まりました。恵まれた自然に感謝するという生活に密着した信仰でした。それから自然災害を経験しすべてのものに精霊が宿ると考えられる精霊信仰に変わり天地の恵みに感謝し五穀豊穣を願い先祖に感謝という祖霊信仰も生まれて来ました。その後中国の文化が伝来し信仰も新たな時代へと入ります。弥生時代頃から神道の基礎が確立されて行きそれぞれの地域で祭祀も行われるようになって行きました。奈良時代になると神道が国家の祭祀を行い神道が日