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英文詳説日本史の、江戸時代の一揆、鎌倉時代前後、古代の邪馬台国あたりは読みました。蓄積された知識があるし、自分が興味のある箇所なので、何とか読めました。ところが、旧石器時代、縄文時代あたりは考古学や地学の用語を知らないと厳しいです。初期、早期、草創期などだいたい意味分かりますが、どれが先かは難しいですね。結構1級のパス単や単熟語EXに出てきた単語も見受けられます。今夜は、大好きな幕末と戦国時代を読みたいです。
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こんばんは。翔磁(しょうじ)です。ゴリパラ見聞録過去の放送ゴリパラメモリーズ愛媛県宮殿工場を激写する旅にて、広島県福山市が登場。ゴリパラキッズとともに、当地を聖地巡礼。訪れたのは、御舟宿いろは。画像1.御舟宿いろは御舟宿いろはは、鞆の浦にある築220年の旅館。坂本龍馬が率いる蒸気船「いろは丸」が紀州藩の蒸気船「明光丸」と衝突・沈没した"いろは丸事件"に関して使用した部屋が残る。当時は町家。宿・食事処として現在に至る。画像2.石碑当時の談判は、平行線を辿り交
韮山笠(にらやまがさ)です。良く、幕末を描いた戦闘シーンで登場する【餃子ヘッド】ですね(笑)。今年の大河ドラマ【青天を衝け】でも度々登場しておりました。皆さんも、何度か見かけられた事があるでしょう?恐らく、珍奇なイメージでご覧になられていると思います。(なんじゃありゃ?幕末の足軽はチンチクリンな被り物ばっかり...。チンドン屋か...笑。)まあ...分かります(笑)。戦国時代の甲冑武者の様に、ゴージャスな兜ではありませんからね(笑)。足軽ですら戦国期には頑丈そう
日本テレビの年末時代劇スペシャル。昔はこれが年末の風物詩でした。リアタイで見た時は、まだそこまで知識も理解力もなかったので、実はあんまり良く内容を把握できていませんでした。だって、難しい時代のことなのにけっこう細かいところまで忠実に作ってありますからね。まあ、自分の中での一番のステキ作品は『白虎隊』だと思っているけれども〜。今回見たのが『五稜郭』。なんと、10億円かけて製作されたらしいですね?!今の時代ではそんな贅沢絶対ムリ。さあ、始まりました!『白虎隊』の
↑特攻勇士の像↑説明前回の靖国神社・就遊館見学以降、ちょろちょろと近現代史のなかの武士道を調べつつあるところ。その結果、なんとなく大雑把だが、戦前の日本の中で武士道がどのように変化してきたのか見えてきた。ただ、あくまでもまだ調べている途中だし、私の専門はどちらかと言えば幕末史なので専門外でわからないことも多いから、なにか間違っていたらご指摘願いたい。明治維新以降で、武士道的な要素を有するものとして庶民や兵隊に示されたものとしては、明治十五年に出された『軍人勅諭』と昭和十六年に陸
慶応三年(1867)十一月十八日の午後、近藤勇に招かれた伊東甲子太郎は、高台寺月真院を出て醒ヶ井通木津屋橋の近藤の妾宅へと出かけました。※.高台寺党月真院。御陵衛士屯所跡金子(きんす)の相談だったとも、国事を議論するためだったとも、或いは特に用事はなく、ただ会って話がしたいということだったとも言われていますが、つい三日前に坂本龍馬と中岡慎太郎が殺害されたばかりであり、しかも御陵衛士に加わっていた斎藤一も数日前から姿を消している中、単身近藤宅を訪ねることに、御陵衛士の隊士た
ネット上で芹沢鴨だとして広まっている古写真に関して、2014年に「鴨じゃない」と題して記事を書いたことがあります。興味のある方はどうぞ。鴨じゃない※.『幕末の素顔日本異外史』より。この写真はもともと『幕末の素顔日本異外史』(毎日新聞社/1970/文・永六輔)に掲載されていたものですが、同書の前書きによると、掲載されている写真はすべて「アメリカ・ワシントン米国国会図書館に秘蔵されていた」ものだということになっています。そして、この写真はのちに『激録新撰組』(
いやいや、プログ更新が滞って申し訳ない。しかし、そのかわりに新刊同人誌の作成作業はガンガン進んでおりますので(苦笑)。まー、私がプログ書く時は、それこそ書く内容についてガッツリ調べた上で書く&出し惜しみせずに1記事に1テーマでまとめ、続き物にしない(「武士道論」のように日本史全体を扱う通史の場合は、各時代各テーマごとに分割はしますけども)ようにしています。なので、時間も掛かるわけで。そのプログに掛ける時間を新刊同人誌作成の方に廻しているとき、当然のようにプログ更新が止まるわけですハイ。で、
ハッキリ言って驚きました。前から時代が進んだからと言って必ずしも進歩している訳では無いのではと思っていましたがその考えが合っている事が分かりました。YouTubeを見ていたら日本の江戸時代の写真が出て来ました。人の写真があったので何気なく人の波動の高さを測ってみたのです。自分の予想では昔は今の様に開けた世界では無いし刀を差している時代ですから野蛮でもあり、今と比べてもそんなに変わらないのではと思っていました。それがこちらの動画内の写真です。日本最古の写真をカラー化。1854年に撮
元治元年(1864)六月五日夜、池田屋に集まっていた浪士の中に、地元京都の人、西川耕蔵(正義)がいました。その西川耕蔵の伝記『西川正義』(西川太治郎著/明治三十五年)に興味深い話が載っています。話の主は元武士の某氏で、河原町三条下ルに藩邸があったというので、彦根か土佐の藩士だったようです。明治になって、近江新報(新聞)を読んでいたらしいので、おそらくは彦根藩士だったのではないでしょうか。池田屋事件当時、本人は鴨川の東側の三条と二条の間に住んでいたといいます。西川耕蔵の伝記が近江新報に
●坂本龍馬の顔について●【西郷どんの顔も明らかに!】坂本龍馬の資料からの写真です。織田信長の肖像画とは違い写真であるので、信憑性が高くシッカリと顔が残っています。しかし、なんだか違和感のある物があります。◯で囲んだ顔です。脱藩する前の27歳の頃の龍馬の写真です。誰かがが投稿した写真ではなく、資料なので間違いはないです。では、何故こんな顔か?色々と気になったので調べてみました。すると、実際◯の顔であるこの顔が通常の坂本龍馬である可能性が高いです。坂本龍馬は近視であり、目を常に細
近江屋襲撃の指揮をとったとされるのが京都見廻組の与頭・佐々木只三郎です。佐々木只三郎は天保四年(1833)に会津藩士佐々木源八の三男として生まれました。名は唯三郎とも書き、また諱ははじめ泰昌を名乗りましたが、安政六年(1859)二十七歳の頃に幕臣で同姓の佐々木弥太夫(矢太夫とも)の養子に入ると諱を高城と改めています。実兄に会津藩公用人の手代木直右衛門(勝任)がいます。また養子先の佐々木家は親戚だったとも、縁戚関係はなかったともいわれていてハッキリしません。青年時代までを会津で過ごした只
初対面の凸渓作品がLINEに母校の先輩からの贈り物知人から送られてきた屏風の中の凸渓作品自分自身の68回目の誕生日だった3月24日にアップした「幕末絵師のDNA」には、午前7時の公開早々、知り合いからの「お誕生日おめでとう」のメッセージがLINEやメールアドレスに届いた。その中に一枚の日本画を写した写真があり「ご先祖様の描かれた画だと思います」とのメッセージが添えられていた。胸に何かを抱いて空を見上げる一匹の猿。その横には確かに「凸渓」という私の父方の曾祖父、間野凸渓の雅号がした
先程(5/612時42分ごろ)月は牡牛座から双子座に移動したので新月ムードから一転してちょっと軽い雰囲氣になったかな月はだいたい28日間で12星座をひとまわりするのでひとつの星座に滞在するのは2日間とちょっと今回は↑↑↑の続きでござるリブログ記事では年号が変わって最初の新月ということで天皇陛下と年号が一緒になっている近代の明治大正昭和平成令和とホロスコープを出して国と国民にとってどんな年だったのか?を超ザックリ並べてみた。歴史にトンチンカンなワシ
社会の授業ってなんでこんなに退屈なんだろうそう思っていました。あぁ貴重な学生時代、勿体無い事をしました。世界史や日本史を紐解く探究心なんて微塵もなく、そのきっかけすら無かったからですね。通知表の成績は社会5段階の評価2でした。いや…1だったか?提出物なんて出す事なんてまず無い。だって何を書いていいのかすら分からなかったから。そういう所は素直です。高校の頃、先生が彼氏でした。えぇ、社会の先生。「なぜ社会の成績が悪いんだ!」え…社会だけじゃないけどねテスト後のこの言葉が嫌
前年の文久三年(1863)に発生した八月十八日の政変で京都政界から追放された長州藩ですが、藩内では兵を動員して京都に乗り込み、武力を背景に勢力回復を狙おうという「進発論」が強くなっていました。そんな中、元治元年(1864)六月五日に起こった池田屋事件で京都に潜伏していた長州支持の浪士たちが壊滅的な打撃を受け、その報に接した長州藩は、いよいよ京に上って武力で冤を雪(そそ)ぐべしと決し、兵を挙げました。長州軍は海路瀬戸内海をわたり、六月二十一日に大坂に上陸すると、ただちに淀川を北上し伏見の
現在、夏コミケの新刊として『歴史企画研究叢書11輯』の作成編集に取り組んでいる。これは故あさくらゆう先生が私に托した仕事であり、私への遺言と思って誠心誠意取り組もうと思う。ということで、史跡巡りを控えて家で作業しつつ、ときどきネットサーフィンなどで歴史情報を漁ってみたりしているわけだが、水戸学に関して何か勘違いしている記事が多く見られたのが気に掛かった。まぁ……昔からよく言われていたことだといえばそうなのだが……やはり、ここはキチンと整理した情報を出すべきなのだろうなと思うので、今日はプロ
こんにちは、元気ですか。佐賀鍋島藩の奇跡!偉人・鍋島直正の驚異的な業績に迫る。幕末から近代への転換、イギリス・ロシアとの対話を制した一人の武士の興奮する歴史動画です。佐賀鍋島藩の奇跡!偉人・鍋島直正の驚異的な業績に迫る。幕末から近代への転換、イギリス・ロシアとの対話を制した一人の武士の興奮する歴史動画です。佐賀の偉人・鍋島直正の生涯とエピソードを動画にしました。佐賀の歴史:本動画の台本を作成していると、第10代佐賀藩主・鍋島直正と彼を支えたブレーンたちの功績やエピソードは大河ドラマにした
惨殺された文吉は、洛北の御菩提池村(みどろがいけむら。現・京都市北区上賀茂狭間町。深泥池とも書く)の出身です。生年はわかりませんが、殺害された文久二年(1862)に四十代に見えたとする史料が複数あることから、文政年間の前半、西暦でいえば1820年前後の生まれなのではないかと思われます。農民の出だといわれていますが、所司代与力佐野正敬の手記に「下人」とあり、もとは武家や商家、名主などに仕えた下男であった可能性もあります。もっとも「最低の男」という意味とも解釈出来る文脈ではあるのですが。
京都東山の名刹・南禅寺の三門の右(南)隣に塔頭・天授庵があります。パンフレットによると、「天授庵は南禅寺開山第一世大明国師無関普門(だいみんこくし・むかんふもん)禅師を奉祀する南禅寺の開山塔であり、山内でもっとも由緒ある寺院」なんだそうです。延元四年(1339)に南禅寺第十五世虎関師錬(こかんしれん)によって創建されました。その後、文安四年(1447)に南禅寺の大火に類焼し、再建する間もなく応仁の乱の戦火に見舞われて、その後130年あまりの間、復興もままならないまま荒
年末時代劇スペシャル、白虎隊の後編感想です。これドラマもそうなんですけど、主題歌の良さも相まって評価の高い作品になったと思います。堀内孝雄さんの「愛しき日々」です。かたくなまでのひとすじの道愚か者だと笑いますかひたすら夜を飛ぶ流れ星急ぐ命を笑いますかきまじめ過ぎたまっすぐな愛不器用者と笑いますか歌も良いのだけど、詞が秀逸ですね。小椋佳さん天才。これだけで泣けるわ〜最初に登場するのは会津目指して攻め入る官軍、長州藩の世羅修蔵。(そ
どうも、みけねこです。「それで?ローニンの方は…」「どこまで進んだの?」「横浜編のラストイベント【桜田門外の変】で井伊直弼+青鬼と殺りあって…」「で、なんやかんやあって」「大久保利通や勝海舟等と知り合って」「そんで、徳川/江戸幕府と戦ってるってとこ」「ふ~ん…」「つーか、井伊直弼の剣術…」「見てると草生えるんですよね」「どうして?」「必死だったから、断言はできないが」「【パッと見幕末バージル】。これで伝わるだろ?」「あぁ、そりゃ草生えますわ」「戦国無双のキャラかな
江戸小石川関口で旗本を殺害してしまった斎藤一が、京都で身を寄せていたという剣道場主吉田某なる人物について、赤間倭子先生は著書『新選組・斎藤一の謎』の中で、吉田山という所で聖徳太子流の道場を経営していて、のちに信州へ移住した「吉田勝美という人物ではなかろうかという説」を紹介しています。その吉田勝美に関して、作家で自らも無外流居合道の有段者だった戸部新十郎先生は『明治剣客伝』の中で以下のように記しています。ところで、京都の“太子流“吉田某とは、“聖徳太子流”として第一回(明治二十
これまで何度か紹介しました、米国議会図書館デジタルアーカイブ収蔵のフェリーチェ・ベアトの写真集「Japanese&Chineseportraits」に、第12代横綱(江戸時代最後の横綱)陣幕久五郎(じんまくきゅうごろう1829-1903)と思われる写真が2枚収録されています。陣幕久五郎は嘉永三年(1850)に初土俵を踏み、当初は徳島藩のお抱え力士でしたが、元治元年(1864)十月に薩摩藩お抱えとなり、慶応二年(1866)十一月場所で大関に昇進、さらに翌慶応三年(18
ウソもつき続ければ本当になりますか?『坂本龍馬の伝説はウソだらけ「幕末に大活躍」は間違いだった』https://business.nikkei.com/atcl/plus/00031/031800006/さも分かっているような言い方で坂本龍馬や海援隊を否定する。そこには悪意というか「嫉妬」を感じます。劣等感が先入観となり、先入観は歴史観を歪める。小説と真説の違いを指摘している彼自身に矛盾を感じます。私の『仏教徒坂本龍馬』は門外漢の書いた歴史エッセイのようなものですが、だからこそ第一章
神田明神前の刃傷事件から十四日後の、慶応元年十二月二十六日の事でした。御届口上覚一、私組合中村常右衛門儀、今亥上刻切腹相果て候。この段御届け申し上げ候以上。丑十二月二十六日小頭天野静一郎一、右同文言、羽賀軍太郎儀、今晩亥刻切腹とこれ有り。萩原彌太郎より届書也。一、同文言、千葉雄太郎儀、今丑下刻切腹とこれ有り。小頭石原伊之助より届出す。神田明神前にて隊列に乱入した直参旗本永嶋直之丞を斬った三人は、この日の夜に相次いで腹を切ったのでした。三人はそれぞれ別の部屋
文吉を連れ去ったのは土佐勤王党でした。その一員であった五十嵐幾之進がのちにこんな談話を残しています。(閏)八月末日の晩の目明し文吉の絞殺一件、これには少し私も関係しております。瑞山(武市半平太)先生の木屋町の宿所に集まりまして協議をしましたが、斬りに行くという人が多くて仕方がない。そこで籤(くじ)取りをして決めますと、清岡治之助、阿部多司馬、岡田以蔵の三人が当たりました。島村恵吉が、あのような犬猫同然の者を斬るのは刀の汚れである。絞め殺すがよろしいと申しますと、皆それが良いということ
明治維新の「志士」とは何だったのか?徳川幕府の「御家人」とは1980年代、インターネットの黎明期、日本はパソコン通信の時代だった。電話回線を使いダイヤルアップ接続でtextの世界だったが「電子掲示板」が人気だった。当時の接続プロバイダーはNifty、Pc-VAN、アスキーネットがあり、掲示板の各種(政治、経済、歴史、科学、文化、芸術etc、etc・・・・)会議室では会員たちの熱く深い真摯で激しい議論が盛んだった。日本史の会議室では、古代、中世、戦国、江戸、明治維新、近現代と
あれから更に調べてみたところ、東京大学史料編纂所のデータベースにも新徴組の隊士名簿がある事がわかりました。隊士の柚原伴十郎が書いた『新徴組柚原伴十郎手控』と題された史料で、文中に「文久四年正月改」とあるので文久四年(元治元年)に作成されたもののようです。こちらは階級、役職などもちゃんと記されているので、こちらを軸にして見るのが一番良いのではないかと思いますが、これを全て手入力で写していくのはちょっと時間がかかりそうです。ところで(1)(2)でも取り上げました根岸友山の甥、清水吾